教育の愉しみ?

2010年01月29日 | 心の教育

 先週、教えている3つの大学すべての授業が終わり、週末には教え子の結婚式の司式をし、日曜日には「持続可能な国づくりの会」で、会の「理念とビジョン」のパンフレットを民主党の国会議員420名に発送し、今週から採点に没頭-忙殺状態です。

 年末もとても忙しく、去年12月に提出してもらったレポートも採点しきれていなかったので、期末試験の答案と併せて1000通以上、必死になって目を通しています。

 毎年のことですが、これはそうとうなワークで、修行と思ってやるほかありません。

 読んでも読んでも終わらないという感じですが、でも読んでいると、まさに薄紙をはがすがごとく少しずつデスクに積んだレポートの山が低くなってきます。

 今夜のところ、約6割強に達しました。ふーっ、というところ、この後も深夜まで続行の予定です。

 しかし、例えば以下のような感想をもらうと、やはり今年度も努力して教えてよかったな、と思います(公表することは予め学生の了解を取ってあります)。


 通年単位で授業をとっていて、これほど嬉しいと思ったことはないです。

 それはなぜかというと、前期のコスモロジー論を学べたからです。今ある、私の周りにあるものはすべて一つ、と考えることがすんなりできる。だから自分も含め、大学の友人、自分の彼女、そして犬や猫などの生き物、さらには自分の知らない人までとても大切な存在なんだと感じるようになりました。

 「唯識」この2文字には私達の未来がつまっている、そう感じました。たったの2文字ですが、私達にとってとても重要な2文字です。

 このレポートを書き終えた後、これを履修していない友人にこのことについて伝えました。友人は私と同じように、「宇宙と私は一体」と納得し、ありがとうとまで言われました。今年の中で一番うれしいありがとうをもらいました。

 先生ありがとうございました。これを教えてくださった先生に感謝します。

     H大経済学部3年男子


 こちらが、「学んでくれた君にありがとう!」と言いたいくらいです。

 残念ながら当然、コスモス・セラピーも唯識も万能ではなく、全員ではありませんが、しかし今年もそうとう多数の学生がこれまでの考え方が変わった、と言ってくれます。

 やはり教師と○○は三日やったらやめられないようです(正確に言えば、もちろん諸行無常なので、いつかはやめる日が来るんですけどね。当分は……です)。


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サングラハ第109号が出ました!

2010年01月14日 | Weblog
 『サングラハ』誌第109号が出ました。

 新しい年、新しい時代に向けて、これから日本をどういう方向に向けていけばいいのか、「持続可能な国づくりの会〈緑と福祉の国・日本〉と共有する「理念とビジョン」の総特集です。

 見本として表紙と裏表紙、2頁と3頁を掲載します。

 ぜひ、ご購読ください(送料とも500円)。
















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講話:リーダーになるということ

2010年01月13日 | 心の教育
*今日、O大学のチャペルアワー(礼拝)の講話をしました。かなりの数の学生たちが真剣に聞いてくれました。こういう真面目すぎるくらい真面目な話をして、たくさんの若者が耳を傾けてくれる時代になってきたのかな、とうれしく思いました。


 一行はカファルナウムに来た。
 家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。
 「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」
 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
                       (マルコによる福音書九・三三―三七)


 新しい年になって二週間が過ぎようとしています。

 日本人の習慣的では、いろいろなことが新しくなって夢と希望が新たに湧いてくるような、いわゆる「めでたい」気分がまだ抜けきらない時期でしょう。

 しかし、社会の現実、世界の現実を見ると、必ずしもめでたいとはいえない、それどころか深刻な問題が山積しています。

 みなさんにもっとも身近なところでは、就職がとても難しくなっています。

 それは、いうまでもなくリーマン・ショック、ドバイ・ショックと続いて世界全体が大不況からなかなか立ち直れないでいるために、日本の企業の大半も雇用に非常に慎重になったり、端的に控えたりしているからです。

 そうした中で、就職できない、あるいは失業して再就職できない方たちの数も増えていて、格差社会はどんどんひどくなっているようです。

 そうしたこともあって、みなさんの少し上の世代では、なかなか結婚しないというかできないというか、晩婚化が進み、さらに少子化が進んでいます。

 もっと上の世代では高齢化が進んでいるにもかかわらず、年金や介護・医療の今後の見通しには厳しいものがあります。

 そうした中で福祉の充実が必要であるにもかかわらず、福祉に必要な税収は減っており、財政の赤字はさらに積み上がっています。

 今年の冬は割に寒いので、「温暖化なんてどこに行ったんだ」と感じている人もいるかもしれませんが、温暖化というのは国際的にはむしろ「気候変動(climate change)」という言葉で語られていて、気候が安定せず、中長期的に見ると温暖化しているという意味で、「今年は寒いからもう問題がなくなったんだ」というふうなことではありません。

 注目しておかなければならないのは、何年も前から繰り返し、「記録的猛暑」「記録的集中豪雨」「記録的暖冬」「記録的豪雪」というふうに「記録的」つまりこれまでになかったことが起こっているということです。

 今年は、すでに暮に例年にない積雪という地方がありましたが、これから「記録的豪雪」の可能性も十分にあると思われます。

 そうした厳しい状況の中で、日本のリーダー、特に政治的リーダー、その中でも政権与党のリーダーのみなさんは、繰り返し「政治主導・政治家のリーダーシップによる変革」ということを言っています。

 その言葉に、私もできれば期待したいと思っています。しかし、その政権与党のトップリーダーのお二人が、政治資金について問題があり、どうもその責任について態度が明解でないように見え、リーダーとして期待しきれるのかどうかという疑問も感じます。

 そうした中で、新しい年の初めに当たって、若いつまりこれからの時代を担っていくべき世代のみなさんと、ほんとうのリーダーあるいはリーダーシップというものについて、新約聖書、特に福音書がどんなことを教えているか、ご一緒に学びなおしたいと思いました。

 みなさんの中には社会のまさにリーダー的な存在になっていく人もいるでしょうし、そうでなくても大人になるということはつまり上の世代になるということであり、好き嫌いにかかわらず下の世代に対してはリーダー的役割をしなければならなくなるということです。

 やがてリーダー的世代に育っていくみなさんに、あらかじめほんとうのリーダーとはどういうものか、学んでおいていただきたいと思ったのです。

 リーダーになるということ、別の言葉で言えばいわゆる「偉くなるということ」はどういうことなのか、福音書のイエスは、私たちの常識とはまったくといっていいほど違うことを語っています。

 イエスの生きていた今から約二千年前のユダヤはローマ帝国に支配され属領にされていました。

 イエスは、そうした状況の中でユダヤをローマから政治的・軍事的に解放してくれるという意味で「救世主・メシア・キリスト」になることを期待されていたようです。

 イエスの弟子たちもイエスにそういう期待を抱いていたようで、ですからイエスがローマの支配をはねのけてユダヤ人の王になった、つまり偉くなった時に、自分たちもイエスに次いで高い地位に就くことができるだろう、と期待していたのです。

 弟子たちはカファルナウムという町への旅の途中で、そうなった場合、自分たちの中で誰が一番高い地位に就くことになるだろうか、一番偉くなるのか、「私こそ一番だ」「いや、そうではない。私こそ一番になる資格がある」というふうな議論・言い争いをしていたようです。

 イエスはそれを知っていながら、途中で止めようとはせず徹底的に議論させたうえで、町に着き家に入ってから、まず「何を議論していたのか」と尋ねます。

 弟子たちはうすうすながら自分たちの議論はどこかまちがっているのではないかと感じていて、言うとイエスに叱られると思ったのでしょうか、返事をしませんでした。

 しなかったというより、できなかったのでしょう。

 するとイエスは席に座って、自分のそばに彼らを呼び寄せました。

 それは、やや離れた距離から怒鳴るとか叱るとかするのではなく、もっと近い、親密な距離で心に沁みるように言い聞かせようとしたということでしょう。

 話が少しだけ横にそれますが、私は、いつ読んでも、マルコによる福音書は、文章はとても簡潔なのに驚くほど的確に生き生きと情景を描きだしていることに感心します。

 この個所も例外ではありません。弟子たちをそばに呼んで、彼らの顔を見るイエスの、厳しいけれどもとても優しいまなざしや表情までありありと想像できるような気がします。

 イエスは弟子たちを身じかに来させて、優しく厳しく教えます。

 「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい。」

 これはとてもわかりやすい言葉ですから、その必要もなさそうですが、念のためにあえて少し解説をしましょう。

 「お前たちは、偉くなるということ、人の先に立つ、あるいは人の上に立つということは、人に自分の言うことを聞かせられるようになる、自分に仕えさせることができるようになることだと思っているけれども、ほんとうのリーダーというのはそういうものではないのだ。すべての人の後になる――英語にバックアップという言葉がありますが、すべての人のバックアップをする、人の後ろにまわって後押しをするのがほんとうのリーダーの仕事なのだ。人に仕えさせるのではなく、自分が人に仕えるのが、リーダーの役割なのだ」というのです。

 どうですか、これはまるで常識的ではありませんね。

 みなさんは、「ちょっと建前すぎる、理想的すぎる、綺麗ごとだ」と感じますか。

 どう感じるかはもちろん自由なのですが、ともかくこれがイエスのリーダー論です。

 そして続いてイエスは、象徴的な実例で教えます。

 すなわち、まだ人に仕えること・世話をすることなどできないどころか、世話をしてもらうばかりの小さな子供を抱き上げ、「イエスの弟子を名乗るのなら、子供の世話をする側にまわりなさい」と言うのです。

 世話をしてもらおう・仕えてもらおうとするのではなく、世話をする側にまわろう・仕えようという人生の姿勢になるのが、大人になるということであり、リーダー的存在になるということのほんとうの意味なのです。

 人の世話ができるようになる・人に仕える側になることこそ、ほんとうにイエスの弟子になるということであり、イエスの心を自分のものにする、イエスを受け入れるということです。

 そしてイエスの心を自分のものにするということは、ただイエスを受け入れるというだけでなく、イエスをこの世に送り出した存在――いつも言うのですが、それを神と呼ぶか仏と呼ぶか、あるいは大自然・宇宙と呼ぶか、呼び方はたいした問題ではありません。私たちすべてを生み出した私たちではない、私たちを超えた大いなるなにものか、Something Greatが存在することは事実だと思います――その私たちを超えた大いなるものの心を自分のものにする、受け入れるということだ、というのです。

 宇宙という言葉を使えば、宇宙の心・意志・志を自分の心・意志・志にすることこそ、ほんとうのリーダーになるということです。

 そして、そういうリーダー、リーダー的な大人がぜひとも必要な時代になっていると思います。

 そういうリーダーやリーダー的大人がいなければ、このままでは日本という国は滅びてしまうかもしれない、と私は深く危惧しています。

 そうならないよう、みなさんには、これからまた大学で学ぶことを通して、ぜひそういうリーダーあるいはリーダー的な大人になれるよう、自分を育てていただきたいと思います。

 新しい年の初めに、みなさんの大きな成長に大きな期待をしたいと思っています。

 ぜひ、期待させてください。



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大般若経の愉しみ 2

2010年01月05日 | 心の教育

 大般若経の六百巻というボリュームを読み続けることができたのは、一つには実にいろいろな気づきという愉しみがあったからである。

 例えば以下のような、ある意味でいえば大乗仏教の常識のような句からも気づきを得られた。


 若し菩薩摩訶薩、世世に一切の煩悩業障(ごっしょう)を遠離(おんり)し、諸法に通達し心罜礙(けいげ)無きを得んと欲せば、応に般若波羅蜜多を学すべし。
                               (大般若経初分学観品)

 もし菩薩大士が、世々に一切の煩悩やカルマの障害から遠く離れ、諸々の存在〔の本質〕に通じ、心を覆うものをなくしたいと望むなら、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである。


 それまでの仏教(部派仏教、大乗からいえば小乗)に対抗して大乗仏教が強調した人間像が、菩薩(ボーディサットヴァ、覚りを求める人)=大士(マハーサットヴァ、すべての人の救いを求める心の大きな人)である。

 もし菩薩が、前世で蓄積され現世へと伝わってきた煩悩・カルマの障害から離脱し、すべての存在の本質に通じ、明るい真理を見えなくさせ人生を真っ暗に見せる心の覆いを取り払いたいのならば、通常の分別的理性を超えた無分別の智慧の実践を学ぶべきだ、というのだ。

 つまりもっと平易で現代的な表現をすれば、もしかしたら遺伝的なものかもしれない、ついついすぐに悩んでしまうようなしつこい心の癖(ばらばらコスモロジー)をなくして、明るく悩みなく生きたいのなら、ふつうの知恵では足りない、もっと深い智慧(つながりコスモロジー)を学ぶべきだ、ということである。

 これは、まさにそのとおりと言うほかない。

 ところで余談のようだが読んでいてふと気付いたのは、上記のような「もし~ならば、~べきだ」という文章のパターンである。

 これは論理療法でいえば「条件付きmust」であって、裏返せば「もし~でないならば、~しなくてもいい」ということでもある。

 大乗仏教における「べき」は条件付きであって、強制的な義務ではないというところがとてもいい、と思う。

 仏教の話をすると、しばしば「悩みがあるほうが人間的でいいんじゃないですか?」という反論的疑問が出てくる。

 もちろん、もしほんとうに悩んでいるほうがいいと思うのならば、とりあえず智慧の学びはしなくていいわけだ。

 しかし、私は「ほんとうにほんとうだろうか?」と思うし、さらに「自分が悩むのはある意味で自由だけれども、人を悩ませるのは自由ではなく身勝手なのではないだろうか?」と思う。

 「煩悩」とは、自分の悩みというだけではなく、人を悩ませることをも意味している。

 人間が人間を悩ませ傷つけることのない世の中にしたいのならば(これも「ならば」という条件付きである)、やはり煩悩という心の悪い癖を治さなければ「ならない」のではないだろうか。


 若し菩薩摩訶薩、一切の煩悩の習気を抜かんと欲せば、応に般若波羅蜜多を学すべし。
                               (大般若経初分学観品)

 もし菩薩大士が、一切の煩悩の習気を抜きたいと望むならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである。


 自分をも人をも悩ませるという人間の心の性質(たち)の悪い癖は、心に染みついてなかなか抜き難い。

 その染みついて抜き難い心の癖を「習気(じっけ)」という。

 習気を心の奥底から抜き取り、心を根本的に浄化したいのならば、ふつうの知恵を超えた智慧を学ぶべきである、学ぶほかない、というのは、医療用語を借りれば「インフォームド・コンセント(情報提供をしたうえでの同意)」であって、強制ではないのである。

 大般若経の現代風にいうと第二章「学観品」には、こうした「もし~ならば、まさに般若波羅蜜多を学ぶべきである」という句がきわめて多数ある。

 この他にも心に響く句がいくつもあったけれども、今日はこのくらいにしておこう。




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大般若経の愉しみ 1

2010年01月04日 | 心の教育

 去年の春先、テレビで、『大般若経』全六百巻の百巻ずつが入った箱六つを棒につるして前後二人ずつ計十二人でかつぎ、集落の家々をめぐり、縁側から土足で座敷に上がって家の中を通り抜けて、一年の無病息災を祈るという年中行事が報道されていた。

 箱つまり『大般若経』の下をくぐると病気にならないと信じられていて、お年寄りだけではなく若い人もくぐっていた。

 心安らぐ「日本の原風景」の一つという感じがして、こういう習わしをまだちゃんと残している地方があるのだな、とうれしい気がした。

 今年もまた同じように続けられるのだろうか。

 ただ、失礼ながら、かついでおられた方もくぐっておられた方もその『大般若経』に何が書いてあるかはおそらくあまりご存知ないのではないかと思った。

 そういう私も、かつてはまったく知らず、去年の暮、約三年かけてようやく読了したところなのであるが。

 般若経典自体に、それを尊重するだけでも様々な利益があると書いてあるのだから、昔の善男善女が素直な心で信じたことに不思議はないし、また実際、いろいろ霊験あらたかな体験談も伝えられているようだ。

 先祖からの習わしを習わしとして伝えることも、とても大切なことだと思う。

 しかし、縁あって読む気になって読み進み、自分なりに理解できるようになると、これはただ習わしとしてかたちを伝えるだけでなく、やはり中味も読んで理解したほうがもっといい、ぜひそうすべきだ、『大般若経』はそれだけの大変な英知・真理の言葉が秘蔵されているすばらしい古典だ、と思うようになった(すでにおわかりの先達には笑われそうな再発見である)。

 『わかる般若心経』(水書坊、後『よくわかる般若心経』と改題しPHP文庫、現在絶版)の原稿執筆をきっかけに『金剛般若経』『善勇猛般若経』『八千頌般若経』(いずれも中公文庫に現代語訳あり)なども読み、おもしろい、というと適切ではないかもしれないが、大乗仏教空思想の深さ・すばらしさに改めてさらに興味が深まり、かなり長い『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳、昭和新纂国訳大蔵経)も半年以上かけて読み、その勢いで、あまりにも長いので一生読むことはないだろうと思っていた『大般若経』(玄奘訳、国訳一切経)もとうとう読む気になった。

 そして読みながら、読んでも読んでもちっとも終わらない、しかしおもしろくてしかたない、だからいつまでも終わらなくていいと思うような、大長編の名作を読んでいるような感銘を覚えながら、やがて結局読み終えた。

 最初の章(「初分縁起品」(しょぶんえんぎぼん)に、実に壮大で美しいシーンが描かれていたのを、私訳でご紹介してみたい。

 少し長いのだが、意識的にイメージしながら読むと、どこかの仏教遺跡の洞窟などにありそうな荘厳かつ絢爛豪華な壁画のような絵が心に浮かんでくるだろう。


 この時、世尊は獅子座におられ、光明はことさらすばらしく、威徳は堂々として、全宇宙(三千大千世界)およびその他あらゆる方向にあるガンジス川の砂ほどにも多い諸々の仏の国土、シュメール山、輪囲山など、およびその他の龍神の天宮あるいは浄らかな住まいの姿を覆い隠してしまうのは、あたかも秋の満月が星々を光で包んでしまい、夏の太陽の光が様々な色を奪ってしまうようであり、四つの大いなる宝に満ちた山々の王者妙高山が他の諸々の山に臨むとその威光が際立って勝れているようであった。

 仏は、神通力をもって元の目に見える身体を現わされ、この全宇宙の生きとし生けるものすべてがみなことごとく見えるようにされた。

 その時、この全宇宙の数え切れない数の清浄な住まいに住む天人たちから、下は欲望ある世界の四大王衆天たち、およびその他の人間や人間でないものたちまでみな、如来が獅子座におられて、その威光の輝くことは大いなる金色の山のようであるのを見て、歓喜し躍り上がり、かつてないことだと感嘆し、それぞれ種々無量の天の花、香り、髪かざり、塗る香料、焚く香料、粉の香料、衣服、飾りのついた冠、宝の旗、覆い、音楽、諸々の宝、および天の青い蓮の花、天の赤い蓮の花、天の白い蓮の花、天の香る蓮の花、天の黄色い蓮の花、天の真っ赤な蓮の花、天の金のなる樹の花、および天の香る葉、ならびにその他数え切れない水や陸に咲く生花を持って、仏のおられるところにお参りし、仏の上に撒き散らしてさしあげた。

 仏の神通力によってもろもろの花飾りなどが渦を巻いて舞い上がり合わさって花の台になった。

 その量は全宇宙に等しく、天の花の蓋いが垂れ下がり、宝の下げ飾りや宝石をちりばめた旗がめくるめくほどきらきらとして、実にすばらしかった。

 この時、仏の国土の荘厳な美しさはまるで西方の極楽世界のようであった。

 仏の光は全宇宙のすべてのものを照らし大空はすべて金色に染まった。

 あらゆる方向のガンジス川の砂ほどにも多い諸々の仏の世界もまたそのようであった。

 その時、全宇宙の仏の国土、その中の諸々の人々は、仏の神通力のためにおのおの仏が自分の真正面に坐っておられることを見て、全員がこう思った、

 「如来は、私一人のために説法してくださるのだ」と。

 そのように四大王衆天、三十三天、夜摩天、覩史多天、楽変化天、他化自在天、梵衆天、梵輔天、梵会天、光天、少光天、無量光天、極光浄天、浄天、無量浄天、遍浄天、広天、少広天、無量広天、広果天、無繁天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天も、また仏の神通力のためにおのおの仏が自分の真正面に坐っておられることを見て、全員がこう思った、

 「如来は、私一人のために説法してくださるのだ」と。


 シーンを鮮やかにイメージできて、色彩豊かなきらびやかさに幻惑され感嘆するかもしれないし、あるいは「こんな現実性のないたあいもない空想なんてなんの意味があるんだ」と思うかもしれない。

 読み方・感じ方は多様だろうが、筆者は、神話的表現方法をとおして語られている中味がより重要だと感じる。

 それは、誰にでも当てはまるという意味で「普遍的な」真理の言葉というものは、にもかかわらず、それを聴き理解しえた者にとっては、まるで「私のため、私一人のために語られた言葉」であるかのように感じられるということである。

 原漢文では「如来独り為に説法したまう」となっている。

 真理は誰にでも当てはまるはずのものだが、ただ平たく誰でもいい誰かに当てはまるというのではなく、誰でもない「他ならぬ私」に当てはまるもの、「かけがえのないこの私」にこそ当てはまるものでなければならない。

 特に宗教的真理はそうだ。

 外側のものごとに関する真理はともかく宗教的真理は、他と取替えのきかない他ならぬこの私すなわち「実存」に響いてくるものなのだ。

 よく知られている「みだの五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」という親鸞聖人の言葉もそのことを示している。

 鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』の序品にもほぼおなじようなシーンと言葉があり、いっそう端的に「仏独り我が為に法を説く。余人のためならず(仏はただ私一人のために法を説いてくださる。他の人のためではない)」となっている。

 しかし、あえて『大般若経』を紹介したのは、場面設定として、全宇宙に存在する神々や人間、その他数え切れない生きとし生けるものをあげながら、しかも「其の中の諸人、仏の神力の故に、各各に仏の正しく其の前に坐したまえるを見、咸(みな)謂(おも)えらく、如来独り為に説法したまう」といっているところが、表現として実に的確だと思うからだ。

 「空」や「般若波羅蜜多」というある種抽象的な概念ではなく、具体的な姿に現われた人格的な仏が、他の誰でもなく私という人格に、一対一で真正面から向き合ってくださり、聴衆一般でも他の誰でもなく私一人のために真理の言葉を語ってくださっている、とそれぞれ一人ひとり全員に感じられるのが、ほんものの説法が語られ、聴かれるということなのである。

 筆者も「大般若経独り占め」という気分で学びながら、やがて独り占めするのはあまりにもったいないという気がしてきて、人に紹介したくなった。

 これも、物書きのカルマというものかもしれない。




国訳一切経 (和漢撰述部 経疏部 17)

大東出版社

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菩薩の誓願

2010年01月02日 | 歴史教育

 飛騨という言葉には、魅力的な響きがあり、行きたいと思いながら、機会がなかった。

 ようやく昨年秋、思い立って取材と充電をかね、妻と二人で高山に行った。高山を選んだのは、飛騨国国分寺が残っていることも理由の一つである。

 空に関する自分の理解が正しいかどうかを確かめたくて、2006年から般若経典をいろいろ読んでいたのだが、不遜な言い方をするととても面白くて止まらず、2007年の正月にはとうとう『大般若経』六百巻を全部読もうという気になった。こんなやたらに長いお経をちゃんと読もうという気になるなど、まさに夢にも思っていなかった。

 毎日少しずつ読み、3年かけて昨年11月末ようやく終えたが、読めば読むほど、『大般若経』における菩薩という理想の美しさ、その深い意味がわかってきて、読み終えてしまうのが惜しいような気さえした。

 わかってくるにつれ、その具象化としての書写や大般若会そして国分寺の創建などもただの空虚な形式ではないと思うようになってきた。

 改めて学んでみると、大般若経を書写させたこと、大般若会を始めたこと、そして総国分寺としての東大寺の創建、諸国の国分寺の創建などなどはみな、聖武天皇が大乗仏教の説く智慧と慈悲を基礎に国づくりをしたいと願ったことの表われと解釈できるようである。

 今、国分寺も大般若経も大般若会も形としては残ってはいるし、まさにこの年越し―新年、行事として大般若会を行なっていた寺院も少なくないようだが、意味が忘れられていることが多いように思える。そして、意味がわかってくればくるほど、それは日本人にとってとても不幸なことだと思うようになった。

 しかし、「形骸化」などというネガティブな言い方はしない。たとえ意味が忘れられかけていても、形が残っているということは幸いなことだ。残っていればこそ、再発見することも再理解することも可能なのだから。

 私の理解では、聖武天皇は仏教の精神を日本全国に行き渡らせることによって、日本を平和で美しい国にしたいと願ったのだ。それは聖徳太子の志の継承でもある。

 もちろん古代の人だから、そこには、現代人から見ると呪術的な信仰もあっただろうし、御利益信仰もあっただろう。しかしそれだけではなく、続日本紀を読むと、聖武天皇や光明皇后、孝謙天皇などは仏教の思想についてかなり深い理解ももっていたようである。

 そうした理解と日本を平和で美しい国にしたいという深い思いが具象化したのが、大般若経の書写であり、大般若会であり、国分寺である、と思って見ると、それらがいっそう美しく見えてくる。

 飛騨国分寺の現在の建物は、昭和になってから再建されたものだそうが、三重の塔など、最近のものとは思えない古びた風格のある清々しい姿で立っていた。

 境内に残っている大きな銀杏の木は、樹齢千数百年のものだというから、創建当時に植えられたものだろうか。みごとな大きさでありながら、樹勢が盛んで、晩秋なのにとても若々しく瑞々しく繁っていて、木の下に立つと、抱かれ包まれているような感だった。

 その下で、お寺の奥さんが心を込めて落ち葉を掃いておられたのが印象的だった。

 




 本尊の薬師如来や円空作の弁財天なども拝観させていただき、すがすがしい気分で門を出ると、門前に円空彫りの店があったので、入ってみると、ただのレプリカとは思えない、なかなかいいものがあった。

 あれこれと見ているうちに、笑顔の薬師さまに会った。これまでのご縁からすると観音さまのようにも思ったのだが、なぜか今回は「このお薬師さまを家にお迎えしよう」という気になって、買い求めた。

 家に帰ってお祀りしてから、これもご縁だと思って、まだ読んでいなかった『薬師経』、正式には『薬師瑠璃光如来本願功徳経』を読んでみた。

 そこには、薬師如来がまだ菩薩であった時に立てた「十二大願」が記されていて、薬師信仰の意味がわかったような気がした。ここでも、言うまでもないが大乗仏教の目指すものは「智慧と慈悲」なのである。

 例えば第三大願は「私が来世に覚りを得た時には、量りしれず極みのない智慧の方便をもって、心ある生きもの(有情)が必要とするものを限りなく得られ、生きとし生けるものが貧しく足りないことがないようにする、と誓願する」というものである。

 また第七大願は「私が来世に覚りを得た時には、もし心ある生きものがもろもろの病に苦しめられ、救いがなく、頼るものがなく、医者がおらず、薬がなく、親がなく、家がなく、貧窮して苦しみが多かったら、私の名号とお経を耳にしただけで、もろもろの病はことごとく除かれ、身心が安楽になり、家や必要なものがことごとく豊かに足りて、その上でこの上ない覚りを得られるようにする、と誓願する」というものである。






 今の我々にとって、「薬師信仰」とは、そうした薬師如来の本願の功徳にすがりあずかろうとするだけでなく(もちろんそれも悪くはないが)、薬師如来が菩薩であった頃の本願を菩薩たりたいと思っている自分自身の願とすることでもなければならない、と思う。

 まだ本格的なものを買っていないのだが、我が家の仏壇的スペースの中央に、そのお薬師さまが本尊風にお立ちになっていらっしゃる。朝夕に手を合わせると、清々しい気持ちになれるのはありがたいことである。

 今年も、文字通り及ばずながらとはいえ微力は無力ではないので、四弘誓願を自らの願として過ごしたいと思っている。


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