持続可能な国づくりの会<緑と福祉の国・日本> 紹介VTR

2009年09月26日 | 持続可能な社会
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持続可能な国づくりの会・第3回シンポジウム案内

2009年09月24日 | 持続可能な社会
これからの日本をどういう方向に向けていったらいいのか、その理念とビジョンを完成しました。ぜひ、みなさんと討議し共有したいと願っています。お出かけください。いよいよ明日の日曜日です!










*残念ながら藤井先生はやむを得ない事情で欠席されることになりましたが、とても重要なコメントを文書で下さっていますので、当日、みなさんにご披露します。ご期待ください。

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環境問題と心の成長20

2009年09月13日 | 持続可能な社会




具体操作期――他者の視点を推測できる

 心の発達の第三の段階は、「具体操作期」と呼ばれ、次第に他者や世界が自分とは別のものであるという区別(差異化)ができるようになり、だからこそ、他の人の心をある程度理解できるようになり、他の人の役割を引き受けることができる段階です。

 この段階の特徴をよく表わすのは、ごっこ遊びです。例えばおままごとでは、子どもは、お母さんの役をして、それなりにお母さんらしく振る舞えるようになりますし、運転手ごっこでは、それなりにバスなどの運転手の役割を演じることができるようになります。

 この段階に達しているかどうかを確かめる興味深い実験があって、子どもにそれぞれ別の色の三つの粘土の山と人形を与えて遊ばせ、人形を緑の山だけが見えるように向けておいて、「君には何色のお山が見える? お人形には何色の山が見えてるかな?」と聞くと、この段階以前の子どもは人形が自分と同じように「赤いお山を見てる」と答えます。

 ところが、具体的な操作の段階に達している子は、「ぼくには三つとも見えるけど、人形には緑の山しか見えない」と答えるといいます。

 つまり、具体的場面について、自分と人とは見えている世界がちがうことを理解し、他者の立場・視点に立つとどう見えるかを推測できるようになるわけです。

 以前の段階では、自分(エゴ)を中心に外界や他者を混融状態で捉えるという意味で「エゴ中心的」だったものの見方が、この段階になるとむしろ社会中心的・役割中心的になり、そういう意味でエゴ中心性がある程度克服されつつあるわけです。


形式操作期――自我の確立と自己中心性の克服

 続いてさらに「形式操作」といわれる認識の形式が発達してきます。

 この段階については、例えば五つのグラスを使った実験があります。

 それぞれ別の無色の液体が入った五つのグラスを用意し、実験者が「これのうちのどれか三つを組み合わせると黄色ができる」と言って作って子どもに見せます。

 それから、「君も作ってごらん」と言って、どのグラスに何が入っているかはわからないまま与えると、前操作期の子どもはでたらめに混ぜてみて、うまくいかないとすぐいやになってやめてしまいます。

 具体操作期に達した子どもは、まさに具体的に三つのグラスを組み合わせ、たまたま正しい組み合わせになるまで続けるか、しばらくするとあきらめてやめてしまうのです。

 ところが、形式操作の発達段階まできている子どもだと、「五つのグラスでできる組み合わせがいくつあるか考えて、それを全部やってみなくちゃね」と言いながら、実験をするといわれています。

 こうしたありうる形式・パターンすべてを心の中で想定して、操作することができるような認識の段階を「形式操作」と呼びます。

 ピアジェは、「自我が確立する・大人になる」というのは、認識のしかたとしてこうした形式操作が完全にできるようになった段階であり、平均的には十二歳くらいから次第に完成されていくといっています。


エゴの確立とエゴ中心性の克服

 ここで重要なことは、以上おおまかに述べたことからも推測できるように、子どもは発達にしたがってエゴ中心的な見方から離れていくということです。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、自分とお母さんと外界とすべて区別がつかないまま、自分の思い、自分の欲望を中心にして世界を捉えています。操作思考・理性が確立した自我という意味ではなく、より漠然とした〈自分〉あるいは〈自己〉という意味でのエゴを中心として世界を感じているわけです。

 ところが、完全に形式操作ができるようになると、自分とほかの人とほかのものとの区別がはっきり把握できていて、それぞれがどういう関係にあるか、あるいはなりうるかということを心の中で考えることができます。

 「自分と人形は見ているものがちがう。もし人形の立場に立ったらこう見える」とか、さらにより一般的に「このケースとこのケースがあって、このケースではこうなる、このケースではこうなる……」と、ありうるケースを想定し、それぞれのケースについて考えることができます。

 つまり、どこまでも自分を中心にした視点でしかものを考えられないのではなく、他者の視点に立って見ることができるという認識能力が出てきているわけです。

 そして、そういう認識ができるという意味での〈自我〉が確立すればするほど、自分を中心にした世界しか見えないような視点の狭さが克服されるのです。

 この点は、私自身もウィルバーのお陰で「目からうろこが落ちた」という感じがあるのですが、そういう意味での自我は、健全に発達し確立されるとエゴ中心的になるのではなくて、かえってエゴ中心性から解放され、人の気持ちや人の立場がわかるようになるわけです。

 こうした事情は人類の意識の発達とも対応しており、人類もまさに自我―理性段階に達した時に初めて、ほかの民族やほかの階級の人たちの立場や考えを認められるようになり、ほかの階級やほかの民族の人たちと自分たちが同じ人間だということが見えるようになったのです。

 すべての人間の平等の権利が認識されるようになったという意味で、理性的自我の発達こそが、自己中心性、自民族中心性、自階級中心性の克服をもたらしている、とウィルバーは指摘しています。

 つまり、「理性的自我が確立すればするほどかえって自我中心性から解放されていく」ということが、個人の発達心理的にも人類史的にも言えるわけです。

 ここで、第18回で述べた点とあわせて再確認すると、「自我と無我」は対立するものではなく、〈無我〉という言葉を「自我の実体視を克服したパーソナリティ」と定義しなおせば、むしろ自我が発達することによって無我に近づけることになります。


形式操作とエコロジカルな認識

 さらに環境問題に関わって重要な点は、形式操作ができるようになると、自我中心性が克服されてくるだけでなく、物事に対し「あれはああ、これはこうなっている」とはっきり区別して捉えることができ、そのうえで、それぞれがどういうかたちでつながっているかをも見ることもできるということです。

 つまり、形式操作的なものの見方ができることが、さまざまな生命と環境がそれぞれ区別できる存在でありながら生態系(エコシステム)という一つのシステムをなしていることを認識できる理性の確立につながるわけです。

 実際、「エコロジー(生態学)」は、エルンスト・ヘッケルという生物学者が1866年に提唱し、以後百年あまりを費やしていまや基本的には誰も疑わないといってもいいほどに確立された学問ですが、まさにそうした近代の形式操作的な理性によって確立された近代的な学問であることを確認しておくことが必要でしょう。

 日本では、自然と人間とがいわばまだ癒着・融合している呪術や神話的な心の状態と、現代の理性的・学問的なエコロジーの認識とが同じものであるかのように語られることがしばしばありますが、ウィルバーはそれは明らかにちがうと言います。

 呪術・神話的な心では自己と外界が十分区別されないまま一体であると感じられているのに対して、形式操作的な理性によるエコロジー的な認識では、人間の自己とさまざまな生命と環境がそれぞれはっきりと区別できるものでありながら、しかも分かちがたくつながって一つのシステムをなしていることが把握されているわけです。

 例えば、ある森林がどのくらいの量の炭酸ガスを吸収し酸素を発生させているか、それを伐採すると周りの人間やほかの生物の生活にどんな影響が及ぶかといったことは、まさに理性・科学が確立しなければ認識できないことです。

 近代以前は、例えば「聖なる森だから木を切ってはいけない」といった呪術的・神話的なタブーがあると確かに森は守られましたが、そういう神話を持たず、徹底的に焼畑をして、森を消滅させてしまう民族もいたようです。

 ある場所を焼くと移動し、十分回復してから戻るというふうに、循環的に行なわれる焼畑農業もありますが、荒らしては去り、荒らしては去りというふうにやってきた民族もいたようです。

 そういう意味で呪術・神話的な段階で、自然と人間とが融合というよりは混融・癒着している意識と、理性が確立し生態系がどういうシステムになっているか認識できるようになった意識とは根本的にちがう、とウィルバーは指摘しています。

 たしかに今、人間の経済活動が行きすぎたために環境が破壊されつつありますが、だからといって、昔のような自然と人間が呪術的・神話的に癒着していた段階に後戻りすることがいいことだとか、それが可能だと思うことは、すでに高度に近代化されてしまった世界での実際的な問題解決にはつながらないのではないでしょうか。

 それは、連載の前半で述べたように、確かに前近代には大きなプラス面もあるけれどもあまりにも大きなマイナス面もあって、それらを克服することによって獲得したプラス面を捨てて前近代的社会に戻ることは、近代社会・近代人にとってはあまりにも困難、というよりおそらく不可能だからです。

 環境問題解決のカギは、心理的にも社会的にも、過去への退行ではなく未来への発達にある、と私は考えています。



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持続可能な国づくりの会学習会案内

2009年09月04日 | メンタル・ヘルス
「持続可能な国づくりの会」学習会の大井玄先生の講演が都合により延期になり、私がピンチヒッターでお話をさせていただくことになりました。ブログ読者のみなさん、よろしければ、どうぞお出かけください。







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