平和と調和の国・実現への希望と意欲

2008年01月24日 | 歴史教育

 ふうふう言いながら、「十七条憲法の意味」のレポートに取り組んでいます。

 でも、多くの学生たちの反応に感動しています。

 そして、彼らの証言どおり、小中高でこうした国家理想について教えられなかった(今もおそらくほとんど教えられていない)ことに、怒りに近い残念さをあらためて感じています。

 よかったら、彼らの感想とそして「十七条憲法」の原文そのものを読んでみて下さい。


 今回の授業で、聖徳太子の十七条憲法を初めて読みました。第一条だけ、小学校のときにやった記憶があったのですが、あとの十六条は、まったく初めてでした。しかもその意味を理解して、聖徳太子って実はすごい人だったことを知りました。私の中の聖徳太子は、一度に七人ぐらいの人の話をいっぺんに聞けたとか、すこし嘘っぽい人だと思っていたのでびっくりしました。
 私は、この「現代社会と宗教」の授業を受けて、少しずつ、日本人としての誇りをもてるようになったかなという気がします。
 日本の文化は好きでしたが、その文化といっても外国の人が思いつく様なきものや、神社、お寺、奈良・京都ぐらいのイメージでしかなかったのが、その根底にあった「仏教」という教えに触れることができて、「日本の文化ってこういう教えを軸にしてできてきたのか」ということこがわかりました。私は、仏教をまったく全然知らなかったので、実は、日本の文化もなにもしらなかったということに気づかされました。
 最近は「愛国心」とか「国際化」という言葉をよく耳にしますが、実は、そう言っている人たちも、「日本の文化」その根本的な教えである「仏教」を正しく理解していいないのではないかと思います。「日本の文化はすばらしい」とか「日本には古き良き伝統がある」とか言葉で口にしていても、何がどうすばらしいのか、どんな教えが古き良き教えなのか、初めてしっかりとした答えを教えてもらいました。
 私は、今の日本が何か不安でちゅうぶらりんな感じがするのは、わかった様に上辺だけで「日本」を語っていて、根本的な「日本」「日本人」を誰もが理解していなかったから、ではないかなぁと思います。
 この授業を受けて、日本が大好きになりました。やっぱり「日本はすごかったんだ」と実感しました。だから、私は、今の日本もこれからの日本も好きなままでいたいです。この日本の大切な「教え」をもう一度しっかり理解することができれば、本当の意味で日本はすばらしい国になると思います。
 それにしても「和をもって貴しとなす」という言葉は、胸にひびきました。
                                       (社会政策学科1年女)


 高校の倫理の授業で聖徳太子の「十七条憲法」について学んだときに、第三条は天皇絶対主義の考えだと誤った解釈をしていました。また、「三宝を敬え」など仏教の思想や実践方法を多く十七条憲法に取り入れているので、聖徳太子は仏教絶対主義の考えの人だと思っていました。しかし、今回の授業で聖徳太子が唯識や仏教の思想を深く理解していて、足りない部分は他の宗教(儒教など)で補ったりしながら、日本をより平和で調和のとれた国にしようとしていたことが分かりました。私達は、これからの社会を支える人間として太子の目指した理想を正しく理解し、実践していくことが大切だと思いました。1年間、この授業を通して、生きていく中で必要なことを新たに気付かされたり、これまでの世界観が大きく変わることを色々教えていただきました。ありがとうございました。
                                       (社会学科1年女)


 私の小中高で一番好きで得意科目としていたのが日本史である。しかし、授業の中で教師が教えてくれた聖徳太子は本当にいたかどうかも分からないような人物であり、十七条の憲法も出来事の1つとしてしか伝えてくれなかった。内容についても資料集に小さく載っているだけだった。聖徳太子の掲げた国家理想などこの授業を受けなければ知らずのままだったと思う。
 後期1回目のレポートで唯識について考えた時にこんなにも遥か遠くにあるような思想を導きだした人は素晴らしいと感じたが、聖徳太子はこの高みにある思想を人々に広めようとした。誰もがたどり着くことができるわけではない無住処涅槃をこんなにも丁寧に優しく伝え、理想とした。こんなにも素晴らしい人間が存在したかもしれない、存在しなくてもこの思想は存在した。私は日本を今までと違う新たな見方ができるようになったと思う。
 聖徳太子の理想は現在でも現実のものにはなっていないけれど、私たち世界に必要な在り方はこれだと思う。1人1人がこの理想を持つことができれば、十七条の憲法の1条にあるように上も下も和らいで睦まじければ実現できないことは何もないのである。
 そのことを教えていただきありがとうございました。
                                       (メディア社会学科1年女)


 「十七条憲法」を初めて読んで、“これは理想だなー、だけどこんなこと本当に実践できるわけはない”と思ったのが正直な感想でした。条文内でも言われていたように、この憲法は「人間に極悪なものはいない」のを信じて作られているように思えますが、今の世の中を見ていたらそんなことは到底信じようがありません。しかし、だからこそ今、原点に帰って足元を見つめ直すことが必要なんだという気持ちがわいてきたのも確かです。高い理想を掲げ、そこに向かって歩き出す人がいるからこそ、その後をついて来る人がいるのです。変われる人から、気付いた人から始めるのが大切であり、それがやがて大きな力となって世界は変わるかもしれない。そんな風に思いました。聖徳太子はまさにその先駆け的存在だったのではないでしょうか。時代は変わり、人も変わり、世界も変わりましたが、それは立ち位置が違うだけ。最高の山の頂は一つで、今も昔も目指すべきは変わらない。内容に感心するよりも、実現への希望と意欲を感じずにはいられませんでした。
                                       (メディア社会学科1年男)


 引用したのはごく一部ですが、もっともっとたくさん引用したいものがあります。

 今年度、特徴的なのは、レポートの最後に「ありがとうございました」と書いてくれる学生が非常に多いことです。

 これは大切なものがしっかりと伝わった証拠かな、と素直に喜んでいます。



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仏教の有効性は未だ色褪せていない!

2008年01月23日 | 心の教育

 教えている3つの大学の中でいちばん受講生数の多い――今年は約350名――H大の2回のレポート合計700通あまりに取り組んでいます。

 第1回の「唯識について」をようやく読み終えました。

 途中で疲れてきたので、少し気を紛らせるために、いったい400字原稿用紙換算でどのくらいになるのだろうと計算をしてみると、ほぼ1800枚でした。

 朝から夜までかかりっきりで、かなり肩や腰に来ます。

 しかし、学生たちの次のような感想にエネルギーをもらいながら、今年もなんとかやり抜くことができそうです。


 私は、この授業に出てから考え方がガラリと変わりました。本当に、以前よりもポジティブな考え方をすることができる様になりました。すべてのものは宇宙エネルギーレベルでみな一体であるので、すべてのつながりの中で私も生まれた。これを思うと家族や宇宙にあるすべてのものに感謝と尊敬の気持ちでいっぱいになります。これからも、すべて私とつながっているということを思うと、もう淋しい気持ちにはなりません。
 現代に生きる人々は涅槃に向かうためのスタートラインも見失っている人々が多いと思いました。しかし、私は、先生のおかげで、今やっと転識得智のスタートをきることができます。これからの人生も、宇宙にある全てのものとのつながりを意識し、覚りの道を歩んでいきたいと思います。(H大社会学科1年女)


 私は「元々一つのものがつながりながらそれぞれの姿を現している。それが世界のほんとうの姿だ」とする見方の仏教―唯識の立場にとても共感を覚える。論理的に考えるとそう結論づけざるを得ないからだ。「私」という存在は父・母、さらにはその前にさかのぼる長大な関係性の中にある。その事実は、「自分のことは自分で決める!自己決定権が人間にはあるのだ!」とする考えに真向から批判を加えるのだ。人は、そして全ての生命は関係性の中で存在している、という端的な事実は忘れてはいけないだろう。そしてまた、互いに影響し、影響され合う関係である、ということも考えてみると、人とは「関係性の束」であると定義できるかもしれない。このような思想は、「あらゆるものがつながっている」という考えを喚起するであろう。そしてそれは環境問題etcが深刻化する現代社会において解決策を提供できる一つのスタンスである。「根本的には一つである」とする体系的な理論を構築した仏教―唯識は、今こそ必要とされるマストな教養かもしれないと考えざるを得ない。仏教の有効性は未だ色褪せていない。(H大社会学科3年男)


 自己絶対化された特定宗教としての仏教ではなく、いわば「仏教思想」の現代的な有効性――私のキャッチフレーズでいうと「唯識は21世紀の常識だ」――について、多くの学生と合意が成立したようだ、と喜んでいます。

 続いて「聖徳太子・十七条憲法について」に取り掛かります。

 ここでも、またさらに合意が成立しているだろう、と期待しているところです。


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『サングラハ』誌の最新号が出ました

2008年01月20日 | Weblog




 今年最初の『サングラハ』誌が出ました。

 私は、これまでブログに書いた菩薩に関するエッセイをまとめました。

 及ばずながら今年も菩薩を目指したいと願っています。

 菩薩の「四弘誓願(しぐせいがん)」を改めて掲載します。


  超意訳 「四つのおおきな願い」

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。


  現代語訳

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う


  四弘誓願

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)




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2008年の講座案内

2008年01月19日 | 心の教育

 25期オープンカレッジ ご案内

   *金曜日中級講座の日程も確定しました。


 環境、福祉、医療、教育、経済、政治などなど、どの分野を見ても問題が山積しており、根本的な解決への見通しは十分ではないようです。

 世論調査を見ると、多くの国民が将来は不安だと感じているようですが、不安を解消するためにどうすればいいのか見通しはなく、「そうはいっても、なんとかなるさ」といった気分で、ただ手をこまねいて時をやり過ごしているように見えます。

 そうした中で、当研究所は場当たりではない、根本的な解決の道を志向し続けていますが、第25期は、「跳ぶためにしゃがむ」、「前進のためのいったん後退」といった意味もこめて、仏教の影響下で育まれた日本人の心の原点と、その仏教の原点であるゴータマ・ブッダの教えという、2つの原点を探っていきます。

*なお、火曜講座は、スケジュールの都合で、1、2月はお休みとさせていただき、3月から再開とし、決まり次第改めてお知らせする予定です。ご了承ください。


 木曜講座:「日本の心と仏教」

                  於 サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                  1/10, 24 2/7 3/6, 27 4/10, 24  木曜日18:45-20:45  全7回

 真面目、正直、親切、勤勉などなど、日本人のすぐれた「国民性」の形成には、いうまでもなく神道や儒教の影響も小さくありませんが、とりわけ仏教の影響が決定的に大きいと思われます。

 本講座では、そうした「日本の心」が、どのような歴史的な流れのなかで育まれてきたのか、そしてなぜいまや失われつつあるのか、飛鳥時代から現代までの大まかな流れを把握することによって、日本人として、独善的・排他的な自己絶対化ではない、根拠ある妥当なアイデンティティ再確立の基盤になるものを見出していきたいと願っています。

テキスト:『サングラハ』91、92、95号
*ミーティング・ルームでお頒けすることができます。


 金曜講座:「ブッダは何を教えたか――『阿含経』を中心に」

                   於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                   3/7, 21 4/4, 25 5/9, 23   金曜日18:30-20:30  全6回

中級講座では、唯識と禅の古典を織り交ぜながら学んできました(2月末まで「正法眼蔵・仏性巻」の学びです)が、3月からはやや趣きを変え、ゴータマ・ブッダは何を教えたのか、仏教の原点に戻って学ぶこととしました。

 解脱について繰り返し語られた「わが迷いの生はすでに尽きた。清浄の行はすでに成った。作すべきことはすでに弁じた。このうえは、もはや迷いの生を繰返すことはないであろう」という言葉が示すとおり、ブッダは深い覚りの境地に達しつつもなお生の否定という傾向を残していたようです。

 ブッダの覚りの深さと、それにもかかわらず残った生の否定の深さが理解できた時、それを超える試みとして大乗仏教が興ったことの意味もいっそう深くわかるでしょう。

 なお講義の前に30分程度の坐禅を行ないますので、坐禅のできる服装をご用意下さい。

テキスト:コピーを配布します。


●受講料は、一回当たり、一般3、5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせは サングラハ教育・心理研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp または Fax0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。



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今年ももらった〈教師の勲章〉

2008年01月18日 | 心の教育

 今日で、3つの大学すべて2007年度1年間の授業が終わりました。

 これから、また1200通くらいのレポート、感想文を読まなければなりません。

 すでに、苦しくも楽しい、楽しくも苦しい作業を始めています。

 読んだ感想の中に、「今年も学生からもらった〈教師の勲章〉」とでもいうべき言葉がいくつもありました。

 なかでもうれしかったのは、次のような言葉でした。

 「一年間お世話になりました。先生とこの授業との出会いは、自分の中で革命的でした。」「この授業のプリント・ノート・先生の本は死ぬまで持っているような気がします。」

 こんな言葉を贈ってくれる学生もいるんです(他にもいくつもあります)。

 ここ数年、若者たちが変わってきていて、かつてよりもメッセージがストレートに届きにくくなっているような感じがあり、「手ごわいな」という気がしていますが、それでもこんなふうにしっかりと受け止めてくれる学生もいて、しみじみ「今年もやはり教えてよかったな」と感じています。

 授業の最後に、学生たちに「しっかりと学んでくれて有難う」と感謝しておきました。

 希望を聞いてみると、坐禅をしてみたいという学生も一定数いますので、2月3日(日)あたりに藤沢ミーティングルームで「まったくの初心者のための坐禅入門講座」を開こうかと思っています。

 1、2日中に確定して、また広報します。

 学びは続くよ、どこまでも……法門無量誓願学。


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仕事始め

2008年01月08日 | Weblog

 年末・年始は、家族で揃って楽しく過ごしました。

 年末に『サングラハ』誌の校正以外ほとんどの仕事の切りをつけておいたので、孫娘たちとしっかり遊ぶことができました。

 4日からはかみさんの実家に行き、母や兄弟たちとにぎやかに過ごしました。

 政治、経済、そしてなによりも環境の点できびしい年になりそうですが、そういう雰囲気はまったくないのどかな正月でした。

 『サングラハ』誌の発行・発送も今度の日曜日に可能というところまでこぎつけ、昨日から本格的に仕事を始め、今日から大学の授業も再開です。

 今日は、『十七条憲法』の講義の続き。平和と調和の国・持続可能な国づくりに向けて、たくさんの優れた人材が育ってほしいものだ、と強く願っています。

 今週から、藤沢の講座も、参宮橋・不二禅堂の講座も始まります。

 よっし、働こう! と思っているところです。



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十七条憲法第十七条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十七に曰く、それ事はひとり断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわ理(り)を得(え)ん。


第十七条 そもそも事は独断で決めるべきではない。かならず、皆と一緒に議論すべきである。小さな事は軽いので、かならずしも皆と相談する必要はない。ただ大きな事を議論するに当たっては、あるいは過失がありはしないかと疑われる。それゆえに皆と互いに是非を検証し合えば、その命題が理にかなうであろう。



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十七条憲法第十六条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ゆえに、冬の月に間(いとま)あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節なり。民を使うべからず。それ農(なりわい)せずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか服(き)ん。

第十六条 人民を使うに時期を選ぶのは、古来のよいしきたりである。それゆえ、冬の月に暇があるようなら、民を使うべきである。春から秋に到るまでは、農繁期である。民を使ってはならない。いったい農耕しなかったならば、何を食べるのであろうか。養蚕しなければ何を着るのであろうか。


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十七条憲法第十五条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十五に曰く、私(わたくし)を背きて公(おおやけに向(ゆ)くは、これ臣の道なり。おおよそ人、私あるときはかならず恨みあり。憾(うら)みあるときはかならず同(ととのお)らず。同らざるときは私をもって公を妨ぐ。憾み起こるときは制に違(たが)い、法を害(やぶ)る。ゆえに初めの章に云う、上下和諧せよ、と。それまたこの情(こころ)か。

第十五条 私利・私欲に背を向け公の利益に向かうことこそ、貴族・官吏の道である。おおよそ人に私心があるときにはかならず人を恨むものであり、恨みを抱けば共同できない。共同しなければ、私心で公務を妨げることになる。恨みが起これば、制度に違犯し、法を侵害することになる。それゆえに最初の章で、上下和らぎ協力せよ、と言ったのである。それもまた、この趣旨を述べたのである。


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十七条憲法第十四条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十四に曰く、群臣百寮(ぐんけいひゃくりょう)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(うらや)むときは、人またわれを嫉む。嫉妬の患(うれ)え、その極(きわまり)を知らず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦ばず、才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって五百歳にしていまし今賢に遇(あ)うとも、千載(せんざい)にしてひとりの聖を待つこと難し(かた)。それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。

第十四条 もろもろの官吏は、嫉妬があってはならない。自分が妬めば、人もまた自分を妬む。嫉妬のもたらす災いは限界がない。それゆえに、〔人の〕知恵が自分より勝っていると喜ばず、才能が自分より優れていると嫉妬する。そういうわけで、五百年たってようやく今現われた賢者に出遭うことも、千年に一人の聖人を待つこともできない。〔だが〕賢者・聖人が得られなければ、何によって国を治めることができるというのだろうか。


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十七条憲法第十三条

2008年01月03日 | 歴史教育

十三に曰く、もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使して、事を闕(おこた)ることあらん。しかれども知ることを得る日には、和(あまな)うことむかしより識(し)れるがごとくにせよ。それ与(あずか)り聞かずということをもって、公務(こうむ)をな妨げそ。

第十三条 もろもろの官職に任命された者は、お互いに職務内容を知り合うようにせよ。あるいは病気になったり、あるいは出張して、仕事ができないことがあるだろう。しかし〔復帰して〕職務内容を知ることができたら、協力して以前からずっと了解し合っていたとおりにせよ。自分が参加せず話を聞いていないからといって、公務を妨げることのないようにせよ。


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十七条憲法第十二条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十二に曰く、国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なし。民に両主なし。率土(そつど)の兆民は王をもって主となす。所任の官司はみなこれ王民なり。何ぞあえて公(おおやけ)と、百姓に賦斂(おさめと)らん。

第十二条 もろもろの地方長官は、民たちから〔勝手に〕税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。国すべての多数の民は天皇を君主とする。任命された官吏はみな天皇の民である。公的な税の他に私的な税を取り立てることが許されるはずはない。


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十七条憲法第十一条

2008年01月03日 | 歴史教育

 十一に曰く、功過(こうか)を明らか(あきらか)に察(み)て、賞罰はかならず当てよ。このごろ賞は功においてせず、罰は罪(つみ)においてせず。事を執る群卿(ぐんけい)、賞罰を明らかにすべし。

第十一条 功績と過失を明らかに観察して、賞罰をかならず正当なものにせよ。最近は、功績に賞を与えず、罪に罰を与えないことがある。政務を執る官吏たちは、賞罰を明快にすべきである。


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十七条憲法第十条

2008年01月03日 | 歴史教育

*記事を書く時間がなかなか取れないので、まず条文の残りと現代語訳を掲載して、折を見ながら解説を書き加えていこうと思います。


十に曰く、こころの忿(いか)りを絶ち、おもての瞋(いか)りを棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われは非とする。われ是とすれば、かれは非とす。われはかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや。あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきがごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

第十条 心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。彼が正しいと考えることを、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、彼はまちがっていると考える。私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎないのである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が〔絶対的に〕判定できるだろうか。お互いに賢者であり愚者であるのは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が〔自分に対して〕怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでいても、多くの人に従って同じように行動せよ。


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年頭に当り「MUST化せず精進したい・できるといいな」と思う

2008年01月01日 | Weblog

 去年の年始に、六百巻という長い長い経典である『大般若経』を読む気になったと書きました。

 去年一年も多忙な年で、当然の職務としての大学での授業とその準備、研究所の講座での講義とその準備、お引き受けした講演、それらに関わって読んでおかなければならない文献、『サングラハ』誌や雑誌連載などどうしても書かなければならない原稿……を優先せざるを得ず、また読書体力も落ちてきているので、残念ながら思ったほどは読むことができませんでした。

 内容的な意味があって国訳一切経版の第6巻から読み始め、ようやく読み終わって第1巻に取り掛かっているという現状です。

 しかし、読めば読むほどすごいお経だと感じています。

 「縮み志向の日本人」に比べると、古代のインド人はまるで「誇大妄想」ではないかと思うほどの大スケールでものを考えるのです。

 ですから、六波羅蜜の「精進」についても、私たちの考えるような「精一杯・できるだけ」などというものではありません。

 ごく一部を私の意訳でご紹介すると、こんな感じです。


 もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるようなら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が一年かけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け仕事のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づけられると知るべきである。……

 もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、とても長かったという想いになるようなら、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、ほんの一日のちょっとした片付け仕事のように思うなら、まさに「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている」と名づけられると知るべきである。

 ……もし菩薩・大士がカルパ数を考えて限界を設けるようなら、精進し勇猛果敢に覚りの行を修行し、この上なく等しいもののない覚りを求め覚ったとしても、まさに「怠慢な菩薩」と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が次のような考えをしたとしよう。たとえ数限りない大カルパを経ても精進し、勇猛果敢に覚りの行を修行して、必ずこの上なく等しいもののない覚りを覚ろう。私は、この上なく等しいもののない覚りを追究する上で、決して心に厭きや嫌気や挫折感を起こしたりはしない、と。〔このような菩薩・大士こそ〕まさに、「精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかり踏みとどまっている。精進波羅蜜多を修行して速やかに完成し、生死輪廻を超越してただちに一切の智慧を得る智慧を覚り得て、もろもろの心ある生き物(有情)のために大いなる益をなす」と名づけられると知るべきである。


 これは、ほんの一部にすぎません。こうした文章が表現や比喩を変えて実に長々と綴られているのです。まさに、取りようによっては「誇大妄想」の不可能な理想です。

 しかし、そうした経文を読んで、「こんなのは誇大妄想だ、キレイごとだ」、「とても私などには無理だ」という反応をするか、「及ばずながら、そうありたい」という反応をするかは、読む人しだいだと思うのです。

 私は、これまでにも書いたとおり、MUST化しないかたちで、「及ばずながら、できるだけ、そうあれるといいなあ、そうありたいなあ」という気持ちで、また許されるならばもう一年精進したいと願っています。

 年頭の所感というほどのものではありませんが、そういうわけなので、本年もよろしくおつきあいのほどお願い申し上げます。



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