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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

ミランダ・ジュライではあるけれど

2016-02-15 | 本とか
迂闊というか、不注意というか、バカというか、わたし。。。笑

去年、4回連続で岸政彦さんの→「断片的なものの社会学」について書いた時に、
ミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれたもの」を
一緒に読んでいろいろ考えたので、奈良でその読書会があるのを見つけて、
遠いんだけど行ってみるかと申し込んで楽しみにしていたのです。

読書会は夜なので、昼に京都へ行き美術展を2つ見てから
奈良へJR1本でいけばいいかなぁと計画してたのですが、
その日の朝、ぼんやりとスムージー作って飲みながら、ふと、全くふと、
嫌な予感がして、いやまさか、と思いつつその読書会のチラシを見たら、
あああああぁ・・・。
課題本は「あなたを選んでくれたもの」ではなく
その前に出ていた短編集「いちばんここに似合う人」だったのでした。
そしてそれはまだ読んでない・・・。
(以前中の1編だけ本屋で立ち読みはしたのですが・・・笑)
読書会をキャンセルしようかと一瞬思ったけど、それはそれで迷惑よねぇ、
事情を話せば、読めてなくても大丈夫だろうし行くだけ行こうか、
でもまだ朝だし、今から読めばある程度は読めるかも、
それくらいは、ギリギリまでは頑張ろう、折角行くんだし、と
あれこれ考えて、慌てて家を出て駅前の紀伊国屋に駆け込んだけど在庫なし。
京都に行くのはもう諦めて大阪まで出て、大きな紀伊国屋に行くも在庫なし。
汗をかきながら茶屋町の丸善ジュンク堂に走ったら、1冊あったー!
この時点でもうお昼は過ぎてて、喉はカラカラで、
とりあえず近くのカフェでビール飲みながら読み始めることに。

1時間くらい集中して読んで、気分転換に少し歩いて別のカフェへ。
ここではキャロットケーキを食べる。
(飲み物はスパークリングワインですけど。)

それから電車に乗って電車の中で読むも、途中で寝落ち。
奈良に着いてから、駅前のモスバーガーで、軽く食事しながらの
ラストスパート。16編ある短編集の最後の一編は
奈良駅から会場までのバスの中で読み終わるというぎりぎりさ。
頑張った・・・


長編小説なら、もう少し楽なんです。最初に物語に入り込んだら
あとはもう、その世界に流されていけばいい。
でも短編小説は、1編1編、新しく入らないといけないし、
一つ読んだら、しばし、余韻を楽しんでしまうから、時間がかかるし
一気に読むと本当に疲れる。
こんなに、短編小説を一度に読むのって、ここ数十年なかったかも。
でもがんばった。自分を褒めたい気分で行きました。自分のうっかりのせいだけど。笑
読書会の中身については次回。

詩を読む友達

2015-11-05 | 本とか
北海道の友達が、地元の文芸誌で奨励賞をもらって掲載された詩を送ってくれて、
今朝はその詩の感想をあれこれと話し合って、とても楽しかった。
海面の少し上を、鳥の視点ですーっと飛んでいるよような、
ひろびろとして透明感のある気持ちのいい詩でした。

しかし日本では現代詩は本当に冷遇されてて、
その友達に勧められた、ある現代詩の詩集をさがすのに苦労しています。
大阪の大型書店3つまわったけど在庫なし。
買うと決めてるならネットで買っちゃえばいいけど、その前にとりあえず
ぱらぱらと立ち読みしたいのよ・・・。

大型書店でさえも、そもそも現代詩の棚自体が
ものすごく小さいことに寂しくなりますね。

今読んでいるのは、若くして亡くなった韓国の詩人の詩集。
友達に借りたものです。
総身うぶ毛でおおわれているような清純な叙情感、って訳者に書かれてて、
韓国の詩だし、もっと土っぽいものかと思ってたら
柔らかくみずみずしい詩です。

韓国の詩をほとんど読んだことがありません。
韓国の小説もほとんどない。
でも小説はこの前1冊買ったので、読むのが楽しみです。

詩の自動販売機

2015-11-01 | 本とか
無料で短編小説が印刷される「短編ディスペンサー」という→記事があって
フランスの、短編小説印字するプリンター「短篇ディスペンサー」についてでした。
無料でスーパーのレシートのような紙にごく短い短篇を印刷するもので
何箇所かの公共施設に設置されたそうです。
「ちょっとした待ち時間にメールや SNS に書き込みをするよりも、
短い話を読んで楽しんで貰いたい」ということらしい。
印刷する紙が長くなるので、続きはwebで、とか
QRコードでスマホに読み取る式がいいのでは、とかいう意見も見かけたけど
いや、だから、デジタルやネットを離れた生の楽しさを味わいたいんだから
紙で出してほしいなぁと、わたしは思いました。
スマホに情報取り込んだら、またネットの世界に入るでしょ、シェアするにしても。
そうじゃなく、紙に印刷されてたら、読んだあとに誰かにあげることもできるし
そこにはリアルのコミュニケーションができるじゃない。
そういうのがいいなぁ、とあれこれ考えてたら
谷川俊太郎の新しい詩集(装丁がきれいで中の紙も青い)の中に、
>自販機に
>百円入れて
>詩を
>一つ買った

という書き出しの詩があって、本当に売ってたら買うなぁと思ったのを思い出した。
有料でいいから、詩や短編小説が自販機で買えたらすごく楽しい。
100円くらいのガチャポンやおみくじみたいな感じで。
変なポエムはやだから、古典に限定してもいいかなぁ、とか考えると楽しい。
公共施設より、わたしなら駅に置きたいなぁ。
電車が来るまでの数分に、詩をひとつ買って読む。
読み終わったらポケットに入れて、あとで誰かにあげたり
誰かとその詩について話したりする。いいなぁ、そういう毎日。
ものすごいお金持ちになったら、阪急電鉄を買って、これやる、と言うと
京阪も買ってくださいと友達に言われて、オーケーと笑いあった。
そして谷川俊太郎の詩のことを話してたら、
本人に頼んでみたら?と言われて、Twitterの本人アカウントに
話しかけてたりしました。
長くTwitterやってるけど、有名な人に話しかけたこと一度もないと思う。
でも、初めて話しかけてしまいました。
お返事はないと思うけど、ちょっと楽しかったです。

詩の自動販売機があちこちに置いてあるような街があったら、
そういうところに住んでみたいな。

「断片的なものの社会学」4:自分の境界線

2015-10-19 | 本とか
→「断片的なものの社会学」1:浮かび上がるもの
→「断片的なものの社会学」2:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  消費しない誠実さ

→「断片的なものの社会学」3:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  瞬間や断片それぞれの奇跡
・・・の続き。

全身を揉まれながら私が感じるのは、この私の身体の境界線である。マッサージというものは、外部の世界とこの私とのあいだにある「国境」を確定し、再確認する作業であると思う。頭の上からつま先まで、満遍なく人の手によって揉まれながら、私は私の身体の大きさや、形や、温度や、固さを感じる。それは自分ひとりの手によっては感じることができない。その作業にはどうしても他人の手が必要なのだ。

苦痛をはじめとして、匂い、味、舌触りや手触りなどの感覚を感じるということは、ようするにこの私が時間の流れのなかにあることをふたたび(嫌でも)思い出させられるということである。たとえば痛みというものは、その原因が取り除かれない限り、途中でなくなったり、別のものに変わったり、意志によってそれを操作できるようになったりしない。私たちは痛いとき、常にずっと痛いのである。痛みに耐えているとき、私の脳は痛みとともにある。いやむしろ、痛みのなかにあり、痛みそのものである。私の脳が痛みを「感じている」という言い方にはどこか間違いがある。痛いとき、私たちは痛みを感じているのではなく、「ただ痛い」のである。
 そして、痛みに耐えているとき、人は孤独である。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、私たちが感じている激しい痛みを脳から取り出して手渡しすることはできない。私たちの脳のなかにやってきて、それが感じている痛みを一緒になって感じてくれる人は、どこにもいないのである。

私たちは、他の誰かと肌を合わせてセックスしているときでも、相手の快感を感じることはできない。抱き合っているときでさえ、私たちは、ただそれぞれの感覚を感じているだけである。
以上「断片的なものの社会学」

この、身体の境界線というところを読んで思い出したのは
自分が昔、ツイッターにつぶやいた言葉でした。
セクシャルなことを土台に、でも考えていた中身はこういうことだったかもと
読みながら思い出したのでした。

>自分の肌の柔らかさを知るのは、人と肌を合わせているとき。
>不思議と、触れているその人の肌ではなく、
>その人の感じるわたし自身の肌を感じる。
>くちびるも、そう。
>どんなに近く隙間なく入り組んで交じり合っていても、
>ふたりの境界がなくなるのではなく、
>別々の人間のまま、同時にその人の感じるわたしを感じる。
>舐めても吸っても噛んでも、
>舐められて吸われて噛まれたその人の感じる 、わたしのくちびるを感じるのだ。
>どこにも触れていないときに、
>その人の肌に当たって戻ってくるわたしの吐息ひとつでさえ同じこと。

誰かに触れられているときに一番、自分の身体の表面、境界を感じるのだと思った。
わかるのは相手の輪郭よりむしろ、自分という存在の境界線。
触れるのが手でなくても、皮膚や唇でなくても、ただの吐息でも同じことだけど、
音や光の振動などによって物との距離を測るように、
誰かの存在によって、自分の輪郭がはっきりするのだなと思った。
他者のいない世界で、自分という独立したものを感じとり、測ることができるのだろうか。
宇宙の中で自分一人がぽつねんと存在しているのだったら、
その時に自分と宇宙の間に、本当に境界線なんてあるのだろうか。というようなこと。
そして誰かに触れられることよって自分の境界線を感じるときでさえ、
その誰かと溶け合うことは決してなく、自分は自分で、相手は相手のまま。
他者によって自分という人間の果てを知り、同時に孤独を知るという
なんだか切ないことだなぁ。でもいっそ清々しい孤独だとも思う。

「断片的なものの社会学」3:「あなたを選んでくれたもの」と読む、瞬間や断片それぞれの奇跡

2015-10-18 | 本とか
→「断片的なものの社会学」1:浮かび上がるもの
→「断片的なものの社会学」2:「あなたを選んでくれたもの」と読む
  消費しない誠実さ
・・・の続き。

「断片的なものの社会学」は、本の帯に星野智幸さんがこう書いていいます。
>この本は何もおしえてくれはしない。
>ただ深く豊かに惑うだけだ。

一方「あなたを選んでくれるもの」はフォトインタビュー集、と呼べばいいのか、
映画の脚本に行き詰まってたミランダ・ジュライが、
広告紙の売りますコーナーの人たちに片っ端から電話をかけて、会った記録。
カメラマンと助手を連れて、パソコンを持っていない、ネットに無縁に
リアルの人生を生きる、本来ならきっと知り合う機会もなかった人たちの
人生の断片を彼女の視点を交えて記録したもの。
知らない他人のアルバムを集めている人、
庭でウシガエルのおたまじゃくしを育てて売る高校生、
クリスマスカードの表紙部分だけ売る老人・・・
写真もとてもよくて、新潮クレストブックスの本らしい、いい本と思う。

それらの「何かをクリックすることを」を知らない
「”@”のついたもう一つの名前を持って」いない人たちの中には、
エキセントリックな人もいるし、多くは貧しく、
時代にも取り残されている人々だけど
リアルの本物の人生の、どうでもいいような断片について、
「断片的なものの社会学」ととても似た意味の記述がありました。

もしかしたら残りの人生は小銭なんかじゃないのかもしれない。いや、あるいは最初から最後まで全部が小銭だったのかもしれない。数え切れないくらいたくさんの小さな瞬間の寄せ集め…うんざりするほど同じことの繰り返しで、なのにどれひとつとして同じものはない。…すべてはただなんということのない日々で、それがひとりのの人間の~運がよければ二人の~不確かな記憶力で一つにつなぎとめられている。だからこそ、そこの固有の意味も価値もないからこそ、それは奇跡のように美しい。「あなたを選んでくれたもの」

そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「厖大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。その中で個別であることの意味のなさ。
…私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。

私たちはこの断片的な人生の断片的な語りから、何も意味のあることを読み取ることはできない。
…そして、だからこそ、この「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」語りは、美しいのだと思う。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのである。「断片的なものの社会学」


この2冊を交互に読んでて、とても面白かったし、
読み終わった後に見た映画が何本か、
ことごとくこれらの本に書かれていることと関連あるような、
オチのついていない色々な人生の断片を見せられるような映画だったりして、
いつまでも余韻の続くような読書体験でした。
こういう風に、頭の中でいろんなことを思い出したり、
いくつものことがつながるのは本当に楽しい。
できるだけたくさんのものを見たり聞いたり読んだりしたいと思うのは
これのためかもしれない。(ブログに書かないと忘れるけど。笑)

苦手な夏には脳みそもヨレヨレで、植物図鑑眺めるか、
俳句をゆっくり味わうかくらいしかできなかったんだけど、
涼しくなってきて、やっとじっくり本が読めるのが、うれしい。

追記:続きのリンクも貼っときます
→「断片的なものの社会学」4:自分の境界線

「断片的なものの社会学」2:「あなたを選んでくれたもの」と読む、消費しない誠実さ

2015-10-17 | 本とか
昨日の→「断片的なものの社会学」1:浮かび上がるものの続き。
ミランダ・ジュライの書いた本はこれまで読んだことがなかったけど、
彼女の原作を自分で監督した映画を見たことはある。(「ザ・フューチャー」)
現代人的な自意識というものの生々しさに辟易し(そこではしっかり自覚され、
咀嚼されてはいるものの)もういいわ~と思ってたけど、
このインタビュー集はすごく面白いです。写真も素敵。好き。
わたしの見た彼女の映画の脚本に行き詰っているときのインタビュー集で、
それぞれのインタビューを通して、この映画ができる過程も理解できます。
彼女の映画ももう一度見直してみようかと思った。

この2冊の本の大きな違いは
彼女は小説家なので人の人生を料理し消費し自分の物語に組み込んでしまうけど、
彼は小説家ではないので、人の人生は人の人生のままにしておくところかな。
ミランダは人のリアルな人生の断片を小説や映画にして自分の物語にしてしまう。
それは悪いこととばかりは言えません、
創作作品というものはそうやってより多くの人の心を動かすのだし
そうするのが作家の仕事だし。
でも、結局は他人の人生を消費してしまうミランダの作家という性と、
消費しなかった断片をただつぶやく岸さんの本についても考えると、
後者の、なんの結論も出さず、判断もせず、方向も示さず、
ただ眺めていることの誠実さに、なんだか不器用で静かで寛容な優しさに、
気持ちを揺さぶられてしまうのです。
いえ、もちろんこの本に書かれたこと以外では
きちんと消費されたまとまった断片がたくさんあったのでしょうし
この本の中でも、そこからいろんなことを考えて書かれてる部分も多いのですが。
(それが社会学者の仕事でしょうし)
読んでいる途中で、思わずTwitterに、
>岸政彦先生の「断片的なものの社会学」まだ読んでるの半分くらいだけど
>とても好きで、
>社会学者なんてやめて小説家になるといいのにと思いながら読んでいます
>社会学者のみなさんすみません。
とつぶやいてしまったらご本人に読まれてRTされてしまいましたが(笑)、
本を読み終わったら、いや、やっぱりずっとそのままで
社会学者でいてください、と思いました。

また、以前に、誠実な沈黙と似たことについて考えたことも思い出しました。
誠実な絶句のこと

小説家は人の人生も自分の経験も糧にして、自分の新しいものを作り出すけど、
それによって心を動かされる人が大勢いるわけなので、
それはそれでありだと思うし
実際わたし自身、毎日小説や映画を楽しんだり学んだりしているわけなのですが、
本当は人として、誠実な沈黙を知っていて、それを守る静かな人が好きだし
そういう人に、いつかなりたいと思ってる。
でもわたし自身はまだまだ、厖大な人々の営みの断片に感動しながら、
それを自分の小さく狭い世界の中に組み込んで、
つまらない自分の物語にしてしまうことから離れられません。

追記:続きのリンクも貼っときます
→「断片的なものの社会学」3:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  瞬間や断片それぞれの奇跡

→「断片的なものの社会学」4:自分の境界線

「断片的なものの社会学」1:浮かび上がるもの

2015-10-16 | 本とか
友達がTwitterで
>「断片的なものの社会学」も立ち読みしてみた。
>ごく平易な日常的な言葉で描かれていて読みやすいし、
>マイノリティ性を持つ人と持たない人が、
>人としていかにして対等に関わることができるのか?ということが
>事例から浮かび上がる気がした。
と言ってたのが何となく気にかかってたんだけど、先日本屋さんに行って
大きな本屋さんの棚の間を、とある詩集を探しながらブラブラ歩いている時に、
最初に目に入ったのがこの本でした。あ、なんか見覚えある。と。
手にとって少し立ち読みしてから、買って帰りました。
あなたの好きそうな本と思った、とその友達に後で言われた。

社会学者の本ですが、最初の部分は
むしろ彼の関わってきた、というよりもっと軽く、
どこかで一瞬すれ違ってきた人たちの、ちょっとした人生の断片のスケッチが
いくつか挙げられていて、それがとてもよかった。
でもそこは。その断片をさらに断片にすると良さがわからなくなるので、
(でもとてもいいので、ぜひ買って読んでみてください)
それ以外の、まあ社会学者っぽいところ?をいくつか抜粋してみる。

・・・・・・・・・・・・・・・・
ほんとうはみんな、男も女もかぎらず、大阪のおばちゃんたちのように、電車の中でも、路上でも、店先でも、学校でも、気軽に話しかけて、気軽に植木鉢を分け合えばいいのに、と思う。でも、私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて、不安がって恐怖を感じている。差別や暴力の大きな部分は、そういう不安や恐怖から生まれてくるのだと思う。別に、大阪のおばちゃんが差別しない、と言っているわけではない。まったくそうではなく(や在日に対する差別は大阪でも強い)、ただ私はどこかで、通りすがりの人と植木鉢について話を交わすことが、あるいは植木鉢そのものを交換することが、なにかとても重要なことのように思えるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
一方に「在日コリアンという経験」があり、他方に「日本人という経験」があるのではない。一方に「在日コリアンという経験」があり、そして他方に、「そもそも民族というものについて何も経験せず、それについて考えることもない」人々がいるのである。
 そして、このことこそ、「普通である」ということなのだ。それについて何も経験せず、何も考えなくてよい人びとが、普通の人々なのである。

ラベルを付与されたものがほんとうに「無徴」になることは困難だ。

表現される側のラベルに言及されることなく、純粋な表現者として表現できるようになること。これがラベルを貼られたものが表現するときの、理想の状況だろう。
もちろんこれは、現実の社会運動がめざすべきこととはまったく異なる。なぜかというと、ラベルを完全に消去して忘却することは、とても難しいからだ。現実的にはやはり、ラベルを引き受け、それとともに生きていくしかない。

誰も誰からも指を指されない、穏やかで平和な世界。自分が誰であるかを完全に忘却したまま、自由に表現できる社会。それは、私たちの社会が見る夢である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(バスのステップを降りられない年配女性を持ち上げて降ろしたり、
線路から上がれない男性を持ち上げたりという経験の後で)
身体接触はもちろん、他人と身体の動きを同期させる程度のことにすら、普通は強い苦痛をともなうのだが、予期せぬかたちでふと他人の身体に触ってしまうことがあり、そしてとても不思議なことだが、それが強い肯定感や充足感をもたらすという経験が、ごくたまにだが、ある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
本人の意思を尊重するというかたちでの搾取がある。そしてまた本人を心配するというかたちでの、おしつけがましい介入がある。

そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。それはどこか、「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。

私たちは、私たちの言葉や、私たちが思っている正しさや良いもの、美しいものが、どうか誰かに届きますようにと祈る。社会がそれを聞き届けてくれるかどうかはわからない。しかし私たちは、社会に向けて言葉を発し続けるしかない。それしかできることがない。
あるいは、少なくともそれだけはできる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

この日は他に何冊も買ってしまって、
久しぶりにたくさん本を買った日になったのだけど
一緒に買ったミランダ・ジュライの「あなたを選んでくれるもの」が、
「断片的なものの社会学」とセットで読むと面白い本だったことに
翌日になってから気づきました。
描かれているのは同じことかもしれないと思う本で、
でもまったく性質の違う本、そしてその性質の違いの間に、
いろいろなことを考えられそうで面白いです。
明日それについて書きます。

ちなみに上の写真の本は、全然別の小説ですすみません。笑

追記:続きのリンクも貼っときます
→「断片的なものの社会学」2:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  消費しない誠実さ

→「断片的なものの社会学」3:「あなたを選んでくれたもの」と読む、
  瞬間や断片それぞれの奇跡

→「断片的なものの社会学」4:自分の境界線

「私を見て」

2015-07-19 | 本とか
昨日買った俳句の本に「言いたいことがあるなら俳句なんて書くな」と書いてあった、
俳句作る最大の敵はあなたの「言いたいこと」だって。
言いたいことって煎じ詰めれば「私を見て」で、
「自分」なんてみんな同じだけど「言葉」は無限だから、
わずか17文字に「私を見て」なんかいらんって。
ものすごーく納得。

写真やアート作品見てても思うけど、自分の内面とか自分自身とか思いとか、
そういう表現は、ちょっともういいですって思う。
自分より世界の方が広くて多様で面白いもん。
そしてどんなに静かにまっすぐ世界を見ても、
自分のフィルターをいやでも通るんだから、
わざわざ自分だの個性だの表現しようとなんかしなくたっていいよなぁ。
個性を活かすとか表現するとか、本当にうんざりすることが多いです。

日本画で写生の大事さをすごく教えられたとき、
叩き込まれたのは洋画風?なデッサンのテクニックではなく、
とにかくなによりひたすら丁寧に見るということだったので、
写生ということは、よく見て気づくということだと、考えています。
自分をなくして、謙虚にものをよく見ること。
見ている自分が、ただの透明な視線になるまで、よく見て感じること。
そういう意味で、写生を大事にする俳句が
わたしは好きなんだなぁと思う。

イプセン「野鴨」

2015-06-26 | 本とか
イプセンって「人形の家」が有名で、わたしもそれしか知らなかったのですが
知り合いの人のやってる戯曲の基礎講座の課題が「野鴨」だったので読みました。
前回は→「ロミオとジュリエット」でした。
読んでみて、おもしろかったんだけど驚いた。
全然、「人形の家」みたいなタイプじゃないんです。
誰が主人公かよくわからないまま話が進んで、方向がなかなか見えない。
「人形の家」も全然はっきりとは覚えてないんだけど
女性の自立的なウーマンリブ文脈で語られるような話だと思ってて
そういうメッセージ色のある作家なのかなと思ってたら
全然違った。
ラストはどう考えればいいのかわからないし(わたしの頭が悪い)
とりあえず、男はバカやねぇとだけ思いながら、講座に行きました。

講座といっても、ごく少人数のカジュアルな感じで
しゃべらせると何時間でも元気に喋り続ける知り合いの戯曲家が先生。

まずイプセンの写真に驚く。

50代頃の写真ですけどこれ、シルエットは鍵穴ですよ。
なんとこの頃のイプセンは大変もててたようで、
それなりに名声があったのはいいけど、偏屈で変人だったそうで
(このヒゲと髪を見たら、そりゃそうでしょうよ)
この時代のスタンダードでもない、この容貌でモテてたのはなぜだろう?
でも戯曲を読むと、女性についてはよくわかっている男みたいです。

イプセンは、結局演劇が、演劇を書くのが好きだった人で
自分の思想やメッセージ的なことを伝えたい、何か言いたいことがあるという
タイプの作家ではなかったようです。
2年ごとにひとつ発表してたそうですが
その時に、前作をひっくりかえすようなものを書くことが多かったとか。
「人形の家」を書いて、女性の自立を書いたと思われたあとでは
同じような境遇の女性が結局不幸になる話を書いたりして
自分で書いたことを鼻で笑って馬鹿にするようなものを書いたそうです。
それをやってくうちに、どんどん変なところへ行っちゃったようで
後期の話のあらすじを聞くと、なんだかへんてこな話ばかりです。
でも実際に読むと、ものすごくうまいんですねぇ。
とらえどころないようで、読み込むとものすごくうまい。

「野鴨」はある家族の話です。
騙されて破滅した元軍人の老人と
その息子夫婦、孫娘が中心。
騙した方は成功して富豪になり、富豪の息子はそれを嫌ってる。
親の使っている労働者達に、理想の押し付け押し売りをしている、
今でいうなら活動家的な人?
この富豪の息子が、貧しい主人公家族の家に行って
いろんな秘密をばらし、悲劇をもたらすというような話です。
この家には納屋があって、そこにウサギや野鴨がいて
元軍人の老人はいまや、そこだけで猟をしては
在りし日の自分に戻っているわけですが、
そこにいる野鴨が、いったい登場人物の誰のメタファーなのか、
単純に考えた時と、別の登場人物から見た時と
それぞれ変わって、深く読める話になっています。

ものすごく面白い話をたくさん聞いたのに
2週間経ったら、具体的なことをほとんど忘れてしまった。
すぐに書かなきゃダメだなぁ、と思って自分にがっかりしたけど
忘備録に、少しだけ書きました。すみません。
もう一回聞いたら、書き直そう。

本屋さんは非日常?

2015-06-19 | 本とか
京大経済のとあるゼミの3回生が、
内田樹って誰?という学生が結構いるって言ってて
そういえば関関同立の子たちにも、誰ですかそれ?って言われたことがあって、
びっくりした。
いや、別に知っておくべき読んでおくべきというわけじゃないんだけど、
中身がどうこうじゃなく、そもそも、そのレベルの有名人の
名前も聞いたことないって・・・。
まあ、わたし自身、誰でも知ってる人を知らずに
無知をさらけ出すことは多いし、
興味のないことは記憶に残らないのはわかるけど。

そういえば、大学生、本屋には年に1回くらいしか行かない
みたいな話も見かけたよな。
雑誌や漫画はコンビニで買うし、必要な本はアマゾンで買うし、
本屋は映画館並みに、非日常の場所らしいとか。

映画を年に1本くらいしか見ない人が多いのは、まだわかる。
USJやディズニーランドに年1回くらい行く人って案外いるだろうし、
映画も多くの人にとっては、そういうイベントみたいなものなのかなと。
でも本屋さんは日常だと思うんだけどなあ。

おしゃれ本屋で飲む

2015-06-12 | 本とか
大阪に蔦屋書店がオープンして
カフェやバーが中にある話は前にしましたが、(→カフェ併設の本屋)
昨日、本読みの酒飲み、という友達数人とそこで
本を見たり選んだりしゃべったりしながら飲むという会をしました。

とりあえず、飲みながら初対面の人同士は自己紹介などして
ゆる~りとはじまりました。
適当に順番に、本を見に行って、持ってきた本についてあれこれしゃべったり
ぱらぱら読んでみたり、とかしてるうちにハイボール3杯くらい空いて
それぞれ決めた本を買って、二次会へ。

わたしは久しぶりの大きな本屋さんで、広いし新しいし初めてだしで
パニックになって、とりあえず目の前の棚をぼーっと眺めてたら
ほしかった写真集(18000円)を見つけてしまって、
せっかくだし買おう!と思ったらタガが外れて
そのあと数冊勢いよく買ってしまいました。予算オーバー。。。
でも、写真集は印刷がよく気に入ったし、買えてよかったです。

本読みで酒飲み、という人はいるところにはいるのでしょうが
案外少ないんじゃないかと思う。
この新しくておしゃれな書店カフェバーにいるときも、
ほぼ満席の店内で、アルコール飲んでたのは、わたし達の他は
外国人の男性ひとりだけでした。
酔っ払ってうるさいとか、本を汚すとかは論外だけど、
おしゃれ書店のカフェバーで、ワインやビールに合う本を選んで
ゆったり眺めるのもいいものなのになぁ。

次は何かテーマを作って集まるのもいいな。(またやる気満々)


カフェ併設の書店

2015-05-30 | 本とか
併設カフェで、買う前の本も読める本屋さんって増えてきたけど、わたし、
買う前の本読みながら飲み食いするのって、
汚しちゃいけないと思ってずっと気を使ってリラックスできないので、苦手。
必ず買うつもりの本ならいいかと思うけど、
それなら買ってから読めばいいしね・・・。

読むだけ読んで書架に返す人は多いんだろうか。
そっちの方が多いのかな。
みんな気をつけてきれいにきれいに読んでるんだろうか?
こういう書店では、書架の本に表紙が開き気味のものが多いって
誰か言ってたけど、どこかに水滴とかついて乾いた後とかあったらやだな。

自分でなく別の人が、買う前の本を読んでるの見るだけでも、はらはらする。
冷たいドリンクの水滴、本につきそうやで!とか、勝手にはらはらするので、
落ち着かない。

昔、確かシンガポールの大きな書店にもそういう併設カフェがあって、
10年以上前、おおらかな東南アジアの人たちがおおらかに買う前の本を、
ジュース飲みながら読んでるのを、
やっぱりひとりハラハラしながら見てた。

そういうことを思い出しつつ、まだ梅田の蔦屋書店に行ってません。
来週は行く。
カフェで、冷たいお酒をいただきながら買った本を読むかな。

恋する老人たち

2015-05-17 | 本とか
お任せ選書について2回書きましたが
お任せ選書のアンケート
お任せ選書の選んだ本
最近なんだかやたら忙しくて、いつも以上に本が読めなくてまだ手付かず。
Kindleも買っちゃったし、うーん。

選んでいただいた本は、文庫本がほとんどなんだけど、1冊だけ写真集があって
それだけ、ぱらぱらとめくってみました。
ドアノーやブレッソン、エリオット・アーウィットや須田一政などの写真を
荒木経惟が選んで、手書きの感想というかコメントが添えられてる本ですが
とてもいい感じです。
写真もいいけどアラーキーの好き勝手なコメントがまたいいリズムで
ほっとして元気の出る本です。



Kindle

2015-05-15 | 本とか
Kindleを買ったんですよ、やっと。
何年も前に友達が持ってたのを見て以来
目が疲れなさそうでいいなぁ、重くなくていいなぁと思ってたんだけど
どのKindleがいいか悩んで中々買えなかった。
でもたまたま、別の友達が限定の?白いKindleの一番安いのを買って
ワイン2本分だし、と言うので
とりあえず一つ買ってみようと。

重い本を持ち歩かなくていいのが、一番の利点と思ってたんだけど
わたしの欲しい純文学の全集的なものは全く電子化されてなくて、
Kindleストア見ても、ラノベやマンガばかり大量にあって
本探すのに苦労しますが、
とりあえず読みたい本を2、3冊ダウンロードしておけば
時間があいたときの時間つぶしにはとてもいい。
古いiPhone開いてバッテリーの減りばかり気にしながら目が疲れるよりいい。

わたしは全然本の虫ではなくて、
本を読むのは遅いし、たくさん読まないんだけど
ちょっとずつは読むので、とりあえずカバンに入れとくといいことがわかった。

Kindleのカバーとかは買ってないんだけど
以前ちくちく刺繍して縫った小さいカバンがぴったりでした。
こういうのって女子力ってやつじゃないの!?と思うんだけど
普段の酔っ払い生活を省みると
これくらいの女子力は焼け石に水みたいですね・・・笑


お任せ選書の選んだ本

2015-04-18 | 本とか
というわけで、お返事がきました。
以下部分コピペ。
うれしい。

ご注文ありがとうございました。そして大変お待たせいたしました。
選書を 完了しました。今回は下記の本を提案させて頂きました。
好きな作家が似ているので、ダブリがありましたら代えますね。

恋する 老人たち
日曜日 の万年筆
ヨー ロッパ退屈日記
漂砂の うたう
静かな 大地 ←池澤さんだから読んでいるかな?
出星前 夜
トリエ ステの坂道
となり 町戦争
終生ヒ トのオスは飼わず
ワイル ド・ソウル

送料と もで合計が10,050円になりました。問題が無ければ、
下記の どちらかへご送金ください。確認後発送いたします。
既読の ものとかありましたら、差し替えますのでお知らせください。

選書となると、いつもアレもこれもとなってしまいま す。むしろ削る作業に悩まされます。選んだ本のうち一冊でもあなた様の人生にとって良い友人となりますようにお祈り申し上げます。


持っている本が一冊と、持ってないけど新聞小説で読んだ本が1冊あるけど、
そのまま送ってもらうことにしました。もう一回読む。
自分が買いそうな本も、買わなさそうな本もあって、楽しい。
Kindle頼んだばかりだけど、紙の本もやっぱりいっぱい読みたい。
本読むの、ものすごくノロいけど。

楽しすぎたので、本好きの人が集まって、
それぞれに質問して相手への一冊を選ぶという遊びをしたい。
前に自分の店のクリスマスパーティで、好きな文庫本を1冊持ち寄って
プレゼント交換する、というのをしたんだけど
あれも面白かったなぁ。
いわた書店のは、全く面識のない人が先入観なく
アンケートだけ見て選ぶというのが面白いけど、
ちょっと知ってる人に選ぶのは、それはそれで面白さがあるよね。