今日のことば 20: 子どもたちが病気にならないように予防すること

2008年08月25日 | メンタル・ヘルス

 数日前から、ようやく本格的に『仏教とアドラー心理学』(仮題、佼成出版社より今秋刊行予定)の仕事(ワーク)にかかっています。

 構想はすっかり出来ていますし、ベースとして『サングラハ』に掲載した講義録もあり、夏休みの初め頃から、ぼつぼつ、断続的にやってはいるのですが、身の周りで優先しなければならないことがいろいろ起こり、なかなか集中できなかったのです。

 ホフマン『アドラーの生涯』(岸見一郎訳、金子書房、2005年、7400円)という分厚い伝記を参照して講義原稿の伝記的な部分に手を入れる作業をしながら、以下のアドラーの言葉を読んで、アドラーのアイデアがいかに先駆的であったか、改めて感心しています。


 「病気の子どもたちを治療することではなく、健康な子どもたちが病気にならないように予防することが、医学の論理的で高貴な挑戦である。」(アドラー「教育者としての医師」、1904年)


 これは、1904年、100年以上前の論文です。

 子どもたちの心の病・荒廃に対して、日本は100年以上遅れているのではないか、と思ってしまいました。

 相も変わらぬ、断片的な知識の詰め込み、受験競争、「意図しない、しかし必然的な結果」としての劣等感、自信喪失、落ち込み、社会への怒りと敵意等々を抱いた若者の大量生産……掛け声だけは「教育改革」……、あーあ。

 これは、翌1905年のアインシュタイン・一般相対性理論の持つ意味――エネルギー・レベルで見ると宇宙のすべては一体であるということ――が、日本の子どもたちに標準的な「普通教育」として伝えられていないことと対応しているように感じます。

 もっとも2500年前のゴータマ・ブッダの「縁起の理法」の教えが人類の標準的常識になっていないのですから、100年くらいの遅れなど、驚いたり、嘆いたりするには当らないのかもしれません。

 今度の本では、縁起の理法とアドラーの「共同体感覚」そして「勇気づけ」を統合的に理解し、現代人のための方便として使うといいのではないか、という提案をしたいと思っています。

 提案が日本の仏教界、心理学界、教育界などに本格的に受け容れられるには、まだまだ時間がかかりそうですが――前著『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』への反応を見ていてもそう思われます――宇宙にはたっぷり時間があるので、焦らないことにしています。




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今日のことば 19: 死―熟したオリーヴの実が大地に帰るように

2008年08月22日 | 生きる意味

 死とは誕生と同様に自然の神秘である。

 同じ元素の結合、その元素への〔分解〕であって、恥ずべきものでは全然ない。

 なぜならそれは知的動物にふさわぬことではなく、また彼の構成要素の理法にもふさわぬことではないからである。

                            (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章5)


 君は全体の一部として存続して来た。

 君は自分を生んだものの中に消え去るであろう。

 というよりはむしろ変化によってその創造的理性の中に再び取りもどされるのであろう。

                            (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章14)


 要するに人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるかを絶えず注目することだ。

 昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。

 だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。

 あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。


                           (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4章48後半)



 私たちが死者を送る時、しばしば自分を「まだ死んでいない(当分は死なない……あたかもいつまでも死なないかのような)者」と感じていますが、しかしそれだけでなくほんとうには「やがて必ず死ぬ者」です。

 死・いのちの有限性を想うことはおそろしいことでもありますが、それゆえにこそいのちの大切さを感じることにもなります。

 さらに深く観想をするならば、死は元に帰ること、コスモスへの帰還であると考えることができるようになります。

(曹洞宗などでは最近なくなった方のことを「新帰元」と表現するようです)。

 そして、そのコスモスこそ大いなる真実の自己なのです。

 コスモスへ帰ることを熟したオリーヴの実が落ちることに譬えた自省録の文章は、とても美しいですね。

 ただ私はアウレーリウスと違って、幸い大乗仏教やフランクルの実存分析や現代科学のコスモロジーを学ぶことができているので、「人間に関することはすべていかにかりそめでありつまらぬものであるか」とは考えません。

 有限の人生において、このコスモスに他のだれでもなく自分にしか生み出せないものを新たに生み出すこと、自分固有の深い感動体験をすること、そして自分にしかできない高貴な生き方・態度を表わすこと、コスモスの自己認識器官としてコスモスを認識し、自己感動器官として感動し、なによりも自己覚醒器官として覚醒してから、このかたちとしての身心から解脱してコスモスとふたたび同一化すること・涅槃が、生と死の意味だと考えているからです。

 かりそめでありつつ、きわめてすばらしい開花と豊かな結実の後で大地に帰る草木に譬えることができるかもしれません。



自省録 (岩波文庫)
マルクスアウレーリウス
岩波書店

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今日のことば 18: 消滅と新生

2008年08月20日 | 生きる意味

 あらゆる体は宇宙全体の物質によってあたかも奔流に流さるるがごとく運び去られ、「全体」に結びつき、我々の四肢が互いに協力するようにこれと協力する。

 何人のクリュシッポス、何人のソークラテース、何人のエピクテートスを時がすでに呑みつくしてしまったことであろう。

いかなる人間についても、いかなる事柄についても、このことを思い起こせ。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章18)


 宇宙を支配する自然はすべて君が見るところのものを一瞬にして変化せしめ、その物質から他のものをこしらえ、更にそれらのものの物質から他のものをこしらえ、こうして世界がつねに新たであるようにするのである。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第11章25)


 遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。

 また君の現在見る人びとも、現在生きている人びとも同様である。

 すべては生来変化し、変形し、消滅すべくできている。

 それは他のものがつぎつぎに生まれ来るためである。

                              (マルクス・アウレーリウス『自省録』第12章21)



 消滅・死は自然なことであり、それは新しい他のものがつぎつぎに生まれてきて、世界が常に新たであるためである、とアウレーリウスは自分自身に言い聞かせています。

 死をそういうものとして捉えることができれば、私たちは生だけでなく死をも含むほんとうの生というか、生死を根源的に肯定することができるでしょう。

 死を恐れないだけでなく肯定することさえできるとは、なんと深い境地でしょうか。

 まさに不動心(アパティア)です。

 (↑ストア派哲学ではふつう「アパティア」なのですが、アウレーリウスは「アタラクシア」という言葉のほうを使っているようです。補足・訂正します。)




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我は幻の如く夢の如し

2008年08月19日 | いのちの大切さ

 まだ若いいとこがガンで亡くなり、お別れに行ってきました。

 ちょうど五十歳、本人も「人生五十年か……」と言っていたそうです。

 短いけれど密度の濃い充実した人生を送ったようです。

 しかしやはり、遺された者には、惜しい、悲しい、どうしてこんな若さでという想いがあります。

 死に顔を見ながら、『摩訶般若波羅蜜経』の「幻聴品(げんちょうぼん)」の言葉を思い出していました。


 〔実体としての〕自我は幻のようであり夢のようであり、生きものというのも知る者も見る者もまた幻のようであり夢のようである。……物質的現象は幻のようであり夢のようであり、感受、想念、意思、思考は幻のようであり夢のようであり、眼から意識に至る接触という因縁から生まれる感受は幻のようであり夢のようであり、布施という修行から智慧という修行に至るまで幻のようであり夢のようである。……仏道は幻のようであり夢のようである。

 我は幻の如く夢の如し、衆生乃至知者見者も亦幻の如く夢の如し。……色は幻の如く夢の如く、受想行識は幻の如く夢の如し、眼乃至意触因縁生の受は幻の如く夢の如く……檀那波羅蜜乃至般若波羅蜜は幻の如く夢の如し。……仏道は幻の如く夢の如し。


 かたちあるこの身心のいのちが実体ではなく有限であることを、死者から改めて学ばなければならない、と思いました。

 「幻の如く夢の如し」ということが、決して空しいことではなく、だからこそ執着することなく爽やかに生きて爽やかに死ぬことのできる根拠であることを、どのくらい自分自身の坐りとして、生き死にすることができるか。

 帰宅してから、鎮魂の想いを込めて静かに坐禅をしました。




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花とエレガント化するコスモス

2008年08月18日 | メンタル・ヘルス

 講座の参加者のみなさんと大船フラワーセンターに行きました。

 やや花の少ない時季でしたが、それでも実に多様な花があって、改めて生命の多様性・豊かさを感じました。










 花を見ながら、参加者の一人が「エレガント化するコスモスですね」と言いました。

 様々な花を見ながら、花がなかった地球から花が咲き始めた地球への進化は、まさに「エレガント化するコスモス」だと思ったことです。



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終戦の詔

2008年08月16日 | 歴史教育

 昨日、終戦・敗戦記念日にちなんで、ネット検索して「終戦の詔」をきちんと読み直しました。

 訳文を借りると、最後のところで昭和天皇は、「そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。汝ら臣民、以上のことを余が意志として体せよ。」と国民に語りかけています。

 原文は難解であり、しかもラジオの音が悪く、ほとんどの国民には内容はまったくといっていいほど伝わらなかったでしょうし、いまだに伝わっていないようです。

 リンクした記事には、全面的ではありませんが、半分くらい共感できるところがありました。

 確かに、戦後の日本国民は、経済的面で「世界の進む道におくれを取らぬよう心がけ」、それなりに成功はしてきたわけですが、「道義を重んじて、志操を堅固に保ち、誓って国体の精髄と美質を発揮」することは、ほとんど置き去りにしてきたのではないでしょうか。

 「国体」というとそれだけでアレルギーを起こしていた頃と違い、これは「国家と国民のアイデンティティ」と言い換えれば、否定するどころかぜひ再構築しなければならないことだ、と理解できます。

 そして、日本の国体とは絶対化された天皇制のことなどではなく、聖徳太子「十七条憲法」に成文化された「和の国日本」という国家理想でなければならない、と私は理解しています。

 「終戦の詔」の中から、受け取るべき・受け継ぐべきメッセージはちゃんと読み取りたい(もちろん無批判に盲信する必要はまったくありませんが)と思いました。




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今日のことば 17: 剣をとる者は

2008年08月15日 | 歴史教育

 終戦・敗戦の記念日です。

 すでに書きましたが、自分が直接体験したのではないにもかかわらず、まるで体験したかのように感じていて、原爆、戦争は私の思想的探究の原点です。

 ですから、今日は改めて原点を確認する日です。

 特に次の新約聖書・マタイによる福音書第26章52節を読み直しました。


  剣をとる者はみな、剣で滅びる。

 
 長い歴史のインターバルで見れば、これは確実です(ゲームの理論でも証明されているようですが)。

 なのに、依然として多くのリーダーはこの警告を聞こうとしません、きわめて残念ながら。

 キリスト教国アメリカの首長でさえ。

 そして、まれな例外がプロテスタント・キリスト教の国スウェーデンであったことに、改めて驚きと敬意を感じています。

 ちなみに、ポツダム宣言の受諾は、スウェーデン、スイスを通じて連合国側に伝えられたのだそうです。



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エネルギーは実体か?

2008年08月14日 | 心の教育

 過去の記事「この世界には実体は存在しない:諸法無我」(2005.12/25)に対して、最近、以下のようなコメント・質問をいただきました。

エネルギーは実体ですね。
「実体」の3条件
①それ自体で存在することができる。
②それ自体の変わることのない本性・本質をもっている。
③いつまでも・永遠に存在することができる。
を満たしているから。そうすると、私や、色々な物体もエネルギーという実体を抱えている(エネルギーの塊)から空ではないのでないでしょうか。お釈迦様の時代には、"エネルギー不変"という概念は無かった(そんな科学が無かった)から止むを得ないと思います。
でも、未だに「すべての存在は非実体である」と言うのはおかしいのではないでしょうか。勿論、質量もエネルギーの一種です。又、エネルギーは形式を変え、分散したり、集中したりします。でもトータルのエネルギー量は変わりません。私はお釈迦様の教えは正しいとおもいつつ、この事で非常に悩んでいます。良きご指導のほどをお願いします。(後略)

 それに対して、コメント欄にはまず以下のように書かせていただきました。


 とても重要なご質問有難うございました。
 とても重要なので、ご質問をその答えを読者のみなさんと共有したく、本文記事でくわしくは書かせていただきます。
 ただ一つだけ、ここでお答えしておきますと
 阿含経などを読んでみても――私の解釈では――仏教においては教えはどこまでも方便だ、と思います。
 それは、「縁起」や「空」といった仏教の基本的教えでさえそうだと思われます。
 ですから、とりあえず空というコンセプトが私たちの知るかぎりのほとんどすべてに当てはまるということで納得し、後は空体験をしてマナ識、アーラヤ識の浄化を進めていく、という修行実践にとりかかることが肝要かと思いますが、いかがでしょうか。


 しかし、私の考えをもう少し詳しく書かせていただき、読者のみなさんと共有したほうがいいと思いましたので、続きを含め記事欄にしました。

 ゴータマ・ブッダの教えの基本線は非常に妥当性が高いと思いますが、ご指摘のとおり、現代のような科学が――自然科学だけでなく、社会科学も人文科学とりわけ心理学も――なかったのですから、足りないところがあって当然です。

 ですから、ブッダの教えと現代科学の理論が万一矛盾したとしても、あまり悩まれる必要はないのではないか、と思いますが、いかがでしょう?

 私たちは、「多くの聖者・賢者が絶対に正しいことを知っていて、それを私たちに教えてくれる。その結果、私たちも絶対に正しいことを知っている人間になれる」ということを期待しがちですが、そういう姿勢は必然的に「~原理主義」に陥って、独善性・排他性を生み出すので、何教、何主義にかかわらず「原理主義」は避けたほうがいい、と私は考えています。

 しかしそれはそれとして、エネルギーは「実体」ではないのか、という問いは理論的にはとても重要だと思いますので、私の考えを書かせていただきます。

 私の知るかぎりの現代科学の考え方では、宇宙はただ一つのエネルギーの塊である以前は物質でも空間でも時間でも、エネルギーでさえない時があった、その状態はもはや「無」と呼ぶほかない(ビレンキンの説)ということになっているようですから、その無から――それとの関わりで――創発したという意味で縁起的であり(①の否定)、無だったものがエネルギーに変化したのですから変わらない本性はなかったというべきでしょう(②の否定)。

 ですから、エネルギーも「実体」とは言い切れないのではないでしょうか。

 ただ、最近の宇宙膨張の観測によれば、私たちのこの宇宙はほぼずっと拡大しつづける――永遠に?――ということになったようですから、無だった過去はともかく未来に向かってはずっと存在するのかもしれませんから、③は当てはまる?ような気もしますが、しかし薄くなり続けるのですから、やはり無常といったほうがよさそうです。

 お答えになったでしょうか?

 さらにしかし元に戻ると、ブッダにとって、仏教にとって、私たちにとってより重要なのは、縁によって生まれてきた形あるさまざまな存在(諸法)、特に私たち人間のこの体と心の形が「空」であり、ということは、すべて形ある存在は実はつながりあっていて一つであるということであり、さらに私たちがそういう言葉で表現されたことそのものを言葉を超えて直接体験することによって、安らかな心になり、他者と自己とが区別はできても分離していないことに気づいた柔らかな心になることだ、と私は捉えています。

 もしすでに修行をしておられるようでしたら、ぜひ理論に滞らず、行を深めていただきたいと思いますし、まだでしたら、よき師を求めて修行をお始めいただけるようお祈りしております。




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盂蘭盆

2008年08月13日 | いのちの大切さ

 山梨では昨夜あたりから虫が鳴きはじめました。

 今日から盂蘭盆です。

 先祖・死者のいのちと心と私たち・生者のいのちと心とのつながりをしみじみと思い出す季節です。

 夜、甥たちと迎え火を焚きました。

 日本人としていつまでもこの美しい習俗を伝えていきたいものだと思います。



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夏の朝の花

2008年08月12日 | いのちの大切さ


 かみさんの実家のあたりは野の花の多いところで、帰るといつも近所を散歩します。

 今朝も、近くの道端にツユクサが咲いていました。

 ありふれた花ですが、朝露に濡れた様子がまさに「露草」で可憐そのものです。

 こんなふうな、平凡だけれども、可憐でけなげな野の花のような美しさは、日本ではいまや絶滅危惧品種になりつつあるなあ、と余分な連想をしてしまいました。



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夏の花

2008年08月11日 | いのちの大切さ


 ノウセンカツラの艶やかな花が暑い日盛りに咲いていました。

 残暑の厳しいお盆時です。

 いのちについて、いろいろなことを感じ、考えさせられる季節です。



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今日のことば 16: 不動心(アパティア)

2008年08月10日 | 心の教育

 あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。

 同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。

                       (マルクス・アウレーリウス『自省録』第4巻44、岩波文庫)



 アウレーリウス、ストア哲学の探求した「不動心(アパティア)」というのは、原語でいえば「アパティア」つまり過剰な感情に陥らない、激情から解放されているということで、何の感情もないということではありません。

 「春の薔薇」、「夏の果実」という表現には、むしろアウレーリウスの豊かな感性が感じられます。

 そういう意味でのアパティアは南泉和尚の「平常心」とも通い合うものがあるような気がします。

 (↑ストア派哲学ではふつう「アパティア」なのですが、アウレーリウスは「アタラクシア」という言葉のほうを使っているようです。補足・訂正します。)



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第27期オープンカレッジ案内

2008年08月09日 | Weblog


       第27期オープンカレッジ



 政治、経済、外交、福祉、医療、教育、そして何よりも環境対策について、日本という国の混迷・迷走はますます激しくなっています。

 私たちの国は、これからどこに行ってしまうのでしょうか? 流れに任せたままでいいのでしょうか? 

 私たちはそうは考えません。どこに行くか、ではなく、どこに向かわせたいのか、向かわせるべきなのか、はっきりした見通し―主張があります。

 この秋のプログラムとしては、日本人の精神性の原点である大乗仏教をさらに原点に遡って学ぶ講座の継続に加え、その大乗仏教を日本に導入し、「神仏儒習合」というかたちで日本国の精神性の礎を据え、我が国が目指すべき到達目標・国家理想を高々とかかげた聖徳太子の「十七条憲法」の現代的な意味を読み取る講座を設けました。

 この2つの学びを通じて、私たちは日本の出発点・原点と向かうべき目標をはっきりと摑むことができるのではないかと考えていますが、とはいっても、あくまでも一つの提案であることも自覚しています。

 どうぞ、参加して、ご一緒に検討しませんか。


●火曜講座は、秋以降の主幹のスケジュール過密のため、残念ながら、当分、休止させていただきます。



●木曜講座:「『十七条憲法』と緑の福祉国家――日本の原点と目標」

                 於サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                 9/11, 10/9, 23 11/13, 20 12/11, 25  木曜日18:45-20:45 全7回 


 聖徳太子「十七条憲法」は、日本初の憲法であり、日本が国を形成しつつあった時代にいわば「国のかたち」、国家建設の目標、国家理想を明文化したものでありながら、第一条の冒頭「和を以って貴しとなす」以外、その本当の内容は国民一般にはあまり知らされてきませんでした。

 加えて最近の歴史学者による「聖徳太子不在説」の流行もあって、ますます印象が薄くなっているようです。

 しかし、よく読みなおしてみると、そこには現代にも、いや現代にこそ通用するすばらしい国家建設の目標・国家理想が高々と謳いあげられていて、感動的です。

 その理想は、保守・右か、革新・左かといった不毛な対立を超える普遍性をもっていると思われます。

 本講座では、ただ条文の解釈をするにとどまらず、それを現代のものとして読み直すと、必然的にスウェーデンの目指す「緑の福祉国家」というヴィジョンと重なってくることを明らかにし、その妥当性について参加者全員で討議・検討をしていきたいと思っています。


テキスト:岡野守也『聖徳太子『十七条憲法』を読む』(大法輪閣)
*ミーティング・ルームでお頒けすることができます。



 ●金曜講座:「般若経典に学ぶ2――『善勇猛般若経』続」

                  於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分) 
                  9/12, 26 10/10, 24 11/14, 28 12/12, 19 金曜 18:30-20:30 全8回

 紀元一世紀前後、それ以前の派を「小乗」、自らを「大乗」と呼ぶ仏教の新しい潮流が興り、自分たちこそ釈尊の真意・深意を伝えるものだという自覚によって『般若経』と呼ばれる経典群が新たに多数書かれたといわれています。

 日本の仏教が「大乗仏教」であることは知られていますが、その教えの中身については必ずしもよく理解されていないようです。

 本講座では、その中でももっとも後期に属しもっとも発展した内容を持つといわれる『善勇猛般若経』を通して、大乗仏教の教えの基本を確認する学びを続けています。

●講義の前に30分ほど坐禅を行います。

テキスト:現代語訳と漢訳を対照したコピーを配布しますが、書籍としては
『大乗仏典 般若部1』(中央公論社、文庫本は新刊、単行本は古書で入手可)



●受講料は、一回当たり、一般3、5千円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。

●いずれも、申し込み、問い合わせは サングラハ教育・心理研究所・岡野へ、E-mail: okano@smgrh. gr. jp 
 または Fax.0466-86-1824で。

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前向きな一日

2008年08月08日 | 持続可能な社会

 今日も暑い一日でした。

 街灯が明るいので一晩中油蝉が鳴いています。

 クーラーを使っていない我が家は、今夜も少し寝苦しいかもしれません。

 しかし昼間、暑さにも負けず、郵便物や後回しになっていた事務仕事の片付けをしっかりやりました。

 ただ、『仏教とアドラー心理学』は――構想も材料もしっかりあるのですが――まだ、少ししか書けていません。

 そろそろ本格的に書き始めよう、と思っています。


 ところで、昨日お目にかかった二人に、昨夜お礼のメールをしたところ、今日早速、きわめて前向きのお返事をいただきました。

 これは、ビッグ・ニュースの始まりになるかもしれません。

 これをきっかけに「持続可能な国づくり」の運動が大きく前進するかもしれないからです。

 読者のみなさんも、コスモスの進化の流れへの参加の一環として、持続可能な国づくりに参加しませんか。




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持続可能な社会へさらに一歩

2008年08月07日 | 持続可能な社会

 今朝、東京田町まで出かけて、『持続可能なまちは小さく、美しい』の著者お二人とほんの一時間あまりでしたが、お会いしてきました。

 お一人は、お送りしたパンフレット「日本も緑の福祉国家にしたい」「持続可能な国家のビジョン」「持続可能な社会の条件」「コスモス・セラピー」すべてを読んで下さっていて、きわめてよく理解・共感してくださっていました(たぶん、私の感じでは)。

 もうお一人は、お忙しくてまだだとのことでしたが、「直観的におなじことを考えていることはわかる」とのことでした。

 ぜひお読みいただいて、大まかな路線に合意をしていただけたら、ぜひ提携ないし合流をしたい、と申し出ておきました。

 おそらく、実現すると思います。

 実現したら、これはまた大きな前進になるはずです。

 これまでは、学者の方に加わっていただいているのみで、現場の政治に取り組んで成功しておられる方はまだでした。

 持続可能なまちづくりを実践しておられる政治家の方 1) 2) が加わってくださると、具体性・説得力が倍増します。

 まだもちろん確定ではありませんが、確かな感触をつかんできました。


 面談が終わって大船に引き返し、曹洞宗のお寺の大施餓鬼会の法話を「布施の心」という題でしてきました。

 檀信徒のみなさんと、一体感を感じることのできる、楽しい学びの時間でした。

 今日は、今日の仕事の報告だけで終わりにさせてください。



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