随煩悩17:不正知(ふしょうち)――ありのままを知らないこと

2006年04月30日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩のリストのいちばん最後にあげられているは「不正知(ふしょうち)」です。

 善の心が「信・誠実さ」で始まって「不害・傷つけないこと」で終わることに意味が読み取れたように、随煩悩の心が「忿・怒り」で始まって「不正知・正しいことを知らないこと」に終わることにもただ羅列しただけではない意味があるように思えます。

 つまり、日常的な煩悩のいちばん決定的・最終的なものは、世界と自分のありのまま(如)の姿を知らないことだというのです。

 これまでも見てきたように、人間は自分を中心にものを見ますから、自分のものの見方を正しいと信じ込む強い傾向があります。

 そうしないと確信をもって迷うことなくしっかりと生きていくことができないからです。

 自分の考え方や生き方が正しいかどうか自信をもてなくて迷っているという状態は、とても苦しいものです。

 人間が、自信をもって安心して生きるためには安定したアイデンティティやアイデンティティを支えるコスモロジーを必要とするということ自体は善でも悪でもありません。

 しかし、マナ識に我癡・我見という根本煩悩があるために、意識の基本に癡と悪見という根本煩悩が発生し、意識の表面には不正知という随煩悩が現象するのです。

 多かれ少なかれ、自分(たち)が自分だけで自分だけのために生きているかのように、いつまでも生きられるかのように、自分の大切な面は変わらないかのように思いがちな傾向のある人がほとんどでしょう。

 しかし、もともと一体であるコスモスが分化して統合されたままつながり合っていて、ダイナミックに変化・進化しながら、その時どきに、それぞれの姿を現わしては消え、消えては現われているというのが、ありのままの世界の姿なのでしたね。

 しかし、そういう正しいことを知らず、正しくないことは山ほど知っている(分別知)というのがふつうの人間の基本的姿なのです。

 それによって形成されるアイデンティティは自己中心的で硬直したものになりがちであり、そこにあるコスモロジーはばらばらコスモロジー的な傾向の強いものになります。

 そこからさまざまな正しくない行為・カルマも生まれてきます。

 ですから、逆にいえば、縁起の理法、つながり・かさなりコスモロジーを学ぶことによって、たとえ意識の表面からであっても、不正知が癒され無癡へと変化していき、それがマナ識を一定程度浄化しながらアーラヤ識に蓄えられていき、それが十分に蓄えられていくとまたマナ識を浄化しながら意識に上るという好循環が始まるのです。

 そのためには気を散らさず集中すること、忘れないようによく記憶すること、好き勝手なことをしたりサボったりしていないで努力すること、過剰な自己防衛をせず素直な心になること、舞い上がったり落ち込んだりしていないで静かな心になること……などがなどのことが必要です。

 これからいよいよ、「では、どうすればいいか」、煩悩の浄化のメカニズムと方法と段階について学んでいきますが、ここまででも、唯識ドクターの診断の綿密さと正確さを感じていただけたのではないかと思います。


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緑の福祉社会・シンポジウムの企画

2006年04月29日 | 持続可能な社会
 すでに一部お知らせしていますが、「日本を〈緑の福祉国家〉にしたい」というシンポジウムを企画しています。

 昨日しっかりと話し合った結果、小澤徳太郎先生も喜んで参加・協力してくださるとのことです。

 環境が危ないという情報が溢れている割にははっきりと希望のある方向がほとんど示されていない――と私には見えます――中で、方向指示の決定版になると思います。

 今、前国立環境研究所長の大井玄先生と、小澤先生と、私の3人の合意のポイントは、

 1)エネルギーの無制限な消費を続けることは地球環境そのものの限界からして不可能である(しかしエネルギーの浪費をしなくても、環境・福祉・経済のバランスを取ることが可能であることはスウェーデンで実証されつつある)。

 2)(スウェーデンが典型的であるように)環境問題の根本的な解決には政治・政府主導の方向付けが必要である。

 3)本当に環境・福祉・経済のバランスの取れた〈緑の福祉国家〉を実現するには、それを可能にする国民の文化、指導者の資質という心の問題を視野に入れることが不可欠である。

という3点です。

 もう一人の候補の方とも話し合って、この3点で合意できたら参加していただくかもしれません。

 ともかく、いわば環境の〈ビッグ・ネーム〉に集まっていただくことができるのですから、しっかりと広報活動をして、できれば政治家や環境運動家や各分野の専門家なども含む本気の人を300人集め、シンポジウムの内容は出版し、それを核にしてさらに、方向性・思想のはっきりした環境運動を確立していくスタートにしたいと願っています。

 これは、自分につながる次の世代のために希望ある未来を創出するための、いわば先行投資です。

 そういう意味で、本当の成功には、あらゆる世代の参加・協力が必要です。

 ネット学生のみなさんにも、ぜひ、ご参加・ご協力をお願いします。

 それぞれのブログや口コミなどで、このシンポジウム企画の先行広報、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』の広報、私の「自然成長型文明に向けて」の広報などに協力してください。


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随煩悩16:散乱(さんらん)――気が散っていること

2006年04月28日 | メンタル・ヘルス

 他人事のように話しているように感じられるかもしれませんが、20の随煩悩は私も全部身に覚えのあることなんです。

 今回の「散乱」もまた大いにあって、反省です。

 これは、狭い意味では、坐禅中に集中できなくて、心が静かにならないことです。

 実際にしてみるとよくわかるように、私たちの心はあれこれといろいろなことへ関心をもっていて、なかなか集中できません。

 その「関心」は、基本的に自分にとって損得、好悪などどちらの関わりがあるかを気にするという心です。

 自分を中心にして分別するマナ識に支配されていることは、この場合もはっきりしていますね。

 さらに広い意味でいうと、どちらでもいいこと、どうでもいいこと、あまりよくないこと等々に、いろいろ関心・興味があって、人生の優先事項に集中できないことも含まれるでしょう。

 いわゆる「気が多い」というやつですね。

 気が多い人(私も)は、無常ということ、人生の貸し与えられた時間は有限であるということの自覚が足りないのです。

 人生に、あれもこれも面白そうなことを全部つまみ食いしていられるほど時間がたっぷりあるかのような錯覚を抱いているのです。

 まあ、青春には時間が無限にあるような錯覚がありがちで、それは青春の特権でもあるので、あまり目くじらを立てるつもりはありません。

 親鸞聖人のような宗教的天才なら、幼い時にすでに次のような歌を作って、思い立ったその夜にでも出家するのでしょうが。

  明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは

 なかなかここまでの切実な無常観をもつことは、ふつうの人間には困難です。

 しかしそれにしても、膨大な時間を浪費し相当な年齢になった後で、「ああしておけばよかった」と後悔しないためには、早めに散乱・気が多すぎるという煩悩を反省-克服しておく必要があることはまちがいありません。


 なお、「気が多い」ことと「関心が広い」ことは一見似ていますが、実りがあるかどうかということで区別はできます。

 広い関心は持ったほうがいいですね。

 ムダなことに気を散らすのはやめましょう(←これも自戒です)。

             *

 ところで、「日本を緑の福祉国家にしたい」シンポジウムの件、今日夕方からさっきまで小澤徳太郎先生としっかり話し込み、本格的な合意ができました。

 彼も本気です。

 私も本気です。

 みなさんも本気でしょう?

 なので、面白いことになりそうです。



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随煩悩15:失念(しつねん)――物忘れ・気づきを失った心

2006年04月27日 | メンタル・ヘルス

 「すべてはつながって一つ」ということは、しっかり学ぶと誰でもわかり、納得できる事実だと思います。

 しかし、そのことを学んだ人がほとんど誰でも(私も)体験するのは、学んだその時はわかったような気がしても、ふだんはみごとなほどすっかり忘れているということです。

 そのことにいつも気づいている、いつもその事実が意識にあるという人はめったにいません(いたら、その人こそ覚った人=ブッダなのです)。

 いちおう「物忘れ」と訳しましたが、「失念(しつねん)」というのは正確に言うと、縁起・空という事実が念頭からすっかり去っている心の状態のことです。

 念頭・意識に浮かぶのは妄想・雑念ばかりという状態は、それは間違っているという意味でも、当然悩むことにもなるという意味でも、煩悩です。

 より具体的な実例としては、ぜひご自分の日常を思い出してみてください

 何か悩みにはまりこんでいるとします。

 その時には、100%、法則的にといっていいくらい、縁起・空ということ、あるいは自分とコスモスが一体だということを忘れているのではないでしょうか。

 自分がコスモスと一体であり、悩みの種・問題もコスモスの中での出来事だということが、しっかり意識にあると、悩むにしてもまいってしまうほど過剰に悩んだりはしません。

 10円玉を眼に近づけたり遠ざけたりするワークの時のように、悩み、というより問題を大きなスケールの視野の中に置きなおして見ると、それほど大げさに捉えるほどのことではないと思えてきます。

 すると、冷静になることができ、「どうしたらこの問題を解決できるだろう」と考えることができるようになるはずです。

 しかし、その「はず」がなかなかはずにならないので困ります。

 そして、はずにならないのは、肝腎な時に思い出せないからですね。

 いつでも意識にあるとまでいかなくても、必要な時・肝腎な時にはちゃんと思い出せるようになるには、しっかりと記憶しておく――受動的な記憶ではなく、能動的な記憶として――つまりアーラヤ識に熏習しておく必要があります。

 縁起・空の理法を忘れているのが「失念」、それに気づいているのを「正念(しょうねん)」といいます。

 正念を持続したいですね。



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随煩悩14:不誠実、怠惰、好き勝手な心

2006年04月26日 | メンタル・ヘルス

 随煩悩は、まだ6種類もあります。

 しかし、次の3種類は、それほど詳しく説明する必要はないと思いますので、まとめてお話しておきます。


 とりあえず「不誠実」と訳した「不信(ふしん)」は、善の心である「信」のちょうど反対です。

 これは、仏教という宗教団体に入信しないとか、ゴータマ・ブッダや特定の宗祖などを崇拝しないとか、仏教の教義を信奉しないということではありません。

 そうではなく、マナ識にコントロールされているため、どうしても自分を中心にし、自分の都合や偏見でものを見、事実・真実を素直に認めようとはせず、それに真剣に直面しないという意味で不真面目で、直面しないから当然誠実に実行することもない、という心のことです。

 もちろんその結果として、「縁起」という事実を認めず、自分が自分だけで生きているような気になり、「縁起」の教えという意味での仏教を聞いても信じないということも起こるわけですが。

 (そういう場合、大事なのはまず事実であって、教えは事実を指し示しているかぎりにおいて信じられるべきです。)

 事実に反する考え方や生き方をすると、当然ながら、いろいろ事実からのしっぺ返しがあります。

 何よりも人生を真直ぐに気持ちよく生きていくことができませんから、不信はもちろん煩悩です。


 さらに、自分だけが可愛いと、当然、なるべく自分に楽をさせたくなります。

 自分が楽をすることで、人に苦労や迷惑をかけていても、「知っちゃあいない、関係ない」と思ってしまうのです。

 本当は関係・つながりがあり、だから責任があるにもかかわらず、勝手にサボるのです。

 それが怠惰の心、「懈怠(けだい)」です。

 しかも、今の自分を実体視していて、自分も無常であり変化せざるを得ないことが計算に入っていませんから、今の自分に楽をさせることで、未来の自分にツケが回ってくることも計算に入っていないのです。

 繰り返しですが、自我・私もまた無常で変化するもので、いい言動・カルマはいい変化をもたらし、悪い言動・カルマは悪い変化をもたらすのです。

 周りに迷惑をかけ、自分にもやがて悪い結果をもたらすのですから、懈怠も煩悩というほかありませんね。

 そして、だから、特別覚ろうとはしていなくても、賢く中長期の自分の幸せを考えただけでも勤勉・精進は身のためだということがわかります。


 次の好き勝手にする心、「放逸(ほういつ)」も基本的には同じことです。

 目先の自分の好き勝手にすることは、もちろんまわりの人に迷惑をかけることが多く、やがて関わりの中にある自分に悪い結果をもたらします。

 好き勝手にしていると当座はいい気分かもしれませんが、やがて人から嫌われ、遠ざけられ、黙殺されるようになり、さらには排除され、ひどいと抹殺さえされかねません。

 だから、放逸は煩悩なのです。

 これは、自分と人との好きにすることをうまく調和させて、お互いの好きにすることがお互いのためになるという生き方をするのとはまるで違うことです。

 自分だけの好き勝手ではなく、お互いの、みんなの好きにすることと自分の好きにすることをみごとに調和させて生きられるようになることを、心理学では「自己実現」といいます。

 仏教でいう「自利利他円満」とほとんど同じことですね。

 (自分(だけ)の好きに生きること、いわゆる「ゴーイング・マイ・ウェイ」が「自己実現」だと誤解している人があまりにも多いので、唯識とは別に今「自己実現の心理学」という講座を行なっています。)


 さて、以上、不誠実、怠惰、好き勝手な心が、マナ識に潜む4つの根本煩悩から発生していることはもう十分おわかりになると思います。

 自分の心を見つめて、しっかり自己診断をし、それから治療に取りかかりましょう。

 一歩ずつ、インフォームド・コンセントは続いていきます。

 辛抱強くお付き合いください。



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今日の授業

2006年04月25日 | 持続可能な社会

 気持ちのいい季節なので、学生たちとキャンパス内にある雑木林に行きたいと思っていたのですが、朝雨が降っていて、ダメでした。

 しかし、そのおかげで、日本人の精神荒廃の3段階の1段階めについてしっかり話すことができました。

 私語ゼロでみんな真剣に聞いていました。

 語りながら私自身、「なんと大きな変化を私たち日本人は経験し、大きな失敗もしながら、それでもなんと頑張って乗り越えて来たんだろう」と感動してしまいました。

 学生たちも感動してくれたようです。

 私たち日本人はかつてここまでやれたんだから、次の「緑の福祉国家」に向けての大変容もきっとできる! という気がしてきました。

 ネット学生のみなさんも一緒に学んで、一緒にやりませんか?


☆写真は裏の雑木林のツタです。



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日本を〈緑の福祉国家〉にしよう!

2006年04月24日 | 持続可能な社会



 昨日は、若者たちの手を借りて、サングラハ教育・心理研究所の会報『サングラハ』第86号の発送をしました。

 そして、発送が終わった後で、ミーティングを行ないました。

 この授業でお伝えしているようなコスモロジーを、どうすればもっとたくさんの人に伝えることができるか、そのための機関としての研究所をどうしたら経済的に確立できるか、そのことによって日本全体をよりよい方向に変えることにどう貢献できるかなど、テーマは重く真剣なものでしたが、終始笑いでいっぱいの楽しい雰囲気で徹底的に討論することができました。

 そのための企画の一つとして、研究所の会員であり、会報に連載してくださっている前国立環境研究所所長・東京大学医学部名誉教授の大井玄先生(内諾済)、最近お目にかかったばかりの『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(朝日選書)の著者、小澤徳太郎先生(これから交渉)と筆者の3人、もしくはもうお1人くらいに加わっていただいて、「日本を〈緑の福祉国家〉にしよう!――本当に持続可能な社会を実現するための条件」(仮題)というふうなシンポジウムはどうだろう、という提案をしましたが、ぜひやろうと盛り上りました。

 (企画がまとまったら、またこのブログやサングラハのHPでお知らせします。ご期待ください。)

 その他のことについても、若者諸君は、課題に向けて、決心を新たにしてくれたようです。

 東海道線上りの最終ぎりぎりまで話し合って、家に帰り着いたのは12時過ぎでした(それでもミーティング・ルームを藤沢にしたお陰で、東京での講座よりは1時間以上早く帰れて、還暦まじかの私には助かります)。

 帰って郵便ポストを開けると、会員の甘蔗珠恵子さんの『まだ、まにあうのなら――私の書いた いちばん長い手紙』増補新版(地湧社)と知人の尾崎真奈美さんの『ウィルバー・メッセージ 奇跡の起こし方――みんなつながっていて だれもが正しいんだよ!』(グラフ社)が届いていました。

 前者は「原発はいらない。みんなが気づけば、まだ、まにあう」、後者は「いじめも戦争もなくなるよ、ほんとうに」という、熱いメッセージの本です。

 ネット受講生のみなさん、ぜひ、読んでみてください

 もしかしたら日本も、長い長いあきらめやたかをくくるという停滞の後で、ようやくよりよい社会の実現に向かうほかない、そしてそれは不可能ではない、とみんなが動き始めているのかもしれない、という期待を感じています。

 私も、ちょうど、会報の「学びのことば」というコラムで、以下のようなメッセージを発信したところでした。



  それゆえに、若者よ、国土清浄を欲する菩薩は、自分の心を治め浄めることにつとめるべきである。

  なんとなれば、どのように菩薩の心が浄らかであるかに従って、仏国土の清浄があるからである。 (長尾雅人訳『維摩経』中公文庫より)


  漢訳書き下し

  是の故に宝積(ほうしゃく)、若し、菩薩浄土を得んと欲せば、当に其の心を浄むべし。

  其の心浄きに従って則ち仏土浄し。


 今日本では(そして世界全体でも)、見聞きすればするほど、腹が立ったり、悲しくなったり、気が重くなったり、心が暗くなるようなことが頻発しています。

 このまま行くと、「不幸な人だらけの国・ニッポン」になるのではないかと危惧します。

 「どうしてこんな国になってしまったんだろう?」という疑問形の嘆声をあげる方も多いでしょう。

 また、そこであきらめてしまう人も多いのですが、サングラハに関わってくださる方たちは、あきらめないで、「どうしたらこの国をよくすることができるだろう」と考えておられると思います。

 そして、「国をよくする出発点は自分の心をよくすることだ」という点については、合意してくださっているでしょう。

 いい心・英知のある国民とその代表としてのリーダーがいなければ、国はよくなりません。

 もっといい国にしたいのなら、まず自分の心をよくすることです。

 そして、リーダーの心をよくすることです。

さらに、リーダーの心があまりよくないようなら、少しでもましな心を持った人間が代わってリーダーになるべきです。

 聖徳太子以来(太子は『維摩経義疏』を書いたとされます)、日本は建前としては菩薩がリーダーになるべき国です(拙著『聖徳太子『十七条憲法』を読む――日本の理想』大法輪閣、参照)。

 日本のリーダーは菩薩であるべきだ、と言い換えてもいいでしょう。

 優れたリーダーのいる国は、優れた国になりえます。

 そして今「優れた国」とは、何よりも経済と福祉と環境のバランスのとれた「真に持続可能な国家」を意味する、と私は考えます。

 最近、『スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」』(小澤徳太郎、朝日選書)という本を読んで、衝撃でした。

 どうも、スウェーデンは計画的に着々と「持続可能な国家」の確立に歩を進めているようです。

 そしてそれを可能にしているのは、賢明な国民と賢明なリーダー(財界人も含む)の協力体制であるようです。

 戦後、ひたすら経済偏重で来た日本と、経済と福祉のバランスを考え、さらに環境とのバランスも可能な社会を現実に構築しつつあるスウェーデンの差は、英知・賢明さの違いだと思います。

 しかし、もともと「菩薩」という理想を持っている国日本ですから、その差を埋めることは不可能ではないと思います。

 経済偏重を脱して、バランスのよさ・真に持続可能な国家の構築という点でこそ、ぜひ、「追いつき追い越」したいものです。

 ガンバレ! ニッポン! ガンバレ! 私たち!



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随煩悩13:のぼせたり落ち込んだり動揺する心

2006年04月23日 | メンタル・ヘルス

 掉挙(じょうこ)・のぼせと惛沈(こんじん)・落ち込みは対になった随煩悩です。

 私たちは、自分に都合よくいっている時には、周りが不幸かどうか関係なく、のぼせていい気になり、ルンルンしてしまいます。

 自分に都合が悪いことがあると、自分だけが世界でいちばん不幸なような気がしてきて、落ち込んでしまいます。

 どちらにしても「自分」の都合が原因です。

 その場合、落ち込みが煩悩であることは、誰にでも納得できるでしょう。

 落ち込みが、「軽うつ」、「うつ」という状態にまでなってしまえば、言うまでもなく「心の病」で、深刻な煩悩です。

(補足的コメントですが、うつは「心」の病だと言っても、脳生理の面も大きく、今では非常にいい薬が出来ていますので、治療としては、薬物療法と心理療法を併用するやり方がいいようです。大野裕『うつを治す』PHP新書、参照)

 そして、人によって程度の差や、どちらが多めかという違いはありますが、たいてい誰でも、日々、のぼせと落ち込みの感情の間を行ったり来たり、動揺しているのではないでしょうか。

 感情の大きな浮き沈みが煩悩であるということも、納得できるでしょう。

 のぼせっぱなし、いい気になりっぱなしということができるのなら、のぼせは、人迷惑ではあっても、自分にとっては煩悩ではないように思えるかもしれませんが、そういう幸福な――あるいはおめでたい――人はごく少ないのではないでしょうか(皆無ではないとしても)。

 ここでは、例外的なハッピーな人のことは置いておきます。

 私たちが、自分(の都合)を中心にして生きているかぎり、人生には落ち込む種はいっぱいありますし(四苦八苦)、時々はいいことがあるにしても、のぼせと落ち込みの浮き沈みは避けられません。

 もちろん適度な上下なら人生の味わいですが、過剰な浮き沈みは煩悩です。

 落ち込みや過剰な浮き沈みという感情に悩まされている人の薬は、知恵から生れる「平静さ」です。

 この「平静さ」というのは、心理学的に言えば、退屈で平坦な無感情・無感動のことではなく、適度でゆるやかな上下のリズムのある、ややハイ気味の、爽やかな状態が持続していることだと思います。

 そういう平静さを得る方法としては、論理療法、コスモス・セラピー、それからもちろん唯識と坐禅などをお勧めします。

 いずれも、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所で随時講座を開いています。



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随煩悩12:無慚(むざん)、無愧(むき)――反省しない心

2006年04月22日 | メンタル・ヘルス

 無慚と無愧は、善の心である慚と愧のちょうど逆の心です。

 復習しておくと、慚は自ら振り返って反省する心、愧は他に照らして反省する心でした。

 自我も含めすべては絶えずダイナミックに変化している存在ですが、マナ識は変わることのない実体としての自我があると思い込んでいます(我見)。

 そのために、心理学用語でいう「アイデンティティ」というのはいったん出来上がってしまうときわめて変わりにくいのです。

 出来上がったアイデンティティのパターンつまりパーソナリティが自分そのものだと思い、それを依りどころにし、頼り、誇りにし(我慢)、それに執着してしまいます(我愛)。

 そういうマナ識にコントロールされた意識は、どうしても自分にこだわってしまう強い傾向を持っています。

 こだわることにはもちろん、「自分はこういう人間だ」、「自分はこれでいい」、「自分を変える必要はない」、「自分を変えたくない」と思うことが含まれています。

 つまり、人間は、事実としてよくてもよくなくても――「よい」には倫理的な善、社会的に適応している、幸福であるという3つの意味が含まれると思いますが――「自分はこれでいい」、「なぜ自分を変える必要があるんだ」と思いたくなる生き物だということです。

 そのため、自分で自分の姿を振り返って、「今の自分のあり方や行動はよくない」と反省するのが難しいのです。

 こちらから見ると、明らかに倫理的に悪い、あるいは社会的に不適応である、あるいは本人自身不幸であるというパーソナリティのパターンを持っている人が、それでも変わりたがらないというのは、よくある現象ですね。

 特に不幸な自分のパターンにしがみついている人を見ると、不思議なような気もします。

 それから、社会の常識やエチケットやモラルに照らして、「愧じるべき言動をしたな」と反省するのは、自分を否定することのように思えて、いい気持ちではありませんから、認めたくなくなるのです。

 しかし、事実は自我もまた無常であり、変化するもので、しかも、いい方向にも悪い方向にも変化する可能性があります。

 今までの自分の行動・カルマが今の自分を作っており、今からのカルマが次の自分を作っていきます。

 よいカルマは新しいよりよい自分を、悪いカルマは新しいより悪い自分を作るのです。

 「自分」というものが変化するものであることを自覚し、その変化の善し悪しをきめるのは自分のカルマだということに気づけば、反省しやすくなるでしょう。

 これまでのカルマの集積としての自分がいろいろな意味で悪い(倫理的に悪、社会的に不適応、不幸)と自覚しても、「自分はダメだ」と実体的に決めつける必要はないのです。

 自分も無常、ダメも無常ですから、変化しうるのです。

 これまでがダメだったと自覚したら、これからダメでない方へと方向転換をし、変化すればいいし、できるのです。

 反省は、いい方向へ転換・変化するためのスタートです。

 反省できないと、自分のためにも他者のためにもならないよくない(悪、不適応、不幸な)生き方を続けるほかありません。

 そういう意味で、無慚・無愧は、自分にとっても周りの人にとってもまちがいなく煩悩だと思います。

 無慚・無愧という心の病の薬は、単純明快、慚・愧です。

 慚愧・反省という薬は、時にはちょっと苦いこともありますが、確実にこれからの自分をよりよくできる、回復させてくれるのですから、飲んだほうが身のためですね。


 念のため、後ろ向きに「ああしなければよかったのに」とただ後悔することと、いったん後ろを振り返ってからもう一度前向きになって「あれはよくなかった。ああいうことはやめよう。これからはこうしよう」と反省するのは全然別のことです。

 反省は役に立つのでできるだけしましょう。後悔は役に立たないのでやめたほうがいいと思います。

 「反省すれども、後悔せず」というのは、私のモットーの1つです。



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随煩悩11:おごり高ぶり――にせものの過剰な自信

2006年04月21日 | メンタル・ヘルス
 自他が分離していると思うと自他の比較が起こります。

 比較した場合、もちろん自分のほうが上だと思いたいに決まっています。

 そういう比較して上だと思いたいという基本的な気持ち(慢)があると、日々実際にもそういう感情が起こります。

 それが随煩悩の1つ、「憍(きょう)」です。

 現代風に言えば「優越感」ですね。

 優越感が硬直すると「傲慢」になります。

 客観的な根拠もないのに優越感に浸っているのは「自惚れ」と言います。

 客観的根拠はあるけれども自分のことしか認めないのを「ナルシシズム」というのでしたね。

 そうしたにせものの過剰な自信は、状況によって崩れがちであること、実は心の奥に不安を秘めていること、中長期には人に嫌われていくこと、したがって揺らいでしまうこと、揺らいでしまうような自信は「本当の自信」とはいえないということ、などについては、かつてかなりていねいにお話ししたとおりです。

 しかし、「いい気になる」という言葉が的確に表現しているとおり、おごり高ぶっている最中は本人の意識上には確かに快感があるのですから――身に覚えがあります――人間はなかなか複雑で厄介です。

 煩悩が「煩悩」つまり煩わせ悩ませるものであるということは、当面の当人の意識のことだけを見るとなかなか納得できません。

 まわりの人との関係の中での、長い期間の、無意識の領域まで見た時の、本当の心の安らかさや満足という物差しで計った時初めて、ごく当たり前に見え、「それでいいじゃないか」とか「しかたないじゃないか」と思えていた人間の感情が、実は煩悩であり、心の病であることがはっきりするのですね。

 煩悩がやがて「死に到る病」である深刻な慢性病にも譬えられるものでありながら、長い歴史の中で、人類社会全体での治療の取り組みがなされてこなかったのには、そういう症状の自覚が出にくいという理由があったのだろう、と私は推測しています。

 しかし、もうそろそろ本格的に治療に取り組まないと、人類全体が末期症状を呈しつつありますから、手遅れになるのではないかと思います。

 手遅れになる前に、自覚して、みんなで治療に取り組んだほうがいいんじゃないでしょうか。


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随煩悩10:害(がい)――能動的・積極的に人を否定する心

2006年04月20日 | メンタル・ヘルス

 もう1つの随煩悩、「害(がい)」は、善の「不害」とちょうど逆の心の働きです。

 人は人にさまざまなかたちで害を加えたいと思うことがあり、また実際害を加えます。

 いじめや暴力や殺人から戦争まで程度には大きな幅がありますが、そこには人が人を否定する――しかも能動的・積極的に――心があるという点に関してはまったく同質です。

 では、なぜ人は人を否定するのでしょうか?

 個々のケースには実にさまざまで複雑な事情がありますが、基本はまったく同じであることは、ここまで唯識を学んできたみなさんには、よくおわかりのことと思います。

 非常に大切なことなので、改めて復習してみましょう。

 害を加えたいという気持ちは、他の随煩悩、怒り恨み悩ませることともつながっています。

 そして、その背後には、意識上の根本煩悩のほとんどが関わっています。

 まず、人と自分が分離しているという思い込み、一体性へのまったくの無知、愚かさ・「」がベースです。

 そして、自分の都合の悪いことがあればいつでも腹を立てる可能性としての「」の心がありますから、ちょっとしたきっかけさえあれば、すぐに怒り、悩ませ、害を加えようという気持ちが起こります。

 自分の利益へ過剰に執着する「」の心がありますから、ちょっとでも自分の利益が害されたら、徹底的に害し返してやるという気持ちになりがちです。

 また他と自分を比較して自分のほうが上だと思いたい「」の心がありますから、プライドを傷つけられた、面子をつぶされた、バカにされたなどなどと、腹を立て、プライドを傷つけられたのだから、こちらには傷つけ返す権利があると思ったりするわけです。

 まちがった思い込みの「悪見」のうち、特に特定のものの見方への執着である「見取見」と特定の戒律、禁止事項、モラルなどへのこだわりである「戒禁取見」があるので、自分の意見・思想や倫理感に合わない人には、「許せない」、「そういう考え方をするべきではない」、「そういう考えをする人間は存在しないでほしい」から始まって、「存在するべきではない」、「存在させないようにしたい」、「存在させないようにする」という完全否定・殺意にまで到ります。

 その奥には、自分(たち)と他者がつながって一体のコスモスであることへの根源的無知・我癡、それどころか自分(たち)が実体であるという思い込み・我見、そして自分(たち)こそがすべての依りどころだという思い・我慢、そういう自分たちがいちばん大切で可愛いという執着・我愛という、4つのマナ識の根本煩悩がまぎれもなく働いています。

 マナ識を抱えた人間は、我愛の延長・拡大として自分(たち)に都合のいい人を愛することはできるのですが、都合の悪い人は、どうしても否定したくなるのです。

 そして、すべての人が自分(たち)の都合のいいようになるということはありえませんから、いつまでたっても害し合うこと・争いは絶えません。

 マナ識を抱えた人類が、歴史始まって以来、あるいは歴史以前から、こちらは自分たち、あちらは自分たちではないグループというふうに分かれて、傷つけ合い、戦争をしてきたのは、そういう意味では当然であり、止むを得ない――これは「止められない」という意味ですね――ことであり、どうしようもないことかもしれません。

 仏教、とりわけ唯識を学んで、私は幼い頃からの、「人間はなぜ戦争をするのか? なぜやめられないのか?」という切実な疑問への、実に明快な答えを得たという感じがしました。

 「人間はマナ識があるから戦争をする。マナ識があるかぎり戦争はやめられない」と。

 平和条約を結んでも、平和運動をしても、国際連盟を作っても、国際連合を作っても……マナ識があるかぎり、永続的な平和はやってこないでしょう。とても残念ですが。

 が、しかし、です。

 マナ識が浄化できるのなら、永続的平和は可能です。

 少なくとも、そのための心理的条件は調います(他にもちろん政治的、経済的、文化・社会的などなどの条件も必要ですが)。

 そして、唯識は、「やりようによっては、マナ識は浄化できる」と言っているのですから、本気で平和を望むのなら、頭から信じる必要はありませんが、まずなぜそう言うのか、話を聞いてみるだけの価値はあると思うのです。

 「日本は今のところそこそこ平和だから、そんなめんどくさいことなんか、いいや」とタカをくくったり、「世界全体の永続的平和なんて、不可能だ」とあきらめたりする前に、永続的な平和を可能にする心の条件について、できるだけたくさんの方に考えていただきたい、というのがこのブログ授業の大きな目的の1つです。


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随煩悩9:諂(てん)――こびへつらう心

2006年04月19日 | メンタル・ヘルス

 実のところ、これまで書いてきた何冊もの唯識の本の中でも、随煩悩についてこんなに詳しく触れたことはありませんでした。

 しかし今回は、なぜか詳しく書いています。

 なぜなんでしょうね?

 自分で考えてみておそらく、現代という時代がきわめて病んでいて、その病のさまざまな症状は無明・分別知を基にして築かれてきた文明というものが最高度に発達した結果として生まれている、と捉えていることから来ているようです。

 ここで、症状をしっかり確認し、病名も病因も明らかにして、できるだけ多くの方に治療する気になっていただきたい、と半ば意識的、半ば無意識的な意図で、随煩悩について、かなり踏み込んだインフォームド・コンセントの手続きをしているということのようです。

 「ということのようです」と、やや無責任な言い方をしましたが、ここで「ということです」と自覚-責任をもって、改めてみなさんにお知らせします。

 まだ20の随煩悩のうち7つしか取り上げていないので、まだ13も残っていますが、みなさん、がんばってください。

 「こんなに深刻、でもだいじょうぶ、治ります」というのが、唯識のメッセージですから。


 さて、今回は「諂(てん)」、こびへつらう心です。

 これは、人類(の文明社会)が、硬直した階層・ヒエラルキーのある社会――私は「無明のピラミッド」と呼んでいます――を形成するようになって以来、おそらく1万年以上、集団の下に置かれた人間がずっと悩まされてきた煩悩です。

 自己防衛のためには、自分より強い人間にはこびへつらい、ゴマをすらないと生きていけません。

 「長いものには巻かれろ」とか「寄らば大樹の陰」ということわざもあります。

 「平等」が建前になった民主主義国日本でも、社会の現場では、へつらい、下手に出、愛想笑いをし、お世辞やお追従を言い、上の人がどんなにまちがっていると思ってもイエス・マンになったりしなければ、生き延びられない(地位や収入を維持できない)ことが、信じられないくらい日常的に頻繁です。

 「諂(てん)」は、こびへつらうために真実を曲げるという意味で、詳しくは「諂曲(てんごく)」とも言われます。

 「てんごく」どころか、ほとんど地獄ですね(駄洒落です、言うまでもなく)。

 この「諂」と「」が重なると、例えば組織や上司の犯罪に関して「証拠隠滅」に協力する、あるいは少なくとも見て見ぬふりをするということになります。

 自己防衛が行き過ぎると不当な「自己保身」になってしまいます。

 それに対して「」の心が勝つと、「内部告発」という勇気ある行為になります。

 しかし、内部告発は下手をすると「組織破壊」になり失業という結果を招きかねませんから、とてもつらいものがあります。

 大変なエネルギーのいる転職をしなければならないこともあるでしょう。

 そうした難しい個々のケースについて、ここでお話しすることはできませんが、より一般的な原則だけは言えると思います。

 人間の社会全体が分別知・無明をベースにして営まれている凡夫の娑婆世界であるかぎり、そこで生き延びるにはやむを得ない妥協、許容範囲の「自己防衛」はあっていいけれども、これ以上はまずい行き過ぎた「自己保身」という段階になったらできるだけ止めたほうがいい、ということです。

 正当あるいは許容範囲の「自己防衛」と過剰で卑怯な「自己保身」は実際の場面では限りなくグラデーションですから、境目の見極めはかなり難しいとは思いますが、原則だけでもしっかり摑んでいれば、決断のヒントになるのではないかと思います。

 それからまちがえていけないのは、役割に限定された上下関係というのはどんな理想的な平等社会でも必要なものであり、そういう場合に上の人に「従う」ということは、当然のことであって、「諂」・へつらい・随煩悩ではありません。

 言葉で区別すれば、「従順」はいいことで、「追従(ついしょう)」はあまりいいことではない、と言えばいくらかわかりやすいでしょうか。

 ともかく、こびへつらいというつまらない悩みはしたくない、しなくても生きていける世の中にしたい、と思いますね。


 改めて、「4つの大きな願い」を思い出します。

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。



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随煩悩8:誑(おう)――だますこと

2006年04月18日 | メンタル・ヘルス

 人をだますことは倫理的に悪であり、詐欺になると犯罪であることは、誰でもわかっているでしょう。

 しかし、わかっていればやらないかというとそうではありません。

 詐欺をやる人間は、それが犯罪だとわかっていてやるのです。

 なぜ、犯罪だとわかっていてやるのでしょうか?

 ここまで学んできた方には、もう明快だと思いますが、念のため簡単にコメントしておきましょう。

 それは、詐欺をやってお金などを人からだましとったら自分が儲かる、得すると思うからですね。

 そこには、人と自分が分離しており、他人が損をしても自分は損でないどころか得をするのだという考えがあります。

 そこにはまず分別知・無明があり、自分の利益のためなら何でもしてしまいがちな我愛の心があり、そして自分のものをできるだけたくさん欲しいという貪りの心があります。

 特に現代人の多くは、死んだらおしまいで、地獄も極楽もありはしないと思っていますから、誰も見てなければ、ばれなければ、やったもの勝ちだと思っているようです。

 お年寄りの保険金や年金を狙った詐欺、家族の気持ちを利用したオレオレ詐欺など、昔の日本ではあまり(まったくではないにしても)考えられないタイプの犯罪が増えているのは、神話的仏教が信じられなくなったことが大きく影響しています。

 うまくだましてばれなければ、今生での報いはないし、死んだらおしまいだから来生での報いもない、と思い込んでいるのですね。

 しかし、ほんとうにそうなのでしょうか?

 そうではありません。どんなにうまくやって隠しても、自分の心にはばれています。

 誰が知らなくても自分は知っているし、誰が見ていなくても自分の心の眼は見ています。

 そして何よりも、やったことの残存影響力つまりカルマは、自分の心の底つまりアーラヤ識に必ず溜まっていきます。ヘドロのように汚く重苦しくドロドロと。

 溜まったカルマは、魂・アーラヤ識を腐らせます。

 たとえ今は痛みが自覚されなくても、魂が腐るというのは、まさに病であり、そういう意味で煩悩であり、報いを受けているのですね。

 最近、詐欺罪を働いて、ばれても平然としているように見える人が、ちょいちょいテレビなどで報道されます。

 あれは、ほんとうに平然としているのか、平静を装っているのか、どちらでしょう?

 どちらであるにしても、居直ったり、居丈高になったり、つっぱったりして、心の痛みを無理やり抑圧しているのだ、と私は解釈しています。

 無理やり抑圧するというのは、余分な心のエネルギーを浪費して、まったく苦労な話です。

 同じ有限の人生なのだから、軽やかに爽やかに、心豊かに生きるほうが、はるかに得なのになあ、得をするつもりで最高に損な選択をしているよなあ、まったく愚かだなあ、と思ってしまいます。



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随煩悩7:慳(けん)――自分のものにこだわる心

2006年04月17日 | 心の教育

 煩悩の学びをしていると、「どこまで続くこのぬかるみ」という気分がしてきて、あまりうれしくないので、まずちょっとコーヒー・ブレイク的な話をしましょう。

 唯識の代表的な古典の一つ『摂大乗論』(漢訳からの現代語訳を私と青森公立大学の羽矢辰夫先生とでしています。『摂大乗論 現代語訳』コスモス・ライブラリー刊、星雲社発売)のいちばん初めに次のような言葉があります。

 この〔心の〕領域は、始めのない過去以来、すべての存在の依りどころであり、これがあるからこそ、生命の〔6つの〕種類(六道)があり、また涅槃を得るということもある。

 これまで見てきたように(さらにもうしばらく見ていくように)、私たち人間がほとんどみな、多様で深刻な煩悩を抱えていることは確かです。

 しかし、随煩悩があるということは、意識に根本煩悩があるということであり、ということはマナ識があって根本煩悩があるということであり、さらにそれはアーラヤ識があるということです。

 「この〔心の〕領域」とはアーラヤ識のことで、唯識によれば、人間はアーラヤ識を抱えているために六道という迷いの生を輪廻するのですが、アーラヤ識があるからこそ涅槃を得る=覚ることもできる、というのです。

 ということは、ちょっと逆説的(パラドキシカル)な言い方をすれば、いろいろな煩悩を抱えているということは、やりようによっては覚れるという潜在可能性を抱えているということでもあるのです。

 ですから、煩悩について詳しく学んでいても、落ち込む必要はありません。

 「そうか、これだけ煩悩がいっぱいだということは、覚りの可能性もいっぱいだということなんだ」と思いながら学んでください。

 ちょっと、気休めでした。


 さて、今日のテーマは「慳(けん)」です。

 いちおう物惜しみ・けちな心ということですが、これはより深くは「自分のものにこだわる心」と訳すことができます。

 私たちが、今自分に余っていても困っている人にあげようと思わなかったりするのは、まず人のことを自分とは分離した他人・別人と思っているからです。

 自分のものを自分の右手から左手に移すことなら、何のためらいもないでしょう。

 一体だと思っていないから、自分のものを人にあげたら自分のところから無くなると思って、けちな心が起こるのですね。

 あ、他人事みたいに言っているようですが、私も身に覚えがあるんですよ。

 それから、自分というものを実体である・あってほしいと思っているので、自分を守りたくなるんです。

 そして、実体としての物が実体としての自分を守ってくれると思うので、こだわり執着して、物惜しみをするわけです。

 つまり、貪りという根本煩悩から物惜しみという随煩悩が発生するのです。

 その奥には、自分を実体視し過剰に自己防衛的になる心である我癡や我愛が働いています。

 しかし、過剰な自己防衛は必然的に不安を伴います。

 不安は、いうまでもなく自分を深いところで煩わせ悩ませる煩悩です。

 さらに、けちなことをしていると人から嫌われるという意味でも、物惜しみは煩悩をもたらすでしょう。

 物惜しみはすればするほど、自分を守ることができて安心になるのではなく、かえって不安が募り、人から嫌われるだけなのですが、私たちはなかなかそのことに気づけないようです。

 安らかに、爽やかに生きたいのなら、物を自分だけで所有・保持することにこだわらず、コスモスのものをコスモスのそれぞれの部分(自他)のために、その時々にふさわしく、活かして用いる・活用する、という心がまえでいたほうがいいようです。

 「そんなことがこの私有制度を大前提にした資本主義社会の日本でできるのか? そんなことをしたら損をするのではないか?」という反論的疑問がありそうですね。

 「私たちが、ほんとうの意味で賢ければ、不可能ではありません。そうしたほうが、深い意味で得な人生を送れると思います」というのが、それに対する私の答えですが、詳しい話はこの授業の範囲を超えるので、興味のある方はよろしければ研究所の講座などにお出かけいただいて、ご質問いただけると幸いです。



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奥入瀬はこんなに美しい1

2006年04月16日 | 心の教育




  奥入瀬・八甲田山ワークショップへみんなで行こう!


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