誠実さがすべての根本である:十七条憲法第九条

2007年02月27日 | 歴史教育


 「信」は、儒教では5つの基本的徳目、仁・義・礼・智・信の1つです。

 仏教では、心の善の働きの第一にあげられています。

 第九条の「信」は、まず儒教的な意味で語られています。

 群臣・官僚・リーダー同士での誠実さに基づく信頼関係という意味です。

 自ら省みて恥じるところがなく、他に照らしても恥じるところがなく、そして天の声を聴いても間違いないと思われる態度のことを「信・誠実」といいます。

 太子は、あらゆる事にそういう信の態度をもって臨むように、といわれます。


 九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん。群臣信なきときは、万事ことごとくに敗れん。

 第九条 誠実さは正しい道の根本である。何事にも誠実であるべきである。善も悪も、成功も失敗も、かならず誠実さのあるなしによる。官吏たちがみな誠実であれば、どんなことでも成し遂げられないことはない。官吏たちに誠実さがなければ、万事ことごとく失敗するであろう。


 いうまでもなく、「隠れてやってバレなければ平気だ。隠れてうまくやったものの勝ちだ」という考え方は、信の真っ逆さまです。

 誠実さがなければ、ついそう考えて悪に走る、というのは当たり前のことです。

 しかし、太子は誠実さは善悪だけではなく、事の成否をも決めるのだ、といっておられます。

 誠実でなくても短期間なら人をだまし世をあざむいてうまくやる、つまり個人的に成功することはできます。

 しかし、人も世も中長期だまし通せるほど甘くはないのではないでしょうか。

 誠実でない人は、結局人との持続可能な信頼関係を形成できません。

 他者の持続的な協力なしには、大きな事は成功しません。

 他者の持続可能な協力を得るには、持続可能な信頼関係を確立しなければなりません。

 まして「和の国・日本」の建設というきわめて困難な大事には、リーダー間の深い信頼関係が必須です。

 そのためには、各人に深い誠実の心が必要なのです。

 信=誠実と信頼関係――実はこれは人間同士だけではなく、人間を超えた大いなる何ものか(神仏・天)との関係にも言えることで、仏教的な意味も含まれていると思います――があれば、「何事か成らざらん」、どんな困難なプロジェクトでもきっと成功する。信がなければ、必ず失敗する。

 この「何事か成らざらん」という言葉は、第一条にあった言葉の繰り返しで、つまり十七条のちょうど真ん中・核心にあたる部分で、もう一度強調されているのだ、と理解していいでしょう。

 「和の心、信の心をもって当たれば、どんな困難なことも実現可能である」というのが太子の信念であり、千四百年を経た今でも響いている日本国民へのメッセージなのではないでしょうか。

 そのメッセージを聴き取れるかどうかに日本の将来がかかっている、と私には思えてなりません。



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大般若経の深い一節

2007年02月25日 | 心の教育

 全六百巻という『大般若経』を読む気になって、少しずつ読み進めています。

 当たり前といえば当たり前ですが、あちこちに実に深いことが語られています。

 
 一箇所、ご紹介したくなりました。


 通達(つうだつ)とは謂ゆる能く遍(あま)ねく所有(あらゆ)る縁起を知るを言う。諸縁に由るが故に諸法起ることを得。故に縁起と名づく。

 是の如き縁起は都(すべ)て所有(しょう)無し。是の如きを名づけて縁起に通達すと為す。即ち此れを名づけて遍ねく縁起を知ると為す。謂ゆる能く如実に起る無きを顕示し、起る無きを以ての故に説いて縁起と名づくるなり。

                                    (大般若経第十六般若波羅蜜多分之一)


 〔覚りに〕通達するというのはいわゆるあらゆる縁起を知ることができることを言う。さまざまな縁によってさまざまな存在は生起することができる。それゆえに縁起と呼ぶ。

 こうした縁起にはすべて実体性はない。こういうのを縁起に通達すると呼ぶ。すなわちこれを縁起を知り尽くすと呼ぶのである。いわゆるありのまま実体として生起することがないことを明らかにし、生起することがないのを〔あえて〕縁起と呼ぶのである。



 今夜は、「持続可能な緑と福祉の国・日本をつくる会」のミーティングで遅くに帰ってきたので、解説は明日にでも書き足すことにして、ご紹介だけしておきます。

 ……と書きましたが、昨日(26日)は片付けなければならないことがいろいろあって、書けませんでした。

 「通達」というのは、覚るということです。

 覚るというのは、あらゆるもの(諸法)が他との関係によって生起すること(縁起)を知ることです。

 とはいっても、私たちが常識的な考え方(分別知)で聞くと、やはりまずそれぞれのものがそれ自体で存在していて、それらが関係して何かが起こる、という話だと誤解しがちです。

 そこで、それぞれのものはもちろん、縁起そのものもそれ自体で存在するもの=実体ではない(つまりである)と注意を促します。

 ありのままの現実の世界は、現象としては関わり合いながら生起しているけれども、実体としては生起しないことを、「縁起」というのです。

 「それにしても深い把握だなあ」と感嘆しながら読み直しました。
 



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マルクス・アウレーリウス『自省録』の復刊

2007年02月24日 | 心の教育
 新聞広告で、しばらく品切れになっていたマルクス・アウレーリウス『自省録』(岩波文庫)が改版されて復刊されたことを知りました。

 品切れ期間中、みなさんにお勧めしても他の翻訳しかなく、私としては岩波文庫の神谷美恵子訳がとてもいいと思っているので、残念に思っていました。

 そして、「これだけの名著をどうして品切れにするのだろう」と思っていたのですが、改版するために時間がかかったということのようです。

 手元にあるのは、2度目に買った昭和50年の第22刷で、もう紙が焼けて黄ばんでいるというよりは褐色がかっています。

 今日、ぴかぴかの新本になった新しい版を書店で見て、「古いほうもずっと読むだろうけれど、こちらでもう一度読み直すのも悪くないな」と思って、早速買いました。

 帰りのバスの中で、次のような個所をまた新鮮な感銘をもって読み返しました。


 神々のわざは摂理にみちており、運命のわざは自然を離れては存在せず、また摂理に支配される事柄とも織り合わされ、組み合わされずにはいない。すべてはかしこから流れ出るのである。さらにまた必然ということもあり、全宇宙――君はその宇宙の一部なのだ――の利益ということもある。しかし自然のあらゆる部分にとって、宇宙の自然のもたらすものは善であり、その保存に役立つものである。宇宙を保存するのは元素の変化であり、またこれらによって構成されるものの変化である。

 もし以上が信条(ドグマ)であるとするならば、これをもって自ら足れりとせよ。書物にたいする君の渇きは捨てるがいい。そのためにぶつぶついいながら死ぬことのないように、かえって快活に、真実に、そして心から神々に感謝しつつ死ぬことができるように。(第2章3、改行は筆者)


 前半は、みごとなつながりコスモロジーの古典的表現で、「元素」を「宇宙エネルギー」と置き換えれば、後はまったく異議なしです。

 そして、後半、「全宇宙――君はその宇宙の一部なのだ……自然のあらゆる部分にとって、宇宙の自然のもたらすものは善であり、その保存に役立つものである」という「信条……これをもって自ら足れりとせよ」と、知ることよりも使命を果たしながら生きることに重点を置くという決心を新たにしているところに、感動を覚えます。

 まちがいなく非常な本好きだったアウレーリウスが皇帝としての忙しい仕事・使命を果たすために、書物にたいする「渇き」とまで表現される執着を本当は捨て切れないのに何とか捨てよう、断念しようとしていることがうかがわれて、先日不徹底に蔵書整理をしたものの、まだまだ執着を捨てきれない人間としては、深く深く共感する個所です。




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民のために働き続ける覚悟を:十七条憲法第八条

2007年02月21日 | 歴史教育


 本(『聖徳太子『十七条憲法』を読む』大法輪閣)でも書きましたが、実のところ、この第八条は全十七条の中でもっともうまく読み取れないところでした。

 一読すると、まるで「役職はサービス残業当たり前」という話のように感じられるからです。

 人間を大切にする心を持っておられる太子も、さすがに勤務時間に関しては労働基準法のない時代の意識しかなかったのかな、と。


 八に曰く、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。公事盬(いとま)なし。終日(ひねもす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝(まい)るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(まか)るときはかならず事尽くさず。

 第八条 もろもろの官吏たちは、朝早く出仕し夕方遅くに退出せよ。公の仕事には油断する暇はない。一日すべてでも終わらせがたい。だから、朝遅く出仕するならば、緊急のことに間に合わない。早く退出するならば、かならず仕事を成し遂げられなくなるだろう。


 しかし、繰り返し全条を読むうちに、この条は例えば第五条の「それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。…ここをもって、貧しき民は所由(せんすべ)を知らず」や、第六条の「人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。…民に仁なし」、そして直前の第七条の「それ賢哲、官に任ずるとき…官のために人を求む」といった文脈で、菩薩的リーダーへの勧告として読む必要があることに気づきました。

 菩薩の衆生への慈悲、士大夫(したいふ、儒教でいうエリート、士・さむらいの語源の一つ)として民への仁を志とした人間にとっては、生きることは使命を果たすことであって、楽をすることやもうけることや地位を得ることのためにあるのではありません。

 そういう意味で、生きることは働くことなのです(それはもちろん過労死しない程度の最小限の休養も必要ないということではないでしょうが)。

 さまざまな苦しみ・問題を抱えている数え切れない数の民たちのための公・大きな家の仕事には、切りも終わりもありません。

 「終日(ひねもす)」、朝早くから夜遅くまで一日中取り組んでも、まだ時間が足りません。

 まして、朝気の向いた時間にゆったりと出てきたり、気が向かないから夕方早く帰ってのんびりしようなどと思っていたのでは、民たちのための緊急の「事」・事態への対応がどんどん遅れ、手遅れになりかねません。

 可能なかぎり、力の及ぶかぎり働き続ける覚悟がないのなら、リーダーにはならないことです。

 本当のエリートとは、民たちのために働くように選ばれた者なのですから。

 「きみたちがエリートであるということは、勤務時間自由の特権階級ということではない。時間の許すかぎり、力の及ぶかぎり、力尽きるまで、民のために働く覚悟をせよ」というのが太子の言いたかったことなのではないでしょうか。

 この個所は、ふつうの人(凡夫)に対する強制的な就業規則ではない、ということに注意して読む必要がありました。

 これは、菩薩への布施と精進の勧告なのです。

 この条をそう読めた時、「私もどこまでできるわからないけれど、精一杯そうしたい、そうありたい」と熱い思いが湧いてきました。

 まあ、でも、論理療法を学んで以来、「ありたい」と「あらねばならない」とは区別して考えるようになっているので、あくまでも「ありたい」にとどめて、無理はしないつもりですが……。

 でも、有限な人生、自分で自分に納得のいく生き方はしたい、と思うのです。




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作務中

2007年02月18日 | メンタル・ヘルス

 昨日から本の詰まった重たい段ボール箱と取り組んでいました。

 長年、欲張って買い込み、溜め込んで、置き場所に困り、かみさんの実家の倉庫に預けておいたものです。

 大学の休みを使って整理して、研究所の資料として残すものと、古本屋さんに売って処分するものに分けています。

 間もなく還暦、平均寿命くらいは天が生かしてくれる予定で考えても、この先読める量には限りがありますから、このあたりでできるだけ整理をしておこうと思ったわけです。

 とはいえ、本についての執着はなかなか完全には絶ちがたく、半分弱は残すことになってしまいました。

 夕飯前にはなんとか終わらせることができました。

 やや不徹底だったにしても、整理ができて、ほっとしています。



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今・ここの自分の使命・役割を果たす

2007年02月15日 | 生きる意味


 サングラハの講座ではフランクルの学びが続いています。

 フランクルの考えはとても深くレベルが高いのですが、同時に実際的で、実用的でさえあります。

 私たちが、一見「つまらない」仕事をしなければならない時、次のような言葉は大きな励ましになるのではないでしょうか。


 クライアントのひとりが、「自分の仕事には何の高い価値もないから自分の人生には何も意味がない」と主張することをしばしば経験する。

 私たちは彼に何よりもまず、「人間がどんな職業生活をしていて、何をしているかは最終的にはどうでもいいことで、本質的なことはむしろどんなふうに働いているかということであり、また自分に与えられた役割を実際によく果たしているかどうかだ」ということを指摘しなければならない。

 つまり活動の範囲がどのくらい大きいかということが重要なのではなく、その人がその使命の範囲をどのくらい満たしているかということが重要なのだ。

 仕事と家庭から与えられた具体的なやるべきこと(使命)を実際に果たしている一人の単純な人は、その「平凡な」生活にもかかわらず、数百万の人々の運命をペンの一走りで決定できてもその決定に際して良心のない「偉大な」政治家よりも偉大であり高貴である。

 そして先入見なしに素直に判断する人なら、こうした「平凡な」生活は、例えばたくさんのクライアントの命を預かっているにもかかわらず手術に際して自分の責任を十分意識していないような外科医の生活よりはるかに高い、と評価するだろう。

                              (フランクル『死と愛』51-52頁、ただし私訳)


 どうすれば人は自分自身を知ることができるか。

 考えているだけでは決してわからない。ただ行動あるのみだ。

 自分の義務を果たすことだ。そうすれば自分自身というものがわかる。

 ところで、自分の義務とは何か。日々求められていることである。

                                (『死と愛』に引用されたゲーテの言葉)



 「なんで私がこんな(つまらない)ことをしなきゃいけないんだ」という不満はよくあるものです。

 それに対するフランクル的答えは、「私が今・ここの具体的な状況の中で生きている、他の人には代われないかけがえのない私であり、今・ここでしなければならない仕事は、他ならない私の仕事だから」ということになるでしょう。

 抽象的、空想的、願望的にいえば、こんなつまらない(と思っている)仕事は他の人に代わってやってもらえるといいのですが、具体的、実際的には今・ここの他の誰でもない私に課せられた役割なのです。

 ならば、いやいややるよりも、心を込めてやるほうが、今・ここにしか生きられない私のいのちが輝くはずです。

 いのちが輝くということは充実する=つまるということです。

 仕事をつまらなくするか、充実した=つまったものにするかは、その仕事が好きかどうかや社会的にどう評価されているかよりも、むしろ自分の心がけ・態度しだい、なのですね。

 禅では「作務(さむ)」といいます。



 ……と自分に言い聞かせながら、私も苦手な帳簿整理の仕上げにかかっています。




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青色深刻

2007年02月14日 | Weblog

 気象庁発表によれば、春一番でした。

 例年より20日も早く、しかも東京で初雪が降らないまま春一番が吹いたのは、観測史上初めてだとのことでした。

 しかし、国会の論戦はまさに「どこ吹く風」で、異常気象、温暖化の話はどこにもありません。

 NHKの世論調査によれば、初めて安倍内閣の支持率の非支持が支持を上回ったそうですが、民主党の支持率は横ばいで、無党派層がますます増えているようです。

 気持ちはわかるのですが、「支持政党なし」では政治は変わりません。いよいよ私たちがほんとうに支持できる政党が必要な時期になってきましたね。


 ところで、私は、ジョークで「顔が真っ青、青色深刻」と呼んでいる、1年でいちばんストレスフルな青色申告の季節となり、帳簿整理に苦しんでいます。

 というわけで、記事更新がなかなかできません。

 もう一息というところまでは来ているんですが……




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会報『サングラハ』第91号発行のお知らせ

2007年02月12日 | メンタル・ヘルス

 やや遅れていましたサングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』の最新第91号をようやく発行することができました。

 ほんとうにお待たせして申し訳ありませんでした。

 「痴呆老人と共にいて 13――認知症は病気か老いの表現か」(大井玄・東京大学医学部名誉教授)

 「仏教思想の源流 1」(羽矢辰夫・青森公立大学教授 新連載開始)

 書評「ウィルバー”Integral Spirituality”」(増田満)のほか

 私の原稿「私たちの国の出発点と到達目標」「日本の心と仏教 1――飛鳥から奈良まで」

など、参考にしていただけそうな論考が盛りだくさんです。

 会員のみなさんには、昨日発送申し上げました。もう1~3日、お待ち下さい。


 なお、本号のみのご講読は700円、本号を含め年間6冊のご講読=連絡会員としてのご入会は年会費5000円です。ご希望の方は、お名前、ご住所を明記の上、okano@smgrh.gr.jp にお申し込み下さい。



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賢者による政治:十七条憲法第七条

2007年02月11日 | 歴史教育
 
 第七条は、しばしば「プラトンの哲人国家の理想に似ている」と評されるところです。

 確かに「賢者による人民のための政治」という点では似ています。

 しかし、十七条憲法の「賢哲」は哲学者というよりは「聖」です。

 そして「賢哲」「聖」は第二条との関連でいえば、「菩薩」だと解釈すべきでしょう。

 太子が目指したのは、「菩薩による衆生のための政治」だったのではないでしょうか。


 七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲、官に任ずるときは、頌(ほ)むる声すなわち起こり、姧者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に、生まれながら知る人少なし。よく念(おも)いて聖(せい)となる。事、大少となく、人を得てかならず治まる。時、急緩(きゅうかん)となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(かん)なり。これによりて、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うからず、故に、古の聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。

第七条 人にはそれぞれ任務がある。職掌が乱れてはならない。賢者が官に就く時、たちまち賞賛の声が起こり、邪なものが官に就いている時は、災害や混乱がしばしばある。この世には生まれながらにして聡明な人は少ない。よく真理を心にとめることによって聖者になる。事は大小にかかわらず、適任の人を得るとかならず治まるものである。時代が激しくても穏やかでも、賢者がいれば、自然にのびやかで豊かになる。これによって、国家は永久になり、人の群れは危うくなることがない。それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けたりはしなかったのである。


 前条で、太子は官僚たちの現状を厳しく叱ったといってもいいのですが、それだけではなく、善は善として誉める・顕彰するという方針も示しています。

 第七条ではさらに、「それにふさわしい人が官職に就いた時は、賞賛の声が起こるのだ。賞賛されたかったら、それにふさわしい人間になる努力をせよ」とプライド・名誉心に訴えて、官僚たちに人格的成長への意欲を湧かせようとしているかのようです。

 人間には天から命が与えられ、そして天命・天職が与えられるものだ、というのは儒教の基本的人間観・職業観です。

 この世に生まれてきた以上、おのおのが人生で果たすべき任務があるのです。

 自分にはどういう任務・職掌が与えられているのか、それを取り違えてはならない、といわれています。

 高い地位すなわち大きな権限を委託される地位には、それにふさわしい賢者が就くべきであり、私利私欲の強い邪まな人間が官職に就くと国家は大きく乱れてしまう。社会的混乱だけではなく天災まで襲ってくるのです。

 とはいっても、生まれつきそれにふさわしい智慧を持っている人はほとんどいません。

 しかし、真理をよく学びいつも心に留めるようすれば、誰でも聖者つまり菩薩になる潜在可能性を持っている、というのは太子が大乗仏教から学んだ人間観です。

 それにふさわしい菩薩的リーダーがいれば、どんなに厳しい歴史的状況にあってもその国は平和でおのずからゆったりと豊かになりうる、国家は持続可能になり、共同体が危機を脱出できる、というのです。

 太子の時代は、隋の拡大政策の影響で朝鮮半島が脅かされ、その影響を受けて高句麗、百済、新羅の間にも紛争が絶えないという厳しい時代でした。

 しかし太子が摂政になって間もなく、2度の新羅出兵が企てられながら太子の近親者の死(偶然ではない?)によって中止されて以降、太子が亡くなるまでは日本は対外戦争を行なっていません。

 近いところでは、第二次世界大戦中、ヨーロッパ全域が戦乱に巻き込まれているという厳しい状況の中、ハンソン首相の指導下でスウェーデンがあえて徹底的な武装中立・平和を保ったことが思い出されます。

 賢明なリーダーの率いる国は、どんなに困難な状況にあってもなお平和で豊かな国を持続できる、愚かなリーダーが率いる国は、天災と人災で大混乱に陥る、というのは歴史が実証しているところでしょう。

 「それゆえに、古代の聖王は、官職のために人を求めたのであり、人のために官職を設けたりはしなかったのである」というのは、トップ・リーダーの人材抜擢の大原則として現代にもそのまま通用するものです。

 そして太子の時代と違って、代議制民主主義の国・日本では、そもそも人材を抜擢する(例えば組閣)トップ・リーダー(総理大臣)を選ぶサブ・リーダー(国会議員)を選ぶのは、一人の聖なる王ではなく、多数の民(国民)です。

 賢者を自分たちの代表として選出できるような、賢い国民が多くいれば、どんなに困難な時代であっても、必ず乗り切れる。多数の国民が賢くなければ、愚かなリーダーが選ばれ、愚かなリーダーに率いられた国は必然的に持続不可能になってしまうでしょう。

 それはあまりにもシビアな「当たり前の話」ですが、これからの日本はどうなるのでしょう、というより、私たち国民は日本をどうしたいのでしょうか。



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勧善懲悪という当たり前のこと :十七条憲法第六条

2007年02月08日 | 歴史教育

 聖徳太子の目指す「和の国」は、第十五条を先取りしていえば、「公(おおやけ)」です。

 「おおやけ」という読みは「大きな家」を意味しています。

 日本を、リーダーとメンバーがそれぞれの果たすべき役割を果たしながら、助け合って穏やかに睦まじく暮らしていける大きな家族のような国にすることが、太子の夢だったといっていいでしょう。

 (これは、戦中・戦後スウェーデン社民党のリーダーだったハンソンの「国家は国民の家でなければならない」という思想とまったくといっていいほど一致しています。)

 最終的には、すべての人が礼あるふるまいができるようになって、強制的な規制なしに自ずから治まる、いわば究極の「自治」を目指していたと考えられます(第四条参照)。

 そこに到るためには、当面は、まず徳のあるリーダーたちが模範・礼を示し、人々がそれをみならって礼を身につけていくという「徳治」でいきたいと思っていたのではないでしょうか。

 しかし、そもそもサブ・リーダーたちからして、無明に覆われ、礼を知らないどころか、争いや貪りの心でいっぱいという現状を見ると、それも難しいので、まずせめてしっかりとした「法」を確立することによって治めること、「法治」を考えざるをえなかったのでしょう。

 第六条には、そうした「法治主義」的な言葉が語られています。


 六に曰く、悪を懲(こ)らし善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって、人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、国家を覆す利器(りき)なり。人民を絶つ鋒剣(ほうけん)なり。また佞(かだ)み媚(こ)ぶる者は、上に対しては好みて下の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては上の失(しつ)を誹謗(そし)る。それ、これらの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本(もと)なり。

 第六条 悪を懲らしめ善を勧めるのは、古くからのよいしきたりである。だから、他人の善を隠すことなく、悪を見たらかならず正せ。へつらい欺く者は、国家を覆す鋭利な武器のようなものであり、人民を絶えさせる鋭い刃の剣のようなものである。またおもねり媚びる者は、目上に対しては好んで目下の過失の告げ口をし、目下に向かっては目上の過失を非難する。こういう人間はすべて、君に対しては忠誠心がなく、民に対しては仁徳がない。これは、世の中の大乱の元である。


 ここで、「古くからのよいしきたり」と訳したのは、太子は、中国古典の話だけではなく、日本の稲作共同体の伝統をも思い起こさせようとしているのだと解釈したからです。

 慣習法であれ成文法であれ、法によって治めようとすると、貪りを元に動いている人間は、法の網をかいくぐって私腹を肥やそうと画策します。

 集団のメンバーの中に、悪事についてのかばいあいや逆になすりあいがあっては、せっかくの法も効果が薄れてしまいます。

 集団が健全に機能するためには、「信賞必罰」が必須です。

 ところが、もともと私利私欲が動機で中間管理職的なポストについた豪族・官吏たちは、しばしば自己保身のために上役の不正に加担したり、しないまでも見て見ぬふりをしがちだったのでしょう。

 また同じく自己保身のために、下から突き上げを食らうと、「悪いのは私ではない。上の人間なのだ。私は言われてやっているだけで、しかたないのだ」といった言い訳をしたりしたようです。

 この風景は、いまでもあちこちの組織で見られるありふれた人間模様、凡夫の風景です。

 しかし、中級官僚たちのそうしたふるまいは、国民の大きな家・共同体としての国家を崩壊させ、その結果人民の生活も崩壊させてしまいます。

 そうしたふるまいは、リーダーへの忠誠心がないというだけでなく、そもそも民たち・生きとし生けるものすべてを支え慈しむというサブ・リーダーの本来の役目を忘れた行為です。

 前条に続き、この第六条の「君に忠なく、民に仁なし」という言葉にも、太子の民への思いゆえの臣へのきわめて強い怒りが表現されているように感じます。

 上司と部下の板ばさみの中でついつい自己保身だけを考えがちになる中間管理職的な官吏たちに、「そんなことをしていたのでは、国が大混乱に陥ってしまうではないか。そうしたら苦しむのは多くの民だ。君たちの天から託されている仕事は民を慈しむことではないのか。そのためには、自己保身を図っていないで、上下に関わりなく公正に、善行は勧め表彰し、悪行は告発し罰しなければならないではないか」と厳しく勧告をしています。

 こんなある意味では当たり前のことを憲法に書かなければならなかった太子の思いは、察してあまりあります。

 そして、現代日本社会の中間管理職的な人々の姿を見たとしたら、太子はどう思われ、どう言われるでしょうか。

 ともあれ、太子の勧告は、現代でもまた繰り返さなければならないものだ、と私には思えます。



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『不都合な真実』を見た

2007年02月06日 | 持続可能な社会

 早めに家を出て、講座の前にかみさんと『不都合な真実』を見てきました。

 印象が薄れないうちに、感想を書くことにしました。

 ゴアの熱い想いが切々と伝わってきました。

 ちょうど同世代、スケールはまったく違いますが、同じことに取り組んできたものとして、深く共感しました。

 彼が日本にいたら、同志、熱烈なサポーターになったことでしょう。

 そして、今こそもう一度立候補するよう説得したいくらいです。

 筑紫哲也の番組の時と違って、最後に「環境問題に取り組む政治家に投票しよう。いなかったら、自分で立候補しよう」という政治的メッセージもちゃんとありました。

 ともかく、見るに値する映画でした。

 ただ、彼のスウェーデン認識はどうなんだろうという問いは残りましたが。

 そして「ゴア×ウィルバー×スウェーデン・モデル×賢い国民=希望の道」という式が心に浮かびました。



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運命という素材を彫刻する

2007年02月06日 | 生きる意味


 いつものことですが、ここのところもかなり多忙だったので、なかなか記事を書くことができませんでした。

 相当な数いてくださる愛読者・受講生のみなさん、お待たせしました。

 ようやく少しずつ書く時間がとれるようになってきましたので、昨日は、柳沢大臣の「産む機械」という発言について、あえて厳しいことを書いておきました。

 柳沢氏に、個人的・意識な悪意があったとは思いませんし、また私も彼に対して個人的な悪意はまったくありませんし、ブログでの発言が彼の耳に届くとは思えませんが、相当多数の日本の男性のいわば集合的無意識の中に潜んでいる偏見でもあるので、はっきり指摘しておく必要があると思ったのです。


 それはともかく、今日もまたこれから講座に出かけます。フランクル『死と愛』の学びです。

 講義の準備のために読み直していて、とても心に響く言葉がありましたので、引用・紹介させていただいてから、出かけることにしました。

 「…人間は形のない石にノミとツチとで細工し、素材が次第に形をなしていくようにする彫刻家に似ている…。つまり、人間は運命が自分に与える素材に加工する。ある時は創造しながら、ある場合は体験しならが、あるいは苦悩しながら、彼は自分の生命から、創造価値であれ体験価値であれ、あるいは態度価値であれ、できるかぎりさまざまな価値を「刻み出そう」とするのだ。」(フランクル『死と愛』より、拙訳)

 自分を、重くて硬い石から美しい作品を刻みだそうとしている彫刻家のようなものと捉えると、人生で出会うどんな重くて厳しい状況に対しても、くじけることなく立ち向かうことができるでしょう。

 厳しい状況・運命も、美しい人生を刻み出すための重くて硬くて扱いづらい、しかし貴重で不可欠な素材として捉え直すことができるのです。

 もちろん刻み出すためには、長い苦しい労働の時間が必要です。

 途中であきらめて、放り出したくなることもあるでしょう。

 しかし、作品を創らなければ芸術家であることはできません。

 運命に耐えてよく生きるのでなければ、いい・美しい人生を生きることはできません。

 のんびりと、楽で楽しい人生は、必ずではないにしてもしばしば、だらけた美しくないものになりがちです。

 厳しい運命に出会った時、なぜもっと楽な人生が与えられなかったのかと不平不満をいうことも、ましてあきらめたり挫折したり絶望することも、まったく役に立ちません。誰のためにもなりません。

 運命という素材に立ち向ってそこからすばらしい人生という作品を生み出そうと決心する芸術家のような態度だけが有効なのではないでしょうか。

 ……といっても、私もなかなか完璧にはいきませんが、なるべくこういう姿勢で生きたいですね、という話をする予定です。




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産む性ということ:柳沢大臣の発言にふれて

2007年02月05日 | いのちの大切さ

 関係者のみなさん、特に女性のみなさんが、「岡野さん、どう思っているんだろう」と思っておられると思うので、これは書いておかなければならないと思いました。

 柳沢さんは、お辞めになったほうがいいと思います。

 確かに、女性は「産む性」であることはまちがいありません。私も、講義などでよくそう言って、最初、女性のみなさんから反発を買います。

 しかし、「いのちの意味の授業」のような内容をお伝えすると、ほとんどの女性のみなさんに納得していただけるようです。

 短くいえば、それは、「大自然・コスモスから、『つながってこそいのち』という本質をもったいのちを具体的につないでいくという決定的に重要な使命を与えられた性」ということであって、「産む機械」などということではありません。

 「産む機械」とは、本音・心の深層から出てきた、コスモスの理をわきまえない、根本的な大誤解の発言だと思われます。

 「言い間違えは無意識の表現である」ということは、深層心理学の常識です。心にないものが口に出てきたりはしません。

 そして、深層にある本音が、ちょっと表層・意識で反省したくらいでなくなるわけはないのです。

 本音にコスモスの理に反した考えを持つ人がリーダーになることは、コスモスの理に反しています。

 したがって、ほんとうに、つまり心の底から反省したいのなら、お辞めになって、徹底的に心の浄化に取り組んだほうがいい、と私には思えます。




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