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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

耳がよくない

2017-12-14 | Weblog
走る友達が走りながらPodcastとかを聞いてたり、
他の友達が通勤時にラジオやPodcast聞いてたりするのを見て、
自分は耳がよくないからそういうのが苦手なんだと気づく。
聞こえるんだけど、かなりの集中がいるんですよ。
日本語でも例えば外国語の聞き取りの時みたいな集中がいる。
というか、走ったり歩いたりしてる時には自分の鼓動や息で、
イヤフォンの声って途切れ途切れになりすぎるし
気楽に聞いてたら半分も聞き取れないかも。
みんな普通に聞き取れてるんだというのが不思議だなぁ。
話す人の声や滑舌にもよるけど。

昔は聞き取れた声が聞き取れず、全神経を集中して聞いてるのに
半分くらいしかわからず、会話が難しいということもたまに起こってます。
雑踏の中や人の多い時に起こるんだけど、電話の声も聞き取りにくい。
他の人同士は聞こえてるようだから、わたしの耳の問題だと思う。
複数の会話の時には聞き直すのが申し訳なくて、会話を諦めて眺めながら
ただ推測してるだけのことも、たまにある。
1対1の対面の会話でも、人ごみや風の音や雑音の多い場所などで
聞き取りにくいこともある。
どれも、相手によるし、問題なく普通に聞こえる人も多いので
聞こえる音域の問題なのかなぁ・・・
耳鼻科で検査しても特に問題はないみたいだし、ただの普通の老化症状なのかな?

耳が弱くてものすごく目に頼ってるのに、老眼で目が疲れやすくなってるので、
年をとるのは困ることであるよ。

写真はお気に入りのピアス。
耳は、自分の体の中で数少ない、形のいいパーツだし
ピアスもできるから、あまり聞こえなくても大事ね。

かぼちゃとお国

2017-12-13 | Weblog
かぼちゃを炊いてて、半分は煮物にして、半分は蒸してフレークにして
小分け冷凍した。コロッケとかスープとかサラダとかに使う。

炊いたかぼちゃをほくほく味見しながら、かぼちゃが嫌いだー!と言ってた
友達のことを思い出して、なんか面白いなーと思う。
彼女は辛党で甘いものが苦手なのです。
こんなにおいしいのに、ひぇーおいしくないよーと思うだろう友達のことを思うと、
なんか微笑ましいようなおかしいような楽しい気持ちになる。
わたしはかぼちゃが大好き、彼女はかぼちゃが大嫌い、
それだけのことで二人の間に何も問題はない、どころか、むしろなんだか楽しい。

でも世の中ではそういうことが問題になることが多いよね。

国の批判などをすると自分個人を侮辱されたと感じるのかいきり立つ人たちがいて
あなたのことを何か悪く言ってるわけじゃないのになんだろうなと思う。
自分と国との自他分離ができてないって、
自分とかぼちゃが一体化するくらい変なことと思うけど。
ああ、かぼちゃごときと我がお国を一緒にするな!とまた怒られるかな・・・。

「イヌイットの壁掛け」

2017-12-12 | 本とか
職場の階に本屋さんがあるので、お昼休みに絵本を眺めに行くのだけど、
時々帰り道でも寄ります。
帰り道では主に料理本の棚か編み物本の棚か、画集などの棚を見ます。
仕事の後は目も疲れてるので、あまり文字の多い本が見たくないみたい。笑

先日なんとなくブラブラしてた時に、ふと見つけた本がこれ。
大きすぎず小さすぎず程よい大きさの作品集らしき作りで、箱入り。
ちょっと高い(3000円くらい)ので、ちょっと見るだけのつもりでぱらぱらしたら
ひゃー!何これ!なんかすごくいいっ!
めくりながら興奮する本は多くはないです。
タイトル通りイヌイットの壁掛けを集めた作品集だけど、
民芸ものにあまり興味のないわたしでも心揺さぶられる独特な世界観。
大阪のみんぱく(民俗学博物館)で、自分のよく知らない国や地方の人たちの作った
色鮮やかなものを見る時の気持ちに近いけど、安定した完成度と心地よさがあって
これってイヌイットの人たちに共通する感性なんでしょうか。
色も形もモチーフも、本当にしみじみいいんですよ。

その日はパラパラめくって、それから数日じっくり見る暇がなかったんだけど
時間ができたときにゆーっくり見ると、盛りだくさんで濃厚でまた興奮。
精霊たち、食べたり食べられたりする動物、動物と入り混じる人間。
不思議で素朴で自由な造形と色!自由ながらほとばしるのびのびとした個性!
すばらしすぎるな〜!
特に古くからある伝統のものというわけでもなく、1950年くらいから
こつこつ集めてこられたものだそうですが、とにかくいいので何でもいい。笑

これは以前、2000年に一度出版された内容らしく、本は一回り小さいんだけど、
内容は増えてるそうです。
わたしは縫い物やアップリケは苦手だけど、編むのは少しできるので
むくむくと何か編みたい気持ちにさせられます。むくむく。





映画:新感染

2017-12-11 | 映画


パンデミック映画にあまり興味がないし、ホラーもスリラーも嫌いだし、
ましてやゾンビ映画の良さの全くわからないわたしですが、
課題なので見て来た、「新感染」。
疲れ切った。あー。
すっごく面白いんですけど、個人的好みの問題で、やっぱりゾンビは、しんどい。
ゾンビ映画の基準が自分の中にないので、どう考えていいかわかんないし。
この映画には、前日譚となる『ソウル・ステーション パンデミック』という
アニメがあるそうだけど、わたしはこの映画だけでもうお腹いっぱいです。
でも、じゃあ見ないほうがよかったかと聞かれたら、やっぱり見てよかったような。
タイトルの邦題がつまんないダジャレみたいだけど、映画はとても良い出来でした。

舞台になるのはソウル発プサン行きの高速鉄道KTX。
これ、乗ったことあります。座席がすごくゆったりして楽。→馬山行きの話
そして、なんかそんなに凄いスピードに思えなくて、のどかに走ってるうちに
あという間に釜山に着いちゃった。日本の新幹線より、ちょっもっさりしてるかな。

小さい一人娘が母親に会いたいというので、別居中の元妻のもとに向かうのに
ソウルからKTXに乗るのが主人公(コン・ユ)。
イケメンですが、自分さえよければ、の塊みたいなファンドマネージャー。
ところがそのソウルからは謎の感染でゾンビ化した人が一人乗ってて、
たちまち車内に広まるゾンビ感染。
ソウルはすでにゾンビパニックになってて、釜山へ向かう途中の都市も
どれくらいまで大丈夫なのかわからないのに、
国からの発表は「大規模暴動」「市民の安全は保障されています」と言う嘘。
パニック防止のためとも言えるけど、結局は感染源の問題をごまかそうとした
上層部の嘘だったのではないかと思う。
他にも、こういう状況で自分の保身だけを考える、人間の嫌なところが
主人公をはじめとしてたくさん描かれています。
一方で主人公の幼い娘や、妊娠中の妻と一緒のマッチョ男性(マ・ドンソク)や、
醜いく争うことに耐えられない老婦人たちなど、
人間の素晴らしいところも描かれていて、それが怖い映画の中の希望ですね。

電車という密室の中での話だけど、トンネルや細長い車体や、通路やドアなども
それぞれ状況やアクションにうまく使われていて、飽きさせません。
時速300キロで2時間の間に、一体誰が生き残るのか?
ベタにこの人とこの人が生き残るのか、それとも?と
危機が訪れるたびにハラハラどきどき。
登場人物のキャラクターは、結構みんなベタなんだけど
最終的に誰がどう生き残り、誰がどう死ぬのかは、そんな甘い予定調和ではなく
そうくるか!と、ちょっと驚かされたのは、よかったです。

ゾンビは怖いけどゾンビとの戦いは銃や武器らしい武器がなく、
ほぼ体一つの戦いで、なんかもどかしいような気もしたけどそれもいいのかも。
アメリカ映画なら誰かが銃を撃ちまくって違う展開になっただろうし、
それだと、この重さや肉体的な厚みの感覚みたいなものは出ないだろうし。

そして、ゾンビの動きは、有名な?人が振り付けたみたいだけど
面白いといえば面白いけど怖くてパニックになってる時には怖いです。
シンゴジラの動きを狂言師から取ったと聞いているけど
人や生き物の動きの見せ方って、まだいろんな可能性があるんだなぁと思いました。

ゾンビとの絡みだけでなく、少しずつエゴから自由になっていく主人公や
妊娠している女性とその夫、高校生カップル、
なんかへなへなしてるけど勇気のある気高い車掌さんなども、
韓国映画っぽくそれぞれベタに盛りだくさんながら
過不足なく描かれていて、とてもこなれてる印象です。

この映画はレイトショーで見て、もう夜遅かったので、
映画館からの直通エレベーターが閉まりかけのところをいそいで飛び乗ったんです。
そして、わたしのあと、3組もそれが続いたんですよ。
ドアが閉まりかけて、また開いて、ってのを3回。
でも夜遅いし、エレベーターはすいててまだまだ乗れたので
みんな乗れてよかったなと思ってたら、
最初に乗ってた人のうちひとりが舌打ちをして「なんやねん」と
吐き捨てるように文句を言うのが聞こえて、
ああ、この人今同じ映画を見てただろうに、一体何を見たんだろう?と思いました。
自分だけ助かろうとして平気で人を見捨てたり、
生贄にしたりする醜い人たちがたっぷり描かれてた映画を見たあとで
ほんの1、2分待つということに、まだ文句を言うんだなぁ。残念なことだなぁ。

月記:2017年11月

2017-12-10 | 月記
旅行の興奮と疲れが取れず、ぼーっと過ごしたような気がする。
映画もほとんども見てないし、何しろ風邪が治らなかった。

・舞鶴に写真の合宿
・「日の名残り」読書会
・ハンナアレントの「人間の条件」第4章読書会
・北加賀屋で出張スナック
・ガーシュイン・コンサート(西宮の芸文センター)
・友達のやってる御影バル
・「チャブ」を読む
・貸切豪華ちゃんこ鍋ランチ会
・天満で焼肉の会
・お向かいに住む叔父が亡くなる

・映画館で観た映画:「ノクターナルアニマルズ」「静かな二人」
・DVDで観た映画:「恋人たちの食卓」「美女と野獣」(レア・セドゥのやつ)
「先生と迷い猫」「人生はビギナーズ」「ブレックファストクラブ」

コントロール

2017-12-09 | 写真
一から自分で取捨選択してコントロールして作り出す絵やアート作品でさえ、
自分の意図とは違う意味を持ったりするんだから、
自分の意図に関係ないものが写ってたりする写真は、もっとそういう部分が多いですよね。
色や光や動きなどに惹かれて慌てて撮った写真に思わぬものが写ってることはよくあるし、
それが写真をよくしたりダメにしたりもするけど、やっぱりそれが面白さだと思う。
いらないものを消し、色も形も整え、絵を描くようにすべて完璧にコントロールして
独自の世界を作るような写真もいいけど、
コントロールされていない写真がわたしは好きだなと思うのは
全部コントロールするしかない絵を描くところから始めたせいかな。

写真は、クジラの親子みたいな雲。
この写真からもっといらないものを撮っちゃったら、
ずいぶんつまんないことになると思う。

映画と小説:日の名残り

2017-12-08 | 映画


「日の名残り」。とても昔、最初に映画を見て職業意識の強い立派な主人公と思って
本を読んだらなんかもやっとした記憶がうっすらあるんだけど、
ノーベル文学賞受賞後に、読書会があったので、改めて本をちゃんと読んだら、
なんだこれ奴隷根性丸出しの主人公をこれでもかと書いてる本やん!と印象の違いに驚き。
なんで昔(30年ほど前)はそういう風に思わなかったんだろうと不思議に思って
もういちど映画も見てみようと映画の紹介など見てたら、
このお話をストイックな男の切なく不器用な恋愛映画みたいに説明されてて、
ええっ?映画の方ってそんな風になってたっけ?恋愛映画???いやいや・・・
それって全然原作の意味わかってないやん?と、またまた不思議に思った。
恋愛モノになってしまってる映画に印象を引っ張られたせいで、
本に書かれてる意味が全然読めてなかったんだろうか???
というわけで、本を読んですぐ、映画の方も久しぶりに見ました。

結論から言うと、映画は、30年経った今も全然古びたところもなく、
今見てもやっぱり良い作品でした。恋愛映画とは言われたくないなぁ。
恋愛映画好きだけど、これはそこじゃないでしょ、と言いたい。
内容はイギリス人らしい「忖度」の物語だけど、
もう今は、昔見たときほど主人公二人の(恋愛?)関係に気を取られることもなく、
小説をかなり忠実に映画にされてるし、小説の中のエッセンスもしっかりと
表現されていると思いました。

しかし、何年も何十年も経つと、なんでも違って見えてくるもんだなぁ。
若い頃見たり読んだりしたものの印象や解釈が全然違ってたってことはよくある。
こうやって20年も前のものを、今も楽しめるのは良いことですね。
主人公の信念と矜持、そしてその揺らぎまでを美しい映像で描いたドラマで
でも、小説のときほどは「奴隷根性の主人公」とは思わなかったのが違う点かな。
アンソニー・ホプキンスが、自分のない人間に見えなかったこともあるし、
どんなに毅然としてても、心のどこかに深いひだがある人に見えたからかな。

大きなお屋敷の執事が主人公。
常に品格とは何かを自問し、お屋敷のためご主人様のために生き、
自分の意見や感情を外に出すことは決してしないプロ中のプロ執事。
女中頭の女性と気持ちの交流がうまれるけれど、それを認めようとしない頑なさに
彼女は離れていってしまう。
それでも、顔色ひとつ変えず、執事として生き続ける。
尽くしたご主人様が親ナチ派ということで戦後非難され、失意のうちに亡くなり、
今は別の主人に仕えることになっているけど、
前の主人に使えていた自分は間違えていなかったと信念を曲げはしなかった主人公。
でも、わたしはラストで、相変わらずずっと目指し続けたプロの執事としての
品格ある人生をそのまま全うしようとする主人公の中に
本当は自分の間違いをどこかで知っているのではないかと思いました。
映画と小説はラストの印象が少し違って、これは小説の方の感想ですが。

そういえば小説の方は他にも、映画よりユーモラスな感じのところがいくつかあって
執事の狭い世界の狭い価値観を大真面目に語っていたりするところとか、
案外戯画的に感じるところもありましたね。
そして、この小説と映画のあいだにある微妙な違いは
語りの人称の違いかもしれないと、読書会の途中で、ふと思いついたのでした。
映画は淡々と外側から見るように主人公を第三者目線で描いているんですが、
小説は、実は一人称。主人公が自分の意見を延々と語っている文章なんです。
これが一見さほど大きな違いに感じないのは、
この主人公が元々自分の感情を押さえ込んで表に出さない人だからだけど、
でもこの人称の違いはじわじわと、わたしには効きましたね。
あくまでも建前的なことしか語らない主人公なんだけど
小説だと、その建前から彼の本当のところが浮かんでくるんですよ。
その辺はすごくうまい。きれいなことを言ってても、実は嫉妬があったり
焦りがあったり迷いがあったりするような(人間的でもある)ところが、
彼の一人称の文から(注意しないと見過ごすけど)透けて見えるんです。
でも、映画には、そういう、ちょっといやらしいというか意地悪な仕掛けはなくて
3人称的、外側の観客の視点で映画が進むので、
主人公はあくまでも動じず表情も変えずクールにしている。
ただ、アンソニー・ホプキンスの演技が、
その部分を少しだけ垣間見せるところはあって、さすが名優の名演です。
聡明な女中頭を演じるエマ・トンプソンの演技は、
この時代の中の生き生きした女性とはまさにこんな感じだっただろうと思わせます。
そして、ジェームズ・アイヴォリー監督の描く貴族の世界は
ため息の出る美しさで、これはどこから見ても本当に古典名作になる映画。

読書会では、この主人公を素晴らしいと讃え、自分の身を顧みて反省する人がいて、
わたしはつい、反省なんかしないで自分らしく生きてください!と言ってしまった。
だってこれ、自分以外の者を自分の人生の主人にしてしまい、
自分の意思も自由も放棄して自分意外のものに支配されることをすすんで選び
全うした、いわば滅私奉公の男の話なんだもの。
自分以外のものというのは、仕えているご主人様のことではなく、
自分の作り上げた「品格「や「あるべき執事像」やその世界の基準のことで、
自分個人の意見を持たないことを自分に課したのがこの主人公。
それをおかしく思わない人もたくさんいると知って、
まだまだ生きにくい世の中だなぁと思いました。
滅私奉公は美しくないとわたしは思うけど、
そうやって自分を抑え律することを美しく立派だと思う人は多いのです。
人の生き方を、正しいとか間違ってるとか言うものでないとは思ってるけど、
自由よりも隷属、規律、品格を望むって、わたしにはよくわからないな。

映画:ル・コルビュジェとアイリーン 追憶のヴィラ

2017-12-07 | 映画


もう2度とコルビュジェの作品が素敵に思えなくなる映画。
傲慢の権化、独善の塊のいやなやつ(笑)
でも、実際のところはどんな人だったんだろうなぁ、と興味はわきます。

「ル・コルビジェとアイリーン追憶のヴィラ」という、
相も変わらぬ駄邦題映画には呆れるけど、
どのシーンを切り取ってもシャネルかエルメスかという
ハイブランドの広告写真みたいなきれいな映画だった。
主人公は若くなくて美貌でもないのにどのシーンもホントきれい。
スタイリッシュな映画です。

予告を見て、コルビュジェとアイリーンが愛し合って愛憎の果てに
コンプレックスとプライドの高いダメ男コルビジェに才能を利用される話か、
女性ゆえにうまく騙される話かと思ってたら、全く違う話で、
二人は全然恋愛とかなくて、コルビジェは重要な役ながらも脇役で
むしろアイリーンの生き方や恋愛についての話。
本当のタイトルは「欲望の値段」なのに、邦題は
脇役のコルビジェの名前を前面に出してコルビジェの映画のように思わせ
観客を騙す意図なのかと思うと、ますますいやだなぁ。

アイリーンは何度か、孤立や孤独の重要性を言う。それは自由のコストだと。
この強くて毅然とした彼女に比べて、相手役の(コルビュジェの友達)色男?が、
チャラい役で、しかもチャラさの中にキラリとした無垢や誠意や愛が見える俳優
・・・ではなかったのが残念。笑
色気はあるんですけどねぇ、何とも悪そうな、浅はかそうな、安っぽい。

売れっ子有名家具デザイナーだったアイリーン。
コルビュジェの友達の建築(評論)家のジャンに取材を受け、
彼女の理想の家を建てるのに協力し合おうということになって、
そのうちに愛し合うようになる。そして、二人のための家を建てるが、
アイリーンもジャンの薄っぺらさ、軽薄さ、ずるさを知るようになり
自分がいいように利用されて、自分の作った家さえ自分の手を離れてしまうと、
一旦は怒るものの、結局は現実を受け入れ距離をおくようになる。
怒りに駆られて泣いたり暴れたり戦ったりするのではなく
疲れた顔であきらめて、復讐よりも自己を高める方へ向かおうとする大人ぶり。
アイリーンの愛の深さ、懐の深さには、とても感銘を受けた。
そして、この一度は愛した男が死の床についたときの彼女の優しさはどうだろう。
浅はかで軽薄でプライドばかり高く自分を利用しながらお酒に溺れたこの男を
アイリーンはやはり愛していたのだなぁ。
全部わかった上で、ダメな男を、仕方ないと愛していたのだろうかなぁ。

アイリーンだけでなく、彼女の恋人女性達の美しさ、気持ちの自由さと優しさは
醜い嫉妬に絡め取られ、独善的な行動をとる自意識過剰で傲慢な男達とはあまりに違って、
なんと美しく気高いことか。
アイリーンがジャンとコルビュジェたちに、ボーイズオンリークラブにはうんざり!と
怒鳴るシーンがあるけど男の嫉妬って、立場が強いだけに本当に手に負えない。
この男たちには、慰めあう女たちの徳の高さのひとかけらもない。
コルビュジェの作品がどんなに素敵でも、
才能と人間の中身は、全然別ものなんだなぁと、しみじみ思った映画。

映画:オン・ザ・ミルキーロード

2017-12-06 | 映画


クストリッツァとモニカ・ベルッチですよ!
そりゃもうどんだけ期待してしまったか。期待している間の甘美だったこと。
そしてその期待は・・・裏切られたということはないけど、
期待以上にすごかった!ということもなかったかな。まあ期待通りってとこかな。
もっとほめたいけど、期待が大きすぎると難しい。いや十分よかったんだけど。

冒頭の数分で、間違いなくクストリッツァだ!とわかる、
ブガチャカブガチャカした賑やかな音楽と、動物たちの行進があって
そこでテンションあがりまくり。踊りたいくらい。笑

主人公を演じるのもクストリッツァ監督。
過去がある変わり者のしがない色男という風情で、ロバに乗って牛乳を配達している。
この男が最初、なにがいいのかさーっぱりわからなかったけど
見てるうちに、いやぁ、こういう男いるよね、もてるよね、と思うようになります。
なんかキラリと光る色気、みたいなのはないんですよ。
でもじわじわくるの。どうにもその冴えない感じとか、微妙なふてぶてしさや優しさが。
後半になると、モニカ・ベルッチの相手に不足はない、くらいに思えてくる。
何だろうこのいぶし銀的な魅力は。。。

そしてモニカベルッチは、若く見えるわけでも細く見えるわけでもないのに
全体的にはやっぱりとてつもなくきれいなのだった。
お話も、中年を過ぎた二人の逃避行だけど、二人の年なんて一度も考えなかった
年齢とかどうでもいいこと思い浮かべるには、クストリッツァの映画は
パワーがありすぎるのよね。圧倒されてる間に映画は進み終わるんだもん。

巨大な仕掛け時計のある家、魔女のような老女、
ミルクを飲む蛇、踊るハヤブサ、賑やかな音楽のパーティ、
たくさんの動物たちのいるどこか魔術的神話的な風景は、
平和な村の日常のようなんだけど、実は戦時下ということで、銃弾飛び交ったりする。
その中を、大きなミルク缶を持ってロバに乗って傘をさしてゆくミルク運びの男。
彼にはつらい過去のトラウマがあり、今はなんとなく流されるように生きている感じ。
この主人公は、見るからにドンキホーテっぽく、もっさりした道化のよう。
それが、村一番の有力軍人の家に嫁いできた絶世の美女と恋に落ち逃避行・・・
という話と思ってたんだけど、電撃的に運命の恋に落ちって感じでもなかったの。
なんとなく優柔不断な男で、気持ちがはっきりしないし、
別の若い女に振り回されても拒否しないし、よくわからない男。
モニカ・ベルッチの方は、もう少し気持ちが彼に向かってるのがはっきり見えます。
そんな感じで、はっきりしない関係のまま、美女は追われる身になり
男と一緒に逃げることになり、そこからはひたすら逃げる逃げる。

この逃げ出してからの後半が、わたしはつらくて疲れちゃった。
個人的には「ロマンチック」がもっとあったらよかったかなぁ。
そして、ファンタジー的なガチャガチャも後半にもっとあってもよかったのにな。
ラストは、落とし前はついてるし、きれいなまとめ方とは思うけど
もっと現実と幻想がごちゃごちゃになった、
わけわかんないデタラメな終わり方のほうがよかったなぁ。
切なく悲しくきれいなラストだけど、それが少し物足りなかった。
愛の物語としてはこれでよかったのかもしれないけど
「アンダーグラウンド」に比べると、大きなテーマが個人の愛だからか
ちょっと単調な気がしたんですよ。でもパンフレットの中のインタビューで
「僕の映画はいつも、自分がどのように人生を捉えているかを示しているのです。
今後は、自分を愛のために捧げたいと思います」と言ってるので、それはそれで納得。

クストリッツァというのは、映画の撮影用にセルビアの村を村ごと買っちゃって
クステンドルフ(Kustendorf)と名付けて、映画祭や音楽フェスティバルをしたりする人。
エミール・クストリッツァ&ノー・スモーキング・オーケストラという自分のバンドも持ってて
バルカン諸国のジプシー音楽を基にした作品を演奏してて、それはとても楽しそう。
(この映画の音楽もそのバンドと、自身の息子が担当しています)
でも、なんかその才能ってマルチとか、スケールが大きいとかいうのとは少し違って
なんだろう、この映画のラストの主人公と少し似て、
自分の無くしたものの鎮魂や愛や怒りや悲しみや望郷を込めて
コツコツと世界を一つまるごと作ろうとしている人のように思えます。
ユーゴ内戦で故郷をなくした人のひとりだからかな。
だからどんなに賑やかでガチャガチャ騒々しい映画でも、どこかに悲しみがあります。
そういうところは「アンダーグラウンド」の方によりしっかり描かれているかな。
あと、マケドニアが舞台の別の監督の映画「ビフォアザレイン」も少し思い出す。
これもいい映画だったなぁ。
そしてこういう男に弱いなわたし。
調べてるうちにクストリッツァにめろめろになってきた。笑

映画:ハートストーン

2017-12-05 | 映画


今年のトップ5に入るとまでほめてる友達がいたので
どうしようかなぁと思ってたのを、あわてて見に行った映画ですが、
見たのは半年以上前・・・。
今年は映画をあまりたくさん見られてない上に感想もあんまり書いてないです。
時間はないわけじゃないのに、体力が足りない・・・。

アイスランド映画です。
アイスランドについて知っていることはとても少ない。
『ひつじ村の兄弟』という映画を見たのは印象に残っています。
人口や地理や政治や宗教や、教科書で教わった事実より
映画で見た景色や人々の方が、ずっと記憶に残るよね。
それがフィクションでも、その中にやっぱりかなりの真実はあると思うのです。

アイスランドらしい(と思う)ひなびた漁村の幼なじみのソールとクリスティアン。
ふたりの少年の成長を繊細に描いている映画です。
成長といっても、分かりやすいドラマではなく(ドラマチックな事件も起こるけど)
ふたりの日々を丁寧に描いているので、事前情報がなければ
これを少年の同性愛の映画、というようには全く思わなかったと思います。
そういう側面もあるかもしれないけど、全然そこを強調したりはしていない。
ふたりの友情も揺るがない強いものというわけではなく、当たり前の揺らぎがある。
関係も感情も、細くなったり太くなったり、近づいたり離れたりいつも揺れている。
そんな風に一定しない感情を抱えてとまどいながらなんとか生きていくのが青春かな。
だから、同性愛映画、ゲイ映画というレッテルで語って欲しくないと思うなぁ。

自分の孤独と恋愛にかまけていて、子供たちにこまやかな愛情を注げない母親、
男らしさを強要し暴力を振るう父親、力のある年上のいじめっ子グループ、
閉鎖的な村社会の息苦しさや閉塞感。
主人公たちは、天真爛漫ではいられません。常に影を抱えている。
子供って不自由なんだよね。自分で親や住む環境を選べない。逃げることもできない。
でも、そんな中でも若いって、キラキラした瞬間はいつもあるんだなと思う。
この映画でも、基本的にはそういう常に影のある日常だけど
楽しいことも楽しいときもあって、そういう瞬間のかけがえのなさが
とてもきれいに繊細に描かれていると思いました。

主人公はソールだけど、彼の視点というよりは淡々と3人称で描かれている感じ。
まだ顔も体も子供っぽいソールに比べて、クリスティアン役の子はすっかり青年で
かなりどきどきします。美青年。影のある美青年。どきどき。
この美青年だけで元が取れるくらい、良いです。
そしてソールは、少しぽてっと子供体型のリバー・フェニックスって感じかな。
でもこの子が、あまりに思春期の子なので、見ててこっちまで気恥ずかしかった。
たとえば、まだヒゲや脇などの毛が生えてこないことのコンプレックス。
早く大人の男になりたい焦りと虚勢。
女の子にもこういうのは思春期にはあって、大人ぶったり悪ぶったりするもので、
なんかそういう感じを思い出して、いちいち気恥ずかしくなってしまった。笑

見ているときはそういう気恥ずかしさと、彼らの世界の閉塞感とで、どうにもつらくて
あんまりいいと思えないまま見終わったけど、後で考えると悪くなかったと思う。
いや、かなり盛りだくさんのいい映画だったかもしれません。

初めての台北:21:おまけ

2017-12-04 | 一人旅たまに人と旅
在日韓国人の再入国許可がいらなくなったし、
息子にとってアジアは東京と同じくらいの距離感で、ふわっと遊びにいくのを見て
世代の違いと育ちの違いを思い知る気持ちがしたものだけど、
彼にとっては親がわたしのようにすっかり放任主義だったのが
良かったんだと思うわ。笑

外国に長く住んでたから、なんだか海外は近いような気が、わたしもしてたんだけど、
いざ、久しぶりに旅行行こうと思うと、なんだかどきどきそわそわして落ち着かない。
いつの間にか、外国が遠くなったなぁ。全然軽やかじゃない。
でも、長い間、古い世界に取り込まれて、おかあさんをやってたから仕方ないよねぇ。
ひとりで旅行できるようになるまでに何十年かかったんだろ。
うさぎが死ぬまで動けなかったしなぁ。これからは時々どこか行かなきゃね。。

方向音痴で疲れやすく虚弱でたくさん行動できないわたしなので
(今回の旅行中もずっと風邪薬飲んでた)
台北も中2日だけだと行ける場所は限られてたけど、
ひとりで海外に行って、ああ、まだちゃんとひとりでもどこでも行けると
自分のことを思えるようになったのが、一番嬉しかったことです。
まだ自由があるし、自由を楽しめる。

今年は本当にいろんなことのあった年だった。
そのどれも、自分の自由を少し広げてくれることだった気がします。
地味な事務の仕事を毎日するようになったということでさえ
少々の時間とひきかえに、わたしの自由を広げてくれているように思う。

スーツケースはそろそろ新しいのが欲しいけど、
このインサイドバッグは、着替えなどを入れるのに使ってて
楽しくうきうきした気分になるので気に入ってるし、まだ使うつもり。
これに合わせた大きさのスーツケースを、次の旅行では新調したい。
次はどこに行こうかな。

山梨県行くくらいの気分で東南アジアに。
秋田に行くくらいの気持ちでヨーロッパに行くぞ。
(息子にとっては、もう多分それくらいみたいだけど。笑)

初めての台北:20:欠航だけど帰る

2017-12-03 | 一人旅たまに人と旅
台北に着いた時、現地集合で一緒にご飯を食べる友達から、
台風でピーチ欠航出たけどそっち大丈夫?とメールが来てて、
ジェットスターはまだ欠航出てないし、台風は微妙に過ぎそうだし大丈夫、と
気楽に答えてたんだけど、帰る日の午後に出ました、欠航・・・。
ピーチの友達はすぐにネットで振替え便探して半日後の便を取り
もう一泊遊べる〜と楽しそうだったけど、
わたしはネットでチケット買ってないのでネットで手続きができない!
しかも日本で申し込んでおいたフリーWiFiになぜか繋がらない!
夜中1時の便で帰る予定で、ホテルに戻ったのが夕方。
そこでホテルのWiFiで欠航を知り、ひぇーどうすれば!?と焦る。
ホテルの電話を借りて現地代理店に問い合わせるものの
結局空港まで行って交渉してくれとのことで、
とりあえず泊まってたホテルがもう一泊空いていることを確認してから空港へ。
この時点ではまだ呑気だったんです。
1時の便は欠航でも半日後くらいの便には乗れるだろうと。
ピーチの人はそうだったからね。

大きな空港バスに乗って(なぜか乗客はわたし一人だった)空港に着いたら10時。
ジェットスターの窓口に行って振替え便の交渉をしようとすると、あっさりと
3日後まで飛行機はない、と言い渡される。
は?3日後?台風は半日後にはもういないのに、3日飛行機がない??は?
何度聞いても3日後までは席はないの一点張りで、あきらめてインフォメーションに。
飛んでそうな便を探してもらい、そこの窓口で交渉。
定価は高いけど、海外旅行保険入ってきたので多分大丈夫と、翌朝6時の便を買う。
この時点で11時頃なので、6時の便だと、4時過ぎに空港に来なくちゃいけないので
街のホテルに戻ってる暇がないし(街まで往復で2時間以上はかかる)、
空港の近くのホテルを探して予約。
一泊5万円のホテルを最初言われたけど、いくら保険でもでなかったら怖いと
もう少しお手軽なホテルへ。



でもここ、街で泊まってたホテルよりずっと豪華できれいで居心地良かった。
フロントの人たちは黒ずくめのイケメンばかりで垢抜けてたし
日本語は通じなくて英語が通じた(街のホテルは逆でした)。
シャワーして3時間ほど仮眠をとり空港へ。
4時5時だとどのお店も免税店も開いてなくて、
有名な台湾ウィスキーのカヴァランを1本買うつもりだったのに残念。
搭乗を待つところの椅子が小籠包?かわいい。笑


空港での交渉中には、もっとこまごまといろんなことがあったんだけど
とりあえず帰ってこれてよかった。
火曜日にやっておきたい仕事があったんですよ。

(帰国後、さくさくと手続をして、結構によりかかったお金は戻ってきました。
為替で少し損したけど、ま、いいや)

小さな卑しいねじくれたおばちゃん

2017-12-02 | Weblog
昔自分が苦労したことを、今の人が楽々してたり、しないですんだり、
気軽に拒否できたりと、昔よりずっと便利で楽になってることはたくさんある。
嫁をやらされることや、子育て、仕事、なんでも自分の時は今よりずっと大変だった。
普通に恋愛したり仕事したりしてるだけの人たちでも、苦しいほど羨ましい。
そういうとき、わたしはいい人ぶって優しく「よかったね」と言うけど、
本当は心の中に卑しい顔をしてねじくれた心をした小さなおばちゃんがいる。
痩せて茶色い皺だらけの顔をして人を羨んだり妬んだりするおばちゃん。
でも
卑しいモノに近づきたくないので、そのおばちゃんは見なかったことにして
いい人のふりをずっと続けます。
人を羨んだことなんかない人みたいに、優しくニコニコする。

以前、もっと寛容になってもいいんじゃないかという議論をした相手が、
「本当はわかってるのよ、自分はいじわるなおばさんなの。
甘やかされてる人が羨ましいだけなの。そんな自分がいやだし苦しいけど。」
というようなことを言ってたのを思い出す。
わたしも同じだよ、わたしのほうがもっといじわるかもしれないと思って
結局反論はせず、彼女に逃げ道をそのまま置いといた自分に少しほっとする。

わたしの中にいる、卑しい小さいおばちゃんのことも、
ずっと見ないようにして気づかない顔で生きてきたけど、
本当はくじけずあきらめず、優しくし続けてあげたらいいような気がしてきた。
卑しいねじくれたおばちゃんの緊張が解けるまで。どうせ一生付き合うんだから。
卑しくてひねくれて、小さいおばちゃんに、居心地のいい場所をあげて、
大丈夫だよと言い続けてあげたら、おばちゃんも少しはマシになるかもしれない。
そしてわたしもいい人のふりをしないでいられるようになるかもしれない。

サリンジャーの「フラニーとゾーイ」にはふとっちょのおばさんが出てきて、
チキンスープなんかをくれた気がするけど(違った、チキンスープは別だった)
わたしの中には卑しいひねくれた小さいおばちゃんがいて、
でもそのおばちゃんも、サリンジャーのふとっちょのおばさんと同じくらい、
神様のようなものなのかもしれない。
ふとっちょのおばさんの話はうろ覚えです。
フラニーとゾーイを読んだのは大学生の頃、30年も前のことなので、
全然違う話かもしれないと思ってググる。
>とにかく、ある晩、放送の前に、ぼくは文句を言いだしたことがあるんだ。これからウェーカーといっしょに舞台に出るってときに、シーモアが靴を磨いて行けと言ったんだよ。ぼくは怒っちゃってね。スタジオの観客なんかみんな最低だ、アナウンサーも低脳だし、スポンサーも低脳だ、だからそんなののために靴を磨くことことなんかないって、ぼくはシーモアに言ったんだ。どっちみち、あそこに坐ってるんだから、靴なんかみんなから見えやしないってね。シーモアはとにかく磨いて行けって言うんだな。『太っちょのオバサマ』のために磨いて行けって言うんだよ。彼が何を言っているんだかぼくには分からなかった。けど、いかにもシーモア風の表情を浮べてたもんだからね、ぼくも言われた通りにしたんだよ。彼は『太っちょのオバサマ』が誰だかぼくに言わなかったけど、それからあと放送に出るときには、いつもぼくは『太っちょのオバサマ』のために靴を磨くことにしたんだ ── きみといっしょに出演したときもずっとね。憶えてるかな、きみ。磨き忘れたのは、せいぜい二回ぐらいだったと思うな。『太っちょのオバサマ』の姿が、実にくっきりと、ぼくの頭に出来上がってしまったんだ。彼女は一日じゅうヴェランダに坐って、朝から晩まで全開にしたラジオをかけっぱなしにしたまんま、蠅を叩いたりしているんだ。暑さはものすごいだろうし、彼女はたぶん癌にかかっていて、そして ── よく分んないな。とにかく、シーモアが、出演するぼくに靴を磨かせたわけが、はっきりしたような気がしたのさ。よく納得がいったんだ」
 フラニーは立っていた。いつの間にか顔から両手を放して、受話器を両手で支えている。「シーモアはわたしにも言ったわ」と、彼女は電話に向って言った。「いつだったか、『太っちょのオバサマ』のために面白くやるんだって、そう言ったことがあるわ」彼女は受話器から片手をとると、頭のてっぺんにほんのちょっとだけあてたが、すぐまたもとに返して両手で受話器を支えた。「わたしはまだ彼女がヴェランダにいるとこを想像したことがないけど、でも、とっても ── ほら ── とっても太い足をして、血管が目立ってて。わたしの彼女は、すさまじい籐椅子に坐ってんの。でも、やっぱし癌があって、そして一日じゅう全開のラジオをかけっぱなし! わたしのもそうなのよ」
「そうだ、そうだ。よし、きみに聞いてもらいたいことがあるからね。……きみ、聴いてる?」
 フラニーは、ひどく緊張した面持で、うなずいた。
「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の粋をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう ── きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか? そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分らんのかね? この秘密がまだきみには分らんのか? それから ── よく聴いてくれよ ── この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか? ……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ。
(野崎孝訳『フラニーとゾーイー』より)

こうやって思い出すと、やっぱり、彼らの太っちょのおばさまは、
わたしの卑しいねじくれた小さいおばちゃんと、同じもののように思います。
30年も前に読んだ本が、自分の中でまだ生きてたんだなぁと、今ちょっと驚いた。

そういえば、前に見た映画でこの「太っちょのおばさま」を思いだしたことがあった。
「あなたを抱きしめる日まで」のジュディ・デンチの役です。
暇があればくだらないテレビやメロドラマに夢中になり
無知で無学で俗物で向上心もない、その辺のおばちゃんである彼女が
同時に誰よりも赦しの心を持っていて神に近い存在だったというところ。
サリンジャーの「太っちょのオバサマ」もわたしの卑しいねじくれたおばちゃんも、
自分にとってそういうものなのかもしれないなぁと、あれこれ思い出したり
考えたりしてるうちに、少し気持ちが楽になって
小さな卑しいおばちゃんは、隠れてしまったけど。

二人のロバート:ロベール・ドアノー

2017-12-01 | 写真


ひとりは前に書いたロバート・フランク。映画と写真展のこと。
そしてもうひとりのロバートがこちら、ロベール・ドアノーで、その映画のこと。
ロバート・フランクに比べたら、こっちの方が少しゆるふわ風味に思えるかもしれない。
写真も映画も。
でもね、この人も大した人ですよ。
ロバート・フランクのような、かっこいい新しさではないけど
しみじみと良く、職人技でもあり、こちらも色あせない写真です。
アメリカでいうと、エリオット・アーウィットに近いかなぁ。

軽やかで、パリのエスプリという言葉が合いそうな気持ちいいジャズと共に、
彼自身のドキュメンタリー映像を見ると、作品のイメージを裏切らない人なのね。
当たりが柔らかくて朗らかな人なのに、目の力は強くきらきらとしてて、
写真が好きで好きで仕方ないことがわかります。

ドアノーの孫娘が監督したドキュメンタリーで、80分の短い映画を9章に分け、
1〜9まで、短いチャプターごとの切り口で、リズムよく彼と彼の写真を描いていきます。
各チャプター始めに出てくる、チャプターを表す動くイラストが、とてもおしゃれ。
水で描いた線画にインクを垂らしたら浮かび上がってくる仕掛けのもの。
このイラストがすごくオシャレで素敵なので、探したんだけど
公式サイトにも、どこにも出てないんです。かなりぐぐったんだけど。

子供の頃から家族に飢えてたドアノーは幸せな家庭を築き
自分の作品にもよく子供たちを登場させていました。
彼の作品をスライドで見ながら、親戚や友達が集まって
思い出話をするシーンがあって、とても楽しそう。
子供の時の写真って、みんな、なにか語りたくなるものなんですね。
そして彼を愛した子どもや孫が彼の大事に管理して守っているので、
ドアノーの人生はかなり幸せな人生なのではないだろうかと思います。

家庭人としてのドアノー、写真家としてのドアノー、
どちらもバランスよく描かれている映画、というか
彼自身がうまいバランスで生きたのかもしれません。
芸術に命をかけるというタイプには見えないけど、
実際は、案外家庭を顧みなくなるぎりぎりのところもあったんじゃないかと思う。
いつも家族思いの良きパパの時ばかりではなく厳しい芸術家の面もあっただろう。
でも、彼を愛する家族たちが積極的に協力をして、
良いバランスを保って来れたんじゃないかなと思いました。

アメリカの今の現実を撮るというところから始まり、
硬派で今もファンの多いロバート・フランクとは全然違って、
演出も多くロマンチックだったりヒューマンだったりする写真が多く
大衆迎合的で俗っぽく甘い写真のように思われがちなドアノーだけど、
こうやって一度にたくさんの写真を見ると、やっぱりうまいなぁと舌を巻きます。

なんか今となってはベタすぎて恥ずかしいけど、学生時代のわたしの部屋には
ロベール・ドアノーの有名な「市庁舎前のキス」のポスターが貼ってあった。

1950年に撮影され80年代にポスターになった写真だから
80年代のわたしの部屋に貼ってあった時は旬だったし、
パリに憧れていたのです。とても。そういう若い自分も甘酸っぱく懐かしい。
(もう一枚貼ってたのは、舌を出していないアインシュタインのポスターでした)
スナップ風ですが、これは演出写真で、モデルがいて自然な雰囲気に
作られた写真なのですが、知らない人も多いのかな。
スナップと思ってた方が、よりロマンチックかもしれませんね。

映画のタイトル「ロベール・ドアノー永遠の3秒」は彼の言葉から取られています。
「1枚が100分の一秒だとして、今までに成功した写真は300枚だから
50年でたったの3秒だ」

これは写真をやっていない人にはわかりにくいかな。
写真を撮る時はシャッタースピードというのがあって、
そのシャッタースピードの長さの間だけ光を取り込んで写真が移るわけですが、
100分の一秒は、やや長めのシャッタースピードかな?
三脚なしで手持ちだと場合によってはぶれそうな長さですが、
ドアノーの雰囲気には合ってるかな。
何万枚、何十万枚、それ以上撮り続けた人生が300枚の写真の光を集めた時間、
たった3秒に凝縮されると思うと、とても不思議な気持ちがしますね。
永遠にとても近い3秒だな。