随煩悩のリストのいちばん最後にあげられているは「不正知(ふしょうち)」です。
善の心が「信・誠実さ」で始まって「不害・傷つけないこと」で終わることに意味が読み取れたように、随煩悩の心が「忿・怒り」で始まって「不正知・正しいことを知らないこと」に終わることにもただ羅列しただけではない意味があるように思えます。
つまり、日常的な煩悩のいちばん決定的・最終的なものは、世界と自分のありのまま(如)の姿を知らないことだというのです。
これまでも見てきたように、人間は自分を中心にものを見ますから、自分のものの見方を正しいと信じ込む強い傾向があります。
そうしないと確信をもって迷うことなくしっかりと生きていくことができないからです。
自分の考え方や生き方が正しいかどうか自信をもてなくて迷っているという状態は、とても苦しいものです。
人間が、自信をもって安心して生きるためには安定したアイデンティティやアイデンティティを支えるコスモロジーを必要とするということ自体は善でも悪でもありません。
しかし、マナ識に我癡・我見という根本煩悩があるために、意識の基本に癡と悪見という根本煩悩が発生し、意識の表面には不正知という随煩悩が現象するのです。
多かれ少なかれ、自分(たち)が自分だけで自分だけのために生きているかのように、いつまでも生きられるかのように、自分の大切な面は変わらないかのように思いがちな傾向のある人がほとんどでしょう。
しかし、もともと一体であるコスモスが分化して統合されたままつながり合っていて、ダイナミックに変化・進化しながら、その時どきに、それぞれの姿を現わしては消え、消えては現われているというのが、ありのままの世界の姿なのでしたね。
しかし、そういう正しいことを知らず、正しくないことは山ほど知っている(分別知)というのがふつうの人間の基本的姿なのです。
それによって形成されるアイデンティティは自己中心的で硬直したものになりがちであり、そこにあるコスモロジーはばらばらコスモロジー的な傾向の強いものになります。
そこからさまざまな正しくない行為・カルマも生まれてきます。
ですから、逆にいえば、縁起の理法、つながり・かさなりコスモロジーを学ぶことによって、たとえ意識の表面からであっても、不正知が癒され無癡へと変化していき、それがマナ識を一定程度浄化しながらアーラヤ識に蓄えられていき、それが十分に蓄えられていくとまたマナ識を浄化しながら意識に上るという好循環が始まるのです。
そのためには気を散らさず集中すること、忘れないようによく記憶すること、好き勝手なことをしたりサボったりしていないで努力すること、過剰な自己防衛をせず素直な心になること、舞い上がったり落ち込んだりしていないで静かな心になること……などがなどのことが必要です。
これからいよいよ、「では、どうすればいいか」、煩悩の浄化のメカニズムと方法と段階について学んでいきますが、ここまででも、唯識ドクターの診断の綿密さと正確さを感じていただけたのではないかと思います。
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