現代科学とニヒリズムの克服 4

2012年07月29日 | コスモロジー





 宇宙即神?


 以上1―3の記事で述べたポイントで、ニヒリズムの克服はほぼ完了したと言ってもいいのですが、あえて②の「神(精神的で絶対な存在)はいない」というポイントについても一言だけ付け加えておきましょう。

 今年の私のコスモロジーの授業を受けた学生が、レポートの感想に「宇宙ってまるで神みたいですね」と書いてきました。

 それに対して私は、「まるで……みたい」ではなく、「宇宙はそのまま神だと言ってもいい」と答えたいと思っています(すでに前期は終了したので、後期になりますが)。

 エネルギーから物質を、物質から生命を、生命から心を、心からさらに覚り・霊性を創発し続けている「全体としての宇宙」は、キリスト教の「万物の創造主」である「神」とまるでそっくり――神話的表現を呑み込むのではなく象徴的に解釈すれば――いやそのままそうだと言うほかない、と私は思っています。

 (神学的・哲学的・宗教学的に言えば、もっと詳しく厳密にいろいろ論じる必要があるのですが、ここではそういう過度に複雑な専門的議論は避けておきたいと思います。)


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現代科学とニヒリズムの克服 3

2012年07月28日 | コスモロジー




 克服のポイント4――「心は脳の働きにすぎない」から「心は宇宙進化の最高段階」へ

 これまで述べた三つのポイントは、特にニヒリズムのポイント①と③b、③cを克服するものですが、さらに現代科学の重要な五つの学説すべてを総合的に捉えると、③a「人生の絶対的な意味はない」も克服されます。

 近代科学の視点からすると、「心は脳(という物質の複雑な組み合わせである器官)の働きにすぎない」ということになり、愛、感動、喜び、創造性……など人生に意味を感じさせてくれる心の働きも、きわめて複雑ではあるが所詮脳という物質の働きにすぎない、ということになります。

 ところが、現代科学のコスモロジー(の私の主客融合的解釈)では、
 「脳は宇宙進化の最高段階」であり、しかも「宇宙は一三八億年かけて、脳をベースとしてより複雑な高次な心というものを創発させた」ということになるのです。

 「物とは何か」、「宇宙とは何か」、「心とは何か」、「人間とは何か」、「私とは何か」といった反省的な思考は、脳といういわば「ハード」には還元できません。
それは、名画がキャンバスや絵の具に還元できないのに似ています。作品は材料に還元できないより高次の創発的・創造的な存在です。

 そして、心もまた宇宙の外に出来た宇宙以外のものではなく宇宙が生み出した宇宙の一部というほかありません。

 では、私たち人間の意識的な心は何をやっているでしょうか。

 心という宇宙の一部のもっとも基本的でもっとも重要な働きは、それ以外の自然・宇宙を対象として認識することです。
その場合、心も宇宙、心以外も宇宙なので、つづめて言えば「心において宇宙が宇宙を認識している」ということになります。

 だとすれば、「脳-心は宇宙の自己認識器官である」ということになるのではないでしょうか。

 しかも、脳-心は認識機能だけでなく、感情機能を持っていますから、大自然・宇宙のさまざまな創造を見た時に感動します。
その場合も、感動される対象も感動している心も宇宙の一部ですから、つづめると、「宇宙が宇宙に感動している」ということになります。

 だとすれば、「脳-心は宇宙の自己感動器官である」ということにもなるのではないでしょうか。

 しかも、宇宙には自己組織化・複雑化という進化の方向があるのですから、宇宙は自己認識と自己感動に向って進化してきた、と結果論から言うことができます。

 「宇宙はきわめて多様で複雑な組織を生み出し、その創造のすばらしさを認識し、それに感動することを目的として進化してきた」のではないかという推測も、ほとんどまちがいないくらいの確率で成り立つのではないか、と私は考えています。

 以下は『コスモロジーの心理学』などで詳しく述べてきたことですから、ここでは簡略に繰り返します。

 そもそも「意味」とは「意識的な心が肯定的に味わう体験」のことだと思われます。

 つまり、宇宙は意識的な心を生み出すことによって、宇宙の一部・人間の心で意味体験が起こるということを生み出したのです。それこそ、宇宙的・絶対的な意味(体験)の創発という言うことができるのではないでしょうか。

 こう考えると、ニヒリズムのポイントの③c「人生には絶対的な意味はない」も克服されます。宇宙の一部としての人間の心が認識し感動することにおいて、宇宙的・絶対的な意味が創発し続けているのですから。

 さらに言うと、宇宙はその一部であるゴータマ・ブッダなどの覚者の心において、「私は宇宙と一体である」、「私は宇宙である」という、いわば「宇宙の自己覚醒」に到っている、と私は考えています。

 宇宙の一部であるブッダが宇宙と一体であると自覚したということは、つづめて言えば、「宇宙が自らが宇宙であることに目覚めた」ということです。

 「自分という存在は、宇宙の自己認識―自己感動器官であり、自己覚醒器官になる可能性も秘めている」と自覚したら、そこにはもはや空しさ・無意味感・ニヒリズムは存在しえません。



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現代科学とニヒリズムの克服 2

2012年07月27日 | コスモロジー




 克服のポイント2――「死んだら終わり」から「生命は生き続ける」へ

 相対性理論と散逸構造論とビッグ・バン仮説と、ワトソンとクリック以降の遺伝子研究・分子生物学などを総合して「生命」を考えると、
 「生命も複雑ではあるが物質の組み合わせにすぎず、死んだら元のばらばらの物質に解体して終わり、相対的意味もなくなる」ということではなく、
 「生命は宇宙の自己複雑化・自己進化の成果であり、確かに個体は死ぬが、それですべてが終わりではなく、DNAによって生命そのものは引き継がれ、生き続けている。
 地球上の生命は、誕生してから約4〇億年生き続けているし、今後も(当分、数十億年は)生き続けるだろう」ということになったのです。

 しかも、宇宙エネルギー・レベルで見ると、個体・個人もまた、宇宙エネルギーから生まれ、今も宇宙エネルギーの一つのかたちとして生きており、死んでも宇宙エネルギーであるまま、あるいは「宇宙エネルギーの世界に還るだけ」と言ってもいいのですから、「死んだら終わり」ではないのです。


 克服のポイント3――「生存闘争」から「エコ・システム―相互依存」へ

 ダーウィン以来――というより、スペンサーらの「社会ダーウィニズム」による過度の一般化の強い影響により――
 「生物の世界は、弱肉強食、優勝劣敗の生存闘争の世界であり、個体同士も種同士も基本的には敵であり、勝ったものが生き残り、負けたものは滅びていく。それは自然法則なので、当然というか仕方ないことだ。
 だから人間の世界でも生存闘争は仕方ないのだ」と考えが横行していました。

 これは、社会的には強い国が弱い国を征服・侵略・植民地化する「帝国主義」と個人的には「エゴイズム」の自己弁護の根拠とされてきました。

 しかし、ワトソンとクリック以来のDNA研究の積み重ねによって、「地球上のすべての生命のDNAはたった一匹の単細胞微生物に遡る」、つまり「すべての生命がある意味で一つの家族である」ことが明らかになりました。

 加えて、ヘッケルが「エコロジー」を提唱してから一〇〇年あまりの研究の積み重ねによって、
 「地球上では、非生命・環境とすべての生命(微生物と植物と動物)が一つのエコ・システム(生態系)を成している」ことが明らかになっています。

 確かに一見「弱肉強食」や「生存闘争」に見える現象はあるのですが、それを全体のシステムの中で見ると、「食物連鎖」つまり微生物と植物と動物(草食動物と肉食動物)の間に食べて―食べられて―食べて……という関係があることがわかり、「競争的共存・共存的競争」がなされており、一つのエコ・システムの中では「相互依存」の関係が成り立っていることが、反論の余地のないほど明らかになってきました。

 エコ・システムが宇宙の自己組織化の成果だとすると、エコ・システムを維持・発展させることが宇宙の進化の方向に沿っているという意味で「善」、汚染、破壊することが「悪」というエコロジカルな倫理が成り立ちます。
 それは、硬直した絶対的ではありませんが、宇宙の方向性というかなり柔軟な幅のある、しかしある意味で絶対――宇宙に相対(あいたい)するものはありませんから――的な倫理だといえるでしょう。

 にもかかわらず、日本も含む世界のリーダーたちの大多数がいまだに社会ダーウィニズム的な考えを持っているのは、驚くべきというか、あきれてしまうというか、はなはだ困ったことです。

 さらにエコ・システムに限らず、人間の営むあらゆることに関して、「宇宙進化の方向に沿うことが『善』、進化の方向から逸れることが『悪』という、宇宙的という意味である種絶対的な倫理が成り立つ」と言っていいと思われます。

 これで、ニヒリズムの3b「(絶対的な)倫理もない」というポイントは克服されます。



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現代科学とニヒリズムの克服 1

2012年07月26日 | コスモロジー




 H大学のレポート提出期限が終わりましたので、現代科学のコスモロジーのどういうポイントがどういうふうにニヒリズム(+エゴイズム+快楽主義)を克服するのか、数回に分けて、簡単な解説を加えておきます。


 「ニヒリズム」の定義

 私のいう「ニヒリズム」――ニーチェとまったく同じではありません――のポイントは、以下のとおりです(これまでの説明を整理しなおしました)。

 1 すべては物質にすぎない

  →2 神(精神的で絶対な存在)はいない

   →3a(絶対的な)人生の意味はない

   →3b(絶対的な)倫理もない

   →3c 死んだらすべては物質に解体して終わり。
      (ばらばらの物質は残るが)意味としては無になる。

 この「いない」「ない」「無」がラテン語の「ニヒル」にあたり、〔物質以外〕すべては無・空しいという考え方を「ニヒリズム」というわけです。

 すべてが空しいという考え方を突き詰めて考えると、そのプロセスで心身を病み、さらに突き詰めると自殺するしかなくなります。

 そうならないためには、絶対ではなくてもとりあえずある相対的で主観的な「自分の楽しみ」、パスカルの言う「気晴らし」を追求して生きるしかなくなります。

 そして絶対なもの・いちばん価値あるものはありませんから、自分(たち)がいちばん価値がある・いちばん大事と考えておくしかなくなります。自分・エゴがいちばん大事という考え方を「エゴイズム」といいます。

 自分を超えた絶対なものはないので、すべての価値の基準はエゴとエゴが価値があると思うこと・楽しみになっていきます。それを「快楽主義」というのでした。

 ニヒリズムは、徹底すれば自殺に、徹底しなければエゴイズムと快楽主義に到ります。


 克服のポイント1――「ばらばらの物質」から「一体のエネルギー」へ

 それに対して、まず何よりもアインシュタインの相対性理論が、「すべてはばらばらの物質(にすぎない)」という近代科学の基礎的なドグマ(教条化した考え)を「すべては一つの宇宙エネルギー」というふうに、完全に克服というか止揚(含んで超える)してしまいました。

 そして、プリゴジーヌの散逸構造論=物質の自己組織化能力の理論によって、「宇宙における物質の運動は基本的に偶然的・アトランダムなもので意味や目標はない」という近代科学のもう一つのドグマも克服され、「全体としての宇宙には自己組織化・自己複雑化という進化の方向性がある」ということになりました。

 ガモフの「ビッグ・バン仮説」以来、宇宙はたった一点に凝縮していたエネルギーが広がったもので、広がり方のゆらぎ・ムラがさまざまな現象を生み出しているが、宇宙の現象のすべてはエネルギー・レベルで見ると依然として一体である、ということになりました。これでますます「すべてはばらばらの物質の寄せ集め」という近代科学的なドグマが克服されることになったのです。

 *長くなりますので、以下は、また続けて掲載していきたいと思います。




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レポート感想:中2の自分に聞かせてやりたかった!

2012年07月23日 | いのちの大切さ

 今、H大学の前期末のレポート600枚以上を読みはじめました(実は前期中間のレポートもかなり残っているのですが、前期授業全体の効果を確認したくて、少しフライングしています)。

 課題のタイトルは「現代科学のどういうポイントがニヒリズム・エゴイズム・快楽主義を克服するのか?」です。

 現代科学のポイントについては、ブログ掲載のと同じ整理表(下段のもの)を渡してあります。

 これらのポイントがニヒリズムの克服にどう関わっているのかをしっかりと理解してもらうことが、本人自身のニヒリズムの克服にも連動すると思うので、課題にしています。

 さて、これまでも今回もレポートのなかでそうとうたくさん「自分も自殺を考えたことがある」「いじめにあったことがある」という報告があるのには、「やはり」という思いと同時に「そこまで」というショックがあります。

 自分の体験を書くことはまったく要求していないのですが、あえて書いてくれるのは、責任ある大人に伝えて、自分だけでなく自分と同じような苦しい状況にあった・ある人への理解と対処を求めているのではないか、と感じています。

 以下は、今大きく報道されている大津でのいじめ事件に関わって、あえて自分のことを書いてくれたものです。

 匿名で参考資料として公的に使わせてもらうことがあることは、予め話して了解を取ってありますので、まさに今の「いじめ―自殺問題」解決のための1つの参考資料として掲載させていただくことにしました。

 読んでみて、ご一緒に考えてください。



 “宇宙と私は一体である” という先生の話を聞いて以来、私の人生観は明らかに変わった。私の身体には137億年の歴史が流れている…そう考えると、私は毎日生きていることが楽しくて、“生きているのだ” ということを常に感じるようになった。“あの人も、あの木も、あの虫も、あの雲も、あの建物も、あの星も…! みんな、親戚なんだ!” という考え方は、先生の“宇宙一体論” ともいえる思考を持っていない人にとっては「バカみたい」「くだらない」「あたりまえじゃないか?」と思われるかもしれない。しかしながら、注目すべきことは、これは現代の科学によって証明された事実を述べたに過ぎないということだ。「あたりまえじゃないか」という人はいるだろう、だが、主客分離という思考法が当然のようにフィルターとして働いているために、宇宙と私が一体であるという事実を感動的なこととして受け止めることができないのではないか、というのが私の見方である。

 話は少し変わってしまうが、人生観が変わるという話を出したので、ぜひとも先生の耳に入れて頂きたいと思い、述べることにする。2012年7月現在、滋賀県の大津市の中学生がいじめが原因で自殺をしたのではないかという報道が連日のようにニュースを賑わせているが、実は自分も中学校2年生の時にいっそのこと自殺してしまおうか、と悩んでいた時期があった。大津市のような暴行などはなかったが、ずっと仲が良かった人に裏切られ、陰湿ないじめ(ハブかれるなど)をうけたことが原因だ。完全に人間不信に陥った。「死んでしまえば、なにもかもが終わる」…当時の私はこう考えていた。楽になりたいという気持ちが大きかったのだ。結果的に私は周囲の人たちの支えがあり、こうして毎日を生きているわけではあるが、先生の話されたことが実体験としてあるということに驚きを隠せなかった。私は近代科学による思考を持っていたためにこう考えたのであろう、と今は思える。しかし、これを私だけの問題ではないだろう。というのも、日本人の自殺率は驚異的に高いということはデータとして表れている。つまり、かなり多くの人がまだ近代の考え方のなかで生きているのではないだろうか。

 宇宙と私は一体であるという、単純な事実だけれども、非常に感動的で壮大なスケールの話を18歳という段階で聞けたことに本当に良かったと感じている。できれば中2のときの自分に聞かせてやることができれば…とも思う。しかし、現在の自分のコスモロジーの変化は想像以上のもので、何だか心がスーっとする感覚を得ているというのが現実である。毎日が楽しく、笑顔あふれてイキイキとした毎日を送っているのも事実です。これもまた、この授業を取ったおかげだと思う。先生と学生という立場ではあったが、私は人生観を変えて頂いた恩師として今後も慕いたいと思う。後期のご講義も楽しみにしています、ありがとうございました。


 このケースの重要なポイントは2つある、と私は思いました。

 1つは、彼自身言っているとおり「周囲の人たちの支え」があったことです。これはある意味では当然のことです。問題は当然のことが当然のこととして実行されにくいことですが。

 もう1つも彼自身気づいたとおり、「死んでしまえば、何もかも終わる」「楽になりたい」という考えの問題です。

 「楽になりたい」という気持ちはある程度自然なものですが、「楽でなかったら・楽しくなければ、生きている意味がない」という思い込みにまで到ると、それは快楽主義という近代の心の病です。

 「死んでしまえば、何もかも終わる」のは、当人個人だけの問題であって、遺された人にはいつまでも終わらない心の重荷が遺されます。

 あえて言うのですが、遺される人の気持も考えず、自分だけ楽になりたい・なれればいいというのは、やはりある種のエゴイズムです。

 「死んだらすべてはばらばらの物質に解体し、意味上は無になる」というのは、ニヒリズムです。

 近代科学的なコスモロジー(世界観・人生観・価値観のシステム)は、「今どんなに苦しくても、耐えて生き抜かなければならない・生き抜いたほうがいい絶対的な理由がある」ことを示しえません。

 それに対し、現代科学のコスモロジー――あえて言えば「コスモス・セラピー」=「コスモロジー教育」的解釈――は、苦しくても生き抜く理由を語ることができる、というのが筆者の年来の主張です。たくさんの親御さん、教育関係者、特に教育行政の責任ある立場の方に届くといいのですが。

 この感想を書いてくれた学生だけでなく、かなり多数の学生に「生き抜く理由」「生きる勇気」のメッセージは届いたのではないか、と期待を持って、これから膨大なレポートと取り組もうと思っているところです。

 なお、この学生の感想の部分だけでなく、まとめの部分も公表すると、コスモロジー教育の「わかる―実感する―身につく」というプロセスがいっそうよく理解していただけるのですが、明日までまだレポートを提出する学生がいますから、「コピペ」のネタにならないよう、後日にしたいと思います。

(*なお、「恩師として今後も慕いたい」という言葉の部分まで自分で掲載するのは面映く、省略しようかとも思いましたが、実際書いてくれたことでもあり、もっと一般的・本質的なことから言えば、やはり教師と学生の関係はこうありたい、教えるべきことを教えれば次世代はちゃんと前の世代を尊敬・敬愛・尊重してくれるのだという見本として、あえて残すことにしました。T君、そう言ってくれてありがとう!)

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NHK「日曜討論:いじめ問題」に思う

2012年07月22日 | いのちの大切さ

 今朝のNHKテレビ「日曜討論」――まだNHKを見ているのですが――の後半が「いじめ問題――いま子どもを守るためには」という特集でした。

 残念ながら毎度のことですが、「いのちの大切さを子どもに伝えなくては」という発言がありました。

 「いのちは大切だ」と言えば、子どもが「いのちは大切だ」と考え、実感し、それが価値観として定着するのなら、問題は簡単です。

 そうでないところに問題があるにもかかわらず、責任ある立場の人から相変わらずの発言しかないのは非常に困った状況です。

 もう一つ、「いのちの大切さを実感的に…」という言葉もありました。

 これは半分ほどそのとおりだと思いますが、人間の心というものが考え方・捉え方抜きに実感するものだという日本人特有の思い込み――「理屈じゃないよ、気持だよ」という決まり文句に現われているいるような――から出ている発言ではないか、とも思えました。

 論理療法、認知療法、認知行動療法が、膨大な臨床事例の検討によって明らかにしているように、人間の感情(例えばうつ)はものごとの考え方・捉え方、つまり認知のあり方によって、まるでといっていいくら異なってきます。

 「理屈じゃない」という発想からは、いのちというものをどう考え・捉えたら、「いのちは大切だ」と実感できるようになるのか、という問題が抜けてしまっているのではないでしょうか。

 私の年来の主張に引き付けるのですが、いのちはなぜ大切だと言えるのかという考え方・思想的な答えなしには、子どもたちにいのちの大切さを十分感じさせ、価値観として定着させることはできないと思われます。

 もちろん、例えば小動物を抱いて心臓の鼓動を感じさせるとか、飼っていた昆虫や小動物が死んだ時の悲しさを体験させる、広くいえば直接的な自然体験をさせるといった方法は、ある程度有効ですし必要ですが、十分ではない、と私は考えています。

 自己宣伝になってしまうのですが、私の授業を受けた学生のきわめて多くが、「なぜいのちが大切なのかがわかった」と感想を書いてくれます。

 まだ読んでおられない方、ぜひ、これまで書いてきた記事を読んで見てください(私のブログのタイトルは「伝えたい! いのちの意味」なのです)。

 最初から共感や同意は必要ありません。読んでみて、理解したうえで評価していただけると幸いです(例えば、「これならいけそう」とか「これじゃやっぱりダメだ」とか)。

 もう一つ、大津の事件に関して、「もう『いじめ』という言葉だけでは表現できないことだと思う。これは、『虐待』であり、『人権侵害』と言うべきだ」といった趣旨の発言がありました。

 まったくそのとおりだと思います。「いじめ」は、子ども間での「虐待」であり、「暴力」であり、「人権侵害」であり、人権の尊重が大前提である私たちの社会にあって、大問題です。

 私たち大人は、子ども=私たちのいのちを引き継いでくれる次世代への「虐待」、「暴力」、「人権侵害」を放置しておいてはいけないと思います。
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現代科学のコスモロジー:ポイントの整理表

2012年07月13日 | コスモロジー

 これまで、このブログや著書(『生きる自信の心理学』PHP、間もなく電子化、『コスモロジーの心理学』青土社など)で、現代の日本人の多くが感じている空しさや生きづらさの根っこはニヒリズムにある、と述べてきました。

 そして、近代科学のコスモロジーは突き詰めると必ずニヒリズムに到るが、現代科学のコスモロジーを体系的に学ぶと必然的にニヒリズムは克服される、と言ってきました。

 講座の参加者や学生諸君から、そのポイントをわかりやすくまとめてほしいと要望があったので、まず以下のような表を作ってみました。










 どういうポイントがどういうふうにニヒリズムを克服することになるのか、今、H大学の期末レポートのテーマにしていますから、ここで解答を発表してしまうわけにいかないので、レポート提出が終わった頃(7月24日を過ぎて)、解説をしようと思っています。

 どうぞ、ご期待ください。



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『失敗の本質』に学ぶ

2012年07月13日 | 原発と放射能
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論社




 専門家が「事故の起こる確率は、ヤンキースタジアムに隕石が落ちる確率のようなもので、ほとんどゼロに近い。絶対安全だ」と言い募ってきて、結局、原発事故は起こりましたが、それでも政府-電力会社-多数の企業人-大多数の専門家-かなりの数の市民が、止めようとしないどころか再稼動に踏み切ってしまいました。

 それはなぜだろう、それはリーダーの多くが日本のこれからあるべき姿について合理的で中長期的な展望――グランド・デザイン、理念とビジョン――を持っていない・持てないため、短期・一時の失敗があっても隠したり誤魔化したりせず明らかにしてその失敗から学んで方向転換をするという姿勢が取れないという体質を持っているためだ、と考えている中で、名著という定評があるので買っておいたままだった『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』(1989年、ダイヤモンド社、1991年、中公文庫版)を取り出して読んでみて、なるほどやはりそうか、とうなづきました。

 本書では、ノモンハン、ミッドウェー、ガダルカナル、インパール、レイテ、沖縄、各戦の敗北・失敗という六つのケースを取り上げていますが、詳細は本文を見ていただくことにして、いくつかポイントだと思った文章を紹介して共有したいと思います。

 「そもそも軍隊とは、近代的組織、すなわち合理的・階層的官僚制組織の最も代表的なものである。戦前の日本においても、その軍事組織は、合理性と効率性を追求した官僚制組織の典型とみられた。しかし、この典型的官僚制組織であるはずの日本軍は、大東亜戦争というその組織的使命を果たすべき状況において、しばしば合理性と効率性とに相反することを示した。つまり、日本軍には本来の合理的組織と馴染まない特性があり、それが組織的欠陥となって、大東亜戦争での失敗を導いたと見ることができる。日本軍が戦前日本において最も積極的に官僚制組織の原理(合理性と効率性)を導入した組織であり、しかも合理的組織とは矛盾する特性、組織的欠陥を発現させたとすれば、同じような特性や欠陥は他の日本の組織一般にも、程度の差こそあれ、共有されていたと考えられよう。……日本軍の組織的特性は、その欠陥も含めて、戦後の日本の組織一般のなかにおおむね無批判のまま継承された、ということができるかもしれない。
 なるほど日本軍の組織原理や特性は、すべてがいかなる場合にも誤りではなかったであろう。日本軍の組織的欠陥の多くは、大東亜戦争突入まであまり致命的な失敗を導かなかった……平時において、不確実性が相対的に低く安定した状況のもとでは、日本軍の組織がほぼ有効に機能していた、とみなされよい。しかし、問題は危機においてどうだったか、ということである。危機、すなわち不確実性が高く不安定かつ流動的な状況--それは軍隊が本来の任務を果たすべき状況だった--で日本軍は、大東亜戦争のいくつかの作戦失敗にみられるように、有効に機能しえずさまざまな組織的欠陥を露呈した。
 戦後、日本の組織一般の置かれた状況は、それほど重大な危機を伴うものではなかった。したがって、従来の組織原理に基づいて状況を乗り切ることは比較的容易であり、効果的でもあった。しかし、将来、危機的状況に迫られた場合、日本軍に集中的に表現された組織原理によって生き残ることができるかどうかは、大いに疑問となるところだろう。」(23-25頁)

 「いかなる軍事上の作戦においても、そこには明確な戦略ないし作戦目的が存在しなければならない。目的のあいまいな作戦は、必ず失敗する。それは軍隊という大規模組織を明確な方向性を欠いたまま指揮し、行動させることになるからである。本来、明確な統一的目的なくして作戦はないはずである。ところが、日本軍では、こうした。ありうべからざることがしばしば起こった。」(268頁)

 「作戦目的の多義性、不明確性を生む最大の要因は、個々の作戦を有機的に結合し、戦争全体をできるだけ有利なうちに終結させるグランド・デザインが欠如していたことにあることはいうまでもないだろう。その結果、日本軍の戦略的目的は相対的に見てあいまいになった。この点で、日本軍の失敗の過程は、主観と独善から希望的観測に依存する戦略目的が戦争の現実と合理的論理によって漸次破壊されてきたプロセスだったということができる。(274頁)

 「日本軍の戦略思考は短期的性格が強かった。日米戦自体、緒戦において勝利し、南方の資源地帯を確保して長期戦に持ち込めば、米国は戦意を喪失し、その結果として講和が獲得できるというような路線を漠然と考えていたのである。連合艦隊の訓練でもその最終目標は、太平洋を渡洋してくる敵の艦隊に対して、決戦を挑み一挙に勝敗を決するというのが唯一のシナリオだった。しかし、決戦に勝利したとしてそれで戦争が終結するのか、また万一にも負けた場合にはどうするのかは真面目に検討されたわけではなかった。/日本は日米開戦後の確たる長期的展望がないままに、戦争に突入したのである。」(277頁)

 「短期決戦志向の戦略は……一面で攻撃重視、決戦重視の考え方とむすびついているが、他方で防禦、情報、諜報に対する関心の低さ、兵力補充、補給・兵站の軽視となって表われるのである。」(280頁)

 「日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずだった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の『神話的思考』から脱しえていない(山本七平『一九九〇年の日本』)のである。」(283頁)

 「日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意だった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行なわれるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずだった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戦部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。」(285頁)

 「他方、日本軍のエリートには、概念の創造とその操作化ができたものはほとんどいなかった。個々の戦闘における『戦機まさに熟せり』、『決死任務を遂行し、聖旨に添うべし』、」『天佑神助』、『神明の加護』、『能否を超越し国運を賭して断行すべし』などの抽象的かつ空文虚字の作文には、それらの言葉を具体的方法にまで詰めるという方法論がまったく見られない。」(287-288頁)

 「日本軍の戦略策定が状況変化に適応できなかったのは、組織の中に論理的な議論ができる制度と風土がなかったことに大きな原因がある。日本軍の最大の特徴は「言葉を奪ったことである」(山本七平『一下級将校の見た帝国陸軍』)という指摘があるように、戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできなかった。ノモンハン、ガダルカナル、インパールの作戦はその典型的な例だった。」(289頁)

 「以上あげたような日本軍の組織構造上の特性は、『集団主義』と呼ぶことができるであろう。ここでいう『集団主義』とは、個人の存在を認めず、集団への奉仕と没入とを最高の価値基準とするという意味ではない。個人と組織とを二者択一のものとして選ぶ視点ではなく、組織のメンバーとの共生を志向するために、人間と人間との間の関係(対人関係)それ自体が最も価値あるものとされるという『日本的集団主義』に立脚していると考えられるのである。そこで重視されるのは、組織目標と目標達成手段の合理的、体系的な形成・選択よりも、組織メンバー間の『間柄』に対する配慮である。ノモンハンにおける中央の統帥部と関東軍首脳との関係、ガダルカナル島撤退決定遅らせる結果になった陸軍と海軍の関係、インパールにおける河辺ビルマ方面軍司令官と牟田口第一五軍司令官との関係、これらはいずれも『間柄』を中心として組織の意思決定が行なわれていく過程を示している。日本軍の集団主義的原理は、このようにときとして、作戦展開・終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらすことがあった。」(315頁)

 「およそ日本軍には、失敗の蓄積・伝搬を組織的に行なうリーダーシップもシステムも欠如していたというべきである。ノモンハンでソ連軍に敗北を喫したときは、近代陸戦の性格について学習すべきチャンスだった。ここでは戦車や重砲が決定的な威力を発揮したが、陸軍は装備の近代化を進める代わりに、兵力量の増加に重点を置く方向で対処した。装備の不足を補うのに兵員を増加させ、その精神力の優位性を強調したのである。こうした精神主義は二つの点で日本軍の組織的な学習を妨げる結果になった。一つは、敵戦力の過小評価である。とくに相手の装備が優勢であることを認めても、精神力において相手は劣勢であるとの評価が下されるのがつねであった。敵にも同じような精神力があることを忘れていたといってもよい。精神主義のも一つの問題点は、自己の戦力を過大評価することである。『百発百中の砲一門、よく百発一中の砲百門を制す』(日本海開戦直後の東郷司令長官の訓示)といったたぐいの精神論は海軍でも例外ではなかった。……
 ガダルカナル島での正面からの一斉突撃という日露戦争以来の戦闘は、功を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行なわれた。そればかりか、その後の戦場でも、この教条的戦法は墨守された。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを組織の他の部門へ伝播していくということは驚くほど実行されなかった。これは物事を科学的、客観的に見るという基本姿勢が決定的に欠けていたことを意味する。
 ……大東亜戦争中一貫して日本軍は学習を怠った組織であった。」(325-327頁)

 「戦略・戦術が意図したものと、実際の結果との間にパフォーマンス・ギャップがなければ、その結果は既存の知識・技能や行動様式としての組織文化をますます強化していく。しかしながらパフォーマンス・ギャップがある場合には、それは戦略とその実行が環境変化への対応を誤ったかあるいは遅れたかを意味するので、新しい知識や行動様式が探索され、既存の知識や行動様式の変更ないし革新がもたらされるのである。既存の知識や行動様式を捨てることを、学習(learning)に対して、学習棄却(unlearning)という。このようなプロセスが組織学習なのである。軍事組織は、このようなサイクルを繰り返しながら、環境に適応していく。……
 このように考えてくると、組織の環境適応は、仮に組織の戦略・資源・組織の一部あるいは全部が環境適応であっても、それらを環境適応的に変革できる力があるかどうかがポイントであるということになる。つまり、一つの組織が、環境に継続的に適応していくためには、組織は環境の変化に合わせて自らの戦略や組織を主体的に変革することができなければならない。こうした能力を持つ組織を、『自己革新組織』という。日本軍という一つの巨大組織が失敗したのは、このような自己革新に失敗したからなのである。」(347-348頁)

 きわめて困ったことに、全文の「日本軍」のところを「日本政府」、「日本の省庁」、「日本の(多くの)企業」などなどに置き換えても、そのまま当てはまりそうです。

 特に現状の日本で致命的に危険なのは言うまでもなく、原発に関して、「集団主義的原理は、このようにときとして、作戦展開・終結の意思決定を決定的に遅らせることによって重大な失敗をもたらす」、「戦略策定を誤った場合でも、その修正行動は作戦中止・撤退が決定的局面を迎えるまではできな」いという事態になりつつあることです。

 幸いにして戦前と異なり、戦後の日本は代議制民主主義の国家なので、リーダーがダメな場合、国民の多数の意思があればリーダーを取り替えることができるのですから、国民が意思表示をすべきなのですが、肝心の善意の国民の多くも「……は功を奏さなかったにもかかわらず、何度も繰り返し行なわれた。そればかりか、その後の戦場でも、この教条的戦法は墨守された。失敗した戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し、それを……伝播していくということは驚くほど実行されなかった」という状態にあるのではないかと思われます。

 心(心情と理性の両方)ある市民・国民のみなさん、原水爆禁止運動以来ずっと敗北・失敗しつづけてきた「戦法、戦術、戦略を分析し、その改善策を探求し」ていこうではありませんか。

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体験したことのない大雨

2012年07月12日 | 持続可能な社会

 今朝のニュースによれば、大分県や熊本県で、「体験したことのない大雨」(気象庁の表現)になっているとのことです。

 被災地の皆様、心からお見舞い申し上げます。被害が最小限にとどまり、死傷者がないことをお祈りしております。

 それにしても、ここのところずっと、「記録的…」な気象の現象が続いていました。

 今回、気象庁があえてこれまでの表現を使わないで、「体験したことのない」と言い直したのは、大変な危機感からのようです。

 「焦眉の急」という言葉がありますが、気候変動にどう対処するかは喫緊の課題だと思われます。

 しかし、政・財・官のリーダーたちの多くは、それよりも当面・現場・短期の問題に気を取られているように見えます。

 大変困ったことですが、ただ困っていても仕方ないので、せめて、市民レベルで、どうしたらエコロジカルに持続可能な国を創ることができるのかということを一緒に考えていきたいと思っています。

 安定した気候が崩壊し、日本の国土が崩壊し、日本文明が崩壊してしまう前に、有効な社会的運動が生まれることを祈りながら、発言を続けます。

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民主主義とエゴイズム

2012年07月11日 | 持続可能な社会

 今、H大学社会学部では、毎週、5~600人くらいの学生を相手に授業をしています。

 6月に中間のレポート「日本人の精神的荒廃の三段階」を提出してもらったのですが、数が多すぎてまだ読み切れていません。

 しかし読みながら、今年も教えてよかった(まだ途中ですが)と感じています。

 以下のような時代の問題の本質を突いた感想・意見(特に前半)が出てくるのを読むと、若い世代の鋭い洞察力に期待してもいいのではないか、期待したいと思わされます。


 H大学社会学部社会学科2年男子

 このレポートを執筆していて、私は日本の将来がとても不安になった。その理由は民主主義とエゴイズムという矛盾した2つが今の日本に同時に存在しているからである。民主主義とは国民の手で政治を動かす国のシステムであり、それは国民が国をもっと良くしていきたいという「理想」をもつことが大前提となっているシステムである。にもかかわらず、今の日本の精神性は「自分だけ楽しければ良い」という快楽主義、エゴイズムが主流となっている。これでは民主主義国として機能せず、国の発展はストップしてしまうだろう。
 これを解決するためには国のシステムそのものを変えるか、それとも国民の情熱をもう一度喚起させるか、はたまた神仏儒習合の精神の復活など様々な意見があると思うが、私は国民の情熱を取り戻すことが一番現実的だと思える。なぜかというと、私はスポーツにその国民の情熱を垣間見ることがあるからだ。サッカー日本代表応援する国民の一体感。オリンピックで日本選手を応援するあの国民の一体感。まだまだ日本人には愛国心という情熱が残っているのだといつも私は感心する。きっと何か大きなきっかけとなるものがあれば、日本人の精神は普遍的な情熱を取り戻すにちがいない。それを実現する要素は一時的ではあるが垣間見えているのだから。


 ただ、後半、「国のシステムそのものを変える」という案も上げておきながら、落としどころが「国民の情熱を取り戻すことが一番現実的だと思える」になっているところが、とても日本人的・心情的でやや残念です。

 国を愛し国を良くしたいという情熱を取り戻すという心情的な面のことは、実際に国を良くするまず何よりも必要な必要条件ではあっても――これがなければ何も始まりません――十分条件ではないからです。

 取り戻した情熱を、まずより良い国のシステムを設計し直すことに向け、それから実際にシステムを変えるための有効な行動を始めて――多くの困難にもかかわらず――それが成功した暁に、実際に国が良くなるのではないでしょうか。

 単なる愛国心は、ナチズムをも生み出しましたし、スウェーデン・緑の福祉国家も生み出しています。

 善良な日本人の多くが、「善意は必ず善なる結果をもたらす」と信じているように見えますが、「善意が必ず善なる結果はかぎらない」それどころか意図とまったく違った「目的外の結果」を生み出すこともしばしばあるという厳しい歴史的な事実をよく学習して、どうしたら善意が善なる結果を生み出すか、システム的―統合的・4象限的に考える能力を身につけてほしいものだ、と強く願っています。

 「理屈じゃない。行動だ」とか、「理屈は嫌いだ。気持が大事だ」と言っている間は、善意の市民の気持は善なる結果に結びつかないだろう、とシミュレーションしています。

 理論と理念によって描き出される適切・妥当な中長期目標に向って、国民の多数が協力して有効性のある社会的行動を展開してはじめて、私たちの国を良くしたいという気持が望んだ結果をもたらすのだ、と思われます。
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52%のための政党が欲しい!

2012年07月10日 | 持続可能な社会

 直近のNHKの世論調査によれば、支持政党なしの国民が52%にもなっているそうです(NHKの報道姿勢に疑問は持っているのですが、こういう情報はそれなりに参考になります)。

 私も52%の一員ですが、もちろん支持政党なしでいいとは思っていません。

 支持できる政党が欲しい!と切実に思っています。

 志ある政治家ないし政治家志望者の中に、こうした国民52%の思いに応える人はいないのでしょうか?

 本当に志があるのなら、今がチャンスだと思うのですが。

 私たちの仲間で、どうして欲しいのか、グランドデザインは描きました(持続可能な国づくりを考える会の「理念とビジョン」参照)。

 この注文に応える政治家が出てきて欲しい!


 
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『サングラハ』第123号が出ています

2012年07月09日 | 広報




 日本の現状にあきれて、腹が立って、ため息が出て……という状態で、『サングラハ』の第123号がすでに出ていたことのお知らせを忘れていました。

 鹿児島県知事選は、脱原発派の健闘にもかかわらず敗北に終わりました。とても残念です。

 しかし、日本の地方政治のほとんどが短期の利権の構造で動いてきたというのは、これまでもいまでも基本的に変わらないままなので、当然といえば当然の結果だろうな、とも思っています。

 なので、私としては、日本を変えたい人には、地方から変えようというアプローチをしないで、正面から断固、国政を変えるというアプローチをしてほしいと願っています。

 国が持っている圧倒的な権限から考えて、地方から始めて国全体を変えるというアプローチの成功可能性はかなり低いと思われるからです。

 もちろんきわめて困難ではあるにしても、直接利権にからんでいない首都圏や京阪神の大都市圏の「支持政党なし」の層に支持されるような新党が国政を変えるというシナリオがいちばんありうるシナリオだと思えるのですが、読者はどうお考えでしょうか?


 それはともかく、微力ながら、『サングラハ』は内面と外面の変革を並行して、という提言を持続しています。

 たくさんの方のご理解・ご協力・ご参加をお願いします。まずは、『サングラハ』をお読みください。
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職業選択と社会貢献について:本音のQ&A

2012年07月07日 | 持続可能な社会

 熱心な学生から、就職に関わって今の日本の状況について以下のような真剣な質問がありました。

 この質問は、かなりの部分が真面目な学生たちに共通する疑問を代表していると思いましたので、本人の了承を得て、答えとあわせて掲載することにしました(表記など若干訂正・変更しています)。

 参考になれば幸いです。

               *

今晩は

質問したいことがありまして、メール致しました。

長いのですが、宜しくお願い致します。

仕事に関することなのですが、自分の出来る範囲で調べてみました。

持続可能に直接関われそうな仕事

政治家
国連職員
金融-資産運用
マスコミ等の情報機関
教員
環境の仕事
ジャーナリスト

ここからが質問なのですが、

・政治、官僚、行政が、実際に、どのような構造になっているのかを知りたいです。

・マスコミ機関の裏の情報(本当の仕組み)を知りたいです

・金融機関と国の関わり(国の中での力)を知りたいです。

・レポーター・ビデオジャーナリスト・取材コーディネーターといった仕事では国は変わらないのでは?と思いました。
この仕事が役に立つのは、政界がまともに機能している時だけではないでしょうか?

・環境の職業についてですが、どの会社に入っても、どの資格をとっても、行政が変わらないことには国はかわらないのではないでしょうか?
この仕事も意味をなすのは、政界がまともな時のみではないでしょうか?
NPO、NGOでも国は変えられないと思いましたがどうでしょうか?

環境システムを動かしているのは、文部科学省等の行政でしょうか?

環境の会社も、資本主義経済の中にあるので、環境というビジネスにすぎない。
アミタホールディングスという会社は、それなりに好感がもてましたが、

・いくら、国を変えたくて、ある分野の専門家として、会社・業界のTOPに立ったところで、国は変わらないのですよね?

また、行政以外に、広い視野からの意見(環境哲学)のようなものを、シンクタンクのような所が、方針として提示しているのでしょうか?
専門家や企業のTOP(会社の方針)と、
国(国の方針)の繋がりがよくわかりません。


~現在の自分の考えは~

いかなる仕事に関わっても、政治がかわらなければ、人類は滅亡に向かう。

なので、
いかなる仕事に関わりながらも、政治を変える努力をする。

仕事としては、

政治、行政に関われたら最もよい
マスコミ・金融という面から貢献できれば、それもよい
教育者として関わるのもよい

1市民として、カウンセラーでも可

環境を含めた会社で働くとしても、志をもった会社で働く。
無ければ、自分で作る。

行政に関われないとしても、しっかり市民として関わる。
そして、1人ではできないので、仲間と共にやる。


今更ですが、
今の日本には、そのような
会社が少ないだけでなく

政治家も見当たらないのですね。

長くなってしまいましたが、
是非、アドバイスを宜しくお願い致します。

また、オススメの本がありましたら、宜しくお願いいたします。

               *

K君 今晩は。

今回のは、用事があったのと、そうとうな難問なのとで、返事が遅くなりました。

「~現在の自分の考えは~」のところ、基本的にそのとおりです。

1.まず日本の国政を持続可能な方向へ変え、変わった日本を足がかりにして、さらに国際政治全体の方向性を転換するほか、人類の滅亡を止める道はないと思います。

2.そして現状で持続可能性に貢献できる仕事も、おおまかに言えばK君があげたとおりだと思います。

3.そこで、個人としては、1.と2.を踏まえて、職業を選択するということになるでしょう。そしてもちろん個人ができることには限界がありますから、できるだけ多くの人と連帯してできるだけのことをするほかないということになります。

>政治、官僚、行政が、実際に、どのような構造になっているのかを知りたいです。

公式的には高校の政経の教科書などにあるとおりでしょう。

裏話的な実際は、私も十分には知りませんが、例えば原発に関わって、山崎淳一郎『原発と権力』ちくま新書、岩川隆『日本の地下人脈――戦後をつくった陰の男たち』祥伝社文庫などを読むと感じがつかめるのではないかと思います。山崎豊子『不毛地帯』という小説も日本の戦後政治と経済の癒着の構造がうかがい知れるようです(私はTVドラマしか見ていませんが)。

>マスコミ機関の裏の情報(本当の仕組み)を知りたいです。

これについては、機会があったらTさんに聞くと現場の情報が得られると思います。

いずれにせよ、大型メディアは、NHKは総務省、民放や新聞は企業の広告料という縛りがあって、本当の意味で国民に知らせるべき報道活動をできていない・していない、報道の自由など実際には存在しないというのが、日本の現状だと私は見ています。

>金融機関と国の関わり(国の中での力)を知りたいです。

これについては、私もよくわかりません。

>レポーター・ビデオジャーナリスト・取材コーディネーターといった仕事では国は変わらないのでは?と思いました。
> この仕事が役に立つのは、政界がまともに機能している時だけではないでしょうか?

先にも言ったとおり、現在の日本ではジャーナリズムそのものが機能していないと思います。ちゃんと機能すれば、世論形成という国を変える大きな力の一つにはなるはずなのですが。

>環境の職業についてですが、どの会社に入っても、どの資格をとっても、行政が変わらないことには国はかわらないのではないでしょうか?
> この仕事も意味をなすのは、政界がまともな時のみではないでしょうか?
> NPO、NGOでも国は変えられないと思いましたがどうでしょうか?

そのとおりです。まず政府の方向が決まり、それに企業の方向と市民の方向が一致した場合にのみ(スウェーデンのケースのように)、国民共同体としての「国」全体が変わると思います(日本人は、国民共同体としての「国」と政府という意味での「国」を混同しているのでいつも議論が混乱します)。

>環境システムを動かしているのは、文部科学省等の行政でしょうか?

日本の環境政策の建前(環境保護)は環境省が作り、それとまるで一致しない本音の政策(経済成長のためには環境を無視する)を経済産業省が立て、政府がそれを追認する、という構造になっているようです。

>環境の会社も、資本主義経済の中にあるので、環境というビジネスにすぎない。

そのとおりです。ただその中でも、比較的本気の会社とただ見せかけだけの会社の違いはあると思いますから、就職するならなるべく本気の会社を選んで、ということになりますね。

>いくら、国を変えたくて、ある分野の専門家として、会社・業界のTOPに立ったところで、国は変わらないのですよね?

民間の努力はある程度の影響を与えることはできるでしょうが、立法権、徴税権、予算策定権、警察権といった権力の中枢である政府という意味での国が変わらなければ国民共同体としての国・日本社会全体も本格的に変わることはできないでしょう。

>また、行政以外に、広い視野からの意見(環境哲学)のようなものを、シンクタンクのような所が、方針として提示しているのでしょうか?

環境学部を持った大学や環境関係のシンクタンクはいろいろあり、提案もしているようですが、環境省が経済産業省に影響を与えられないのと同じで、政府の方針に対して本格的影響は与えられないようです。

>専門家や企業のTOP(会社の方針)と、国(国の方針)の繋がりがよくわかりません。

私の見るかぎり、政治家のそうとう多数と大企業のトップの大多数は、本気で環境の心配はしていないと思われます。

資源の大量使用→大量生産→大量販売→大量消費→大量廃棄・環境汚染という近代的な生産様式の限界を自覚したくないので自覚しないという状態でしょう。
専門家は、言うだけ言って、大した影響を与えられないという状態に甘んじている人が大多数であるように見えます。

こう言うと、あまり希望がないように聞こえるでしょうね? はっきり言えば、そのとおりです。

私は、市民・国民の中の気づいた人でできる人が、はっきりと「エコロジカルに持続可能な国家」を目指す新党(典型的にはスウェーデン社会民主党のような)を結成し、その党がなるべく早く国民の大きな支持を得て政権交代し主権政党になって、政府・国の方向を根本的に変え、それによって国民共同体としての国・日本社会全体も変わる、というシナリオ以外には希望はないだろう、とかなり断定的に思っています。

以上、参考にして、考えてみてください。

では、また。

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大型メディアへの意思表示

2012年07月04日 | 原発と放射能

 時代が大きく変動しつつある中、書かなければと思うことは多いのですが、あきれて物も言えないという気分と、発言の対労力効果を考えてしまって、発言を怠っていました。

 しかし、そろそろたとえムダでもちゃんと発言しなければならないと思いはじめました。 

 さて、いろいろな人に勧められ―納得して、7月1日から、新聞を東京新聞に変えました。

 40年以上、さまざまな疑問――たとえば内面の問題については理解がきわめて不十分、「緑の文明」などと言ったこともありながら、環境問題の掘り下げも不十分、したがって「緑の福祉国家・スウェーデン」の報道も不十分などなどなど――は感じつつも、それでも戦後進歩派のオピニオン・リーダー的存在という意味で朝日を取ってきたのですが、3・11以降の原発・放射能に関する報道に大きな疑問を感じ続けていたからです。

 6月末、東京新聞の試し読み期間が1週間あったので、比べて読んでみましたが、きわめて明らかに、東京のほうが朝日より伝えるべきことを伝えているという感じがしました。

 7月に入ってからも、例えば福島の4号機の危険の報道、デモや署名に対する野田首相のきわめて非民主主義的な態度、原子力基本法がいつの間にか自民党の意向を入れて改正されていた問題など、大事なポイントが伝えられています。

 NHKの報道に対しても、大きな疑問があるのですが、まだ受信料不払いにまでは踏み切っていません。「朝ドラ」も見ていますしね。

 しかし、検討中です。

 社会的責任を十分果たしていないと思われる大型メディアに対して、市民が不買運動あるいは選択変更というかたちで意思表示をすることは必要であり、一定の有効性はあると思います。

 けれども、結局は、政治それも国政を変える必要があります。そろそろ、「支持政党なし」の市民の中から「支持できる私たちの政党」が誕生してほしいものです。

 支持できる私たちの政党が政権交代する日までは、私たちの希望はなかなか実現しそうもありません。

 しかし、もちろんあきらめてしまったわけではないので、私にできる言論活動は、これからも続けていくつもりです。

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