仏教心理学会で思ったこと

2013年12月29日 | 仏教・宗教

 遅くなったが、今月15日の日本仏教心理学会の大会に出席した感想の報告を少しだけしておきたい。

 今回は、アメリカ・ニューヨークでヴィパッサナー瞑想と心理療法(精神分析)を統合したかたちでセラピーを実践しているマーク・エプスタイン氏の大会講演が興味深かった。

 講演は、準備のために読んだ氏の『ブッダのサイコセラピー――心理療法と“空”の出会い』(学会副会長の井上ウィマラ氏の訳、春秋社)のダイジェスト的なもので、もちろん著者の顔を見ながら直に聞くということには読むのと違うインパクトがあるものだが、内容に関しては読んだ時とほぼおなじ感想を持った。

 その一つは、ある程度知ってはいたが、アメリカのセラピストたちはここまでみごとにヴィパッサナーさらにはテーラーヴァーダ仏教を吸収‐統合しているのだなあ、と改めて感心したということである。

 すでに何人もの論者が指摘しているところだが、インド仏教、中国仏教、韓国仏教、チベット仏教、東南アジア仏教、日本仏教…などに並んで、それらのエッセンスと心理学の成果を吸収した新しい「アメリカ仏教」がすでに確立しつつあり、このままの勢いだと、アメリカ仏教はそれ以前の仏教を追い越していく、つまり「含んで超えていく」ことになるかもしれない、と感じた(それは仏教の本場のつもりだった日本人として若干悔しいという気もしないではないが、それはそれである種歴史の必然かなとも思う)。

 二つ目は、それにしてもアメリカの、特に都市部の人々が置かれている疎外・孤独の状況はきわめて深刻だということである。
 もちろん伝統的な共同体はもはや存在せず、家庭も十分に機能しない中で、幼少期の子どもは特別虐待されたというほどのことはなくとも、エプスタイン氏があえて「トラウマ」と呼ぶほど後まで残りパーソナリティ形成に問題をもたらすような疎外・孤独体験をすることが少なくないらしい。

 これは、すでに日本でも都市部では進行している事態で、典型的には例えば東京ではもうニューヨーク並みの人間疎外が起こっていると思われるので、エプスタイン氏のようなアプローチは日本でもこれからますます必要になるだろうと思われる。
 日本の仏教者、セラピストがこれ以上遅れを取らないことを切に祈りたい。

 それにしても、学生時代・六〇年代終わりに、パッペンハイム『近代人の疎外』(当時は岩波新書、現在岩波同時代ライブラリー)を読んで、「西洋人はたいへんだなあ」と思っていたことを思い出すが、それは今日本のことにもなっている。つまり、それはやや一般化して言えば、近代化のマイナス面が極限に達しつつあるということだ。

 三つ目は、前から感じていることで、今後文献をより多くしっかり読んでから確かめていきたいことだが、テーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナー瞑想では、ブッダの教えの中でも「無常」を強すぎるのではないかと思うほど強調し、しかしそれをしっかりと見つめることによってある意味で超えることを目指しているようだが、すべてのもののつながり‐一体性、つまり「縁起」と「一如」についてはほとんど語らないようで、それはあるがままの世界の認識として、さらに現代人のための仏教の語り方として不十分なのではないか、ということである。

 というのは、自分とすべてのものそして宇宙とのつながり‐一体性への目覚めは孤独感や疎外感を根本的に払拭するものであり、無常への気づきよりもいっそう深い癒しをもたらすと思われるので、臨床的にも無常より縁起を強調するほうが適切なのではないか、と私は考えているからだ(コスモス・セラピーの記事等参照)。

 エプスタイン氏にそういう疑問をぶつけたら、「それは大乗仏教ですね」という返事が返ってきた。時間がなかったので、その言葉の深い意味を尋ねることができなかったが、「私にはテーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナー瞑想で十分です」という意味にも聞こえた。

 もしそうだとしたら、仏教の現代的有効性という点で、それでいいのだろうか、とつっこんで議論してみたかったが……。

 しかし、そういう疑問はあるにしても、ヴィパッサナー瞑想法の心理療法的な効果・有効性については、すでにかなり十分な科学的なエヴィデンス(証明・証拠)のある研究がなされているようだから、今後、もう少しちゃんと学んだほうがいいな、と思わされた。

 今回の学会は、私が長年テーラーヴァーダ仏教‐ヴィパッサナーについて持っていたある種の偏見も伴っていると思われる印象的評価を少し検討しなおし、ちゃんと学んでからもう一度評価しなければならないな、と思うきっかけになったという意味で、私には大きな成果があった。

 以下はどうでもいい蛇足なのだが、孔子の有名な「我十有五にして学に志し……六十にして耳順(したが)う」という言葉にあるように、この頃、私もようやく他者の主張にじっくり耳を傾けられる歳になったのかな、と感じている。唯識的にいえば、マナ識がようやくやや浄化され柔軟になりつつあるということだろうか。

 孔子から五、六年遅れているのは、相手は世界史的賢者でありこちらは並みの修行者ということで、十分大目に見てもらっていい遅れなのではないだろうか。

 最近、割に素直に他者から教えてもらえるようになったのは、人間的成長ということもともかく、自分の学びにとってとても有利なことで、もっと早く素直になればよかったと思わないでもないが、素直になれなかった、だけでなくあえてならなかったのは、それなりの――さまざまな分野の「主流」や時々の「流行」へのプロテストという――理由のあった自分の歴史なので、それもそれでよかったと思っている。


ブッダのサイコセラピー―心理療法と“空”の出会い
クリエーター情報なし
春秋社



近代人の疎外 (同時代ライブラリー)
クリエーター情報なし
岩波書店



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玄侑宗久『日本人の心のかたち』 東京新聞書評

2013年12月26日 | 仏教・宗教

 先日、東京新聞から依頼があって、玄侑宗久氏の『日本人の心のかたち』の書評を書き、12月15日(日)に掲載された。

 「日本人の心のかたち」というテーマは、私も非常に関心のあるところで、書いたとおり「面白く読ませられた」。




 新聞の書評欄は、なかば読書案内欄であって批評の場ではないし、まして自説の展開の場では全然ないので、日本人の心の基本を形作った――と私は考えている――「神仏儒習合」についてもっとしっかり言及してほしかったということは述べなかった。

 そのあたり、玄侑氏はどうお考えなのだろう。

 ところでまったく脇の話だが、かつて「在野の思想家」という称号をいただいた東京新聞から、今度は「仏教心理学者」という肩書きを付けてもらったのが、とてもおもしろかった。

 日本には総合的・統合的な探究をしていて、いわゆる専門家・スペシャリストでない人間に対する称号がない。というか、「ジェネラリスト」の訳語がない。

 確かに「日本仏教心理学会」の創立メンバーだし、主に大乗仏教の深層心理学・唯識の講義が多いのだから、まあこんなところだろうな、と思った。

 それに関し、また次くらいに日本仏教心理学会の報告を少し書こうと思っているので、乞ご期待。

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サングラハ第132号が出ました!

2013年12月20日 | Weblog


 研究所の会報誌『サングラハ』第132号が出ました。今年最後の号です。

 おかげさまでみなさんの持続的なご愛読に支えられ、本号で22年‐132号に達しました。

 本号も、内面については、『金剛般若経』の連載の完結、外面については小澤徳太郎先生の「社会的な合意形成」の連載開始など、両面にわたるヒントを掲載しました。

 紙媒体をご希望の方は、サングラハ教育・心理研究所 okano@smgrh.gr.jp にお申し込みください。

 電子媒体は、DLmarketで購入できます。

 ブログからさらに学びを深めたいと思っておられる愛読者のみなさん、ぜひご購読ください。


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