困難を建設的に使用する

2011年03月23日 | メンタル・ヘルス

 困難はあなたを破滅させることもあるし、また逆に、あなたを育てることもある。それはすべて、困難をどのように受け取り、それにどのように対処するかにかかっている。

 「困難はナイフのようなものである。それは刃のほうをにぎるか、柄のほうをにぎるかによって、私たちに役立ちもするし、私たちを傷つけもする」とはジェームズ・ラッセル・ローエルの言葉である。

 困難を「刃」のほうでにぎれば、それは私たちを傷つける。「柄」のほうをにぎれば、それを建設的に使用することができる。

 困難の柄のほうをにぎることはむずかしいことではあろうが、それはできないことではない――これはたしかなことである。

      ノーマン・ビンセント・ピール『積極的思考の驚くべき結果』より


 国難ともいうべき困難の中にある私たち日本人が、困難の柄をにぎることができるように祈っています。そして、きっとできると信じています。
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困難な時代の希望

2011年03月22日 | 生きる意味

 患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す……そして、希望は失望に終ることはない。(新約聖書『ローマ人への手紙』5・3-5、日本聖書協会訳)

 日本は、バブルで浮かれた後、バブルの崩壊に見舞われ、失われた10年の後、ようやく景気の回復傾向(といっても大企業だけ)になってきたところでリーマン・ショック以降の大不況、そして今回のあまりにも大規模な大震災―津波被害と、大きな困難な時代に差しかかっています。

 そうした状況にあって、上記の聖書の言葉は大きな励ましとヒントです。

 この厳しい時期を耐え抜き、耐え抜くプロセスをとおして「練達」つまり人間としてより成熟し英知を身につけることができるならば、私たちは「希望」を見出すことができると聖書は告げています。

 そして、これは個人のことだけではなく、社会全体にも当てはまるのではないかと思うのです。

 日本社会がより英知のある社会へと変容・成長できるならば、どんなに困難でも必ず希望は生まれる、と私は信じています。

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原発は熱汚染源でもあったのか

2011年03月20日 | 広報

 こうした状況の中で、素人が原発について発言するのは混乱の種になるだけでどうかという気もするのですが、まわりの方から「どう思いますか? どうしたらいいでしょう?」と聞かれることも多く、立場上まるで答えないわけにもいかず、「あくまで個人的にはですが、こういう情報に基づいてこう判断しています」と言っています。

 そうはいっても直接にお答えすると、その方の判断・決断にかなりの影響を与えてしまいそうなので、「そうなっても責任は取れないと思うので、今後、直接お答えはしないことにさせてください。私はこういう情報に基づいてこういう判断をしているということを、ブログに時々書きますから、もしよければ、参考にしてください」とお願いすることにしました。

 それで、17日の広瀬隆氏の発言を聞いていて京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏の名前が出てきたので、ネット検索してみたら、同じく17日に「ビデオニュース」(http://www.videonews.com/)で電話インタビュー(http://www.videonews.com/interviews/001999/001761.php)があったので聞いてみました。

 広瀬氏も指摘していたように、NHKは基本的に原発推進派の「専門家」ばかり起用していて、原発の安全性についての認識がまったく違う反対派の専門家には発言の機会を与えていないようです。

 元日立の技師で4号機の設計に関わり、その後危険に気づいて退職し、今では原発を止めようと必死の活動をしておられる田中三彦氏(個人的にも知り合いで非常に信頼できる人だと思っていますが)などは、ぜひ発言してもらいたい人ですが、NHKなど大きなメディアには起用されていないようです。

 官房長官の記者会見もそうですが、そのあたり、社会的パニックを引き起こさないように配慮しているのかもしれませんし、それはある程度必要なことかもしれませんが、危機の大きさに見あった、市民の適切な判断―決断―行動のための公平な情報提供という意味で、「それでいいのだろうか」と強く疑聞に思います。

 NHKTVでは昨日あたりから朝の連続ドラマが始まり(我が家も見ていますが)、今日はのど自慢をやっていて、被災地以外ではもういつもの日常が始まっている・始めていいかのような「空気」が醸し出されていますが、それでいいのでしょうか。

 人間は、長い緊張には耐えられないとか、辛い話ばかりの時には明るいニュースがほしくなるというのは、私自身もよくわかる人情ですが、しかし現実の危機に対しては、過度に感情的な「危機感」ではなくむしろ正確な「危機認識」を持ち続けながら、適切な危機管理をしていかなければならないと思います。

 小出氏の話を聞いていて、やはり大変な危機なのだと思うと同時に自分の不勉強を恥じたのは、原発が放射性物質を扱うという点で危険なだけでなく、CO2を出さないので温暖化問題(環境問題の一部)への切り札に見える(実際はそうではないことは小澤徳太郎氏が指摘しておられるとおりだと思いますが)という話もまるで違うということでした。

 現在、火山列島日本の上には54基もの原発があり――それだけでも結局もうどこにも逃げ場所はないという気がします――平均すると一日当たりウラン3kgを使って100万キロワットの電力を作り出しているのだそうです。

 広島に投下された原爆に使われたウランが800gくらいなので、その3、4発分のウランが毎日のように使われているわけです。

 原爆3、4個×54基分の核反応が毎日続いている……思っただけで頭がくらくらします。

 その結果生み出されたエネルギーの3分の1は電力になるのですが、なんと3分の1はもとの海水より7度熱くなった排水・廃熱として毎秒7tも海に排出されるのだそうです。

 結論を言うと、原発は海に大量の熱を捨てており、そういう意味で大変な「熱汚染」源だったようです。

 もしそれが正しいとすると、原発が環境問題(温暖化はその一部です)の切り札でありえないことは、ここからも明らかだと思われます。

 それとも海は広いので「問題になるほどの量ではない」ということになるのでしょうか。

 このことについて(も)、私が知らなかっただけなのか、多くの国民が知らされていないだけなのか……こんな原発を誰が作ったのか、作らせたのか……さまざまな思いが頭の中を駆け巡っています。

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観念を深くしていくほかない

2011年03月19日 | 広報

 知らせてくださる方があって、YOU TUBE http://www.youtube.com/watch?v=OKZ2rLwNxoo&feature=related で、ニュースの深層3:17(木)「福島原発事故 メディア報道のあり方」の広瀬隆氏の発言を聞きました。

 きわめて悲観的な見方で、もしこれが正しいとしたら、可能な人はただちにできれば国外、できなければせめて関東地方の外に避難したほうがよさそうですが、さまざまな事情――多くの方が思っておられる「縁のある人をおいて自分だけが逃げるわけにはいかない」「他所に逃げてもその後の生活の目途が立たない」などの気持ちなどなど――で、我が家も脱出できそうにありません。

 今日の政府やNHKの報道は、予断は許さないが少しずつ収束の方向に向かっているというニュアンスで、信じたいところですが、牛乳やほうれん草の放射性物質による汚染も明らかになってきていて、信じ切れません。

 どういう事態になるにせよ、ある種観念して起こってくることを受け容れたうえで、生かされている間はできることをやっていく、という姿勢でいるしかなさそうです。

 ちなみに、「観念」という言葉はもともとは仏教用語で、覚りを目指す洞察あるいは覚りによる洞察という意味でした。

 覚りの眼から見ると、生も死も、創造も破壊も、すべてはよし、と見えるのです。

 今、ただあきらめるのではなく、そういう意味での観念を深くしていくほかないと思っています。

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福島原発が非常に心配です

2011年03月18日 | 広報

 先ほど、福島原発の事故の危険度が国際基準で5、つまりスリーマイル原発の事故並みになったとNHKTVが報道していました。

 それから、時々見てとても参考になっている「スウェーデンの今」というブログに、スウェーデンなどが今回の事故をどう見ているか、特に緊急度について日本とは違った見方をしているようだという記事があり、事態を判断する上で非常に参考になりました。

 最終的な判断や行動決定は、あくまでそれぞれでするしかないと思いますが、私にとっては貴重な示唆になりましたので、みなさんにもシェアさせていただきます。

 なんとかこれ以上大きな事故に至らないように、みんなで強く強く祈りましょう。

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個々の善意を社会的連帯へ

2011年03月17日 | 持続可能な社会

 大震災からの日々、町の様子を見たり、ニュースを見たりしながら、良くも悪くもこれが日本人の国民的力なんだなあと感じています。

 政界・官僚・財界・メディアが、ともあれ挙国一致体制的に危機に取り組んでいる姿を見て、感謝とともに、日本はまだまだやれるのかもしれない、という思いもします。

 (一部の責任逃れ的姿勢や自分は安全圏にいてご託宣を垂れるだけの悪しき評論家的言説も見られますが。)

 感動するのは、原発事故をなんとか収束させようと命がけで取り組んでおられる方々の姿、被災地で必死に救助や復興にあたっておられる方々、ボランティアに行こうとしている若者たち、なにより混乱を起こすことなく支えあいながら耐えておられる被災者の方々の姿です。

 かつて阪神淡路大震災の時にも見られたことが、もっと大規模に起こっているようです。

 今のところ、報道をみるかぎり混乱に乗じた悪質な犯罪が頻発するといった現象もないことも、温和な日本人の国民性のためかと安心しています(まだ不安は残りますが)。

 私自身もそうですが、私のまわりにも、せめて自分にできることはと考え、まずは義援金からなどなど、ただちに実行している人がたくさんいます。

 もし、これから、こうした個々の善意を「社会的連帯のシステム」さらには「連帯・協力の社会システム」へと結集できるリーダーが現われたら、この大きな災いと犠牲をムダにすることなく次の世代の幸福へと転じることも不可能ではないという気がします。

 そうなったら、そうなってのみ、亡くなられた方々も浮かばれることでしょう。それが、私たちのやるべき「弔い合戦」なのではないでしょうか。

 しかし、スーパーやガソリンスタンドで見られる「買占め」現象は、日本人の悲しいミーイズムの現われです。

 今回の大震災は、大変な悲劇であることは言うまでもありませんが、あえて言えば、日本人全体を、これまでどおりのミーイズムやエゴイズムの集積から社会への崩壊へと向かうか、それとも方向を転換して新しい連帯・協力社会を構築して、本当に安心・安全な国を創りなおすのか、もはやあいまいな態度でいられない、はっきりと選択を迫られる、大きな分岐点に立たせたという意味があるのではないか、と考え始めています。


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震災によせて:より大きな長い喪に服すことと働くこと

2011年03月15日 | 持続可能な社会

 1月に同居していた妻の母が亡くなった後、先日、四十九日と納骨も終わり、これを機にと、前から考えていた祭壇(仏教的にいえば仏壇)を買って、すでに亡くなっている私の父母や妻の父、兄二人も一緒に遺影を飾りました。

 家の中にこうした仏壇的スペースができて、なにかとても気持ちが落ち着いたと感じていたのは、アーラヤ識に日本人の心が薫習されているからでしょう。

 私は、宗教的には特定の宗教・宗派には所属しておらず、あえて言えば「神仏基習合」という立場を取っているのですが、妻の実家は曹洞宗の檀家なので、葬儀以降、慣習どおりの仏教的行事に参加していて、こうした一連の行事が臨床心理学的に言えば「グリーフ・ワーク(悲しみを受容していくプロセスに必要な心の作業)」として深い意味を持っていたことを、改めて実感しています。

 四十九日が終わり、次は初彼岸、もうすぐ春が来るな……と、喪失感が少しずつ薄らいでいき、これからますます気を取り直して働かなくては、と思っていたところに、今回の大地震でした。

 幸いごく身近には被災者は出ていませんが、報道を見ていると本当に心が痛みます。多くの方が亡くなられたこと、改めて心から哀悼の意を表します。

 ふだんまわりの方々には、「死は自然に還ることで、とても自然なことです。自分自身もやがて同じところに還るのですから、ある意味で再会できるのです。悲しいのも涙が出るのもそれも自然ですが、ぜひ悲しみすぎないようにしましょう」と語っているのですが、しかし今そんなことをいっても、突然の悲惨なかたちの別れはとても言葉にできないほどつらいことと、みなさんの悲しみは推察するにあまりがあります。

 私にできることは何かと考えながら、これから、自分個人のことを超えた大きな長い喪に服すことと働くことの時期を続けていくことを何度も心に言い聞かせています。

 大学生の頃だったらすぐにでもボランティアに駆けつけるところですが、残念ながら今行っても体力的・能力的に足手まといになるばかりでお役には立てそうもありません。せめても、一刻も早い救助と、一日も早い復興をお祈りするばかりです。

 それにしても、思いもかけない形で突然、国家的危機がやってきてしまいました。環境問題というかたちで、もう少しじわじわとしかし確実にやってくることは予想していましたし、だからこそ「持続可能な国づくり」の提言もし続けていたのですが。

 進行中の福島原発の事故、なんとかチェルノブイリのような大規模な放射能汚染に至らないで収まることを祈るばかりです。

 これが、原発依存の日本のエネルギー体系と原発を必要とするエネルギー浪費型の経済システムを根本的に見直すきっかけになるといいのですが。亡くなられた方の死をムダにしないためには、それしかないのではないでしょうか。

 被災者の救済が一段落したら――それもまだ一段落もしそうにありませんが――長い復興のプロセスが始まりますが、そのプロセスを正しく方向づけるためにも、今『サングラハ』誌に連載している「『十七条憲法』と緑の福祉国家」は重要だと思いながら続きを書いています(その趣旨の大部分はすでにブログにも掲載していますが)。

 その他にせめてもと、今日、市で行なっている義捐金の募金に行ってきました。これは1回だけで済ませることなく、今後持続的に少しずつでも募金をしていこうと思っています。

 かつて、何度も国難を乗り切ってきた日本人には、今回もきっと乗り切れる! みんなで協力社会を創りあげれば、きっとできる! と信じています。
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地震のお見舞いとお悔やみ

2011年03月12日 | Weblog

 日本人がこれまで体験したことのない大規模地震に見舞われました。

 被害状況をテレビの報道で見ていて、ほんとうに心が痛みます。

 亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

 また、まだ救助されていない方々の一刻も早い救助を強くお祈りしています。

 救助に当たっておられるみなさん、ほんとうにご苦労さまです、心から感謝します。

 それにしても、これから救助作業が完了しても、長くて大変な復興の過程が待っていることを思います。

 これは、東北地方の方々だけで解決する・できる問題ではなく、日本全体で取り組むほかない問題です。

 これだけ広範囲の被害が出たことが、もう、自由競争社会では日本はもたないことをいっそうはっきりさせたのではないでしょうか。

 本格的な協力社会を創り出すことなしには、災害の復興も日本経済の復興も日本社会の復興もないのではないかと思います。

 微力ながら、できることを、できるだけ続けていこう、と決心を新たにしてます。

 今回のことに関しては、当面できるのは、募金の協力くらいかとは思いますが。


 ちなみに、我が家も、とうとう東海・相模湾沖大地震かと思うほどの揺れでしたが、幸い被害はありませんでした。すでに自立している子どもたちも無事でした。

 ご心配くださったみなさん、有難うございました。

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春の気配

2011年03月06日 | 生きる意味










 昨日、久しぶりに近所の公園に散歩に行きました。

 陽射しが温かく、「花咲き、鳥歌い」の春がやってきつつあることが感じられました。

 無常だから秋が来て、冬が来るのですが、無常だからまた春が来るのですね。

 道元禅師は、「無常は仏法なり」と喝破しておられます。

 梅はそろそろ満開、いろいろな小鳥がやってきていましたが、私のカメラのズームでは非常に用心深い小鳥は撮ることができませんでした。

 足音を忍ばせて、少しのんびりしている感じの2種類だけ、やっと撮ることができました。

 桜咲く爛漫の春も、もうそう遠くはないようです。

 日本の政治、経済、社会は、天下泰平とはいきませんが、それでもやっぱり春は春。

 今日はこの後、持続可能な国づくりの会の運営委員会の学習会に出かけます。

 思うところあって、先月の委員会で申し出て、運営委員長になりました。ご報告です。

 何とか「天下泰平」「春爛漫」の日本を持続あるいは再創造したいものですね。

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