だれでもできる坐禅入門

2011年02月27日 | 広報
*2月21日現在、定員に達しましたので、お申し込みを締め切りにさせていただきます。


 まったく初心の方のためのやさしい坐禅入門の講座です。

 痛い思いや恐い思いをしないで(柔軟体操付、警策なし)、坐禅の仕方を覚えていただけるよう、サングラハ式のソフトトレーニングでご指導申し上げます。

 どうぞ、気軽にお出かけ下さい。

 日時:2月27日(日)13時~17時半頃

 場所:サングラハ教育・心理研究所 藤沢ミーティングルーム(JR、小田急、藤沢駅北口から徒歩5分)

 参加費(資料代):学生1000円、一般2000円(当日でけっこうです)

 *坐禅のできるような緩やかな服装をご用意下さい(着替えスペースあり)。

 お申し込みは、メール:okano@smgrh.gr.jp か、ファックス:0466-86-1824 サングラハ教育・心理研究所宛で。


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第34期講座案内

2011年02月26日 | 広報

 きびしい時代のなかにあっても、決してくじけることのない心はどのようにして得ることができるか――根本的な心の姿勢と具体的な方法を提供する2つの講座です。


火曜講座:『維摩経』を学ぶ 4

           於 藤沢ミーティングルーム 火曜日 18時45分~20時45分 
           1/25、2/8、22、3/8、22 計5回


 初期大乗仏教の代表的な経典『維摩経』の学びの第4期。経典の主人公維摩詰(ヴィマラキールティ)は、ブッダと同時代の居士つまり在家の仏教徒で、大商人でありながら、ブッダの弟子たちよりもはるかに深い覚りの境地にあったとされています。

 第1期のイントロダクション、第2期のブッダの弟子たちが維摩居士の病気見舞いに行くのをためらったという部分が終わり、第3期は菩薩たちもためらったという「菩薩品」から文殊菩薩がみなを連れて見舞いにいく「問疾品」、第4期は「不思議品」に入り、いよいよ深く大乗仏教の真髄に触れていきます。

 講座は継続していますが、途中からでもわかるように講義していきますし、ご希望の方は第1~3期の講義も、CD、DVDで聴くことができます。途中からの方も、ぜひお出かけください。

テキスト:コピーを配布します。

*火曜講座では、講義の前に三〇分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


木曜講座:ポジティヴ・シンキングの心理学

            於 藤沢ミーティングルーム 木曜日 18時45分~20時45分
            1/20、2/3、17、3/3、17 計5回

 前期は、今まさに必要とされる、どんなにきびしい状況のなかでも前向きに積極的に生きていくことのできる強い心を育む理論と方法をお伝えしましたが、今回は、引き続きD・チョプラのポジティヴ・シンキングをしっかりとした心理学的な根拠を明らかにしながら、ご一緒に学んでいきます。初めての方にもリピーターの方にもきっといい人生の大きなヒントになるはずです。どうぞ、お出かけください。

テキスト:チョプラ『人生に奇跡をもたらす7つの方法』PHP研究所

●受講料は一回当たり、
一般3千5百円 ・会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 
 それぞれに×回数分です。都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
E-mail: okano@smgrh.gr.jpまたはFax: 0466-86-1824で。
住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。

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サングラハ第115号が出ました

2011年02月13日 | 広報

 先日、『サングラハ』第115号が出ました。

 今回の筆者の主な文章は、スウェーデンがなぜすばらしい福祉国家をつくることができたのか、古代から近代までの歴史を概観するものです。

 現在の日本の混迷をどうすればいいのか、スウェーデン・モデルが大きなヒントになるというのは何度も繰り返してきたことですが、では、なぜスウェーデンにできて日本にできなかったのかということが今回の文章でよくわかっていただけるのではないかと思っています。

 なぜできたか、できなかったかがわかるということは、次にではどうすればできるようになるのかを考えるための基本になります。

 これからの日本を「どうにかしなければ」と思っている方には必ず参考になるはずです。ぜひ、ご購読ください。






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唯識心理学の教育的・セラピー的効果

2011年02月08日 | いのちの大切さ

 先日、伝統のある大手の出版社から大きな心理学辞典の「唯識心理学」という項目の執筆依頼が届きました。

 すでに他にも「唯識」の項目が入った小さめの心理学辞典はあり、項目執筆をしたことがあるのですが、さすがに「唯識心理学」は初めてです。

 心理学の専門家が監修する大型辞典に載るということは、「唯識は大乗仏教の深層心理学だ」という私の主張がアカデミックな世界にも認められるようになってきたということだと思われ、「やっとそういう時代になったんだなあ」という感慨がありました。

 コスモロジーと唯識を組み合わせた講義が教育的・セラピー的効果をもたらすことは、繰り返し報告してきたとおりです。

 例えば、教えている3つの大学のうち最後になったM大学の「仏教心理論」のクラスも今週の補講で終わりますが、先週すでにレポートを提出した2年生の女子学生が次のような感想を書いてくれました。


 前期、後期を通して授業を受けて、仏教に対する暗い・古いというイメージが変わったのはもちろん、なにより自分の中の心の変化が大きかった。今までの私は周りとのつながり、ましてや宇宙とのつながりなんて考えたことはなかった。しかし、授業で「私は私でないものによって私であることができる」という先生の言葉を聞いて、つながっていることのすごさ、大切さ、ありがたさを感じるようになった。このことにより、前は嫌いだった雨も少しは好きになれたし、周りの人の成功やよろこびにすこし嫉妬を感じたりしてけど、今は一緒に素直によろこべるようになってきた。また、前はなかなか家族に言えなかった心からの「ありがとう」を伝えられるようになった。周りからしたら当たり前で、ちょっとしたことかもしれないけど、私にとっては大きな変化、成長である。正直、はじめは単位のために受けていたこの授業も、気づけば興味を持つようになっていたし、1回1回の授業が私にとってのプラスとなっていた。この授業を受けれたことをムダにしないために、普段の生活の中に七施を取り入れてみたり、ふと、周りとのつながりを心から感じられる時間を持つことができればいいと思う。普段は授業後に教科書を開くことのない私。でもきっとこの教科書は読み返す日が来ると思う。良いことを多く書いたので、逆にウソのように感じられてしまうかもしれないが、私はこの授業を受けられたことが生活のプラスになり、すごくうれしく、先生の授業に巡り会えたつながりに感謝している。1回も欠席していない私にとって、10日の最後の授業に用事で出席できないことだけがすごく残念ですが、毎回の先生のお説教っぽい所がうれしかった。これからも体に気をつけて、このすばらしい授業を続けてほしいです。1年間ありがとうございました。


 読みながら、「良いことを多く書いたので、逆にウソのように感じられてしまうかもしれないが」という言葉に、思わずにやにやしてしまいました。

 確かにちっとも授業に出席していないし、あまり内容を理解していると思えない学生がいいことばかり書くと、お世辞・ウソと思わざるをえませんし、そういうのもある程度はあるのですが、上記の学生の場合はAプラス評価のレポートの最後に書いてくれたものですから、信用していいでしょう。

 もう一つうれしかったのは、「毎回の先生のお説教っぽいのがうれしかった」という言葉です。

 もちろん反発する学生もいますが、全体として若者たちは上の世代に「どう生きるべきか」、根拠のあることを自信を持って語ってくれることを期待していると思います。

 私は、告知と合意(インフォームド・コンセント)の手続きとして、年度・学期の最初の授業で、「この授業を受けたら、一年または半年ずっと親父の説教を聞かされることになります。説教のいやな人は受講しないように」と言うことにしていますが、それでも受ける学生は全体としてずっと増え続けているのを見ると(今年はそうとうきついことを言って少し減らすことができましたが)、そうとう多くの若者が求めていると考えてまちがいないでしょう。

 もうまもなく64歳、来年は高齢者、20歳前後の彼ら、彼女らにとって、お祖父ちゃんでもいいくらいの歳にいつの間にかなってしまいました。

 しかし、「これからも体に気をつけて、このすばらしい授業を続けてほしいです」という孫のような言葉に励まされて、来年度もしっかり「親父の説教」、いやそろそろ「お祖父ちゃんのお説教」を続けようと思っています。


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最終授業:キリスト教・神秘主義・現代科学

2011年02月02日 | 心の教育

 妻の母の逝去のため、O大学は学期の終わり近くで休講したため、休みに入ってから補講をしました。

 予定のある学生たちも多いと思われるので、補講は出席数にカウントせず自主判断に任せました。ただし、「出ても出なくても成績評価には関係させないけど、結論だから、ちょっと無理しても聞いたほうがお得だと思うけどね」というコメント付きです。

 最終授業を聞いた学生の一人からは、次のような感想がありました。


 O大学1年女子
 この最後の講義で、「あ、全部つながった」と感じました。この15回の授業も、先生の話もです。つながり、みんな一つ、宇宙の一つ。
 コスモロジーは、きっと、数学よりも英語よりも、私たち人間が学ばないといけないもの。私は、そう思いました。
 秋学期、本当にありがとうございました。

 この学生はレポートの最後の感想には、次のように書いてくれました。


 正直に言うと、今までの私は、下を向いて人生を歩んできた気がします。
 でも、先生の授業を受けたおかげで、前を向いて生きていけると思いました。
 本当にありがとうございました。スペースがなくて、書ききれないけど、感謝の気持ちでいっぱいです。


 こちらこそ、学んでくれてありがとう、感謝です。授業の目的「伝えたいいのちの意味」が伝わったようですね。教師にとって学生が育ってくれることほどうれしいことはありません。

 今、こうしたうれしいレポートや、ちょっとがっかりするレポートなど、たくさんの採点に忙殺されています。

 長くなりますが、ご参考に、最終授業のレジュメを以下に掲載しておきます。


   キリスト教・神秘主義・現代科学

 キリスト教の正統的教義では、「神と人間とは絶対的に断絶していて、神の側からの働きかけ(キリスト)によってのみ救われる」とされています。

 使徒信条 現代語訳

 天地の創造主、 全能の父である神を信じます。
 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。


 筆者は、かつて以下のように書きました(『コスモロジーの創造』法蔵館、二〇〇〇年、一部改訂)
 「…〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での「信仰」と「服従」を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。
 これには、別にオウム真理教だけではなく、私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」ではない)。もちろん、競争相手としてのオウムの没落を喜んでいるらしい他の宗教も含む。そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。」

 こうした宗教は、もし信じることができると非常に強い心情を持つことができるし、また信仰を共有する人同士では強い連帯をすることができます。
 非常に合理主義化された現代でも宗教がなくならない最大の理由は、宗教に個人としても集団としてもきわめて強いアイデンティティを保障してくれるという機能があることでしょう。
 しかし、神話をベースにした宗教には次のような根本的な限界があります。

 「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。  自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。
 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。
 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。
 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。
 それが「宗教」だけではなくすべてのイデオロギーに秘められた心情の問題であることは、すでに、ナチズムや日本の天皇制ファシズム、共産圏におけるスターリニズムの悲劇的な現象などによって、明確になったのではないだろうか。とりわけ日本では、一九六〇年代末から七〇年代始めの新左翼の内ゲバ事件、なによりも連合赤軍浅間山荘事件によって、社会的なイメージ、常識として、あまりにも明らかになった、と私は思っていた。が、かならずしも市民全体のレベルではそうでもなかったらしい。
 ……つまり、オウム事件の根本にあるのも、〈宗教的心情〉の問題であり、それはほとんどの宗教―イデオロギーの抱えている限界でもある。
 「絶対に正しい我々が、絶対にまちがったあいつらを改宗させるか、さもなければ全滅させることによって、正しい、すばらしいユートピアがやってくる」(かつて埴谷雄高がいった言葉を借りれば「あいつは敵だあいつを殺せ」)というタイプの思考システムと、それが生み出す心情は、程度の差はあれ必ずといっていいほど、憎悪―闘争―虐殺をもたらすがゆえに、もはや、人類の未来にとって、それこそ絶対に無効―有害である。
 その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判――これは唯物論を含むイデオロギー全体の批判でもあるはずですが――の言葉は、あまりにも古典的なようだが、きわめて的確に指摘していると思う。

 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける。信ずる人は浄福であり、信じない人は不幸であり見捨てられており罰せられている。したがって、宗教は理性に訴えないで心情に訴え、また幸福に訴え、恐怖と希望との激情に訴える。宗教は理論的立場に立っていない。(邦訳下、七頁)

 ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(同、一二二頁)

 ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、一二六~一二七頁)

 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。」

 ところが、キリスト教と呼ばれる宗教現象はけっして一種類ではなく、その伝統の中には「キリスト教神秘主義」と呼ばれるものがあり(パリンダー『神秘主義』講談社学術文庫、第一二章「キリスト教の多様性」参照)、その教えは説く人によってかなりニュアンスは違いますが、おおまかにいえば、「神と人間は本来は一つであり、また一つになることができる」とされています。
 また解釈の仕方によっては、イエス(福音書)もパウロもヨハネも神秘思想家と理解できるような言葉を残しています。
 福音書:「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などと言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカによる福音書一七・二一)、「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書一〇・三〇)
 パウロ:「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙二・二〇)
 ヨハネ:「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
 さらに、一三世紀のキリスト教神秘主義の代表的な思想家と評価されているマイスター・エックハルトは、「神は絶対無である」としており、その思想は仏教とほとんど同じではないかと評されることがしばしばあります(西谷啓治『神と絶対無』創文社版著作集 所収、上田閑照『エックハルト』講談社学術文庫、等参照)
 宇宙の創造者であり絶対無でもある「神」という概念が指し示そうとしているのは、仏教で「仏・空・一如」という概念で指し示されている事柄とも、また現代科学が語る私たちと一体である「宇宙」ともほとんど同じである、と私は考えています。
 もしそう考えていいとすれば、現代においては、神秘主義的なキリスト教(やユダヤ教、イスラム教など)と仏教といういわゆる「宗教」のエッセンス(霊性的宗教)と現代科学の描き出すコスモロジーは基本的にはみごとに調和するという状況がやってきているわけです。
 また、そうした霊性的宗教のエッセンスと現代科学の調和点から描き出されるコスモロジーはどこまでも理性・科学的に検証した上で受け入れるかどうかを決めることができるという点で、理性段階以上に発達した人類においてはきわめて広く共有ができると推測できますから、これまでの宗教やイデオロギーと異なって対立・抗争をもたらすことなく、人類規模の平和をもたらす可能性が高いと思われます。

コメント (5)
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