フランスの政治家シモーヌ・ヴェイユの伝記映画。
>1974年パリ、カトリック人口が多数を占め更に男性議員ばかりのフランス国会で、シモーヌ・ヴェイユ(エルザ・ジルベルスタイン)はレイプによる悲劇や違法な中絶手術の危険性、若いシングルマザーの現状を提示して「喜んで中絶する女性はいません。中絶が悲劇だと確信するには、女性に聞けば十分です」と圧倒的反対意見をはねのけ、後に彼女の名前を冠してヴェイユ法と呼ばれる中絶法を勝ち取った。1979年には女性初の欧州議会議長に選出され、大半が男性である理事たちの猛反対の中で、「女性の権利委員会」の設置を実現。女性だけではなく、移民やエイズ患者、刑務所の囚人など弱き者たちの人権のために闘い、フランス人に最も敬愛された女性政治家。その信念を貫く不屈の意志は、かつてアウシュビッツ収容所に送られ、“死の行進”、両親と兄の死を経て、それでも生き抜いた壮絶な体験に培われたものだった-。(公式サイトより)
同名の哲学者なら名前だけは知ってたけど(綴は違うらしい)、この政治家のことは全然知らなかった。
予告編を見て中絶合法化を勝ち取った人なんだと思って興味を持ったけど
それは彼女の成し得たことのごく一部で、刑務所や収容所の非人間的環境をよくしたり、
エイズ患者の施設を作ったり、移民労働者の強制送還を止めたり、
虐げられた人たちを助ける活動をどんどん実施した人だったのね。
そして少女の頃のアウシュビッツ体験が途中何度も描かれその地獄を生き抜いたことにも驚く。
なんという強さ。(アウシュビッツのシーンも興味深かったです)
映画はわりと「世俗的」にわかりやすく盛り上がるように作られていましたが、
それでしらけるというところもなく、すっかり引き込まれてとてもいい映画だと思いました。
彼女を支えた理解ある夫との深い愛情も素敵なのですが、この素晴らしい夫も最初から
もろ手をあげて彼女を支えていたわけではなく、彼自身エリート官僚だったので
彼女に妻として母としての役割を求めて責めたり、妻として自分を支えて欲しがったりもしたようで、
そんな夫を見捨てなかったのねぇと変なところに感心した。
彼女には夫の庇護などなくてもなんとか生きていく強さがあっただろうに、
自分を曲げず諦めずに、十分な理解のない夫を変えていき、関係を深めて行ったのは
やはり愛情があったのか、あるいは家庭というものに対する執着や信念のようなものがあったのか、
などと描かれていないことに思いをはせました。
インテリ同士の夫婦関係という点では政治家ではないけど同じドイツのユダヤ人であった
ハンナ・アーレントの自伝映画で見た夫婦関係も思い出しました。
ちょっと似た感じに理解と思いやり、そして同士愛のようなものもある夫婦。
でもハンナの方が一人で生きてる感じがするかな。
思索は結局孤独の中で練り上げるものだけど、政治は常に人との協働だからか、
シモーヌはやがて夫が彼女を支える役をするほど、夫や家族と共に歩んだ感じでした。
余談ですが、ハンナ・アーレントの映画の中でハンナが結構なスモーカーだったのが印象的だったけど
シモーヌもヘビースモーカーだったそうです。
どっちの女性も、中年を過ぎてからのタバコを吸うシーンがかっこいいのです。
どちらの女優さんも同じくらい素晴らしい。演技が上手いのはもちろん、
ヨーロッパはこういう中年の強く賢く深みと貫禄のある美しさの女優さんの層が厚いのだろうか。
しかしこの映画の中でシモーヌに反対する旧弊で差別的な男たちと全く同じことを
今の日本の政権はまだ言ってて、改めて呆れましたね。
ちょうど、経口人工妊娠中絶薬の認可が話題になっていた時期で、
日本だけでまだ多く行われている掻爬手術への批判も多く出てきていて
わたしも、女性に大きなストレスや痛みを強いる掻爬手術に強い不信感を持っているので
映画の中のシモーヌの演説に、そうだ!そうだ!と思わず力んで感情移入しました。
そして女性の大事なことを決める場にほとんど女性がいないのも、
映画の中の何十年も前のフランスと同じなのです。日本はなんて遅れた国なんだろう…
この映画の話をしてたら友達が「今の日本の多くの人はプライバシーにはうるさいけど、
人権が尊重されていないことには無関心な人が多いようにおもいます。マスコミも行政も政治家も」と。
本当にそう思います。それが結局国力を弱めることになるのにね。
シモーヌは戦後のフランス再建のためにも、病人や移民や女性を救うことを考えたのだと思います。
ただ、わたしは立派で善良なユダヤ人の人が、パレスチナに対してイスラエルがしていることに
反対したり批判したりしないことにいつもモヤモヤするのですが、
この映画でもユダヤ人のイスラエル入植のシーンがあってそこだけはよくわからなかった。
夢と情熱で建国のために働くイスラエルの若者たちのシーンで、
シモーヌが息子やその仲間に一緒にここで国を作ろうと言われた時に、
自分はフランス人だ、自分の戦う場所は欧州だと最初は言ってたけど、
結局最後はニコニコしながら見ている感じ?のシーン。
あのシーンは少し奥歯に物が挟まった感じに思えたんだけど、どうなんでしょうねぇ。
その疑問に対して別の友達が
「あのシーンは私は意訳かもしれないけど、息子のことだから全否定はできないが、
違和感を覚えているので、それ以上は深入りしない、そういうメッセージなのかと。」と答えてくれて
わたしも基本的にそうい解釈するしかないかな、と改めて思いました。
「ユダヤ人」であるよりフランス人として生きフランスを良くしていきたいと決意を述べても
新しい理想の国の建国に燃える若い人たちには通じなくて、仕方なく微笑んでいるというシーンだったのかなと。
本音をはっきり言う彼女らしさがないような感じなのは、相手が息子だからというだけでなく
アウシュビッツの生き残りのユダヤ人としてはイスラエルを否定するのは難しいのかもなぁ、とも思いました。
しかし近代ドイツを描いた映画って政治の話でなくて例えば恋愛ドラマでも、
ナチスのホロコーストの影がどこかにあるように思います。
歴史を忘れないというのは、間違いを繰り返さないために必要なことだけど、
ドイツは毎年毎年自国の間違いを描いた映画や文学を作り続けていますね。
それもまた、戦後の日本が前の戦争の都合の悪いことをどんどん無かったことにしているのと対照的です。
話が少しそれたけど、フランスのため、社会的弱者たちのため働き続けたシモーヌが今の日本にいたら、
あれにもこれにも怒るだろうし、やるべき仕事が多過ぎてシモーヌが5人も10人も必要かもしれません。
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