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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

「雪の練習生」

2017-05-13 | 本とか
これ、前に軽く一度感想を書いてるんですけど、
その後行った読書会の課題がこれで、その時もう一度読んだので、
ちゃんと感想など書こうと思ったけど
それからまたずいぶん経っちゃったので、もう感想はいいや。
好きな抜粋だけひたすら貼ります。
ああ、やっぱり好きだ好きだ好きだ、この本、というかこの作家。

ソ連と西ドイツが舞台の、シロクマの祖母・母・息子3代の話。
モスクワのサーカスから西ドイツへ亡命、さらに東ドイツへと。
伝記を書いたり伝説の芸を成し遂げたり、動物園の人気者になったり、
と説明してもほんの1%もわからないと思う不思議な話。
クマも考えたりしゃべったり、しゃべらなかったりします。
静かで内省的で、すごくおもしろい物語です。

「人間は不自然と言うことをとても嫌っているんだよ」とミヒャエルが説明してくれた。「熊は熊らしく、下層階級は下層階級らしくしなければ不自然だと思っている。」「それならば人間はどうして動物園なんか作ったんだ。」「うん、それは多分、矛盾しているところが人間の唯一自然なところだからだ。」「そんなのずるいよ。」「君は、自然か不自然かなんて気にしないで、君がいいと思う通りに生きればいいよ。」

ウルズラはわたしと向かい合ってきりっと立ち、唇だけを柔らかく差し出す。その時、彼女の喉が闇の中で大きく開いて、魂が奥でちらちら燃えているのが見える。一度接吻する度に、人間の魂が少しずつわたしの中に流れ込んで来た。人間の魂と言うのは噂に聞いたほどロマンチックなものではなく、ほとんど言葉でできている。それも、普通にわかる言葉だけでなく、壊れた言葉の破片や言葉になり損なった映像や言葉の影なども多い。

「人権」などというものはそもそも人間のことしか考えていない人間が考え出した言葉だと思っていたからだ。タンポポに人権はない。ミミズにもない。雨にもない。兎にもない。ところが鯨となると、人権のようなものを持っている。「捕鯨と資本主義」という資料を昔、会議の準備で読んでいてそんな印象を持った。どうやら人権とは、図体が大きいものの持つ権利らしい。だから、みんなわたしに人権を持たせようとするのかも知れない。何しろわたしたち一族は、肉を食べ、陸に生きるものの中では、一番体が大きい。

人間は痩せているくせに動きが鈍く、大事な時に何度も瞬きをするので敵が見えない。どうでもいい時はせかせかしているくせに、大事な戦いの時には動きが遅い。戦いには向いていないのだから兎や鹿のように賢く逃げることを考えればいいのに、なぜか戦い好きなのがいる。人間ほど愚かな動物を何のために誰が作ったのか。人間が神の似姿だと言う人がいるが、それは神様に対して大変失礼である。神様はどちらかというと人間よりも熊に似ていたということを今でも覚えている民族が北方には点在しているそうだ。

それまで積んできた動物調教師としてのキャリアを捨てて、主婦になった。空虚というのは空っぽで重さがないものかと思っていたらその逆で、日中ふと仕事の手をとめると胸の中で膨張し続けるそれが重すぎて、夜はそれが胸にのしかかってきて寝返りばかり打っていた。

当時は国営の保育園に子供を預けっぱなしにして週末しか会わない母親はたくさんいた。職種によっては何ヶ月も子供の顔を見ない女性もいた。母性愛という神話が囁かれることはごく希だったし、宗教は弾圧されていたので聖母マリアが幼子イエスを抱く絵も見たことがなかった。これはずっと後になってからの話だが、東ドイツの終焉とともに母性愛の神話が蜃気楼のようにドイツの地平線に現れ……第一に「ストレス」などという言葉は西側の「製品」で東ドイツにはなかったし、第二に育児本能などという本能は人間にはあるのかもしれないが動物にはない。動物が子供を育てるのは本能ではなくアートである。アートだから育てるのは我が子でなくてもいい。

人間は紙を必要とするものである。ホッキョクグマのように地平線まで続く巨大な白紙と向かい合って生きるのは無理だとしても、せめて一日に便箋一枚くらいは配給して欲しいものだ。

ところがサーカスに戻ると間もなく戦争が始まってしまった。「北極には戦争がなくていいわね。」「でも戦争がないのに鉄砲を持って北極に来る人たちがいるの。その鉄砲で理由もなく生き物を打って殺す。」「どうして?」「分からない。人間には狩猟本能という本能があるって聞いいたことがある。でもその狩猟本能っていうのがよく分からないの。」「昔は生き残るのに必要だったある行動が意味を失ってからも動きだけが残っている、そういうことじゃないかしら。人間ってそういう動きの集まりに過ぎないのかもしれない。生きるために必要な動きはもう分からなくなっていて、記憶の残骸みたいな身振りばかりが残ってる。」

…乾いた草だけ食べていても風のように走れることが不思議に思えてくる。もしそうなら、なぜ肉を食べるというような骨の折れる危険な道を選ぶ動物がいるのだろう。……自然の中では十分な草を捜すのだって大変だよ……だから草食から肉食になっていったんだと思うよ。アザラシなんてすごく捕まえにくいし、まずいかも知れない。でもそれを食べてかろうじて生き残ってきた。食べるというのは惨めなことなんだ。だから僕は美食家は嫌いだ。食べるということの惨めさをごまかして、何か素敵なことでもしているように気取っているから。」

猛獣の稽古で大切なのは、意欲的でありながら、いつもあっさりあきらめることができるということだった。勇気など何の役にも立たない。……雪山を登る時と同じで名誉欲にかられて無理をすれば命取りになる。

生きるということはどうやら外へ出たいという気持ちのことらしい。

何が聞こえても耳を澄ましているうちに、あらゆる音声の中に宿る微妙な違い、その違いの組み合わせによってなりたっている今という不思議な空間の一回きりの色合いが聞き分けられるようになってきた。

せっかく外に出られたと思って喜んでいたけど、動物園にはまたその外があるのだ。外には外がある。どこまで行ったらそれ以上、外に出られないくらいの究極の外に行き着くんだろう。

ところが哺乳類はその名の通り、生まれてすぐはミルクからしか栄養が取れないようにできている。だから鳥のようにいつも前向きに考えることができなくて、つい乳くさい昔を振り返ってしまう。

もし生きていても、二度と逢えないのかも知れない。でもひょっとしたら逢えたかもしれない。ひょっとしたらと思いながら生きていくことを人間は希望と呼んでいる。その希望が死んだ。

朗読

2017-05-09 | 本とか
ニューヨークパブリックライブラリーの司書やスタッフ30人が、
4月の30日間、毎日一つずつお気に入りの詩を読みます。
わたしのボキャブラリーだと英語の詩を理解するのは難しいんだけど、
1日1個っていうのが、聴きやすくていいね。と思ったら2015年のものだった。
でもこういう試み大好き。
→30 Days of Poetry

前に→トルストイ・マラソンというのを見たときも思ったけど
そもそも人の朗読というものが、わたしは好きみたいです。
ラジオのおしゃべりとは違う、朗読という物の落ち着きと静かさが好き。
わたしも声と話し方の好きな人に、いい文章を読んでほしいなぁ。

ふと、そうだ朗読Podcastをやろうかと一瞬思ったけど、
やっぱり著作権とかの問題があるのかな?
青空文庫の物なら大丈夫なのかな?

自分で読むんじゃなく
友達30人を訪ねて、それぞれの好きな詩や文学の朗読と
自分自身のことを、全部で5分くらい喋ってもらうような
そういうPodcast、やってみたいなぁと思う。

Podcastは好きだし、自分たちの映画の会でも毎月アップしてるけど
(部長が全部やってくれてます。部長ありがとう)それはとても長くて
大勢の長いおしゃべりが楽しいんだけど、
個人的には長いのじゃなく5分くらいのコンパクトなものを、
毎日とか毎週きちんきちんとアップするようなのが好み。
ブログもそうだけど、そういう枠というか型はきちんと決まってる中で
物事をするのが好きですね。つまんない人間、かも。笑

でもいつかやってみよう。

ハリスおばさんパリへ行く

2017-03-10 | 本とか
むかし、なんとかおばさんパリへいくという本で、
裕福でない掃除婦か何かの女性が、何十年かけてためたなけなしのお金で
ずっと夢だったディオールのドレスを買う話を読んで、なんかとても好きだった。
おばさんは、確か苦労してやっと手に入れたドレスを
若い女の子に貸してあげちゃうんだった。
その女の子が恩知らずで自分勝手な娘だったような違ったような?うろ覚え。
小学生くらいの頃に読んだんだったかなぁ。
おばさんがおいおい泣く場面で一緒に泣いたのは覚えてる。
ドレスを買おうとして拒否されかけたところだったか
ドレスがダメになったところだったか、場面は覚えてないんだけど。

儚いものでもバカなものでも高いものでも安いものでも、
夢に見るほど憧れるものがあるのって、いいなぁ。
そんなにほしいもの、わたしあるかなぁ。

ぐぐったらその本はポール・ギャリコの
「ハリスおばさんパリへ行く」でした。

ハリスおばさんの好きなものに焦がれるところも好きだし
彼女を助けるいい人たちも好きだし
ラスト、うろ覚えだけどほろ苦くも前向きな終わり方だったそれも好き。

今思い出すと、これの映画化見たいなぁとしみじみ思う。
ディオールのメゾンの華やかさ、ドレスの美しさ、
それに対比しておばさんのとてもとても質素で堅実な節約メイド暮らし、
それからこの時代のパリの街・・・
映画的王道ないい材料が揃ってるから、
大人も子供も楽しめるいい映画になると思うけど。
誰か作ってくれないかなぁ。
ディズニーでいいけど実写でやってほしいな〜。見たい。

サローヤン

2017-02-27 | 本とか
洗面所にお風呂で読む文庫本用の小さいカゴがあって、
これから読む予定の本を雑多に数冊入れてあるんだけど、
繊細で緻密な文章の本を読んだ後に、なんとなくサローヤンがあって、
サローヤンなぁ、なんだかなぁと読み始めたら思いの外良くて、
30年ぶりくらいに読んだサローヤンを見直す。
この飄々として、とぼけて温かい味わい。
日常のごくごく平易な言葉と文法だけで、
なんとも言えない味わいがあって、うまいなぁと思う。
時代的に今読むとあれこれ問題のあるところや引っかかるところはあるんだけど
お風呂で読むのに、すごく合ってる本です。
難しくても簡単でも長くても短くても、
風呂読みに合う本というのはあって、これはまさにそう。笑

ウィリアム・サローヤン(1908-1981)はアメリカの近代作家で、
英米文学専攻だった昔々の学生時代に、「人生喜劇」と「君が人生の時」
「ママアイラブユー」「パパユーアークレイジー」は読みました。
「パパ」の伊丹十三訳は良かったけど「ママ」の本は好きじゃなくて
そのあと読まなくなったし、特に好きと思ったことはないけど
アルメニア移民という存在について初めて知ったのは彼の本からでした。

今読んでいるのは柴田元幸さん翻訳の「僕の名はアラム」。
昔「マイネームイズアラム」という翻訳のを読んだ気もするけどうろ覚え。
主人公は十代前半の少年、僕。
極貧生活の中で、移民の大家族一族肩寄せ合って生きている時代、
その中の個性的な面々、ダメなおじさんたちや賢いいとこ、
いつも怒ってるおじいさん、学校でした悪さなどの平穏な日常の小説です。
「僕」の日常はかなり貧乏なんだけど小説の中には悲惨さは描かれていなくて、
いつも飄々としたユーモアと希望があり、
でも暖かでユーモアのある情景の中に、そこはかとなく人生の厳しさや
悲しさを感じさせる場面もあって、日本でもマーク・トゥエインくらい
読まれていいんじゃないかと思う。アルメニア移民版トムソーヤーの冒険。
でも本人は、そんな賑やかで濃厚な大家族の中で育ったわけでもなく
寂しい子供時代だったみたいだし、その後も複雑で難しい人で、孤独だったみたい。
自分の過ごしたかった子供時代を描いたのかなぁ。

文学フリマと基一

2017-02-12 | 本とか
この前、初めて行ってみた文学フリマは、わたしが昔想像してた「コミケ」みたいな雰囲気だった。
若い人もたくさんいて、コスプレ的な着物着てる人とかも多かったし、
アニメ絵?の表紙の冊子もかなり多くて、
やっぱりわたしの世代の文学同人誌とはちょっと違うなぁと思った。
文学や同人誌というと昭和の古本屋さんの雰囲気を思い浮かべるわたしには
文学の今ってこういう感じなのかと思うと、すでに遠い気がしました。
これが文学フリマなら、コミケってどんなとこなんだろう、目が回って息が苦しくなりそうな気がする、
と思って、もうすっかり遅くて古いおばあさんになった気分…

でもこういう場に若い人が多いのはとてもいいことだと思います。
今の所、なにかの流行などに一色になる感じはなくて、
年配の人がひとりでなんの飾りも無く静かに売ってるブースもあり、
賑やかなコスプレ系もあり、というのは、いいと思います。まあまあ多様。

アニメ絵のついてない(笑)、純文学同人誌っぽいのをいくつか買いました。
あと、最後に見た漢詩の本、小さくてとても薄い本だけど
漢詩に興味を持ったことが一度もないのでかえって面白いかも、
これ読めばわかるようになる?などお店の人に聞きながら
値段を見ずに一冊くださいと買ったら1800円もして焦った!買ったけど。
でも、つまんなかったらどうしよう、と思うと怖くてまだ読めない。笑

時間があったらもっといろんな人とお話ししたかったんだけど、
あまりなかったので、とにかく全部回るだけでいっぱいいっぱいでした。
また行くかと聞かれたら、特に用がなければもう行かない気がするけど、
友達とやってるインスタグラム川柳の会で本を作ったら出すかも。学園祭のお祭り気分で。

この日は近くのお店で水餃子を食べてから、
そばの細見美術館で、鈴木基一展をやってたので、それも見ました。

Macで「すずききいつ」と打っても出てこないので前は一文字ずつ入力してたけど
「すずききいち」と打てば出ることに気づいた。
でも「きいつ」が正しいのよ、みなさん。笑
そしてこれはわたしの好きな、基一の絵の切手。

須賀敦子と「この世界の片隅に」

2017-02-05 | 本とか
今お風呂で読んでる須賀敦子さんの「塩一トンの読書」
(この頃お風呂でしか本読んでない・・・)の中に、
早坂暁「夏少女・きけ、わだつみのこえ」の書評があって、そこにこう書かれていた。
”侵略戦争の記憶を、淡淡しい悔恨や、やさしいだけの鎮魂歌におわらせてはならない。どうすればその先を開くことができるか。現在の私たちの周囲に、内面に、あのときとは異なったふうにであっても、なお生きつづける全体主義や排他主義と、私たちは日々闘っているだろうか。そういった根本的な問いかけを、これらの脚本は思い出させてくれる。”

「塩一トンの読書」は2003年に出た本で、
その中のこの部分はごくありきたりな言葉に見えて読み飛ばしそうだったんだけど
ふと今上映してる映画「この世界の片隅に」のことを思い出したのよね。
この映画に苦言を呈さずにいられなかった人は、
映画から読み取れる戦争への悔恨や鎮魂歌的なものは認めながらも、
それがあまりにあわあわとやさしく、
根本的な問いかけに欠けていることに警笛を鳴らしていたのだろうなぁ。
加害責任の問題とかね、厳しいことや難しいことはそっと忘れたふりをして。
とてもやさしい、いい映画でしたけどね。

絵本を公開するって

2017-01-29 | 本とか
クラウドファンディングで資金を集め、大勢のクリエイターと作った絵本を
ネット上で無料公開して炎上した人の話が盛んですが
この件に関しては複数の論点があると思う。
クリエイターたちの権利とか、すでにお金を払って買った人は?とか
そもそもこの人の傲慢な姿勢は?とか、いろんな人がすでに色々言ってるので
ここではもう書かないけど、
絵本を売る上で、ネットで全ページ公開する、という部分に関しては、
わたしはこの人にあまり腹が立たないですね。
ネットの公開自体は、絵本に関しては売れる売れないとは関係ないと思うから。
絵本は一度見たら満足する情報ではなく、
見れば見るほどほしくなるものと思ってるからです。

絵本って文章少ないものは本屋でも短時間で全部立ち読めるし絵も見られる。
内容を知るだけなら本屋の立ち読みでも図書館でもいいわけだけど、
わたしにとって絵本は内容をが見たくて買うんじゃなく、
中身を知った上で所有したくて買うもの。
きれいなものってそうじゃないですか?
知って、さらにほしくなる。
知るほど、ほしくなる。

たとえばネットで服やアクセサリーを買う人は、
できるだけ何枚も写真や情報を見た上で買うでしょう。
素材、色、形、できるかぎり知った上でほしいかどうか決める。
絵本や絵もそういうものと思う。
だからその内容をネットで公開するのにあまり不思議がないんです。
よーく見てから買ってね、って本以外では普通ですよね。
世の中には、試着もできます、返品も可、みたいな商品の方が多い。
だいたいのものは、よく知った上で買う。
本は違うかもしれません。
中身を全部タダで読めたら、もう買わない人も多いかも(本によるだろうけど)。
・・・でも絵本は、自分の中では別モノなんですよ。

むしろ絵本や写真集を公開しないほうがよくわからない。
本屋でラップしてあって、中身が見られない写真集がたまにあるけど、
あれは自分的にはよくわからない。
本屋側で開けられない(返本ができなくなる?)版元からのラップ仕様のものなどは
買う気が失せるくらいです。内容より情報が大事な写真なんか、と。
中身を一度見たら値打ちがなくなるような写真集なのか、と思うと
すっかり買う気がなくなるし、残念だなぁと思う。

写真集や絵本は、何度もなんども中身を見て、
ますますほしくなるものを買いたいな。

2016年の小説

2017-01-25 | 本とか
本は映画ほどは読んでないですね。
集中力が続かないし、そもそも読むのが遅い。
一番たくさん読んでいるの場所はお風呂で、
読んだ本の半分はお風呂で読んだものだと思います。
面白かった本や好きな本、いろいろ考えた本は感想を書いているし
数も多くないのでまとめるほどではないんだけど、
ヴィジュアル系じゃなく読む本、主に小説の中からベスト5(+2)を。
クリックすると各本の感想ページへ行きます。

「屋根裏の仏さま」ジュリー・オオツカ
これが自分の2016年のベストかなと思う。
100年前写真花嫁としてアメリカに渡ってきた女たちの声を
特定の一人ではなく大勢の「わたしたち」という一人称で
たたみかけるように書かれていて、不特定多数の彼女らの声が
バロック音楽のポリフォニーのように頭の中でこ呼応しながらこだまします。
アメリカからも夫からも受ける差別と暴力、厳しい労働、苦しみと喜び、
そして戦争が始まり敵性外国人としてアメリカ中の日系人は強制収容所へ・・・
小説の形式として面白いけど、これはこう書くしかなかったんだなと納得できる。
名作!

「一番ここに似合う人」ミランダ・ジュライ
なんだかやっぱりミランダ・ジュライは気になる作家です。
本としては「あなたを選んでくれるもの」の方が好きで、読むたびに
こういう本を書いてみたくなる。
自分は悲観的で人間嫌いだと思うけど
コミュニケーションということについて考えるのは好きなんだなぁ。
その好きなことに、とても近いのが、ミランダ・ジュライの活動なんです。

「漂砂のうたう」木内登
江戸末期の遊郭が舞台の話で、自分にとっては読みにくい本だったんですよ。
設定も内容も文体も。
登場人物も誰にも共感できないし、それぞれ嫌な感じも持ってる。
でもね、なんか湿って暗いんだけど、それでも読み終わった後には
希望も信頼もあって、なんともしみじみとして、読んでよかったと思った本。

「菜食主義者」ハン・ガン
「羊と鋼の森」と対照的に読んでる間もいやぁな気分で、読後感も
ぬめっと気持ち悪くヘビーでしんどいという小説。描写がグロいとかではなく
とにかく人間のなんだかいやな部分をさらさらと見せられる感じが。
もう読み返したくないけど、これだけ衝撃を与えられるということは
それだけ力のある作品ということですね。
初めて読んだ韓国の現代小説がこれって、いいのか悪いのか。笑
とにかく疲れて気分の悪い嫌な本だけど、とても上手い小説と思う。

「ことり」小川洋子
若い頃嫌いだった小川洋子が好きになってきたのは
作家が変わったのか自分が変わったのかわかりませんが、
これは、この主役兄弟が実際にいたらあまり好きになれないかもと思いつつも
小説の中ではすっかり親身な気持ちで見守ってしまったし、
ことりの鳴き声やブローチや、小さなディテールのイメージがとても好き。
2年ほど前に読んだ「人質の朗読会」もすごく好き。

めちゃ好き!というわけでも、好みを超えた傑作!というわけでもないけど
2016年に読んで記憶に残った本、次点2冊。

「ジニのパズル」崔実
完成度の高い端正な小説が好きなので、これは特に好みというわけではないけど
読書会にも行ったし、その後のいろんな議論も見たし
2016年に一番いろいろ考えた本かもしれません。
政治的なこと抜きでは読めないかもしれないけど、
何よりわたしも昔一度は、中一の無力な女の子だったことがあるので
苦しいくらい主人公の気持ちになってしまうところがありました。

「羊と鋼の森」宮下奈都
ピアノという楽器自体や調律師の話が好きなんですよね。
それがとても優しく透明感のある文章で書かれていて
出てくる人たちもみんな好感の持てる優しい人たちで、
読んでいてずっと気持ちよかったです。森林浴的に。
自分にぴったりの本だと思う。

「屋根裏の仏さま」

2017-01-12 | 本とか
以前、評価の高いアリス・マンローの小説を読んだときに、
いまひとつ好きじゃなくて、すぐ人にあげちゃったのは、
翻訳家の文章が合わないからかなぁとぼんやり思ってた。
何度読んでも途中で主語が誰になったのかわからなくなって・・・。
この「屋根裏の仏さま」も同じ翻訳家で、そういう部分があって、
途中かなり混乱したけど、読み進むと、この本はそれでいい本だったのでした。
・・・ん?誰のお父さん?お父さんのお父さん?え?娘って本人のこと?
あ?お父さんがいなくなったのになんで両親が何か言うの?
両親じゃないはずやん?・・・というようなところばかりなのですが、
実はこれは元々がそういう本だったのでした!
主語の多くが「わたしたち」であって、ひとりの特定の誰かではないのです。
多くのいろいろな女性の声を、一つの繋がった物語にせずに、
ドキュメンタリーのように羅列するような文体で紡いでいき、
少しずつ、特定のひとりのものでない大きな物語を構築していく形の、小説。

1900年ごろ、アメリカに移民した日本人男性の花嫁として
写真だけを頼りに渡米した日本人女性たちの話です。
船の上から、到着、夫になる男、結婚生活、労働、出産、育児、
そして戦争、強制収用所に連行されたあとの町の様子までが描かれていますが、
シンプルながら独特の手法で、当時の女たちの心の声を拾い上げていきます。
その淡々と羅列される数々の声の切実さたるや!
その切実さに圧倒されながら、少しずつ丁寧に読み進めるしかできませんでした。
これの映画化をするならドキュメンタリータッチで断片をしっかり作り込んだ
とても細かいカットのオムニバスがいいかなぁなどとと考えながら読みました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
連続した一人の主人公の一つの物語、ではないので
それぞれの「わたし」の言葉も前後や脈絡があるものではなくばらばらで、
なんとなくTwitterのつぶやきを眺めているようなリズムで読んだのですが
中にいくつか気になるつぶやきがあります。
たとえば、捨てた夫、全く愛してない愛したことがない夫のことを
たまに思い出して古い写真を見る、というようなところ。
新しい知らない国で、いつまでも古い写真を持っているというのは
過去や思い出が欲しい、どんなひどいものだったとしてもということなんだと思う。
過去や思い出のない自分って、まるでからっぽで自分でないみたいだからかなと。
女たちはからっぽになって海を渡ったのでした。

アメリカに着いたら写真とは全然違う男たちが待ってて、でも女に選択肢はない。
決められた相手と夫婦になって厳しい労働の日々が始まりますが、
この時代の男が親戚も友達も世間もないところで
女たちに平気でする仕打ちの酷さを読み、想像すると
アリス・ウォーカーを読んでいるような気持ちになって胸が苦しい。
その後戦争が始まり日系人は強制収容所に入れられるんだけど、
運命に翻弄される女たちを最初にひどい目に合わせるのは、
戦争や時代の大きな事件以前に、まず、いつも身近な男たちなのだな。
父親や夫や雇い主。その辺もまたアリス・ウォーカーの小説を思い浮かべる。

この本の女たちが受ける、あらゆる差別や苦労の中で一番腹がたつのが
夫からのひどい仕打ちであることは、
自分の問題意識に一番刺さることが女性差別や理不尽な家父長制への憤りだから。
自分自身のこれまでの人生が、そういうことへの関心や怒りを、
結局左右してるんだろうな。
わたしの場合、特に夫にされたひどい仕打ちというわけではなくても、
父など、家族の中で男たちが女たちをどれだけ酷く扱ってきたか身にしみているので
黒人文学を読んでも、白人の黒人への差別以上に、
何より気持ちをかき乱されるのは、男たちの女たちへの暴力になるし
この本でもやっぱりそうです。

思いやりのかけらもない傍若無人な夫たちに好き勝手に蹂躙されてた女性たちが、
子どもができて、子どもと添い寝することを、
同じ寝床に人がいても嫌じゃない気持ちをアメリカに来て初めて知った、
というところとか、胸がつぶれそうになって泣いてしまう。
初めて、自分に暴力を振るわない、自分を愛してくれるものに癒されること。
初めて、誰かと一緒にいるのが幸せで心休まると感じること。
これ書いてるだけで泣けてくる。
理不尽な差別の下でどれだけ当たり前のことも持てずに生きてきたのだろう。
どれだけのことを諦めてきたのだろう。

朝は夫より早く起きて食事の用意をして洗濯をして、
夫と一緒に畑に行き子どもの様子を見ながら夫と同じだけ働き続け、
帰ったらまた食事を作り繕い物をし、子供の世話をし、夫に夜の相手をさせられ、
家族がみんな眠った後にやっと少しだけ眠れる生活。休みなく毎日毎日毎日。
子供を産んでも翌日には夫と一緒に畑に出て働かされる。
それでも一番偉いのは男たち。女はただ服従。
それはアメリカの貧しい移民だからだけではなく、
日本でも多くの他の国でも、そういうのが普通のことだったんだろうなぁ。

そういう暮らしの中で、戦争が起こって、
日系人たちはみな敵性外国人として強制収容所に入れられることになる。
騒ぐことなく反抗もせずに粛々と連行されていく日本人たち。
女は諦めることしか生きる方法がなかったから、なんでも結局は諦めてきたけど
ここでは男たちも諦めて運命に従っていく。
家ではどんなに強い男も、戦争になるとただの弱い存在の敵性外国人でしかない。

その一方で、
小説の中で、そうやって金持ちにも白人にも夫にも差別され続けてきた女たちも、
無謬の被害者ではなく、ときには中国人やフィリピン人を差別する。
差別というものは、あまりにどの時代のどこにでもあるので、
主語や目的語はあんまり意味がないような気がしてくる。
誰が誰を、何を差別するかに意味はなく、そこにある者がそこにある者にする、
いつもどこにでもあるものなのか。

真珠湾攻撃の後、アメリカでは日系人たちに関して様々なデマが湧き出る、
貯水池に毒を流したとか。
後に日本人たちも日本で同様に、
朝鮮人に対して同様なデマを流し多くの人が信じましたね。ああ、
ほらね、差別には本来、主語も目的語も関係ない。いつでもどこにでもある。

人間は、たまたまいる場所でたまたま差別できる相手を差別するだけだ。
差別がそういう状況の産物で、それに逆らう理性がないのが人間なら、
あきらめるしかないのかと暗澹たる気持ちになる。
あまりにいつでもどこでもずっと繰り返されて来たことだろうから。

この小説のラストは、静かで淡々とした文章で
日本人が誰もいなくなった町のその後の描写で終わります。
大きな物語ではないのに、大きな物語を感じさせるいい本でした。
2016年に読んだ中で一番の本かもしれない。

「羊と鋼の森」

2016-12-23 | 本とか
吉本ばななの「キッチン」は、30年前、ソウルに留学してた時に友達が
あなたが描きそうな小説と言って送ってくれた。
読むと、その頃自分が書いてたものと似た箇所があって打ちひしがれたのを覚えてる。
「羊と鋼の森」も、書評など見て、似た匂いがして読まなかったんだけど
友達が貸してくれたので読み始めたら面白かったです。
思ってたほどいらっとせずに、引きこまれて
カジュアルなバーの明るい席で、一気に読みました。
2016年の書店員の選ぶ本屋大賞の本です。

調律師の話なのだけど、
わたしは耳がよくなくて、音楽がわからないという思いがいつもあって、
ずっとずっと片思いで、楽器や調律に対してかなりの思い入れがあるのです。
だから素直に読めないかとも思って避けてたんだけど、全然大丈夫だった〜。
多分、わたしが十分大人になって、十分なにもかも諦めているからだと思う。

ある調律師の音色を聴いて、ピアノ調律師を目指すようになった青年。
調律師の専門学校を出て、楽器店に勤めるようになり
そこで先輩の調律師たちや、顧客の人々とふれあいながら成長していく。
「羊と鋼の森」はピアノのことですね。
ピアノはフェルトとピアノ線と木でできていますから。

登場人物は、一見気難しそうな人も意地悪そうな人もみんな
悪い人ではなく、それぞれ一生懸命で真面目で優しい人ばかりなので
読後感もとてもいいです。
漫画だけど「3月のライオン」をなんとなく連想しました。
主人公が、同じようなタイプじゃないのかなと思って。
淡々として前に出ることがなく、でも内に秘めた情熱はあるような
謙虚で物静かなタイプの男の子。

繊細な描写とよく言われているようだけど、
美しさや感動というものに誠実であろうとしている文章ですね。

「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです。」
 はい、と僕は答える。こつこつ、こつこつ。膨大な、気の遠くなるようなこつこつから調律師の仕事はできている。
「こつこつ、どうすればいいんでしょう。どうこつこつするのが正しいんでしょう」
 必死だった。息を切らせている僕を板鳥さんは不思議そうに眺める。
「この仕事に正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい」

 美しいものを前にしても立ち尽くすことしかできない。器も山も季節も、そのままに留めておくことはできないし、自分がそこに加わることもできない。だけど、あれを、美しいと呼ぶことを知った。それだけで解放されたような気持ちだ。美しいと言葉に置き換えることで、いつでも取り出すことができるようになる。人に示したり交換したりすることもできるようになる。美しい箱はいつも身体の中にあり、僕はただその蓋を開ければいい。
 これまでに美しいと名づけることのできなかったものたちが、記憶のあちこちからそこにひゅっと飛び込んでくるのがわかる。磁石で砂鉄を集めるように、いともたやすく、自由自在に。
 枝先のぽやぽやが、その後一斉に芽吹く若葉が、美しいものであると同時に、あたりまえのようにそこにあることに、あらためて驚く。あたりまえであって、奇跡でもある。きっと僕が気づいていないだけで、ありとあらゆるところに美しさは潜んでいる。ある時突然、殴られたみたいにそれに気づくのだ。例えば、放課後の高校の体育館で。
 ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕は喜んでそのしもべになろう。

「あああ、俺、血がにじむような努力ってやつをしてみたいよ」

「ピアノで食べていこうなんて思ってない」
 和音は言った。
「ピアノを食べて生きていくんだよ」

「木の名前を知ってるのは、ただそれだけのことなんかじゃないさ。実際、役に立つと思う」
「なるべく具体的なものの名前を知っていて、細部を思い浮かべることができるっていうのは、案外重要なことなんだ」


調律師の映画「ピアノマニア」と、
ピアノについての本「パリ左岸のピアノ工房」を合わせて楽しむと
もっとピアノのことが好きになると思います。

「家をせおって歩く」

2016-12-21 | 本とか
ちょっと今すごい本を読んでなんかうれしくて震えている。
子供向けの本「たくさんのふしぎ」の一冊で、ネットで見かけて
すぐにポチったのが今日来たの。すごい好きだわー。

時々はっとするほど心の自由な人を見てはっとして、
すごく広々と幸せないい気分になって、
またはっと自分自身のことを思い出してがっかりする。

発泡スチロールで家を作って、それを背負ってあちこちで寝ているわけですが、
寺社やお店や個人の人と交渉し、家を置いたら
お風呂やトイレを探しにぶらぶらと出かけるわけです。
置き場所の決まった家は帰れる場所だし
トイレやお風呂が決まれば街全体が自分の家、という考え。
子供向けの本なので、楽しかったことだけ書いてあるのかもしれないけど
結構親切にされて、いろんなものをもらったりして楽しそう。
2014年には180回の引越し。2015年には60数回。
作者はアーティストの村上慧さん。
瀬戸内国際芸術祭にも出されてた方ですね。

本人の言葉より
人間がたくさん居るところ”のことを“人混み”と呼んでしまうのが嫌です。そんな僕自身も、僕自身のせいで“人混み”の中に括られてしまいます。なんとかしてこの状況を打破しなければなりません。他人が他人とすれ違い、それを他人が鑑賞するためにつくりました。

僕はあれを「家」と呼んでいるけど、その正体は、あの震災のとき、僕を動けなくさせたものを具現化したもの。家というよりも、僕が生きていく限り、連れて歩かざるをえない荷物のように思える。

いまや移動と言えば電車とか車とか飛行機にのるもので、まるでテレビのチャンネルを変えているみたいに見えて、もはや移動はほとんど脳内で行われているんじゃないかと思ってしまうぐらい。体を外気にさらしたまま移動しないと、断絶がおこってしまうのだ。


→持ち運べる発泡スチロールの家で移住する暮らし

「奇妙な孤島の物語〜私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」

2016-12-15 | 本とか
島は小さな大陸にほかならず、大陸もまた大きな大きな島にほかならぬのではないか。
旅行ガイドブックを買いに行ったのに、なんとなくそこにあった、
ものすごく実用性のない島の本を買ってしまった。
「奇妙な孤島の物語〜私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島」
でもとても素敵な本なの。「もっとも美しいドイツの本」賞受賞作。
場違いなガイドブックの棚にあった幸運。
年に一冊でもこういう本と出会えたら、その年は幸せな年、という気がする。

まずは、装丁のブルーにやられました。思い切りのいい濃いめの水色。
ティファニーの青より少し濃いかな。とてもきれい。

こちらの→詳しいレビューを読んだら内容はわかるし
すぐにでも欲しくなると思うけど、リンクが切れると残念なので少し抜き書き。
タイトルのとおり、50の孤島が紹介されている。『ドイツのもっとも美しい本』に選ばれただけあって、とても綺麗な本である。しかし、その印刷と造りは極めてシンプルだ。一つの島が見開きで紹介されていて、左側がマリンブルーの海に浮かんだ島の地図。地図の縮尺はすべて同じで、ページの縦横がおおよそ39kmと27kmになっている。
つまり小さい島は小さく、
もっともっと小さい島はもっともっと小さく描かれてるということです。
『孤独』という名の島、赤ん坊が必ず死んでしまう島、空飛ぶ円盤が撮影された島、総督と家臣の二人が住んでいた島、毎年11月に一億二千万匹ものカニで真っ赤に染まる島、ロビンソン・クルーソーになろうとしてある男が渡った島、水爆実験のため空っぽになってしまった島、ミステリーのように殺人事件がおこったであろう島、金星の日面通過を見るために巨額を投じて観測隊を派遣したが悪天候でどうにもならなかった島、など、孤島たちの奇妙なエピソードそれぞれに特別な意味を見いだせるだろうか。それでも、すべてが間違いなく面白い。



→訳者あとがき の中では、旧東ドイツ出身の著者について書かれている。
著者ユーディット・シャランスキーは作家にしてブックデザイナー。本書の文章はもちろん、地図の製作も、そしてドイツ語版は装幀も、すべて著者の手になる。1​9​8​0年、旧東ドイツのバルト海に面した港町グライフスヴァルトに生まれた。地図を見るとドイツのいちばん北東のはずれ、ポーランド国境も近い海辺の町である。ベルリンの壁が壊れた1​9​8​9年秋には、著者は9歳になったところだった。
著者にとって東ドイツは島だったのだと。
この著者は非常に多才で素晴らしいセンスを持った人のようで、
文を書き絵を描き装丁まで手懸けた本が他にもあって
それらのどれもが高い評価を得ているようです。
あと翻訳についても書かれていて、それも興味深く好感が持てる。
著者が地名について領有者の言語で記入し、その言語を統一しなかったこと。
だから訳者も地名を日本語訳しなかったこと、
それは「地図上で征服行為を反復しない」というデリカシーなんですね。
それから日本語では過去形をとったけど原文は現在形であったこと。
ドイツ語は全くわからないけど、最近、ドイツ在住の作家多和田葉子さんの
言語や翻訳に関する本を読んでいたので、どういう感じかわかる気はする。

→トーベ・ヤンソンの8ミリホームビデオを編集したDVDとか、
こういう本とか、そういう独特な美しいものばかり見て生きていたいものだなぁ。。。

鴨川で納涼と文学と

2016-09-14 | 本とか
先月ですが→「ジニのパズル」の読書会の後そのまま鴨川での納涼会に参加してきた。
この日、この夏一番たくさん汗を書いたかもしれない。
5時くらいから買い出しに行き、食べ物や飲み物を調達。
西日の中、日陰のある川辺の芝生の上で、納涼会始まり。
わたしは、知らない人ばかりで、何をするのかも知らずぼーっと行ったのですが
あれこれ企画を考えててくれる方がいて、ただの納涼会ではない面白い時間でした。

飲んだり食べたりしながら、一通り自己紹介などしたあと、
企画者の人が取り出したのは、白い紙にプリントした文字。
それは、参加予定者にあらかじめ、このあとの朗読会で朗読したい、
夏がテーマの文章、小説でも詩でもなんでものテキストを送るようにと言われて、
それでメールで送っておいたものをプリントしたものでした。
河原で石をたくさん拾い、大体の範囲を決めてその中にどんどん、
その紙を置いていくのです。石で押さえながら。
文学ゲリラインスタレーション。
これは、案外面白かったですね。通りすがりの人や近くにいた人たちが
これはなんですか?と声をかけてくれて、事情を言うと面白がって読んでくれたり。
こういうの、とても好き。小さなコミュニケーションが生まれること。

みんなで置いていった紙に書かれてものを、一通り読みながらうろうろしたあとは、
朗読会。順番にそれぞれ持ち寄ったものを朗読します。
詩や俳句や短歌、小説の一節など、いろんなものがあって、大変興味深かった。
わたしは、北村太郎の夏の終わりの詩と、望月通陽の布に関する散文、
それと岸政彦さんの→「断片的なものの社会学」の中から一節を選びました。
ほんとうはみんな、男も女もかぎらず、大阪のおばちゃんたちのように、電車の中でも、路上でも、店先でも、学校でも、気軽に話しかけて、気軽に植木鉢を分け合えばいいのに、と思う。でも、私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて、不安がって恐怖を感じている。差別や暴力の大きな部分は、そういう不安や恐怖から生まれてくるのだと思う。別に、大阪のおばちゃんが差別しない、と言っているわけではない。まったくそうではなく(や在日に対する差別は大阪でも強い)、ただ私はどこかで、通りすがりの人と植木鉢について話を交わすことが、あるいは植木鉢そのものを交換することが、なにかとても重要なことのように思えるのだ。
(岸政彦『断片的なものの社会学』)

植木鉢を交換する人を見て書かれた文章だけど、
読書会と言うのも、植木鉢を交換する、あるいは植木鉢について話をするのと
同じようなものだよなぁと思ったので。
そしてこの日にした文学ゲリラインスタレーションも、そうですね。
また、朗読というのも、慣れないけど面白いものだなぁと思った。
自分の声は好きじゃないし、どう発声していいのかよくわからないことも多いけど。
いい夜でした。



「ジニのパズル」

2016-08-30 | 本とか
群像新人賞受賞の本。時々行ってる読書会の課題本でもあるので読んでみました。

導入のアメリカでの高校生活の部分はごく普通の青春小説風。
ちょっとアウトローの子の独白調文章で、悪くないけどこのままだったら退屈かな。
例えば「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンを思い出すような感じなんだけど
わたしが一番思い出したのは仁川高丸の小説「微熱狼少年」。
仁川高丸というペンネームはうちの近所の宝塚市の地名で、気になって読んだ本でした。
すばる文学賞佳作作品で、高橋源一郎が絶賛してた本です。もう20年以上前だけど。
反抗的で投げやりな不良?女子高校生が、非常勤の女性講師と恋に落ちる話です。
この「微熱狼少女」の反抗自体は思春期によくある類のものだったように思います。
でも女性が女性を好きになってしまうことで起こる内側の混乱や葛藤と向き合い
自分の気持ちを受け入れることで、少し大人へと成長していくわけですが。
同様に、ホールデンのもやもやや反抗も、思春期の誰もが感じる可能性のあるもので、
普遍性のある孤独でもあり、それゆえに多くの共感を持たれたのだろうと思うけど、
でもジニの問題は、そういう思春期的なものがベースにはなってはいても、
もっと限定的なジニの属性と環境に直接影響を受けています。
在日コリアンの少女が日本で行きていく中で気がつく欺瞞やごまかしにがまんできず、
そこから逃げずにぶつかり、感じ、考え、成長していく話。かな。

アメリカでのジニの描写のあと、お話は彼女の小中学校時代に移ります。
エスカレータ式で中高と続く日本の有名市立小にのびのびと通っていたジニですが、
社会の現代史のあたりの授業のあとから、クラスの雰囲気が変わります。
差別的なことを言ってくる子もいて、守ってくれる友達もいるものの
ジニの中に、一体なんだこれは?という気持ちが芽生えていく。

そして、中学からは、朝鮮学校に通うことになるのですが、
この本の読書会に行った時に、ある人が(わたし以外は全員日本人でした)
いじめのあった日本の小学校から解放されてほっとしたのではと言われたけど、
わたしは、いやそれは違うと思った。
自分の居場所が失われつつあった小学校からは解放されても、
言葉もわからず得体の知れない未知の場所に行くんだから、
緊張したり不安だったりはしただろうと思うのです。
多分、その発言をした日本の人は、在日コリアンの人たちはみな
ひとつの同質なコミュニティにすっぽり属しているものだと思っていたのかもしれない。
だから、ジニも、自分の国の安心なコミュニティに帰れる、よかった、ホッとした、と
感じたはずと考えたのだろう。
でも日本語しか喋らず日本人の友達しかいない子どもなんだから、
ジニにとって朝鮮学校は、得体の知れない場所だったんじゃないかとわたしは思う。
知ってる人が一人もおらず、言葉も全くわからないのでは、
外国の学校にひとりぽつんと留学するのとかわりないんじゃないか。
そういうことを多分、その日本人の人はわからなかったのだろうな。
もちろんわからなくて仕方ないけど、
きっと、在日はみなひとつのコミュニティに属してると思う日本の人も多いのだろう。
同じ在日コリアンでもメンタリティも、育った文化もまるで違うことがあるんだけど。

わたしは、朝鮮学校に通った知り合いがごく最近までひとりもいなくて、
実際のところ、そこでの子どもたちはどんな感じなのか、
授業はどんな風なのか、全然知らずに来たのですが、
こういう在日コリアンもとても多いと思います。

とにかくそういうわけで、あっちでもこっちでも、居心地が悪かったり
得体が知れなかったり危険だったりして居場所がないのが、
その時のジニだったんだと思う。
安心できるコミュニティなんか、その時点ではどこにもない。
大人になりながら、自分でなんとかどこかに馴染んでいくか作っていくか、
アウトローになるかするしかないのです。

中学へ進学したものの、相変わらず人と群れず我が道を行く感じのジニでしたが
やさしい友達も出来て、ほのかな好意を感じる男子も出来て、
少しずつ新しい世界に馴染んでいきます。
そんな時に、起こったのが北朝鮮のテポドン発射事件。
これで一気に日本の中に北朝鮮への憎しみの空気が蔓延するようになります。
そこでジニが遭遇したある事件。
警察を名乗る差別者の、罪のない子どもへの一方的な暴力に、
続きが中々読めないくらいだった。
警察という権威からマイノリティ民族へ、大人から子どもへ、男から女へ、
複数からひとりへ、と、何重もの卑怯な差別や暴力に、何重もの怒りがこみ上げる。
フィクションの描写でしかないんだけど、現実にあり得ないことではなく
似たようなことがきっとあったろうと想像すると、やりきれない。
「どうせ国境なんて誰かの落書きだろう。
その落書きのせいでどうしてこんな目に合わなきゃならない。どうして」

というジニの心の叫びが痛々しい。

この事件の後、ジニはその納得できなさを日本社会へではなく、
朝鮮学校内部のある部分へと向け、たったひとりで小さな革命を起こします。
ジニがまず怒りを向けるべきはそこなのか?
日本の社会の差別の方じゃないのか?と思っても、
中学生が自分の身の回りでひとりでできることとなると、これしかなかったのかも。
差別をしてくる側ではなく、されるほうの自分たちの内側にある欺瞞やごまかしを
まず、ぶっ壊そうとしたジニが、とても切ない。

物語の最後はアメリカに戻り、そこでジニは自分なりに何かをうけいれて、
自分の中にやっとちいさな調和を見いだすような感じで終わります。
個人的には、小説のラストとしては、そんな風にまとめちゃって、
ちょっと安直じゃない?と思わないでもないけど、読後感はいいです。
青春小説としてもうまくまとまってて、よく出来ていると思います。

最近、台湾とアメリカに半年ずつ住んだ大学生の息子が、
英語で外国人に、在日韓国人であることを説明するのがめんどくさいと言った。
もちろん簡単な説明はできるけど、それはあまり実際の説明になってないからです。
わたし自身、ソウルに留学していた22歳の頃、在米韓国人の留学生ばかりの寮にいて、
在日韓国人との違いにくらくらしたのを覚えている。
アメリカに生活拠点を持つ在米韓国人の子たちは、
わたしの知る限り全員アメリカのパスポートを持ち、
Where are you from? と聞かれるとアメリカと迷いなく答えた。
韓国生まれで子供の頃にアメリカへ移住したという子も多かったけど、
その子らもみな、自分のnationalityを聞かれるとKorean-American、
あるいはAmericanと一言で答える。シンプルだ。
ジニの言うように国籍なんて誰かの落書きでしかない感じで、
出自は韓国でも、アメリカに暮らす市民だから、
アメリカのパスポートを持つ韓国系アメリカ人である、と気軽に答える。

一方、何代にもわたって日本に住んでいても、在日コリアンで、
自分はKorean-Japaneseだと迷いなく答える人は少ないのではないだろうか。
韓国朝鮮籍だったことを秘密にしまま帰化した人も多いと思います。
そういう人たちいくらかは、自分はほぼもう日本人であると思っているだろうし、
韓国系アメリカ人以上に、生まれ育った国に同化して、
韓国から遠く離れているかもしれない。
でも、多くの、未だに韓国のパスポートを持っている人は、
Japaneseではないけど、Koreanでもないままだ。
いや、自分はKoreanだと言い張る人もいるだろう。
というように、全然シンプルでない。

読書会は、わたし以外はみんな日本人で、でも差別的な発言などは全然なく、
和やかにいろんな感想を聞くことができました。
わたし自身は、むしろ、この本を政治的な文脈にはあまり寄らずに、
できるだけ、ひとりの少女の成長物語として、文学として読みたいと思ったのですが、
やはり政治的な問題を抜きにはできず、多少そういう流れになる場面はありましたが
みなさん節度のある、落ち着いた読書会になってよかったです。
「ジニのパズル」で、わかることは在日コリアンの問題のごく一部でしかないけど
とりあえず、それだけでも、たくさんの人が、ひとつの青春文学として読みながら
知って関心を持つことになるといいなと思います。

→わたしの個人的な感想より、もっとやさしくて賢そうな岸政彦さんのレビュー

文学

2016-08-25 | 本とか
先日「人生に。文学を」というコピーが、批判されネット上で炎上しましたね。
芥川賞や直木賞などを運営している日本文学振興会が、新聞に掲載した広告です。
わたし個人的にはアニメは苦手だし、流行の文化には懐疑的な方なんだけど、でも
この「アニメか?」は本当に余分で余計で、文学にまつわることの権威主義的側面を
わざわざ取り出して、別の素晴らしい面を台無しにしちゃってて、とても残念。
直木賞も芥川賞もどう考えても、日本では十分に大きな権威なので
それの大元がこういうコピー出しちゃったら、そりゃ
「文学ってえらそうに、何いばってんだよ!」と思われるよねぇ。
文学というと芥川賞とか中学の教科書に載ってる文豪しか思い出さない人が
一番文学から遠い人のように思う。(わたしも古典好きだし文豪好きだけど)
そういう人が作ったコピーだったんだろうな。
文学なんて空疎なもので、自分たちのリアルの感動なんてない、くらいに
思ってるひとも、世の中にはいるかもしれない。
それもまた寂しいことだなぁと思う。
本当は、文学は権威から遠くとてもとても自由なもののはずなんだけど。

つらつら考えながら、ふと、
文学というものの定義をぐぐっておこうとwiki先生に聞いてみたら、
いろいろ書いてあるので、まずそこから見ましょう。
「文学は、言葉(口頭または文字)によるコミュニケーションのうち、
言語のあらゆる力を活用して受け手への効果を増大させようとするものとして定義される。」

「実際のところ文学とはまず第一に、自分自身と自分を取り巻く世界について
自分の言葉で語る者と、その発見を受容し分かち合う者との出会いなのであり、
その形式の果てしのない多様性と絶え間なく新たに生まれる主題は
人間存在の条件そのものを物語っているのである。」

・・・なんかちょっと熱く語ってる素敵な説明にぶちあたってしまった。
出会いですよ。出会い!
wikiの説明文で、こんなに情熱と愛を感じさせられるとは。

今回のコピーの炎上とは関係なく、
文学、と言う言葉に鼻白んだり、堅苦しい古臭いつまんないと言うような人は、
別にもうそれはそれでいいよとも思うけど、
わたしはね、
「文学」と聞くとふわりと頭の中が明るく優しく広くなる気がする。