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最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。
日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。
そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。
そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。
そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。
そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。
大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。
これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。
さて最後に、かつて本ブログでも書いたが、改めて「四弘誓願(しぐせいがん」について書いておきたい。
『大般若経』で三十一項目にもわたって述べられた菩薩の誓願を、中国の天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)は主著『摩訶止観(まかしかん)』の中で四つにまとめていて、「四弘誓願」という。「大変広い四つの誓願」という意味で、なぜ「弘・広い」のかと言うと、私だけではなくてすべての衆生に関わるものだからである。
日本仏教では古くから天台宗だけではなく多くの宗派で、この「四弘誓願」が唱えられてきたようである。派によって言葉は少し違うようだが、以下、臨済宗で用いられているテキストをあげる。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
おおかまに訳すと以下のようになるだろう。
生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う
煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う
真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う
覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う
この「四弘誓願」をただ唱えているだけの儀式が多く見られるが、意味を知って唱えるととても感動的なので、ぜひ意味を学んで唱えるようにするといいのではないかと思う。
ただ、これはあまりにも高い理想で、全面的に「ねばならない」ものとして受け止めてしまうときついので、「なるべくそうありたい」というふうに柔軟に受け取るといいと筆者は考えており、そのためにもう少し軽い訳を試みたのが以下の文章である。「超訳」という言葉は商標登録されているそうなので、「超意訳」とした。
超意訳「四つのおおきな願い」
世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。
つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。
いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。
ほんとに最高にいい人になれるといいよね。
筆者は、この四つの言葉それぞれの後にカッコでくくって「(なるべくそうなるように努力しよう)」と付け加えることにしている。
論理療法で「絶対的にそうしなければならない」と考えるのを「マスト化」という。こうしたあまりにも高い理想をマスト化して捉えるととてもつらくなり、つらさのあまり「無理」などと言ってやめてしまうことにもなってしまう。
論理療法では硬直したマストに対して、柔軟な「プリファー・なるべくそうでありたい」という考え方を勧めている。
マスト化して無理だと感じてやめてしまうくらいなら、マスト化せず、「到達できないかもしれない。たぶんできないけれど、でもここを目標にしたい。なるべくそうありたい」、「初歩でも何でも、とにかく菩薩は菩薩」というふうに心を決めれば、いろいろ悩みがあっても人生を死ぬまではちゃんと生きられるだろう。
であるから、筆者は、悩み多き人生を四弘誓願を心に、広く言えばこの三十一願を自らの願として、「小さくても菩薩という人生を送れるといいな」と思うことにしている。無理をしないで「送れるといいな」ということで行きたいと思っているし、読者のみなさんとも一緒にそうなれるといいなと思いながら、一緒にさらに学びを続けられたらと思っている。
ところで、「四弘誓願」は三十一願を四つにまとめていると言ったが、実は残念ながら三十一願の大きな基本的な方向である「仏国土の建設」が言葉として表現されていないと筆者は感じていて、自分が唱える時には、般若経典に繰り返し出てくる「成熟衆生厳浄仏土(じょうじゅくしゅじょうごんじょうぶつど)」「すべての生きとし生けるものを成熟させ、美しい仏の国土を創り上げよう」という言葉を補うことにしている。
すでに繰り返し述べてきたことだが、ここでも、これまでの常識的な理解と異なり、般若経典で語られる大乗仏教は、ただ個人の心の救いを目指すだけのものでなく、全世界を覚りによって創造される美しい仏の国にしたいというきわめて大きなスケールの社会的理想をも掲げた思想運動であり社会運動でもあったということを改めて指摘しておきたい。
そして、日本史の授業では教わらなかったことだが、『日本書紀』や『続日本紀』を右と左の偏見を排してちゃんと読み直してみると、大乗仏典・般若経典の「この国を仏国土にしたい」という誓願・国家理想は、聖徳太子のものであり、天智天皇や藤原鎌足のものでもあり、天武天皇のものでもあり、聖武天皇や藤原不比等のものでもあった、つまり「古代日本の国家理想」だったということは確実だ、と筆者は考えている。
第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。
自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。
第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。
ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。
それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。
第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。
そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。
仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。
大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。
そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。
神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。
覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。
菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。
大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。
それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。
私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。
業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。
私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。
続いて、残り第三十一願まで大まかに見ていこう。
第十八願は「得五神通慧(とくごじんずうえ)の願」といい、すべての衆生が五種類の神通力を得られるようにという願である。
第一は「天眼通(てんげんつう)」といって、天界や地獄など死後の世界を見通す力、第二は「天耳通(てんにつう)」で、あらゆる言語・音声を聞くことのできる力、第三は「他心通(たしんつう)」で、他者の心の様子をしる力、第四は「宿命通(しゅくみょうつう)」で、前世のことを知る力、第五は「如意通(にょいつう)」(または神足通)で、意のままに飛行したり居場所を変えたりする力で、つまりすべての人に超人的な能力を具えさせたいというのである。
面白いのは第十九願で、「無種々大小便穢(むしゅじゅだいしょうべんえ)の願」という。古代インドのことだから、トイレや下水道など大小便の衛生的処理の施設が整っておらず、家や村や町がとても汚く臭かったのだろう。そういうことがないようにしたいというのである。
「菩薩の誓願」という言葉の印象では、何かとても高尚な目標だけが掲げられているのかと思われがちだが、こうした日常的な衛生のこともあげられており、菩薩の衆生への思いがきわめて具体的な生活の向上にも向けられていることがわかる。
第二十願は「光明具足身(こうみょうぐそくしん)の願」で、いろいろな照明器具などなくても、すべての人が存在しているだけで光り輝いているようにしてやりたいというのである。
これは、物理的に考えると超自然的エネルギーで体が輝いて余計な電力などいらないという夢のような話だが、むしろ特殊な優れた人だけでなくすべての人をオーラが輝いて見えるような存在にしたいということだろう。
第二十一願は「無昼夜時節変易(むちゅうやじせつへんえき)の願」といい、昼と夜や季節が変化することがないようにしようという。
昼と夜が同じようになるというのはあまりぴんと来ないが、季節についていえば、インドは雨季と乾季があって季節の変化が厳しいので、そういうことがなくいつも穏やかにという思いがあってこうした願が立てられたのだろう。
しかし、日本のように四季折々が美しい国では、菩薩の誓願であってもこれは遠慮したいという気がする。気候変動のためいまや四季が二季になりつつあるが、かつてのように四季が豊かに穏やかに巡るようになってほしいというのは切実な願いである。季節が穏やかにしっかりと巡るようにというのが、現代の菩薩の願ではないだろうか。
第二十二願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」で、すべての人が長生きできるようにしたいというのである。
しかし、幸せで長生きをするのでなく、不幸で長生きをしたのでは、苦しみが長いだけである。日本はこのままでいくと、お年寄りにとって長生きしたくない国になってしまいそうである。筆者も、これからどんどん下り坂になる日本で歳は取りたくないなと思う。そうではなく、子どもの福祉も老人の福祉も実現し、歳をとっても百歳を超えても幸せという国にしたいものである。
そして、「誰かにそうしてもらいたい」と思っているのは凡夫で、「私は渾身の努力をして命・体を一切惜しまず、そういう国にしよう」と願い誓うのが菩薩である。
第二十三願は「相好具足(そうごうぐそく)の願」である。「相好を崩す」という言葉や、「三十二相八十種好」という仏の身体的特徴を表わす言葉があるように、誰もが顔かたちがいつもとてもすばらしいというふうにしたいというのである。
第二十四願は「善根具足成就(ぜんこんぐそくじょうじゅ)の願」である。私たちの心の中の善を行おうという根本的な構えのことを「善根」といい、それがしっかりと備わるとやがて菩薩にもなれブッダにもなれるのが人間であるが、善根がなければそのスタートを切ることもできない。だから、すべての衆生に「いいことをしよう」「覚りに近づきたい」「覚りたい」という根本的な気持ちを持たせたいという願である。
それから第二十五願は「無身心病の願」で、「体と心の病が人々にあるのを見たならば、そのすべてを癒してあげたい」と思うのが菩薩だという。
すなわち、菩薩の願の中には現代的に言えば医療福祉、そして福祉国家の構想がしっかり確立されている。驚くべきことである。
こうして菩薩の誓願をずっと見てくると、すでに紀元一世紀頃に、空・一如、すなわちすべてのものの一体性という根源的な思想に根拠づけられた、いわば「エコロジカルに持続可能な福祉国家-福祉世界」の構想が成り立っていたといってまちがいない、と筆者には思えてくるのである。
*諸般の事情で長い間中断していましたが、また少しずつでも「般若経典のエッセンスを語る」の続きを書いていくことにしました。
第十六願は「無諸趣差別並六道名字(むしょしゅさべつならびにろくどうみょうじ)の願」という。「諸趣」とは、天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの生存形態すなわち「六道」のことで、菩薩は天界から地獄まですべての違い・差別をなしてしまい、六道という名称さえなくすことを願とするのだという。これもまた大変な願である。
第十七願は「無四生差別(むししょうさべつ)の願」で、差別をなくすというのは、人間だけの話ではない。仏教では「四生」といって、生まれ方によって生命の種類を四つに分けている。卵で生まれるものが「卵生」、母胎から生まれるものが「胎生」、それから当時は科学が発達していないから、湿気から湧いて出るように見えたボウフラなどは「湿生」という。それから愛着や性別なしに自然に、悪く言えばお化けのようフワッと出てくるのが「化生」である。
菩薩は、生命にこうした四種類の差別があるのを見ると、「我が仏国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう」と願い誓うのである。
これはすべての生命が平等にという理想であって、つまり現代的にいえばすべての生命種が調和したエコロジカルに持続可能な世界を創出しようという願である。
それに対し、日本の実情を言えば、例えばニホンカワウソは絶滅してしまったのだそうである。だいぶ前に絶滅していたらしかったが、もう何年も発見されないので、ようやく環境省が絶滅したと宣言したとのことである。
例えば、ゲンゴロウはかつて日本中のどこの池にもいたごくありふれた虫だったのだが、いまや絶滅危惧種になっているという。メダカも絶滅危惧種である。花でいえば、例えばリンドウも絶滅危惧種である。こうした例はあげていくと数えきれないほどで、気づくと恐ろしいことである。人間だけが繁栄すると、他の生物たちは絶滅していくということなのだ。
明治から戦後、特に七〇年以降の経済的繁栄(?)は、今や日本のエコシステムを完全に壊しつつあるのではないだろうか。それは世界全体も同じで、これは何としてでも何とかしなければならない事態だと筆者は考える。
ともかくそうした事態は、般若経典つまり智慧の経典の目指すところとはまったく逆だし、人間と他の生命種をまるで別のものとして捉え、人間を中心だと考える分別知=無明から生み出されたものだといってまちがいない。
『サングラハ』185号が出ました。発送も終わっていますので、読者のみなさんのお手元には間もなく届くと思います。お待ちください。
まだ読者でないみなさん、以下の「近況と所感」「目次」「編集後記」で推測していただけるような内容です、よろしければぜひご購読ください。お問い合わせ | サングラハ教育・心理研究所 (smgrh.gr.jp)
近況と所感
これまで体験したことのないほどの大型台風が多くの被害を出して日本列島を縦断した後、急に涼しくなりました。
被害に遭われたみなさんに心からお見舞い申し上げ、一日も早い復旧-復興をお祈りいたします。
当研究所の関係者のみなさんはいかがでしたか? いつも神仏・天地自然・ご先祖さまにみなさんのご無事をお祈りしています。
筆者の住む香川県は自然災害がとても少ないところで、ニュースで知るかぎりでは、今回も少し強めの雨と風だけで済んだようで、我が家も何事もありませんでした。自分だけよければいいとはもちろん思っていませんが、とりあえず感謝すべきことかと思います。
それにしても「気候変動」による気象の荒れはますます顕著になってきているようで、とても心配です。
*
そうした中、「気候変動などという大きなことに対して自分一人では何もできない」と考えてしまう方も少なくないでしょう。気持ちはよくわかります。筆者もふとそういう気持ちになりかかりますから。
しかし、これまで学んできていただいた読者には、「そういう気持ち=過度に否定的な感情は、非合理的な考え(イラショナル・ビリーフ)から生まれている…んでしたね」と言いたいと思います。
どこが非合理的か確認しましょう。その気持ちの裏に「自分一人で気候変動をどうにかしなければならない」という考えが潜んでいませんか? それはどう考えても無理・非合理的です。自分一人ではもちろんどうにかできません。
気候変動は、自分一人のせいではなく、長い歴史をかけて人類全体が生み出したものですから、「人類全体でどうにかしなければならない」と言ったほうがやや正確・合理的ですし、もっと言えば「大きな被害やまして絶滅を避けたいのなら、人類全体で協力してどうにかしたほうがいい」ということなのではありませんか?
そこでポイントは、「たいのなら」と「協力して」と「ほうがいい」というところではないかと思います。
まず、人類全体が協力できなかったら、とてもとても残念ですが大きな被害やもしかすると絶滅も避けられないでしょう。それはきわめて論理的な結末です。
しかしポジティヴに言い直すと、「人類全体が協力できたら、被害も絶滅も避けることができる」ということです。
では、次は協力できるのかということですが、協力は無意識的にされることはほとんどなく意識的に合意することによって可能になるのではないでしょうか。
言い方を替えると、協力という行動には合意という意識が必要だということです。
協力できていないのは合意できていないからで、それは十分な共通意識=一体感が形成されていないからです。
ポジティヴに言い直しましょう。「十分な共通意識=一体感が形成されれば合意が可能になり、協力が可能になり、協力が可能になったら人類の持続も可能になる」と。
そうすると、「必須の出発点は共通意識に向けた人類の意識の変容だ」ということになると筆者は考えてきました。
唯識的に言えば、「転識得智(てんじきとくち)」、特に自分や自分たちを実体視するマナ識からすべてのものの平等・一体性を実観(実感の誤植ではありません)する平等性智(びょうどうしょうち)への変容です。
そして意識の変容は、残念ながら「いっせーのせ」と人類全体ですぐに一挙には起こらないもののようですから、「滅亡したくない」と本気で思った者から取り組むしかない、と思ってきました。
しかしそれは、「自分一人でどうにかする・しなければならない・できる」ということではなく、「〔人類的合意と協力に向けて〕まず自分から始める」ということです。
しかも、そうした意識の変容への取り組みはすでにかなり多くの人の中で起こっており、筆者一人がやっているわけではありません。当研究所に関わってくださっているみなさんも、そういう多くの人の一人です。
大丈夫だと思いますが、「私一人が、サングラハで学んでも、瞑想しても、六波羅蜜を実践しても、世界は変わらないのではないか」とネガティヴ思考に陥りそうになったら、ぜひ「私が意識の変容に取り組んでいるのは、人類の意識変容の先駆者の一人だということであり、それが全体に広がったら、世界は変わりうる」とポジティヴ思考に取り換えてください。
進化史上、絶滅の危機に瀕した時、きわめて短期間に種全体が合意して飛躍的に変容し生き延びることができたというケースが何度もあるとのことです。私たち人類もそうなったほうがいいですね。ぜひ、そうしましょう。
以上、まるでコスモロジー心理学ミニレクチャーのようになりましたが、これが筆者の「近況と所感」です。
目 次
■ 近況と所感……………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「生死」巻講義 下 …………………………………………岡野守也… 4
■〈宗教〉に未来はない 増補再説…………………………………………岡野守也… 12
■ 縁起の理法からみたウイルスと私たち
――新型コロナパンデミックをめぐって……………………………………大井玄…… 24
■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(6)…増田満…… 35
■ 講座・研究所案内………………………………………………………………………… 50
■ 私の名詩選(84) 寒山詩一九三 ……………………………………………………… 52
編集後記
主幹の正法眼蔵「生死」講義は、短い巻でしたが、表現の簡潔さ・平易さ・率直さの中に一層、深さが感じられました。主幹のもう一つの記事は、新々宗教の問題に関し、過去記事を増補・再説しています。「未来はない」は単に批判・否定ではなく、新たな宇宙観と霊性に向けて超えるという、いまだ実現のめどが見えていない、しかし今こそ必要な建設的提案です。
大井先生の論文は、目下の新型コロナ禍のようなウィルスのあり様にもまた、進化と縁起の理法が貫徹していることが示されています。
増田さんによる『人新世の「資本論」』書評は、内面の視点の欠落を指摘して終えられています。確かに、この外面システムのみの代案は、私たちの内的意欲を喚起する力を持ちえないように見えます。
(編集担当)
サングラハ教育・心理研究所リモート講座のお知らせ
学びの秋になってきました。みなさん、いかがお過ごしですか。
以下の通り、10月〜12月の講座予定が決まりましたので、お知らせします。
ご一緒にさらに深めていきましょう。どうぞ、お申し込みください。
サングラハ教育・心理研究所 岡野守也
【日曜講座】「無明と智慧の深層心理学――『唯識三十頌』を学ぶ」第三期
人はなぜ死を恐れ、なぜ強欲になりがちで、なぜ戦争をし、なぜ自分の生きる基盤である自然を破壊するのか。大乗仏教の深層心理学・唯識は、すべてのものを分離独立したばらばらのものと見る見方・分別知・無明が心の奥底にまで固く固着していることが原因であることを、きわめて正確に指摘し、にもかかわらず人間は、無明を超えて、すべてがつながり合い(縁起)・一体(一如)であることを心の奥底まで覚る智慧に到ることも可能であると語っています。
実際に戦争が起こり気候変動が進んでいる状況のなかで、多くの方々とその智慧を共有したく、改めて講座を設定しました。
併せてやさしい瞑想法もお伝えしますので、知識だけにとどまらない深い学びをしていただけるでしょう。
▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布
▼時間:13時半〜16時半
▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円
10月30日 11月27日 12月25日(3回)
【水曜講座】「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」シリーズ
『正法眼蔵』を学ぶ長期シリーズです。
今回は、死生観、世界観(コスモロジー)に続き、すべてが一体で善悪を超えているからこそ成り立つ善悪とは何か、道元独自の深い倫理観を語った「諸悪莫作」巻を取りあげます。
やさしい瞑想の時間も含め、悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。
▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布
▼時間:19時半〜21時
▼参加費:一般=7千5百円、会員=7千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=6千円
10月26日 11月16日 12月14日(3回)
【土曜講座】「般若波羅蜜=本当の智慧とは何か」第一期
大乗仏教の入門・初級の知識があることを前提に、さらに掘り下げて学ぶ中・上級者向け講座です。
(*その点を予め了承の上であれば、初心者の受講も受け付けます)。
前回シリーズで、大乗仏教の実践のスタンダードである六波羅蜜についてかなり深くまで学びました。
その学びをふまえた上で、今回のシリーズでは、六波羅蜜の中でももっとも中核である智慧=般若波羅蜜に焦点を当て、『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)の書き下しテキスト――第一期は「習応品(しゅうおうほん)第三」――に沿って、唯識による解析を加えながら、さらにじっくりと学びを深めます。
併せて瞑想・禅定波羅蜜の実習の時間ももちたいと思っています。
▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布
▼時間:14時〜16時
▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円
10月8日 11月12日 12月10日(3回)
☆各講座、学生割引参加費=3千円
○受講申込方法(各講座共通)
氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、お問い合わせ | サングラハ教育・心理研究所 (smgrh.gr.jp) でお申込みください。
少し遅れましたが、『サングラハ』第184号の「近況と所感」も掲載しておきます。
実際の暑さのピークはまだこれからです。八月は平年並みかそれ以上の暑さになりそうだと天気予報は言っています。
日本中、記録的な大雨で被害が出ました。被害に遭われた方々に、心からお見舞いを申し上げます。
その他、一つ一つ改めて書くのはやめておきますが、国内外で、いろいろ好ましくない出来事がこれでもかこれでもかと起こってきています。
読者のみなさんは、ご無事・お元気でしょうか。いつも、みなさんのご無事・ご健康をお祈りしています。
*
筆者は、もともと瀬戸内海の生まれで、若い頃は暑さには比較的強く、夏は好きな季節だったのですが、最近はとても強いとは言えず、ここのところ毎年、夏が終わると、「何とかやっと生き延びた」という感じです。
とはいっても、筆者が少年だった今から半世紀以上前の夏は、今ほど暑くなかったので、弱くなったと感じるのは、年齢のせいだけではないようです。こちらが暑さに弱くなっただけでなく、暑さのほうがあまりに強くなったということもあるのでしょう。
禅の言葉に「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し熱時(ねつじ)は闍梨を熱殺(ねっさつ)す」(『碧巌録』第四十三則)というのがあります。「闍梨」は「阿闍梨(あじゃり)」つまり僧の敬称で、ここでは話している相手のことです。「〔嫌がって不平を言っていないで〕寒い時には寒さに成り切り、暑い時には暑さに成り切りなさい。〔そうすれば、乗り切ることができる〕」といった意味で、確かにある程度まではそうだと思うのですが、しかし寒さも暑さも、度を超すと本当に死んでしまいかねません。
近年の気候変動による暑さは、精神論だけでは対処しきれないところまできているようです。筆者も、最近はクーラーを付けて寝ています。過度な我慢はせず、適度で合理的な暑さ対策をしながら、この夏も乗り超えたいものです。
夏もまた無常ですから、どんなに厳しくてもやがては必ず終わります。
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暑さだけでなく、今起こっている山積みの問題もまた、無常です。「無常は仏法なり」(道元)。あらゆるものが変化するというのが宇宙の法則ですから、どんな問題もいつかは終わります。そして終わってみると、その問題は新しい解決へのプロセスだったことが見えてくるはずです。
ただ、個人や集団や人類にとって不都合なことは、問題が終わって新しい解決が創発する前に個人のいのちが終わってしまったり、集団も壊滅状態になったり、人類の場合は、問題の終わりと一緒に人類も他の多くの生命種と同じ運命を辿って終わってしまうかもしれないということです。
しかし、これまで何度もお伝えしてきましたし(「耳タコ」の方もおられるかもしれません⦅笑⦆)、後の記事「コスモロジー心理学各論8――全地球的な危機について」グローバルでも改めて書きましたが、「もし、破壊が次の創発の準備であり、死が次の誕生の準備だとすれば、根源的には宇宙には不条理はない、ということになります」。
個人が、幸福な人生を送り穏やかな死を迎えようが、不幸な人生を送って悲惨な死を迎えようが、「生死は仏のおんいのち」です(今回と次回の連載記事「『正法眼蔵』「生死」巻講義、参照)。
水曜講座で講義を始めた『正法眼蔵』「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」の言葉を先取り的に引用すると、「いったい誰が、いろいろな事が起こったり滅したりするのを、これは宇宙のことだ、これは宇宙のことではないと肯定したり否定したりすることに心を煩わせる必要があろう。たとえ思い悩んだり心を煩わせたりしても、宇宙のことでないことはない。宇宙でないものがあって起こさせた行為でも思いでもないのだから、ただまさに須弥山(しゅみせん)中の亡者どもが住む暗黒の洞窟の中でさまざまな生活があり、それもまたただ一体なる宇宙〔の働き〕だということなのである」と言われています。
すべての出来事は一つのエネルギーとしての宇宙(一顆明珠)の働きであり、私の悩みもまた宇宙の働きであり、暗黒の洞窟のようなところで無明に囚われた人々がやっているトラブルだらけの生活(第一八二号「無明がある限り、死の怖れ、環境破壊、戦争もある」参照)もまた宇宙の働き以外のものではない、というのです。
自分の都合という分別知でものごとを捉え感じてしまう未熟な修行者・凡夫の菩薩である私たちには、なかなかすぐには肚落ちしない言葉ですが、ただの凡夫のように「そうは思えない。それは理屈だ。それは理想論だ。私には無理だ」と反発したり尻込みしたりしないで、肚落ちさせるべく精進を続けていきましょう。
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自分にとってあまり好都合ではない時代であっても、よく生き抜いてよく死ぬためのヒントになりそうな記事を、今回も掲載しました。お役に立てていただけると幸いです。
変わらないご愛読を感謝します。
『サングラハ』第183号の発行のお知らせの時、「近況と所感」を掲載するのを忘れていました。
問題山積の時代にあって、心が折れないためのヒントになるかと思い、掲載することにしました。参考にしていただけると幸いです。
爽やかだった季節が終わろうとしています。季節は確実に移っていきます。「無常は仏法なり」(道元)。
皆さんはいかがお過ごしですか。お元気でしょうか。
あまり元気の出るニュースのない昨今ですが、それでも生かされて生きている日々は貴重です。生きることが許されている間は、日常をしっかり丁寧に生きたいものです。
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ウクライナのあまりにも厳しい状況のニュースが毎日のように報道されています。私のまわりには、そうしたつらいニュースにずっと触れて、ご自分もとてもつらくなってしまっている方たちも少なくないようです。
そういう方たちが「共感疲労」という言葉を使われるのを聞いて、そういう言葉があることを初めて知りました。
そして「なるほど、実にうまく表現した言葉だな。今そういう気持ちになっている人は多いんだな。それはそうだ」と妙に納得してしまいました。
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それどころか「共感うつ」と表現してもいいくらいになっている方もいるようです。そういう気持ちはよくわかります。共感性が高いというか高すぎる人はそうなりがちです。
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「鈍感力」という言葉もあって、いろいろな出来事に対してあまり強く感じないという気質の人もいるようです。
それから、特に悪げがあるわけではなくごく庶民的に大きなことは自分には関係がないと思って無関心でいることができ、その結果いろいろなことにわりに平気でいられる人もかなり多いように見えます。
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それに対して「HSP(Highly Sensitive Person,繊細すぎる人)」と呼ばれるタイプの気質の人は、ものごとを強く感じすぎて、生きるのがなかなか大変なようです(心理学者のエレイン・アーロンによれば人口の二〇パーセント
くらいいるとのこと)。
筆者もそういう傾向がありましたし、今でもちょっと油断すると外部の状況に影響されてうつ気分になりそうです。
しかし、幸い禅と論理療法を学んだおかげで、「共感うつ」にはならないですんでいます。
すでに著書や講義で皆さんにお伝えしてきましたが、今回改めてポイントをお話ししておくといいと思いました。
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かつて初めて論理療法を学んで「眼からウロコ」だったのは、「共感することと共感しすぎることは同じではない」ということでした。
真面目な人には、「他人の不幸には共感すべきであり、共感して心が乱れるべきである」という思い込み(イラショナル・ビリーフ)がありがちだが、「不幸な人を見た時にするべきことは、その不幸を無くすか軽減するための行動であって、自分も共感しすぎて心が乱れて不幸になることではない」というのです。
「健全な市民にはもちろん適度な共感性は必要だが、共感しすぎて自分まで不幸になるのは、世界に不幸な人を一人増やすだけで、不幸を減らすことにはならない。あなたがすべきことは、不幸を少しでも減らす具体的な行動をす
ることであって、それができないのなら、そのことは忘れて、せめて自分が不幸になるのは避けるように」と。
これだけでは、真面目すぎ、優しすぎ、共感性が過度に高い方には、すぐには納得しにくいかもしれません。
でも、共感しすぎて疲れたりうつになったりするようでしたら、人間として適度な共感の範囲にとどまって、できる行動をすることのほうが有効性があるという理性的な考え方(ラショナル・ビリーフ)に変更することを検討してみていただくといいのではないか、と筆者は思っています(詳しくは拙著『いやな気分の整理学――論理療法入門』NHK生活人新書、P・A・ホーク/拙訳『きっと「うつ」は治る』PHP研究所、どちらも品切れですがネット等の古書で入手可)。
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もう一つ、『坐禅儀』では、冒頭で「大乗の菩薩は坐禅をする時にまずすべての生きとし生けるものを救いたいという大悲心を起こすように」と言っておきながら、そのすぐ後に「諸縁(しょえん)を放捨(ほうしゃ)し万事(ばんじ)を休息(きゅうそく)せよ(さまざまな関わり合いを忘れ去り、すべての俗事を休むように)」と言っていました(第一七六号「六波羅蜜を学ぶ⑹」参照)。
それは、いったんすべてを忘れ休んで、心を静かにし心のエネルギーを取り戻して、それから衆生救済に取りかかるように、ということでした。慈悲は、過度の共感や同情ではなく、具体的な業・行為(カルマ)であり、それには大変なエネルギーが必要で、そのためには十分な休息も必要だということでしたね。
ぜひ、この世(家庭や会社や日本や世界)のトラブルのことを一切忘れて深くやすらぐ時間を確保して、それからまた元気になって(根元である宇宙のエネルギー・気をもらって)、この世でしっかり働いて、最後は迷わず光の国
に帰れるといいですね。引き続きご一緒に精進しましょう。
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お待たせしました。『サングラハ』第184号が出ました。混迷の深まる時代をどう生き抜くかのヒントをが語られています。どうぞ、ご購読ください。
目 次
■ 近況と所感…………………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「生死」巻講義上………………………………………………岡野守也… 4
■ コスモロジー心理学各論8―全地球的(グローバル)な危機について…岡野守也… 19
■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(5) …増田満…… 28
■ 講座・研究所案内…………………………………………………………………………… 38
■ 私の名詩選(83) 寒山詩…………………………………………………………………… 40
編集後記
今号、普通には「心が折れる」世の現状に対する、いわば対処法の特集となっています。
主幹による正法眼蔵「生死」の巻講義録が始まりました。覚りの眼には絶望などありえないことが納得できます。
コスモロジー各論では、それに対応する外面の世界観においても、絶望は無用であることが明示されています。
ぜひ、このカオスが新たな秩序の創発につながってほしいものです。
羽矢先生の「仏弟子たちのことば」は著者都合により短期間休載となります。
増田さんの書評では、脱成長コミュニズムの理想が紹介されています。対応する内面的変革がぜひ必要だと感じます。
(編集担当)
●購読の問合せ、申込みはサングラハ教育・心理研究所のフォームでどうぞ。
『サングラハ』第183号が出ました。目次は以下のとおりです。
目 次
■ 近況と所感 ……………………………………………………………………………… 2
■「典座教訓」講義(6) ……………………………………………………岡野守也… 4
■ コスモロジー心理学各論7
――宇宙は光、死は光の国への帰郷…………………………………………岡野守也… 16
■ 仏弟子たちのことば(15) ………………………………………………羽矢辰夫… 29
■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(4) …増田満… 31
■ 講座・研究所案内 ………………………………………………………………………… 38
■ 私の名詩選(82) 千家元麿「麥」……………………………………………………… 40
編集後記
今回の一八三号では、主幹の連載「典座教訓」講義が最終回となっています。道元禅師の語る、この結論部の慈しみある言葉は、まさに一体の心をもって、今すべき日常業務に取り組む姿勢というものが、一般的に作務という言葉で表現される分別知的な「真心」等と、似ていながら全くレベルの違う、修行の核心を行くものであったことを感じさせます。
再開した主幹のコスモロジー各論は今回、現代科学の宇宙観(コスモロジー)から、私たちの死の意味がどのように転換するかについてです。哲人皇帝の遺した言葉は、内面的にも外面的にも、そここそが今後世界のコスモロジーが行きつく地点であることを明示していて、何よりその意味で感動的です。
羽矢先生の「仏弟子たちのことば」では、何とも人間臭かったブッダの異母弟ナンダの自己変革が取り上げられています。
増田さんの書評では、資本主義の根本問題を乗り越えるという新たな共有の思想が紹介されています。加えて著者が、コミュニズムの歴史的暗部をどのように考え、内的なスターリニズム克服にいかに道筋をつけているのかも注目されます。
(編集担当)
●購読のお問合せ・申込みは研究所HPのフォームでどうぞ。