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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

短歌のお話聞いてきた

2018-01-09 | 本とか
年末に、ふとできた休みの日、木下龍也さんと岡野大嗣さんの新しい歌集
『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』発売記念イベントで
お二人のトークを聞きました。当日券があってよかった。
トークは面白くて、2時間は長いかなと思ってたのに、あっという間でした。
題して「ふたりの天才による凡人のための短歌教室」。
お二人それぞれの講義?だったのですが、なんか勉強になった気がする
《木下教室》では、「メッセージではなくパッケージを盗め」「文字列のデザイン性」
「きらきらひかるな」「分解と流動」「既存の物語や言葉を活用し裏切れ」etc...
《岡野教室》では「冷蔵庫にあるものだけで作る」「固有名詞を楽しむ」などの他、
「感想」が「短歌」になる過程という項ではいくつもの例で
心に浮かんだ感想や感慨を短歌にするまでのことを実践的に説明されてて
聞いてると、自分の日々のつぶやきもなんだか短歌にできそうな気がして一首。

書店での歌人らのトーク2時間でうっかり短歌楽勝気分

・・・すみません。調子に乗りました。

トーク部分では、二人のキャラクターの違いが面白くて
木下さんの愛ある意地悪なツッコミの数々に対して、
岡野さんのボケはちょっとずれてて、それもまた好感が持てましたね。
木下さんは意地悪さ満載で、「ほら、またそこかわいこぶってる」
「あー、モテようとしちゃって、もう」
「まーた、いい人と思われようとしてるでしょそれ〜」とか言うのですが
まあその通りなので(岡野さんが優しいいい人さ溢れる歌ばかりなので)
つい、笑ってしまうし、なんか男の子同士のじゃれあいって感じがかわいい。

言葉の多い自分には短歌より、写生よりの俳句の方が、
その遠さがいいと思ってきたけど、もっと気楽に詠めばいいのかもね。

その後作った歌のこと

こやすみ

2018-01-07 | 本とか
年末に、木下龍也さんと岡野大嗣さんの共著の歌集の
発売記念イベントトーク行ってきたんだけど
(↑そのことはまた後日書きましたリンクしてあります。)、
その後、ツイッターで岡野大嗣さんが、

たやすみ、は自分のためのおやすみで「たやすく眠れますように」の意

という歌をアップしてて、
あ、うちでは昼寝のときに「こやすみ」って言うなぁと思ったら一首できた?
こんなんでいいんですか???

お昼寝のときこやすみなさいと言う少しのおやすみ小さいおやすみ

「イヌイットの壁掛け」

2017-12-12 | 本とか
職場の階に本屋さんがあるので、お昼休みに絵本を眺めに行くのだけど、
時々帰り道でも寄ります。
帰り道では主に料理本の棚か編み物本の棚か、画集などの棚を見ます。
仕事の後は目も疲れてるので、あまり文字の多い本が見たくないみたい。笑

先日なんとなくブラブラしてた時に、ふと見つけた本がこれ。
大きすぎず小さすぎず程よい大きさの作品集らしき作りで、箱入り。
ちょっと高い(3000円くらい)ので、ちょっと見るだけのつもりでぱらぱらしたら
ひゃー!何これ!なんかすごくいいっ!
めくりながら興奮する本は多くはないです。
タイトル通りイヌイットの壁掛けを集めた作品集だけど、
民芸ものにあまり興味のないわたしでも心揺さぶられる独特な世界観。
大阪のみんぱく(民俗学博物館)で、自分のよく知らない国や地方の人たちの作った
色鮮やかなものを見る時の気持ちに近いけど、安定した完成度と心地よさがあって
これってイヌイットの人たちに共通する感性なんでしょうか。
色も形もモチーフも、本当にしみじみいいんですよ。

その日はパラパラめくって、それから数日じっくり見る暇がなかったんだけど
時間ができたときにゆーっくり見ると、盛りだくさんで濃厚でまた興奮。
精霊たち、食べたり食べられたりする動物、動物と入り混じる人間。
不思議で素朴で自由な造形と色!自由ながらほとばしるのびのびとした個性!
すばらしすぎるな〜!
特に古くからある伝統のものというわけでもなく、1950年くらいから
こつこつ集めてこられたものだそうですが、とにかくいいので何でもいい。笑

これは以前、2000年に一度出版された内容らしく、本は一回り小さいんだけど、
内容は増えてるそうです。
わたしは縫い物やアップリケは苦手だけど、編むのは少しできるので
むくむくと何か編みたい気持ちにさせられます。むくむく。





読書会の種類

2017-11-19 | 本とか
好きな本を各自持ち寄って話をするというタイプの読書会に行ったことはないけど、
読書会というのをググってみると、そういうのが結構たくさん出てきた。
でも、そういうのって新たに読む必要がないし、
自分の好みを持っていけばいいだけだから敷居は低いけど、
なんか、わたしを見て、わたしの話を聞いて!って人が多そうで、
偏見かもしれないけど、本についてより自分について語りたい人が多そうだし、
課題の本を読んでくると言う程度の、さして高くもないハードルくらいは
あった方が面白いんじゃないかと思う。

知らない人の本の好みをばらばらに聞くだけだと、議論も深まらないし、
各自の好みの話に終始するになるなら、読書会じゃなくてもいいよね?
いろんな人がいるなぁとは思うだろうし、それが面白いこともあるだろうけど。

わたしはやっぱり、1冊の本をそれぞれで読んで、人の話を聞いて考えて話して、
そこに滲み出てくるそれぞれの違いが面白いし、
一つのことについて話し合うと議論も深まるし、
これが好き、あれが好きというだけの話よりずっと興味深いと思う。
個人的には、ですけど。
そういえば、読書会じゃないけど、わたしたちの映画の会は、
課題の映画があって、それぞれ見てきて、それについてしゃべるけど、
よく考えてくる人も調べ物してくる人も思いつきでしゃべる人も(わたしだ)
いろいろいて楽しいし、それぞれの最近のトピックをしゃべる時間もあって、
そういうのが好きだし、とても楽しいです。

カズオイシグロ

2017-10-09 | 本とか
わたしはカズオイシグロのノーベル賞受賞で、
日系人が受賞してうれしいと喜ぶ日本人を全然おかしいと思わない。
逆にもしも在日のわたしがノーベル賞を受賞したら、
韓国人が喜んでくれても全然構わない。
どっちでも、さすが〜〜人!と愛国者に利用されるのは御免被るけど、
いいことなんだから関係ある国の人みんなそれぞれ喜んだらいいと思う。

生みの親も育ての親も、一緒によろこべばいいやんと言った友達がいて、
わたしも心からそう思うけど、
そういう風に無邪気に喜べないくらい、
ナショナリズムって怖いってことなのもわかる。
日本人最高!さすが日本の感性!みたいなテレビ報道などが
すごく多いとテレビを持ってる友達は言ってたしなぁ。
ナショナリズムについて、より厳しく批判的に取り除こうとする友達と
そのことについて長いやりとりをしたけど、
わたしはその友達のいうことが正しいのはわかってるし、
その友達もわたしの気持ちはわかってくれてると思うので
なんか、最後はしみじみしてしまった。
わたしは駄々をこねてるだけなんですよ。
ナショナリズムは非常に危険なところがあるので、
それにつながる無邪気さや無自覚な共感などは
批判しておいたほうがいいのはよくわかってる。
でも無邪気に優しく喜ぶ日本の文学好きな友達を批判したくないのよねぇ。
ギリギリのところまでは、わたしはそのまま受け入れたいと思ってしまう。

さて、それはともかくとしてカズオイシグロの作品。
わたしは彼は素晴らしい作家だと思うけど、好みかと言われると違う。
あー、まだるっこしい書き方するなぁと思うこともあるし(えらそうなわたし)
やっぱり大好きな作家の中には入らないかな。
でも、本棚になぜか2冊あった未読の短編集はすぐ読もうと思います。
短編のほうが好きかも。

「カズオ・イシグロの語り手は、人生を変えるかもしれない重要な岐路で、未来よりも過去を選択する。それが必ずしも逃避でないのは、過去の探索がやがて自分自身の現在へ、過去の報告を終えたあとの現在へと跳ね返ってくるからだ。」
堀江敏幸「本の音」より

わたしについて言えば、自分に課している役割は、感情(emotion)を物語に載せて運ぶということです。

映像とくらべて小説は「記憶」を記述することに長けていると思います。記憶の曖昧さ、不合理さ、そのリアリティを、ことばは、むしろ映像よりも的確に捉えることができるように思います。小説においては特定の時代や空間が設定されますが、そうした設定自体が重要なわけではありません。そこで描かれる感情や記憶といった心の作用こそが大事で、そこにこそ普遍性があるのです。そうでなければ200年前の小説を読むことになんの意味があるのでしょう。

わたしは小説を書く際に、まず主題となるべき「感情」を決めて、それを的確に表現するために、物語をいったいどんな場所や時代に設定したらよいかを考えます。

『忘れられた巨人』でも、手順は同じです。はじめに、「社会や国家は、何を記憶し、何を忘れ去ってしまうべきかをどう決定するのか」という問いをたて、それにふさわしい設定を考えた結果、4~5世紀のイギリスに舞台を置くことにしたのです。

インタビューより

料理の本

2017-09-09 | 本とか
うちのリフォームが終わってからずっと、リフォーム屋さんから3ヶ月も連絡がなく、
請求書を送ると言ってたのに、もう払わないでいいの〜?と思ってたけど
ちゃんと連絡は来て、先日支払いました。ちぇ。笑

そのときついでに、買ってあった本棚を組み立ててもらいました。
これ一人では絶対無理だったわ。大きいし重い。
わたしも手伝いながら、小1時間かかってしまいました。頼んで良かった。
それで家の中のあちこちにバラバラにあった料理本を集めたら、結構な量に。
これでも半分くらいになったんです。
今、家に本棚は4つ半しかないし増やさないようにしたいので、
まだ減らさなくては。
でも、整理して余裕ができたら、また買えると思うと嬉しい。
ずっと買わないように気をつけて我慢してたんです。

他のごちゃごちゃの本棚の整理もしたいけど整理しながら並べると先は長い。
大きさや形で揃えるときれいだけどどこにあるかわかりにくくなるし、
内容で並べると見た目がきれいじゃなくてテンション下がる。
整理って難しいですね〜

「アリになった数学者」

2017-09-03 | 本とか
自分と自分以外の外との境目の淡い数学者が、ありになる話。大変詩的。胡蝶の夢的。
わたし、胡蝶の夢の話が、なんとも好きなんですねぇ。
30年以上前に荘子を読んだときから、ずっとしょっちゅう考える。
春にバスの一番前に乗って、ゆっくりと流れる道端の黄色い花や柔らかい光の中で
ぼんやりと何だかわからない多幸感に包まれる時に、
気がつくと自分と世界との境目がなくなっているような、
ふわふわと心もとないような、自由なような、自由というものさえないような、
空虚なような暖かいような、すかすかしてるような、自分にも世界にも輪郭がない、
そういう不思議な瞬間のあとに、我に帰って、考えるのです。
そういう気持ちを同じように持つ人の本、かな。

この本は「たくさんのふしぎ」シリーズのものですがホント素晴らしくて、
昼休みは本屋で絵本を見ようと決めたその日にすぐ買ってしまった。
そもそも「たくさんのふしぎ」シリーズが素晴らしい。
「家をせおって歩く」人の本や、
1本の木の葉っぱの数を実際に数える本や、もう攻め方がアートすぎる。
そして「アリ」のやつは哲学と詩(と数学かな)。

3本のペンとか3匹の羊はあっても、
「3そのもの」はどこにもない。
・・・
図形も、ほんとうはどこにもない。
たとえば、直線は「幅のない長さ」のことだけど、
定規を使って描いた線は、鉛筆の芯の分だけ幅があるから、
ほんとうの直線ではない。
数学者は、存在しないものについて研究しているのだ。
・・・
3そのものがないのとおなじように、
うれしいそのものも、悲しいそのものもない。
それでもぼくらは、家族や友達や、
好きな人の心をありありと感じることができる。

しみ込むようによくわかる言葉で、
雨の音を聞いているうちに自分が水滴になってしまう数学者は
心が外にもれだしやすくなってて、アリになるのです。
そして、アリになってみたら、アリにとっての数はどんなだろうと考える。
人間の思うような数の概念はないけど
アリにとっての数には色や輝きや動きがあると教わる。
人間の数の概念はアリにはわからないけど
アリの数の概念がいつか人間にわかるときがくるだろうか。
アリ以外のクラゲや草や木々の数学を理解できるような日が、
絶対にこないとは言えない、と数学者は、大きな数学の世界の入り口で
果てしなく広い可能性の方を見つめて考えるのです。
自由ってこういうことよね。世界は広いってこういうことよね。
ああ、なんて面白いんだろう。

わたしが人生で一番楽しい瞬間というのは
創作において晴れ晴れと納得できるいいものができたときと
自分の想像力の限界がぐうっと広がったり新しいドアが開いたりする時で、
それは、より自由になるということで、絵本は時々そういう瞬間をくれる。
そういうときは、ひとりでいてもバカみたいにテンションが上がります。

この数学者は子供向けでも論文でもない一般向けの本も書いてるらしく、
それは知らなかったけど、すぐに買うことにしました。
絵本からこういう興味が生まれて広がるって、予想外で嬉しい楽しい。
その人がどこにいる人でも、東京でもアメリカでもネパールでもアフリカでも、
読んでる本の作者や見た作品の作家をひょいとフォローできるって素晴らしいな。
インターネットが、もっと若くて元気で好奇心も心の体力もあったころに、
あったらなぁと思うと悔しいけど、まあ世界は良くなってると思えるのは
うれしい。

本はあちこちで読む

2017-08-21 | 本とか
ひと月くらい、ベッドの中で寝る前に1章ずつだらだら読んでた本をやっと読み終わり。
文章うまいと思わないけど、内容は読みでのあるいい本だった。
家の中に読みかけの本はいろんなところにある。
ベッドの中とお風呂とソファとテーブルの上とデスクの上と持ち歩き用と。
それぞればらばらにちょっとずつしか読み進まず、読み終わるのに時間が掛かる。

でも新聞小説なんてもっと少しずつだけど、それでも気づけば
年に1冊くらい読み終わるわけなんだから、少しずつって侮れないよね。
新聞小説で読んだ本も気がつけば思い出せないくらいの量になってる。
とてもよかった本も多い、池澤夏樹の「静かな大地」、皆川博子の「恋紅」、
宮尾登美子の「きのね」、森見登美彦の「聖なる怠け者の冒険」・・・
今連載してる吉田修一の歌舞伎役者の話もすごく面白い。
今主人公がすごく苦しい時期で、がんばれ!負けるな!事態好転しろ!と
主人公のために祈りながら、毎日数分読んでる。
新聞小説、好きだなぁ。他にない形だもんなぁ、こんなに少しずつ読むの。

年をとって、目がどんどん悪くなり、肩や背中や腰が弱くなり、
若い頃にもっと本を読んどけばよかったなぁと思いかけて、
いやいや、今、今の自分が読んで楽しいんだからこれでいいやと思う。
のろのろ読んでいいい。
読みたい面白そうな本を全部読みきれなくてもいい。
目の前のいいものを味わう毎日の少しずつの時間の充実だけでいいや。

世界は広いし知らないことだらけなので、友達も自然も
えらい人たちの過去の文芸作品もみんな、わたしの想像力を広げてくれる。
ひとりではできないところへ、
世界がわたしの想像力の限界を引っ張って広げてくれる。
問題は自分の限界がいつも柔軟で広がる準備ができているかどうかだな。

他人事って・・・

2017-08-16 | 本とか
数年前に処女作の→「こちらあみ子」にものすごく衝撃を受けて、ずっと気になってて
最近も2冊ほど読んですごいなぁと思ってる今村夏子さんが
今回、再びノミネートされていた芥川賞。
今村さんは惜しくも逃しましたが、まだまだ期待したい作家です。
それはそれとして、ある審査員の選評がネット上では随分騒がれていました。
台湾生まれの在日台湾人?の作者の作品に対してのもので、
それは民族や言葉とアイデンティティの問題に揺れる主人公の話のようですが、
その選評がこれ。
「これは当事者たちには深刻なアイデンティティと向き合うテーマかもしれないが、日本人の読み手にとっては対岸の火事であって、同調しにくい。なるほど、そういう問題も起こるのであろうという程度で、他人事を延々と読まされて退屈だった」
(宮本輝・芥川賞選評『文藝春秋』2017年9月号)

詳しくはこちら。→「在日外国人の問題は対岸の火事」
          平然と差別発言を垂れ流した芥川賞選考委員の文学性

この作品の作者も、自分の小説に対する小説としての批判なら
耳を傾ける覚悟はあるというようなことを、ツイッターでつぶやいている。
小説として退屈な小説だった、ならそれは作者の技量不足とか他の問題だけど
日本人には関係ない(関係ないのか!?)問題だから退屈、と言うのには
二重の問題がありますね。
まず、同じ国に住む人の話でもマイノリティの問題は他人事という考え方。
自分のすぐ近くで起こっている日本に深い関わりのあることでも、
自分を含むマジョリティの問題でなければ対岸の火事、
マイノリティが何を悩もうが苦しもうがそれをどう考え書こうが他人事、としか
読めない意見で、差別につながる当事者意識の欠如ですね。
そもそも、人は世界のすべての問題に関わることはできないけど
どんな問題も本来他人事ではないはずだとわたしは思っています。
実際には自分から近い問題と遠い問題というのがあるのは理解するけど、
ここでそれを堂々と日本の人には関係ないと言うのか、と驚きあきれる。

もうひとつは、他人事を書いた小説は退屈という偏狭な考え方。
宮本輝は、ものを作る人でありながらどこまで怠惰な想像力の持ち主なんだろう。
それでは、住んだことのない外国や月や宇宙の物語を読んだことがないのだろうか。
トルストイも、シェイクスピアも遠い昔の遠くの国の物語だから退屈なんだろうか。
他人事がそんなに退屈なら、小説なんかに関わるのはやめて
ひたすら地元の広報誌でも読んでたらいいのに。
自分ちの前の道路をどうするかとか書いてあるし、ゴミ焼却場問題とか、
人口の推移とか、無料検診とか、全部地元のことだから面白いんじゃない?

あ、でもうちの自治体の広報誌、最近頑張っててデザインも中身も
10年前とは別物のようによくなってるのよ。
広報誌をばかにしているわけではありません。笑

現実の世界に学ぶこと以上に、
知らない場所や知らない人や知らないことを、わたしは本や映画で知ったし
良質の作品は本当に最高の先生だったし。喜びだった。
それらが、どれだけわたしの想像力をのばしてくれただろう。

賞に興味がないので、芥川賞でも直木賞でも受賞したからといって
いつも、特に読んだりもしないんだけど、
芥川賞の選考委員には、わたしの大好きな堀江敏幸さんや小川洋子さん
川上弘美さん、山田詠美姉御などがいます。
みんな宮本輝さんのこの意見にはあきれてくれてますように。

ワルシャワの動物園

2017-08-13 | 本とか
昨日のブログで書いた「プリズン・ブック・クラブ」の中の話で、
戦争中のワルシャワの動物園についての記述があって、
日本の戦時中の「かわいそうなぞう」のお話を思い出しました。
子供の頃にそのお話を読んだ時には象さんがかわいそうでかわいそうで、
戦争という遠い昔のことを(子供にとってはすっかり昔の歴史の話だったのです)
深く考えることもなく、戦争っていうのはいやなもんだなくらいの感想でしたが、
今はもう子供ではなく、戦争は遠い昔でもなく、自分のいる今と地続きで
前の戦争の悲惨さや戦争責任のことや二度としてはならないということも
ずっとよく考えるようになって、初めて知ったワルシャワの動物園の話でした。

そして、軍のすることは日本でもナチスでも同じだなぁとしみじみ思った。
日本もナチスも外国にもひどいことをしたけど、外国や敵国だけでなく、
自国の人たちにも動物たちにも本当に本当にひどいことをした。
無意味に威張り威圧しながら。威張る男ほどタチの悪いものはない。大っ嫌い。
そういえば、先日特攻の人の出てくる映画を見たけど、
特攻など戦争で戦って亡くなった人を悼むのは当然のことにしても、その
亡くなった人は侵略戦争の犠牲になった人なのだというのは忘れてはいけない。
他国に殺されたんじゃない、無駄で無謀な戦争に勇み進んだ
自国の政府や人々の、命令や洗脳や策略で殺されたのだと思います。
大事なものを守るために死ぬのだと思い込まされて、
大事なものを守ることを放棄させられ、殺されたのです。
そりゃ、殺されずに生きている方が、よっぽど守れましたよ、大事な人も故郷も。

ちょっと話がそれました。
当時のナチスは動物にまで優性思想をあてはめてたようで、
優れた動物、劣った動物という分類をして、優れた動物だけを残そうとしたとか、
多種多様な動物の何をもって優劣を決めるのか、愚かにもほどがありますね。
そして優秀とされる動物はナチスが略奪したり、
そうでないものは強制的に殺処分させたり、射撃パーティを開いて撃ち殺したそうです。
面白がって動物を殺す軍人の姿が目に浮かびます。
きっと同じように面白がって人も殺したのでしょう。
ひどすぎる。

ただ、ワルシャワ動物園の園長は非常に気概のある人で、
見つかれば自分も処刑されるという状況の中、動物のいなくなった動物園に
ユダヤ人たちを300人以上もかくまって助けたということでした。
檻や自宅のクロゼットにかくまい、食事を与え、慰め励まし続けたそうです。
素晴らしい。この園長のこともいつか映画になるかなと思ってたら
なんと年末か来年かに上映されるらしいです。
この本の中のまだ侵略される前の?動物園内の自然の描写も良いそうなので、
野の花の香りが感じられる美しい映像も期待します。

ちなみに、「かわいそうなぞう」のお話も、史実と違うところや
辻褄の合わないところはあるようで、いろいろググるとそれを指摘するものも
いくつかヒットしましたが、小さな子供の読むお話としては良いと思ってます。
わたしの友達でもこの話をすると、今でも泣けるという人がたくさんいる。

でも大人の人はもう少し事情を知っておいて、
よく考える方がいいと思うのでひとつリンクを貼っておきます。
「かわいそうなぞう」にまつわる苦い話
象は国民に敵を憎ませ、我慢を強いるためのプロパガンダとして殺されたという説。
”これは『かわいそうなぞう』だけの問題ではない。戦後日本の「平和教育」は、もっぱら戦争被害の悲惨さを描き、だから「二度と戦争をしてはいけない」と訴えるのがパターンだった。しかし、あの戦争を誰がなぜ引き起こし、その戦争で日本は何をしたのか、またその過程で誰がどのように加担したのかを追求することなく、ただ「戦争はいけない」と叫んでいても、戦争の再来を止めることはできない。”

「プリズン・ブッククラブ」

2017-08-12 | 本とか
何度かこの本の内容の一部に関してブログに書いたけど、やっと全部読み終わった。
ジャーナリストの人が書いたノンフィクションで、刑務所内での読書会の話。
文章はなんだか教科書的というか、面白くないんだけど
内容はいろいろと興味深くて、読んでいて面白かったです。
寝る前にベッドで1章ずつ読んでひと月くらいかかった。

刑務所の様子や受刑者たちについても、知らないことばかりだけど
カナダの話なので、読まれる本は英語は英語でもカナダの作家が多くて、
カナダではおそらくベストセラーやロングセラーの有名な本でも、
わたしは知らないものばかりで、わたしの世界って小さいなと気付きました。
そして、このドキュメンタリーの進行と同時に、
読書会で取り上げられるそういう未知の本についても同時に少し知ることができるので、
2倍面白いお得な本でした。

家の前で暴漢に襲われたことがあってPTSDに悩まされている著者は、
友達のキャロルに誘われて刑務所内での読書会のボランティアメンバーとなる。
著者個人の、恐怖と不安を乗り越えていく様子をところどころに挟みながら
何箇所かの刑務所での読書会の様子が、1章につき1冊か2冊分ずつ語られていきます。
個性豊かな男性受刑者たちがいて、本を読みながらいろんな話をする中には
鋭い考察や、共感性や、想像力の感じられる意見もたくさん出るし、
それぞれの受刑者たちとの交流も深まっていく。

著者もキャロルも、裕福なインテリ家庭の人たちで、
彼女らの刑務所に関係のない別の女性読書会では、センスのいい豪華なおうちで
ふわふわのソファに座って洒落たフードやカクテルなど飲みながら
穏やかにリラックスした優雅な会をしている。
そこにはほとんどの受刑者たちの育ってきた環境との大きな格差が見えます。
例えば、キャロルはかなり強引に積極的に寄付を募る。
キャロルは慣習として収入の1割を寄付する家庭で育っただけに、他の人たちにもハードルを高く設定し、友人といえども手加減なく懐の広さを要求する。シャンパンと牡蠣を楽しんだパーティからわずか6日後、募金申し込みカードを持ち帰った招待客のひとりに、キャロルは電話をした。「ね、ジョン、ジョン」とたたみかける。「マタイによる福音書第6章には、『地上に富を積んではならない』とあるわよ」。……ジョンは笑って、しぶしぶ5000ドルを寄付した。
こういう強制に近い寄付集めが笑って許されるのは、
それぞれが近い価値観を持つだけでなく、十分以上に裕福な社会に属していて
余裕がたっぷりあるからだなぁ、と
日本ではあまり一般的ではなさそうな光景にへえ〜っと思う。
でもわたしもこの本の著者もそれは別に矛盾することではないと思ってます。
住む世界が違うのはその人の責任ではないし仕方ないし、
それぞれの世界でできることをやっていくしかない。
ただ、他の世界の存在を知る努力をし、さらにその格差を少しでも
縮めてたくさんの人を助けようとしているキャロルは立派だと思います。

そして本の最後の文で、著者はこう書いてる。
あるとき、こんなふうに訊ねられた。もしどちらかひとつの読書会に参加するとしたら、トロ ントの女性読書会を選ぶか、それともコリンズ・ベイあるいはビーバークリークを選ぶか、と。 あえて言うなら、わたしは刑務所の読書会を選ぶ。ワィンもビールも、洋梨とリンゴのクランブルケーキも、珍しいチーズもあきらめて、刑務所の一室に受刑者たちとともに集うだろう。なぜ なら、彼らの読書会には切実な思いが詰まっているし、あの場では、彼ら自身の人生やわたしの 人生を変えるようなことさえ起こりうるからだ。彼らの言葉の少なくともひとつは、これから先もずっとわたしとともにあるにちがいない。

やや長い本だけど、ドキュメンタリーで特にストーリーがあるものではないので
いくつか引用。

キャロルの言葉>「読書の楽しみの半分は、ひとりですること、つまり本を読むことよ」と秘密を打ちあけるような口調で語りかける。「あとの半分は、みんなで集まって話し合うこと。それによって内容を深く理解できるようになる。本が友だちになる。「もちろん、好きになれない本もあるでしょう」。この事実に臆せず向き合うことは、どんな読書会でも大事で、わたしの所属する女性読書会とて同じだ。「でも、わたしはこれまでいろんな読書会に参加してきて、好きになれない本でも頑張って最後まで読むようにしていたわ。話し合いに参加する一員として、その場を共有するのだから。それに、最後まで読み終えると、たいていは『やっぱり、この本から教わることはたくさんあった』と思えるの」。

とはいえ、メンバーたちにとって、問題はもっと根本的なところにある。とにかく情景描写が多すぎて、展開がゆるすぎるのだ。
「ニワトリを描写するだけで、20ページとか50ぺージとか使ってるんだぜ」とグレアムが不満をもらした。さすがにそれは誇張だが、キャロルにしてみればそういう意見を耳すると身を乗り出さずにはいられなくなる。……英文学の教師だったキャロルとしては、メンバーの心に火をつける機会があれば逃すわけにはいかない。

そしてキャロルは、メンバーにその場の情景を臭いまで感じさせるような描写の箇所を
朗読し、情景描写の味わい方を体験させる。こういう先生いいですね。
その後受刑者はこういうことを言うようになる。すばらしい。
その場しのぎの、ただ面白いだけの小説にはもう興味がない。著者が何を考えているか、どんな言葉を使っているか、どんな語り愚痴で表現してるかを知りたいんだ。おれがこれまで読んだシドニィ・シェルダンとか、ファンタジーとか、おとぎ話とか、そういう普通じゃない人間の話でなくていい。現実的あ人生の話でいいんだ」

メンバーたちの発言など。
「恐怖心に目を向けろ」(アメリカの俳優デル・クローズの言葉)とフランクは言いたかったのだ。恐怖心こそ、その人物について多くを語るものだから。

軍隊の兵士たちがいかに影響を受けやすいか、著者はきわめて興味深い報告をしている。1950年代なかばの調査結果によれば、仲間同士の結びつきが強い隊に属する兵士は、それほどでもない隊に属する兵士より、戦闘機から思いきりよく飛びおりたという。深い絆で結ばれた兵士は、おのれの安全よりも仲間の期待に応えられるかどうかを気にかけるのだ。

「ここの日課も最初は面倒だったけど」と(栽培家〉も同意した。「いまじゃなんとも思わない。 それが順応ってことさ。日課をこなしてると、それが目的みたいになっちまうんだ」。そして、 兵士たちは入隊するまで何者でもなかった、という著者の言葉を挙げて、こう続けた「軍をやめたら宿なしに戻ったやつもいる。だから、戦場にいること自体が目的みたいなもんだったのさ」


午後のその数時間は3人だけの読書会になり、外の世界ではたいがいの読書会がそうであるように、わたしたちはざっくばらんなお喋りをした。話はしょっちゅう脱線したが、どんな話題になっても、これまで読んできた本のどれかに結びついた。自分たちの中にしっかりと根を下ろした本の数々が、まるで過去の経験のように、記憶として、あるいは物事の判断基準として立ち上がってくるのだ。

そして著者のアンもやがて、このように信頼され友情を感じさせられるようになる。
おれは友だちについて考えはじめた。ほんものの友だちってなんだろうって。それは、おれのことを悪く思っていない人で、一緒にいると気が楽で、自由に話したり行動したり、自分を表現したりできる相手だ。とすると、アンはおれにとって「すごくいい友だち」だと思 う。アンには感謝してる。

図書館のその机で、グレアムは翌月から大学の通信教育の勉強を始める。勉強に使うノートパ ソコンは、マニトバ州にいる妻が送ってくれたらしい。そして、数か月後には、「生きている本(ヒ ューマンブック)」のひとりとして、〈ヒューマンライブラリー〉というプロジェクトにも参加する。 これは、ひとりの人間を一冊の本に見立て、図書館を訪れた人にひとりひとりの”本"と語り合 ってもらうことで、外見や肩書への固定観念を取り払おうという試みだ。 グレアムを社会復帰施設まで送っていくあいだ、出発したときよりふたりともずいぶん口数が 減っていた。グレアムまでなんだか不安そうだ。どうやら、不安は共有されやすいものらしい。 それから数か月、グレアムは変わらす模範的で、担当の保護観察官や周囲の人たちを感心させ ていた。しばらく建設業者で働いたあと、兄弟のひとりと塗装会社を立ち上げて成功したようだ。 警察かりは何度か集会に招かれ、新人警官たちの前で話をした。そして、〈刑務所読書会支援の会〉 の募金集めバーティーでは、花形スピーカーとして読書会での経験をみなに伝えるようになった。
読者会メンバーだった受刑者のその後など。
それにしても、ヒューマンブックというのは面白い試みだなぁ。

「一緒に読んでくれる仲間がいないと、気力が出ない」「自分では気づきもしなかった点をほかのやつらが掘り起こしてくれる」「本は追いかけてきちゃくれない。こちらから追いかけないと」

訳者あとがきより
カナダの刑務所に次々と読書会を開設していくキャロルという女性は、実に魅力的だ。著者のアンが感受性の強い繊細な女性であるのと対照的に、キャロルは行動的で押しが強い。敬虔なクリスチャンでもある彼女は、困っている人を助けるすばらしさにメンバーたちの目を向けさせようとする。しかし、受刑者たちはそう単純ではない。面と向かってキャロルに反発する場面などもあり、この駆け引きはなんとる興味深い。ただの読書会ではなく、あくまでも、充実した読書会 をめざすキャロルは、次々にユニークな企画をしかけていく。著者を刑務所読書会に招いたり、受刑者からの質問にメールで答えてもらったり、自分の所属する塀の外の女性読書会と刑務所読書会とで同じ本を読んで感想を交換したり…

本の訳者あとがきの中に、この読書会のサイトのURLがあったので見てみたら
さらにこの読書会の雰囲気がわかる気がしました。
また、刑務所読書会を立ち上げ、恐るべきバイタリティと尽きぬ思いやりの心で
大きく発展させた主宰者のキャロルの写真を見たら颯爽とした魅力的な人で
改めて敬意を感じました。
刑務所読書会のホームページ

情景描写

2017-08-01 | 本とか
カナダの刑務所での読書会を書いたドキュメンタリーを読んでいるのですが、
(非常に興味深いです)
読書会の中で、ある長い本について、情景描写が長くて展開がだるいという人に
「情景描写は性的な体験と同じで、人を別世界に連れて行ってくれるものだ」
と主催者のひとりが答えるところがあって、
子供の頃大好きな「赤毛のアン」の情景描写を、いつもだるいと思って
読み飛ばしてた自分を思い出した。
その頃は本当に自然の描写とか退屈で、どんどんとばして読んでたのでした。
知らない国の知らない草木や森や林のことを想像する力もなかったけど、
きっと身近な情景も見えてなかったんだろうなぁと今となっては思う。
未熟だったなぁ。陰影のない子供だった。

でも
あらすじととエッセンスだけでできてる展開の早い小説なんて、
今ではそんなに読みたくないように思います。
「赤毛のアン」も今は、物語の進行以上に細やかな情景描写を丁寧に楽しめる。
少しは大人になって味わうということがわかるようになったかな。
世界はたいして変わらなくても自分は少し成長して、
より多くのものが見えるし味わえるし楽しめるようになる。
その代わり、老眼や記憶力の衰えや耳までますます弱くなってきてるけど
こういうこと考えると、とんとんかなと納得する。

「あのねハンナ」

2017-07-25 | 本とか
友達とハンナアレントの会をやるので「人間の条件」を読もうとしてるんだけど
全然わかんなくて進まない。
別の友達に言うと、その本は難しくないからいいねととか、
わかりやすい方だよとかいわれた。
仕事でも同じだけど、自分の頭がとんでもなく悪いことに、呆然とする日々。

それでなんとか読めるよう対策を考えたら、
そうだハンナアレント人形を作って、文句言いながら読もう!と思いついたけど
そんな暇はなかったのだった。笑

仕方なくちょっと読んで考えては、Twitter相手にぶつぶつ呟く。

「ハンナ。1行の言いたいことのために、2ページたっぷり長々と、
 同じこと難しい言い方で何度も書くのやめてくれる?」

「ハンナ、1行で言えることは1行で言っていいのよ。
 解説や証明は別冊にして、内容は箇条書きで
 2ページくらいにまとめてくれない?わたしの語彙の範囲で。」

「ハンナ、わたしの語彙というのはくまのプーさんまでよ。
 プーさんをよく読んで、そこにない言葉を使わないように書き直してくれる?」

「ああ、シュークリーム食べたい。小説読みたい」

1章ずつ、ちょびっとずつ読めばいい会なんですけどねぇ。
もう最初のページから、条件、条件ってどういう意味よ?
対応?対応って何よ?とぼやぼやぼやき続けてました。
時間できたら絶対ハンナアレント人形作ってやると思いました。

結局ベッドやソファで寝転んでの読書は全くはかどらず、
やっぱりこういう本はテーブルに向かってちゃんと座って読むしかないなぁ。
でもそれすると、飲み物とおやつをたくさん消費してしまうという問題が。笑

とにかく無事に何度か読んで、一回目の読書会にも行って
他の人の話も聞いて、みんなすごくわかってるわけじゃないのだ、
かなり強引な理解で読み進んでいいのだ、ということがわかって、一安心。
次はちょっと長めの代2章です。

「蜜蜂と遠雷」読書会

2017-07-16 | 本とか
数年前にKindleを買ったものの、本自体たくさんは読まないし
一番よく読んでるのはお風呂の中なので、
Kindleは持ち込めず、中々Kindle読書ははかどらなかった。
でも恩田陸の「蜂蜜と遠雷」は、その読書会に参加を決めたときに、
これはKindleで読もうと、久しぶりに思いました。
だって分厚くて重いんだもん。
他にも、もう一人、Kindleの人がいて、あとスマホの人もいました。

読んでも読んでもピアノコンテストの話が続くだけの本なのですが、
これがすごく面白くて、でもなかなか終わらなくて
長い話だなぁと思ってたら、読書会の時に紙の分厚い本の中身を見て
文字組が2段組になってたことを初めて知り、そりゃ長いはずだと納得。笑
天才的な演奏や演奏者を褒める大きな言葉が後半に行くにつれさらに大きくなり
どこまで飽させずにクレッシェンドさせていけるのか?と心配になる程だけど
最後まで面白かった。
音楽や絵画について文字で書かれたものの面白さをたっぷり味わいました。

久しぶりの読書会でした。半年以上ぶり。
読書会もいろいろあるけど、この会の読書会はいつもわりと長時間。
この日も四時間。疲れました。でも楽しかった。ここちよい疲労感。

20人もいると簡単な自己紹介でも30分以上かかるし
そのあとも人の発言を聞いてる時間が圧倒的に長くて
人の話をよく聞くということの練習になります。
自分も含め、聞くということって、案外できてないことが多いですよね。
聞いてるつもりでも、結局人の話を自分の意見の材料にしてるだけだったり、
自分の言いたいことが先走って人の話を遮っていたり聞き流していたり。
でも静かながらも途切れずたくさんの人の発言を聞いていても
ちゃんと聞いていると退屈はしないもので、自分が話すべき時もわかってくる。
誰かの話に反応して言いたいことが出てきて、
それが話を発展させたり深くさせたり共感されそうなときに話して、
他の人もその会話に参加してきて、場が静かに盛り上がるとうれしい。
わたしはそこは違う!みたいなことを言いたいだけなら黙ってる方がいい。
あなたがどんな人か、あなたの持論や主張がどうか、ということは
20人もいる場では、時間を取りすぎるのですね。
場の会話ということについて、この会の読書会ではよく考えるようになりました。
わたしを見て、わたしをわかって!といいたいだけの自己主張はあんまりいらない。
中にはすぐ自分の話に持って行って、自分ばかり話すような人もいるけど、
人数の割りに静かで、穏やかにみんなの会話が進むのは主催者の方の人柄かな。

そして、読書会に行くと、本好きの人が多くて、わたしって本読んでないなぁ、
そして本好きとは言えないなぁ、としみじみ思う。でもまあそれでもいいのだ。

この読書会はいつも真面目に冒頭から読み解いていくタイプの読書会で、
自分が読書会をやる場合は10人くらいまでで、
デタラメなコーナーのあるやつを、やりたいなぁと、
いろんなタイプの読書会の夢想もします。

本棚を見ると

2017-06-06 | 本とか
本棚を見られるのは恥ずかしいというのはよくわかる。
恥ずかし本があるわけでなくても、
本棚を見ればその人がどういう人か多少わかるだろうから。

先日知り合いが、古本屋さんでの出来事について書いていた。
ある本の山があって、それは一人の人の蔵書だったらしいんだけど、
古本屋の主人がそれに対して、この本の持ち主は興味の範囲は広いけど
ツッコミが足りない、しかしながら〜〜についての本が何種類もあるのは
目の付け所が良い、というような話をしたということ。
本棚でなくても一山の蔵書でもいろいろわかられてしまうものです。

わたしの本棚は、薄っぺらで興味がフラフラ定まらないのにいいかっこしいな、
ダメなところが一目でわかりそうだなぁ。

リフォーム後、ぐちゃぐちゃのままの本棚を整理しなくては。