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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「あやとりの記」

2018-08-14 | 本とか
石牟礼道子さんの本を初めて読みました。苦海浄土を読みたかったんだけど
ちょっと中身も量も大きすぎて、手頃な1冊を最初に手に取った。そして、
ああ、ああ、と、この世界の豊饒に最初の2ページからもう酔いしれることになった。

中上健次を思い出すほどの濃密な世界だけど、
いわゆる男と女の違いの典型を見るような違いがある。
もっと澄んでいてもっと柔らかくもっと分け隔てのない世界だなぁ。
お風呂で読んでいるので、少しずつ読み終わるのにはひと月くらいかかりそうと思い、
これからひと月も、この世界を味わえるのかと思うと幸せな気分になった。
以前本を読めなくなったことがあって、今は随分回復したけどやっぱり読むのが遅くて
一行を何度も読まないと意味が入ってこなくて、
先に進めないのが腹立たしい時もあるんだけど、この本は、それが全然気にならない。
同じところに好きなだけ止まっていても、幸せで落ち着いていられました。
ゆっくりゆっくり読んで、明日読み終わるというときには寂しくなった。
そして、苦海浄土も読んでいない自分のお馬鹿さを心底反省した。絶対読むぞ。

雪うろ、馬の足音、残された香り高い蘭の花ひとつ、垣根を越える自由なものの魂、
見えない客人たちの素晴らしいイメージ。
真に普遍的なものは均一で薄っぺらなグローバルの中ではなく
土着の独自の地域性の中にあるのではないかと思ってるけど、まさにそういう本。
すべてのものについている音の精。
雪の夜には、何年分も休む「もの」たち。
雪をかぶって転がる中身のないどんぐりの帽子のかわいさ。猫貝。
最初は、ただただここに書かれている世界の純度の高い濃密さにうっとりしていたけど、
後半になると現実世界の切なさが胸を突いて、
小さいみっちんの心の痛みがつらくて切なくて
愛おしくてたまらなくて胸がきゅうきゅう苦しくて涙が出る。
虐げられている人たちの強く優しく大きな魂をすっぽり感じることのできる
小さな女の子みっちんの魂。

みっちんは、3つ4つの女の子。
見えない人の気配や音に気付き、心が遠くに行く盲目の祖母や、
いつも犬の子をふところに入れてるさっちん、
挨拶が誰よりも上手な片目のヒロム兄やん
片足の仙造やん、火葬場の岩殿(いわどん)、など
「すこし神様になりかけて」いて
人からは叩かれたり唾を吐かれたりすることのある優しい人達の側にいつもいる。
そしてこんなに小さいのに、見える世界の美しさも、見えない世界の豊かさも、
人や世の切なさも、感じてしまう子。
睡蓮の葉っぱの露の玉や、小川の岸の草の葉先で、今にもこぼれ落ちそうになっている露の玉を見かけると、息が止まるかと思うほど、胸がどきんとすることがありました。
(生まれる前のわたしかもしれん!)
と思ってしまうからです。生まれる前の自分、ああなんとその自分に逢いたいことか。みっちんが、水とか露とかを見て魂がとろとろなるのは、そういうわけなのです。


お風呂のお湯まで優しく思えるほどこの世界に浸った後に、お風呂を出て耳をすますと
ここは、片足の蘭取りじいさんが馬で行く雪におおわれた地方ではなく、
駅と国道に面したうるさくてつまらない郊外都市で、
雨の音より、雨を轢いてジリジリ言うタイヤの音が大きい街なかなのだった。
車の減る夜中もうるさいだけで、星の音も聞こえやしない。ちぇ。
でも、お風呂上りのしばらくだけ、わたしも良い魂の人になれているような気がする。
わたしが良い人間になるための、大事な宝物のひとつだなぁ。
そして、
読んでいるとき、このものすごく懐かしい世界は何だろうと
ずっと記憶を探ってたことを、半分くらい読んだところで思い出した!
子供の頃に読んだ庄野英二の「星の牧場」だ。
この本の、幻想的なシーンだ。とんでもなくやさしい。それと同じ稀有なやさしさ。
もう絶版だけど、そのうち中古で買って読み直そうかなぁ。

「あら、もう102歳」

2018-08-13 | 本とか
帯の文に惹かれた。

いいひとは天国へ行けるし
わるいひとはどこへでも行ける


かっこいい。
とはいえ、102歳の方の本で、ぱらっとめくると文字が大きい!ので、
帯の文は素敵だけど、中身はきっと、ほっこりゆったり、ゆるふわな、
おばあさんの想い出話や生活のことなどかなぁと警戒しつつも、
待ち合わせまでの時間つぶしにちょうどいいかと、駅の中の本屋で買ったのです。
ところが、いやぁ、なんか、良いです。いい。

ダンスホールで、すごく上手くてモテる人を好きになってその人と結婚した話。
婿に入った夫とのおままごとみたいな新婚時代。
このへんまでは、ゆったりとした想い出語り風で、社交ダンスをしているわたしには
ダンスホールの話や当時の若いモボモガとよばれる男女の風俗も、
いいところのお嬢さんである作者も興味深くするする読んでたのですが、
夫が、外に女性ができて帰ってこなくなった話あたりから、なんか
この作者の変わらぬリズムに引き込まれました。
骨太というか、肝が座ってるというか、それが、お嬢さんであることと矛盾しないのね。
ドラマをドラマのように語らないんですよ、なんとも淡々と呑気な感じで、
子供の時好きだったお菓子の話をするみたいに語るんですよ。
たとえば、
女と出奔した夫と、娘の母親と父親として、たまに外で会う関係だった時の話。
あるとき就職して、何もしないでいいといわれて、ただ電話番をしてたら、上司に
「本当に何もしないんだな、そんなだから捨てられるんだ」と言われ、
怒って、辞めさせていただきます!と、その場で出てきて、
すぐそれを、当の夫(別の女と出奔中)にこんなことがあったと電話して
わーわーと泣くエピソード好き。
素直でかわいい人だな。
女学校の宿題のオーバーを縫うのを、出入りの仕立て屋さんにやってもらって
学校にばれても、わーわー泣いて、母娘ともに怒られたり。なんか悪気がない人。
お金には一生苦労せず、疎開もお雛様を持って行って文句言われたりするし、
自分のお財布を持ったこともないお嬢さんのままで、お金に対する欲もなかったみたい。
汲々としているわたし自身や、もっと生活の大変な人のことを考えると、なんだか珍しい。

そして70歳すぎて、映画の「戦場のメリークリスマス」を見て、美青年のBLに目覚め、
105歳まで階段の上り下りができて106歳まで生きた、という人の本でした。
本は全体に、大きな字で簡単に短いエピソードが綴られているだけなんだけど、
風通しのいい好きな感じ。
なんかわたし、初めて、長生きしてみるかという気持ちになった。多分しないけど。

この人が49歳で始めた俳句は、お嬢さんの不良感があって良いのですが、
なるほど99歳の時の句集「遊戯の家」の帯の惹句は「99歳の不良少女」だったそうです。

これは60歳過ぎて、40代の頃の愛人と暮らしてた夫とたまに会ってた頃を思い出しての句。
花合歓やひる逢ふ紅は薄くさし

その後句集は4冊?出されたようですね。
火あぶりの火の匂ひして盆踊り
夕顔はヨハネに抱かれたいのだな
ぷいと来てバラを接ぎ木して去りぬ

そしてこれは102歳の時の句集より
山羊の匂いの白い毛布のような性

103歳でこういうの
たとえばきみ左手呉れと云われたら
金鳳花たべちらかして髑髏かな
永き日のまだ魚でなく鳥でなく


この106歳まで俳句を作っていた人は、よく生きた、幸せな人生だったのではないでしょうか。

「アメリカ文学のレッスン」

2018-08-12 | 本とか
柴田元幸さん訳の「ハックルベリ・フィン」を読む前に
彼の「アメリカ文学のレッスン」をお風呂で読み始めたら、
最初の章でハックルベリ・フィンについて出てきた。
子どもの頃「トム・ソーヤーの冒険」と一緒に読んだけど、
トムに比べてなんだかぼんやりとしか覚えていないハックのことが、
ええ!そういう子だったっけ!と、面白い。
なんとなく自由でさすらってるイメージがあったし実際それはそうなんだけど、
スナフキンがやんちゃな子供になったみたいな子では、全然なかった。
自由を求めて孤独も受け入れてひとり生きていく冒険好きな反逆児というよりは、
人が好くて、なんだか流されたり巻き込まれたりする方が多いというような描写に、
そうだっけ?と記憶を辿るけどわかんない。
そうだったなら、今読んだ方がずっと、しっくりきて、よくわかる気がします。

1章ずつ、アメリカ文学のテーマとして選んだものについて数冊の本をあげていて、
お風呂で1章ずつ読むのにぴったりの本で、すごく楽しく読んだ。

ベンジャミン・フランクリンの「フランクリン自伝」の中の、
彼の決めた自分ルールというか規律と、ギャツビーのそれとの比較が面白かった。
すごい規律なのよ。
フランクリンの「十三の徳目」として、
節制、沈黙、規律、決意、倹約、勤勉・・・などなどの項目に短い説明がついてる。
これに毎日の時間割で、5時起床「今日はいかなる善をなすべきか」から始まるやつも作る。
それを比較してみて、改めて、フィッツジェラルドはすごいなぁと思った。
もっと世俗的具体的に、そしてどこかさらに滑稽にしてあって、結果絶妙な物悲しさを
ギャツビーという人間とその小説に与えることに成功している。

アメリカ文学の中で、家を「建てる」という章を作るセンスもさすがだな。
〈自己創造の意志が外の世界に投影されるとき、アメリカ文学では「館」を建てる(あるいは買う)という形をとることが多い。〉……要するに家を作ることは自分を作ることなのだ。
この辺は、家を建てる、買うというのが(男の)人生のレールの大きなひとつになっていた
日本の人にもよくわかるところかもしれない。
こうして見ると、アメリカ文学にhouseはあってもhomeはない、と断じてしまうのは言いすぎとしても、house は成立してもhome は成立しにくい文学である、くらいは言えそうだ。なぜそこまでhome がないのか?これも大まかな話にならざるをえないが、基本的に、人と人が向き合う文学というより、人が人に背を向けて世界と向き合う文学だから、とひとまず言うことができると思う。
知識しかないと退屈で面白くないし、センスしかないと薄っぺらだけど
両方いい塩梅にある話は面白いなぁ。

「イノセント・ガールズ」

2018-08-11 | 本とか
〜20人の最低で最高の人生〜と副題がついてる。
丁寧に繊細にかかれた伝記やドキュメンタリーもいいけど、
かなり変わった人生のあらすじ程度のものを読むのも、それはそれで面白いものだなぁ。

女性が何かをしたかったり始めたりするときに、今よりずっと抵抗のあった時代、
戦後1940年代から70年台にかけてのアメリカの女性の話がほとんどですが、
女性の地位や権利が大きく変わっていった時代の先に今の自分があると思うからか
あらすじ的なざっとした短い話ばかりで、深い考察や読解があるわけでもないけど
一人一人の人生を、余分に想像するのがとても楽しかったです。

ジャクリーン・ケネディ・オナシスのいとこという女性と、その母。
魔女の館と呼ばれる荒れ果てた屋敷にゴミに埋もれて住んでいたのを
中年を過ぎた50代で、発見され時の人に。
大変エキセントリックな人だったようで、スターになりたかったようです。

5回も6回も結婚してすごい富豪になった女性の話は、
3番目と結婚した直後にすでに4番目と旅行したりしてて、
3番目とは1年半で離婚したのに膨大なモノを貰って別れたその巻き上げ力すごい!
彼女は歌手になりたくてなりたくて、財力にモノを言わせて
夢のオペラ歌手になろうとするけど、どんなに富んでも音痴は治らなかったそうで。
ちょっと前にやってたメリル・ストリープの映画のモデルがこの人かな?

元々大富豪の男好きで、お金目当ての相手と二度結婚して、
そのあとは割り切って男たちと付き合った女性は、
二度目の離婚の時は相手に大金を巻き上げられたとのことで、
まあ、たくさんある人は払えば良い。と思ったりするけど、
最後は絶大な信頼を寄せた執事にコントロールされ他人を信じなくなって亡くなって、
新興宗教みたいに執事に言われるがままに信じちゃったのは、寂しい人だったからなのかな。
13歳の時に亡くなった父親に、お前のような大柄で不器量な娘には
お金目的の男しかこないから(愛を)期待してはいけないと言われ、
実際その通りになってしまった人生なのね・・・。呪いだな。
実の母親さえ、前夫との間の息子に財産を与えようと画策していて敵だったというから、
味方のない孤独な人生だったのね。

わたしに莫大な財産をくれても、バカなことはしないのに、と思うけど、どうだろう。
お金目当てのイケメンにひっかかるかしらん?

ヌーディスト映画というジャンルの監督、という女性の話は、
いやぁ、なんにでもいろんなジャンルがあるものだなぁと驚いた。
たとえば脱走囚が女性に、匿えと脅して連れて行かれたところがヌーディストビーチで、
みたいな映画とか、あるいは、ロケットが不時着した星がヌーディスト村で、とか。
女性版エド・ウッドと呼ばれたそうです。
エド・ウッドはB級ホラーというか(C級かD級かそれ以下か)で有名なカルト映画監督で
前にジョニー・デップが演じた映画を見たことがある。変てこな映画でした。

見栄っ張りや嘘つきな女性も多く、滑稽に見える人生や惨めな終わり方の人生もあって
なんだか少し寂しい読後感ながら、それでもそれぞれなりに生きた女性たちに、
少し元気が出るような気持ちにもなる。女たちよ!

「楽器たちの図書館」

2018-08-10 | 本とか
これは短編集ですが、それぞれの話は面白いんだけど文体に馴染めなくて
韓国という日本に近い国の話なのに会話とかが翻訳調すぎる感じで違和感が。
それで、読んでた途中で半年以上ほったらかしてたんだけど、
やっと読み終わって、最後の話の後味が良くて、ほっとしました。
改めて考えてみると、翻訳はともかく、小説は悪くない気がしてきた。

「楽器たちの図書館」というタイトルにまず惹かれたのですが、
この本、楽器や音楽にまつわる短編を集めた本ではあるんだけど、
表紙のイラストを見て想像してたのとはちょっと違ったかな。
わたしにとって楽器と言えば、電気を通さないアコースティックな、
クラシカルなイメージがまず浮かぶんだけど
これはもっと今風というか、現代的な韓国や日本の若者の視点での、
楽器だけでなくDJや歌や音のリミックスなども含む
広い意味での音楽に関する短編の本だった。

マニュアル専門誌の話とか、無声映画と音痴と人気グループのライブの話とか、
どれも着想がおもしろく、どこか切ない話が多いけど、暗くはないです。
本当にマニュアル専門誌というものがあれば、見てみたいし。
そういうの作る人はなんとなく想像できる。オタクと呼ばれる人たちかな。
そういう人たちの話が多いです。

表題作は、楽器の図書館というより、膨大な楽器の音の図書館みたいな話。
でもそういうアイデアだけじゃなく主人公の人生や心の問題も描かれている作品で、
どの短編もそういうところがありますね。

一番好きというか印象に残った話は、唯一ほとんど音楽に関係ない話でした。
お母さんが消えていなくなってしまう「無方向バス」という話で、
怖いような寂しいような宙ぶらりんなような感じが、好き。
自分がおかあさんだったからかもしれない。
息子の視点で書かれているけど、お母さんの気持ちにもなってしまう。
「無方向バス」という言葉の響きも、なんともさびしくて、いいな。
バスって、どこへも行かない、って感じがよく似合う。

解説を読んで、この「無方向バス」には政治的な意味もあると知りました。
この短編の副題は〈リミックス「美しかったペンドク」〉となっていて、
それは朝鮮戦争後、南北分断による離散家族を描いた小説だそうです。
その作者は夭折しているのだけど、解説にはこう書かれている。
>離散家族の悲劇を引き起こした政治の不条理性は、
>「無方向バス」では曖昧に描かれた父親の暴力性に該当しよう。

なるほど。

あ、一句浮かんだ!

ゆく夏やどこへも行かないバスに乗る

「朝鮮大学校物語」

2018-06-26 | 本とか
お風呂でヤン・ヨンヒの「朝鮮大学校物語」を読み終わって、のぼせる。
暑ぅ〜。扇風機出さなければ。

映画監督である作者の作った映画「かぞくのくに」はとてもよかったし、
「かぞくのくに」の方が、作者の人生に近い話だということだけど、
そのせいなのかどうか、それに比べると小説はいまひとつな感じ。
映画的なシーンが目に浮かぶ場面は多かったので、
小説ではなく映画にしたらいいのにと、普通に思う。
コンパクトにまとめて、70分くらいの映画にするといいかな。
小説としては、物語は凡庸だし、人物も特に面白くなくて、
恋愛も、主人公の心の動きさえごくありきたりと思うけど、
でも、それよりなにより朝鮮大学の実態が珍しくて興味深い本でした。
物語は、まあどうでもいいか、と思うくらい。

一応自伝的「フィクション」らしいので、小説も全てが事実ではないでしょうが、
わたしとほぼ同じ世代(せいぜい1歳くらいしか違わない)の作者の大学生活に呆然。
本の帯にも「ここ(朝鮮大学校)は日本ではありません」とあった気がするけど、
ここに描かれている大学は、嫌韓・嫌朝鮮の人が揶揄する北朝鮮が、
まあそのままの感じに存在するような場所で、こんなだったのかぁ、と驚きました。
個人崇拝、愛国、情報統制、思想も表現も行動も自由がなく、
ひたすら従順に首領様を崇め、進路まで強制される。ぞっとした。
小説の舞台は30年前なので、今はどうなのかはよく知りませんが、
死んでもこんなところに通いたくないし、息子をやりたくもないと強く思った。
心や行動の自由を奪われたところに、民族意識だけ注がれて一体何になる。。。
主人公が訪ねる北朝鮮の描写も、そこで苦しむ人たちの様子に心が痛み、
つらい気持ちで、北朝鮮の独裁体制への憤りを抑えることができません。

一方でそれとはまた別に、日本人の友達や恋人から主人公への
善意の、無自覚な暴力も、きつい。それ、わかりすぎる・・・。
在日の特に女性が、内憂外患というか四面楚歌というか、三界に家なしというか、
体制からは抑圧され、世間からは差別され、親には支配されながら、
そのような差別に反対のはずのやさしい善意の日本の人の
無知や無理解にも傷つけられるというのも、本当によくわかるのです。ああ。

そんな中で主人公はよく自分を貫いたものだと、感心する。
洗脳に近い教育をずっと受けてきて、疑問さえ持たない人が多い中、
自分で気づき、よく考え悩み、結局自分を信じて戦う主人公の勇気。
作者の人生に起こったことや出会った人物は、この通りじゃなくても、
彼女が見たことや感じたことのほとんどは、この通りなんじゃないかな。
まっすぐで強く優しく、立派な人だなぁ。
そういう人が、あの映画を撮ったのねぇ、ともう一度観たくなりました。

でも、そうやって感心して納得しながらも、
作者の勇気に、かえってうちのめされる自分も、またあるのです。
同じ年代でも、全く全然ダメだった、弱くて戦えなかった自分を直視させられて。
彼女はあんなところで、あんな自由で優しい心を失くさず、
よく潰れずにひとりで頑張れたものだなぁ。
それに比べて、わたしは簡単に負けて壊れてしまったし、
多分もう回復はしないと思うくらいダメになった。
読み終わって、自分が情けなくてお風呂の底に沈んでいたかった。

小説の内容について、あと、一点、
本の中では、ほとんど語られてなかったけど、
組織のために、主人公の姉を北朝鮮に帰らせて苦しませながら、
主人公の進路も学校と一緒になって強制し、
彼女本人の意思に反して、体制追従の教師にしようとした父親のこと。
この父親、いったいどういう人間なんだ。
30年前とはいえ、娘を一人の、人格のある対等な人間だと思ってたら
そんなことはできなかっただろうに。
まあ30年前の在日社会など、日本の何倍も、恐ろしく旧弊で父権的な父親が
ごく普通だったとは思うけど、
そういう父親のことや、父に対する主人公の気持ちなどの描写が
ほとんどなかったのが気になりました。
父親を悪く書かないと言うのは、北朝鮮や総連を単純な悪者にしないのと同様の
作者のバランス感覚なのかもしれないし、
この小説のテーマがぼやけるからという考えなのかもしれないし、
朝鮮大学校に対しても北朝鮮に対しても、小説の中で声高なメッセージで
批判するような幼稚な表現は避けているというのもわかります。
でも、わたしは、奥歯にものが挟まったような気持ちになって、もやもやして、
こういう部分は、わたしの、この小説の正直さに感動する気持ちを少し削ぎました。

いろいろ書いたけど、最後に、もし、この本を日本の人が読んで、
ああ北朝鮮怖い、朝鮮学校サイテーというだけの感想しか持たなかったなら、
いくつもの意味でとても残念だし、悲しい。
また祖国を愛する在日の人たちや、朝鮮学校で民族教育を受けた人たちが
この本に対して、我が国のことを誹謗中傷するな!と怒ったりするのも、
それ以上に残念だし、バカバカしいと思う。
誰かにとって未知の世界で、得体の知れないコミュニティに思えても、
どんな体制や社会の下でも人は生きていて、生きている人々は多様で、
そのすべての人に、人権はあるということだけはわかったまま、読んでほしい。

「雨の日はソファで散歩」

2018-05-30 | 本とか
種村季弘の随筆集ですが、この人の子供の頃の回想などは特に面白くないし
戦時中、愛国軍国少年だったというのはともかくとして、
戦後のこの人の考え方やスタンスも、実はさほど変わってないのではないかと、
もやもやするところがあったけど(例えば戦争被害者としての日本を語り、
アメリカを責めはしても、日本の加害やアジアの被害については無頓着に見える)
さすがに江戸から昭和への東京の移り変わりの話などは興味深く、
多くの文献や深い知識から語られる街についての考察は面白かった。
また昭和の文人たちの話もいい。
そしてお酒や酒飲みや酒場の話がたくさんあるのも楽しい。

80年代の話だと思うけど、その数年前に舞台を降りて行方をくらましていた土方巽が
種村季弘の家に突然訪ねてきた時のエピソードが、なんとなく好きだ。
夜中に「ビールが切れたので貸してくれないか」と前触れなく来たそうで、
その文句がなんかいい。
そういう言い方ってよくあったの?
うっかり切れていたようなお醤油や米の貸し借りなら、
昔のテレビなどではよく見た気がするし、
わたしの小さな頃は、まだあったのではないかと思うけど、ビール・・・。笑

種村季弘は、貸すなんて水臭いと、上がってもらって夜明けまで飲んだらしいけど
今はコンビニがどこでもあって夜中もあいてたりするから、
もうこういうことは起こらないのかもしれないね。

土方巽は、丘一つ越えたところに住んでたことがその時分かったらしいけど、
(谷崎潤一郎邸の横で、与謝野晶子などが住んでいたことのある家だったそう)
そういうご近所さん、なんかいいなぁと思う。

かといって、うちに夜中に、ビール貸して、と来られると少し困るかな。
どすっぴんによれよれのパジャマでは・・・
せめて数分前にLINEして人間に戻るヒマを与えてくれれば、いつでもどうぞ。

「マチネの終わりに」

2018-05-04 | 本とか
ある読書会の課題が、平野啓一郎の王道的恋愛小説だったのですが、
恋愛小説というと数年前に読んだ岸恵子の長編恋愛小説を少し思い出します。
→「わりなき恋」の感想
こういう恋愛小説を読むのはそのとき以来の気がする。
岸恵子さんの本は大人の話で、わたしより年上のヒロインだったけど、
今読んでる本は大人の恋愛小説といいながら、主人公カップルは40そこそこで、
まだ子供を持とうかという選択肢のある人たちなので、
わたし的には十分ワカモノでありました。笑
働き盛りの恋と、終い支度を見据える恋とは、ベツモノよねぇとしみじみ思う。
ましてやもう、高校生の恋愛とかには、1ミリも興味が持てなくなってしまって
おばあさんになったなぁ、わたし、と思う。でも、おばあさんの方がいいや。

一度会っただけで運命の恋に落ちる美男美女、みたいな話です。
天才ギタリストと、世界的映画監督を父に持ち、自身は世界を股にかけ
危険に身を投じる才色兼備のジャーナリスト、との運命的恋。
主人公たちのすれ違いや別離が、ヒロインの向かう危険なイラク情勢や
東北大震災を背景に、甘ったるくならないように書かれてはいるけど、
なんかもう少し繊細な小説にもなれたのになと、ちょっと残念に思う。
悪くはないけど、いまひとつ行間が雑な感じなのです。
主人公、特に男の方が、どうも魅力的じゃないし、
心の襞の厚みがもう少し書かれててもいいのにと。
ちょっとした無駄や微妙な伏線が何かほしいところだなぁ。
女性の方はもう少し魅力的に書かれてるけど、
全体になんか説明的に思えてしまう描写が多い。
どちらの人物も、頭の中でこの二人にあまりリアリティがないのです。
凡人ではなく、選ばれた特別な二人だから、というのもあるけど、
それ以上に、恋愛の部分でもなんでそういうことになるかに説得力が足りない。

描写についての不満だけでなく、
脇役のとある行動で取り返しのつかない方向に行ってしまうあたりの
ストーリー展開にも強い違和感というか、ありえないわ〜という感じが満載。
筆力のある作家だと思うので読んでると自然に読めるけど、
それずっとバレないままなのは、やっぱり不自然!と思う。
主役のふたりが、あまりにストーリーの都合に合わせて言葉少なすぎるせいで、
コミュニケーションが成り立たず、すれ違ってしまうんだけど、
そんなに言葉少なく、会話に固有名詞も出さず茫洋とした話しかしなかったら、
その件がなくてもいずれ何らかの誤解で決別してたわ、と思うくらいに不自然。
普通気づくよねぇ・・・と読書会でも大勢の人から批判や失笑が出てました。
登場人物が、物語の駒でしかないんですよね。
面白い小説って人物が勝手に動き出してお話をどんどん進めたりするけど、
これは人物が物語を進めている感じがせず、筋のために人物が動いてるみたい。
駒でしかないから不自然な作られたすれ違いも忠実にこなす。
全体にお洒落でスマートだけど薄っぺらいなぁと思った。

そういうところはハーレクインロマンスと思って読めばいいんだけど、
そういうエンターテイメントではないらしいので、雑な印象になってしまう。
レビューなどで静謐な余韻のある美しい美しい小説というふうに褒める人は多いし
本もよく売れているので、わたしが厳しすぎるのか?

あと、むやみに子供を産みたがったり、
お産のシーンでありきたりに感動して感謝したり
子供のため、子供のため、ってやたら自分を殺するとこも共感できなかった。
複雑な家族が普通になってきているフランスや欧州も舞台のひとつなのに、
なんか子供には愛し合う両親がそろっていなくてはと
強く信じている主人公たちの古臭い頭の硬さと常識くささにも魅力がない。
(ヒロインが子供時代父と離れてて寂しかったという理由はあるにしても)

個人的に一番残念だったのは、最初に出会った時に男が、
人とわかりあえるということの喜びをいきいきと感じたような場面があって
わたしも人に惹かれる時に、いつもまずそういうところで惹かれるし、
恋愛でなくても、わかり合うという喜びの深さはとてもわかるので、
そういう関係と描写が深まるのかと思ったら、全然そうじゃなかったところ。
胸に迫るような気がしたのは、最初の方のそのシーンまでで
そのあとは、なんだかテレビの中の出来事を他人事として見てるだけのような
乗れない気持ちのまま読み終わってしまったのでした。

文章はすらすら読めるけど、集中力が続かないのは、
この本、わたしあんまり好きじゃないからだなと半分過ぎて気がついた。
でも読書会では、作者が三島由紀夫の再来と言われ芥川賞をとったデビュー作は
まったく違う文体だし、実験的な作品も多い人だということだったので、
そもそも恋愛小説向きじゃない人なのかも。
でも、この本が渡辺淳一文学賞というのは、妥当と思います。

「エミリー」

2018-04-28 | 本とか
エミリーと聞いて思い浮かべるのは、「赤毛のアン」の作者
ルーシー・モード・モンゴメリーのエミリー三部作と言われる3冊の小説です。
「赤毛のアン」は十代のわたしの一番大事な本で、アンのシリーズの10冊の他に
当時手に入る同じ作者の本は全部持っていて愛読していました。
一番好きだったのは、「銀の森のパット」のシリーズ2冊だけど、
エミリーのシリーズも好きだった。
赤毛のアンより現実的で厳しさのあるお話で、
文学を志し、書かずにいられないエミリーは作者を投影しているものでしょう。
この本を最後に読んでから何十年も経ってしまったけど
いまだにエミリーというと、この本を思い出します。
その次に思い出すのは、「嵐が丘」のエミリー・ブロンテかな。

先日、ツイッターで時々やり取りする人が、ある絵本のことを呟いてらして
(わたしもいた某映画の監督トークの会場にいらっしゃったと後で聞いて、
 ご挨拶の機会だったのに残念!というニアミスをしたことのある方です)
それが「エミリー」という絵本でした。
その方のブログに書かれているこの本に関する文章を読んだら、
この絵本がどんなに好きで大事かということがとてもよく伝わったし、
少し書かれている引用が素敵で気になって、買ってみました。
1993年に出版された絵本のようなんだけど、全然知らなかったなぁ。
1993年というと息子を妊娠していたころです。
そういえば、わたしが子供の頃、家にはほとんど絵本などなかったので、
絵本については知らないことがとても多くて、名作といわれる有名な絵本も
大人になって知ったものばかり。
絵本に囲まれた子供時代を過ごしたかったなぁと今も思います。
でも、子どもを産んだ時には結構読んだし、今も楽しめるから、いいや。

この絵本の「エミリー」はアメリカの詩人のエミリー・ディキンソンのことです。
ある少女が引っ越してきた家の向かいには黄色い家があって
そこには何年も何十年も家の中に閉じこもり、人と顔を合わせない女性がいて
それがエミリーなのですが、特にドラマチックなことは起こりません。
でもなんというか、しみじみいいんですよ、文章が。
絵も丁寧で優しくて、文章にとても合ってる。

誰とも会わないで家の中にいると聞いて、少女はパパに聞きます。
「あの人、さびしくないのかしら?」
「さびしいときもあるとおもうよ。だれだってそうだ。」

こういう何気ない会話でも、通りいっぺんの子ども向けな感じがないんですよね。
そう、誰だって寂しい、それが人間です。
でもこの絵本の中の人は、誰も何もジャッジしません。
寂しいということを、悪いことともいいこととも言わないのです。
人間というのも、ふしぎななぞなのでしょうと小さな女の子は思います。

少女はその女性が詩を書いていると聞いて「詩ってなあに?」とまた聞きます。
「ママがピアノをひいているのをきいてごらん。おなじ曲を、なんどもなんども練習しているうちに、あるとき、ふしぎなことがおこって、その曲がいきもののように呼吸しはじめる。きいている人はぞくぞくっとする。口ではうまく説明できない、ふしぎななぞだ。それとおなじことをことばがするとき、それを詩というんだよ」
ああ、もう!もう!こんなによくわかる素敵な説明はありません。
胸の奥までしゅーんとわかる気がする。音楽も詩も絵もこういうものですね。

少女のママが黄色い家でピアノを弾くことになって少女もついていき、
初めて会ったエミリーが何か書いているので聞きます。
「それ、詩なの?」
「いいえ、詩はあなた。これは詩になろうとしているだけ」

この会話がすでに詩ですよねぇ。ほうっと、ため息。
このようないい本に出会えてうれしくて、知らせてくれた人にお礼を。
>この絵本のその部分があまりに素敵なので、買いました。今届いて読んだところ。
>胸がいっぱいになりました。
>エミリ・ディキンソンの映画が少し前にやってて見逃しちゃったんだけど、
>それも見たいと思います。
>最近考えていることの答えのような絵本でした。
>いいもの教えてくれてありがとうございます。

ちなみに、エミリー・ディキンソン(1830-1886)は亡くなった後に
1800編もの詩が発見され、愛されるようになった詩人です。
若い頃から引きこもりがちで、、晩年は全く家から出なかったようですが
家の中でも彼女なりに幸せな充足した日々を過ごしていたのではと思われます。
外国の詩はほとんど読んだことがないんだけど、彼女の詩も読んでみよう。

最後まで読む

2018-04-24 | 本とか
先月読んだ、人に借りた本は韓国の現代小説の短編集で、
イメージの豊かさ、言葉のキャッチーさは楽しめても、
前半のいくつかの短編は、不条理展開が、ちょっとやりすぎ感があって、
突飛な展開に飽き飽きして、読むのやめかけた。
でもガマンして読んでると後半の短編はよかった。

本は、かなりつまらなくても、無理して最後まで読む方です。
自分の判断に全然自信がないから、これつまんないわ、と
途中でやめることができない。
でも映画はこの頃、みんなが褒めててもわたしはこれ好きじゃない、と
思い切れるようになってきたけど。
みんなが褒めてるものを、みんなが褒めてるポイントで同じようにいいと思えるときは、
本当にうれしいしホッとするしラク。でもあんまりないんだよ、そういうこと。(^_^;)

「狂うひと」

2018-04-23 | 本とか
「死の棘」の島尾夫妻について書いたこの本を、友達から借りてたのですが、
分厚いので本当にノロノロ読んでたけど、長い時間かかって読了。面白かった。
去年の夏ごろだったか、いつもの映画の会の課題が「海辺の生と死」という、
この夫婦をモデルにした映画だったのです。
これ、映画としてダメすぎて、映画の会は盛り上がったのですが
その後、友達はこの本も読んで、すごく面白かったというので、貸してもらった。
この映画や小説「死の棘」の前後や裏側などがぎっしりと書かれていて
本当に読み応えのある本でした。

わたしはこの妻、ミホの方に「死の棘」で感じた以上の、
うへぇ、勘弁してよ、という感じが最初すごく強かった。
あの夫婦はどっちもどっちな人たちなんだけど、
相手を支配することに喜々として幸せになっていく女って怖いし、
主に嫉妬による狂気を、巫女的な自分の神聖で清らかなものに演出し、
自分たちをどこにもない究極の愛の物語に神格化していこうと欺瞞を重ねる妻は
小説「死の棘」を読んだ時以上に、鬱陶しいし、おぞましいと思った。

夫の方は、妻がおかしくなるまでのチャラチャラしてた時期って、
単に未熟で調子に乗った子どもだったんだなぁと思うし、
(この時代の男はだいたいそうだったんじゃないかと思う。甘やかされて)
その後の、物書きの業の深さは、仕方ないなぁ、と思う。
恋人よりも夫よりも父親よりも何よりも、とにかく作家だった男なのですよ。

男の、物書きの業に対して、この妻は嫉妬の業というか、姫としての業で、
嫉妬の業の方が、個人的に苦手だから、男が気の毒になったりもしたけど、
男は男で女の尋常でない業を書くことで元を取ってたわけだから、
気の毒がる必要もないのよね。彼も妻の狂気を欲していたのです。
ただの嫉妬はあさましいものだけど、異常な嫉妬は至高の愛であり、
それがまた至高の文学になるのだ、というわけで「死の棘」ができたわけだしね。

妻の書いていた小説が、晩年のものを除いて、かなり面白そうなのには驚いた。
大文学者となった夫と比べてどうこうというのはわからないけど、
夫の七光りでなくても十分に評価されるいい小説もあったようです。
ところが夫亡き後の最晩年は、ありきたりなものを書き残したようで、
それは夫と自分のあるべき像を演出するための三文芝居的な小説だったみたい。

作家の夫に張り合ってものを書こうとした妻というと、
スコット・フィッツジェラルドとゼルダのカップルを思い浮かべるけど
妻、みほの精神的不調や狂気は、創造や自己実現で悩んだゼルダと違って
夫への嫉妬と支配独占欲がメインだったので、
ミホには自分の創造性より、大作家の夫とそれを愛し支える妻の
他にくらべようもない美しい夫婦愛の伝説を作り上げることの方が
ずっと大事だったようです。
そういう意味で、ミホの方が浅はかだけど、同時に純粋とも言えるのかも。

そして、内容も面白かったけどこの本の在り方にも感心しました。
書かれている人(主にみほですね)が書かれたくなかったことも書きながら、
決して裁かず対立せず、尊重と敬意を失わず、とても大人の評論だと思いました。
わたしなら、もっと、欺瞞や嘘を糾弾したい気持ちが滲み出てしまうかもしれない。
でも、この本はそれはせず、必要なこと、書きたいことは書きながら、
書かれた人も家族もその文学も損ねない書き方をされてて、
なんか、わたしも大人になろうと思いました。関係ないけど。笑
とはいえ、途中では、少し奥歯に物の挟まったような感じを微妙に感じたところが
なかったとはいえませんが、それはそれで作者の気持ちがわかってますます尊敬。

最後まで読んで、ずっと苦手で嫌いだった島尾ミホが嫌いじゃなくなった気はする。
でも昔読んでどんより疲れた「死の棘」をもう一度読む気にはならないですが。笑

須賀敦子さんの詩集

2018-03-24 | 本とか
未発表の詩が発見されたそうで、新しい詩集が出ました。
すぐに買ってみた。

解説の池澤夏樹さんが言う通り平明な言葉で書かれたやさしい詩で、
個性や才能が光ると言う感じではないけど、独特なところも少しあって、
そして声高に信仰を謳ってはいないけど、信仰心に満ちている感じです。
やさしき染み透るような言葉の詩なんですが、
ここにある詩だけを見ると、やはりこの人は詩よりも随筆の方がいいと思う。
でも須賀敦子さんの随筆のファンなら、この詩集もとても楽しめると思います。

そして、この本のここの青と茶色の色合わせがとてもきれい。
カバーの絵は長谷川潔さんの版画でとてもこの詩集に似合ってる。
丁寧に大事に作られた作られた本ですね。
こういうの見ると、紙の本っていいなぁと思う。

「海外ドラマの間取りとインテリア」

2018-02-28 | 本とか
お風呂では基本的に文庫本を読みます。
片手でずーっと持ったまま濡らさないように読むので、重い本は難しい。
でもこれは、お風呂でゆったり眺めるのがいいなぁと思って
ちょっと重いけどお風呂で読みました。笑

うちにはテレビがないので、最近のドラマは知らないけど
15年くらい前には、アメリカのテレビドラマを見ていた時期があって、
「ギルモアガールズ」とか、幾つか懐かしいものが載っていました。

また、テレビの連続ドラマは大体何度も家や部屋が出てくるけど、
映画は一度しか見ないし、間取りのチェックまで中々できないので、
この本で見て、そういえばこんなだったなぁ、
こうなってたのか〜!?と思うところも多くて、楽しく見ました。

でも、他にも映画で見た家で、間取りを見たいのがいろいろあります。
最近、ここ数年の映画だと「ハンナ・アレント」の趣味のいいインテリの部屋とか
「エル」のやたら掃き出し窓の多いイザベル・ユペールの部屋、藤山直美の「団地」
「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」の階段をたくさんあがった部屋、
「ベイマックス」や「パディントン」の家、
「追憶と、踊りながら」のベンウィショーが恋人と住んでた部屋とか、見たいな〜。

お金持ちやセレブの家の間取りは素敵だけど、1冊通して見てみると結局、
人の集まるリビング、台所とダイニング、書斎や仕事部屋、寝室、を
わりと似たような感じで配置してあって、
バラエティはあるものの、家って案外そんなにへんてこな独創性はないのね。
人の住む、毎日そこにいる環境なので、あまり変わったものには
大体の人は馴染みにくいのかもしれませんね。
ほとんどの人が家ですることは、寝て起きて食べてくつろぐ、で同じだもんね。

でも、根本的には似たような感じでも、豪華さや広さ、趣味はそれぞれで、
わたしはほどほどにこじんまりした家の方が好みです。
豪華さは、特にほしいと思わないなぁ。居心地良さが大事。

うちの壁塗りも、まだ途中でしたが、
今日は暖かかったし、明日から3月だし、そろそろまた次の部屋を塗ろうかな。

「渡りの足跡」

2018-02-26 | 本とか
お風呂で1章、約20ページずつ読んでた梨木香歩の「渡りの足跡」は素晴らしすぎて
読み終えるのがつらかった。
こういう本をお風呂で読むと、お風呂を出た後の夜の時間の質が、とても良くなる。

鳥の渡りを見に、北海道などへ出かける著者の考察などの書かれた本です。
さらに、鳥の渡りから人間の渡りのような移民について考え、
戦時中のアメリカの日系人の収容所の話、
ロシアの先住民族の知恵と教養について思いをめぐらせる。

そして、わたしも鳥を見たくなった。
お風呂をでてからその章ででてきた鳥についてググるのが楽しい。
いまどきは鳴き声もネットで聞けるし、身近な鳥の話も面白い。
たとえば、ひよどりの話を昨夜お風呂で読んで、
わたしもひよどりや鳩を鬱陶しく思わないようにしよう、と思いました。
町なかに住んでて、困るのはムクドリの方なんだけど、それも、
鬱陶しく思っても憎々しく思わないようにしよう。

以前はこの著者の小説が大好きだったけど、今はこっちの方が好きかもしれません。
自然に対する淡々とした叙述と考察の中から柔らかさがふわりふわりと現われ、
心も洗われる。
各章のあとに、その章に出てきた鳥や動物を説明する註があるんだけど、
(あとがきの人も書いてるけど)一見事実を述べているようで
目立たず控えめに自然に、彼女の視線や感想が入っていて味わい深い。

そしてあとがきの解説の中のネイチャーライティングについての話で、
ああそうだ、わたしも雑草の話をまとめようと思ったのでした。外来種の話も。
梨木さんの帰化植物や動物に対する記述は、誰も決して煽ることなく、
強い主張をすることなく、静かな文章で柔軟な考察を述べていて、
その姿勢には100%同感なんだけど、中々あのようにさらりと優しくは書けないし
もう少し突っ込みたい気持ちが強くなってしまう。
わたしも自分の意見をこういう風に出せればいいんだけど。

以下、何箇所か引用。

>けれど「自然の生態系を取り戻せ」といったような考えもしっくりこない。こういう事態に追いやった責任の大部分が人間にあるにしても、その人間もまた nature の一部であるのだし、ならばその欲深さや浅はかさもまたその nature なのだから、この状況こそが、この時代この場所の「生態系」に他ならない。だが、何とか環境の人為的な破壊を食い止めたいと試行錯誤する人々がその種の中に出ることもまた、自ら回復しようとする自然の底力の一つなのだろう。

>個の体験はどこまでもその内側にたたみ込まれて存在の内奥を穿っていく。

>自分の庭に毎年来ているジョウビタキ(スズメほどの大きさ)が、実はいつも同じ個体で、夏にはシベリアにいるのだ、ということが分かったときの言うに言われぬ喜びは他を以って代え難いものだ。そのときに湧き起こるこの小さな他者への畏敬の念は、傲慢な人間であることの罪から、少し私を遠ざける気がする。

>それは多分、「歩いている私」は、町の機嫌を構成する一分子になっているのであって、「機嫌」を感じ取れるのは「自転車に乗って町を通り過ぎる」観察者の視線ではないだろうか。

>遊びにもいろいろな種類がある。何かを繰り返すだけの素朴なものもあれば、人を罠に掛けて喜ぶ類のものもある。共通しているのはそれによって何らかの快感を得ているということで、人の苦しみを見て残酷な喜びを覚える、というのもまた、快感の一種には違いない。マグパイに関して言えば、それは彼らの文化度の高さを表しているのだろう。狡智ということは、野生から離れてどんどん洗練されてゆく文化に付随してくる能力なのかもしれない。そしてもしかしたら、それは、定住することによる心理的な余裕のようなものにも、関係しているのかも知れない。そのゆとりの中にどうしようもなく沈んでくる澱のようなもの。

>どの写真でも、悠々と一羽で飛翔を続けている、そのことに次第に深く心打たれていく。群れを作る鳥たちとは決定的に違う、DNAに刷り込まれた「孤独」が、オオワシのオオワシたる所以なのだ。

>幼い頃に星空を見た経験を持たない鳥は、成長してからいくら星空を見せても定位することができないーつまり、自分の内部に、外部の星空と呼応し合う星々をもっていない、ということなのだろう。(略)
自分を案内するものが、実は自分の内部にあるもの、と考えると「外界への旅」だとばかり思っていたことが、実は「内界への旅」の、鏡像だったのかもしれない、とも思える。

>鳥瞰図、という言葉は、高い視点で俯瞰された風景のことを言うけれど、鳥の視力は(特に狩りをするオオワシなど猛禽類のそれは)、人間には考えらえないほど優れたものらしい。時々その感覚を想像する。
 それはきっと、マクロとミクロを同時に知覚できるようなものではないだろうか。遠くでしている生活の音やにおいが、動物の動きが、まるで自分がそこに身を浸しているように感じられるような。彼方で誘って止まない北極星の光が、外界と内界の境を越え、自分の内側で瞬くのを捉えられるような。
 それは越境していく、ということであり、同じボーダーという概念を扱いながらも、他者との境に侵入し、それ戦略的に我がものとする「侵略」とは次元も質も違う。「越境する」ということの、万華鏡的な豊饒さに浸って、言葉が生み出され、散らばって、また新たな言葉が誕生する、そういう無数の瞬間の、リアリティの中を、生き物は渡っていく。

>「世の中」というものは、目の前に水平に広がっている分かりやすい世界にその在り処を持つものではなく、本当はどうも、普段は見えないが手を伸ばした先に芋づる状に存在しているもののようだ、というのが今まで生きてきたなかでのしみじみとした実感である。


「ゼラニウム」

2018-02-22 | 本とか
寒いとお風呂が楽しみで、お風呂が楽しみだと読書が捗る。
堀江敏幸さんのこの短編集は、ずいぶん前にお風呂で読みかけて、途中でやめてた本。
文章が繊細で語彙が多く複雑な上に、
文章で地形や方角や地図的なことを説明・描写されるのが、
人並み外れて方向音痴で図形認識力皆無のわたしにはもやもやしてわかりにくく、
それで一つ目の短編がとっつきにく区感じて、長い間途中でほったらかしてた。
でも堀江さんの小説はとても好きだし、もう一度気長に読んでみようと読み出したら
道や方角や地形や地理的なことは相変わらずわからずイメージが持てなかったけど
今回はなんだかちゃんと楽しく読めました。

作家自身を思わせる日本人の一人称で、5篇はフランスが舞台で
最後のだけ日本が舞台になっています。

特に、ふたつめのさくらんぼの木のある家の話はよかった。
さくらんぼの木のある家、ガラスの水槽の積み重なったオブジェのイメージ、
自然な媚態を示してしまう女、倦怠のあとの結婚、死んだ別の男。
もの悲しくて美しい。

一番好きなのは3つ目の「アメリカの晩餐」という話かな。
パリの、まだ改装されてない工事現場のような
むき出しの壁の大きなアパルトマンで謎の食事をする話だった。
窓からエッフェル塔が見える素晴らしい眺望なのにまだ工事中のような部屋で
よくわからない映画関係の食事に有名な批評家たちと同席することになる。
無名の制作会社側が有名批評家に評価してほしい新作映画の主演が
なんとデニス・ホッパーだと聞いた主人公は、その話には半信半疑ながら、
ヴェンダースの「アメリカの友人」という映画に出てくる彼を思い出す。
いくつかの映画のイメージと、この部屋のイメージが交差し、これも美しい短編。
中でも、コックのフィリピン人の女の子が可憐で、頼りなげながらしなやかで
彼女の作る料理が繊細でとても美味しそう。
謎は謎のまま、不思議な優しい解放の笑いで終わる短編。

堀江さんの「雪沼とその周辺」という短編集がすごくすごく好きで、
なんどかブログやSNSでつぶやいたりしたはずなのに、
自分のブログ検索してもどこにもないので不思議な気分。
レコード店の話だったか、絶対何か、何度か書いた記憶があるのに
見つかられなくて納得がいかない。夢の中で書いたのかなぁ。

いい小説を読むと、自分もいい人間になったような気分になるし、
SNSでも、堀江敏幸や池澤夏樹や須賀敦子のことしかつぶやかない
静かできれいなものだけのアカウントになりたいのに、
政治や世の中の不寛容がすぐわたしを怒らせて邪魔をする。ああ。

「日々の反復は新しいものに感応する魂を喪失させるか、あるいはその喪失を愛着という名の鈍化に置き換えてしまうからだ。」

「十八世紀なかばに生まれたあるフランスの思想家は、開口部のない壁がいらないのなら、円柱を建てるだけでこと足りる、円柱とは支えであり、装飾された必要性なのだから、とその手帖に書きつけていた。」


タイトルはゼラニウムだけど、写真はなぜかミモザです。笑