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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

Book a table

2016-08-20 | 本とか
アフタヌーンティという雑貨屋さんのカフェって、
不味くはないけど特においしいわけでもないのに高い、コスパの悪い店と思ってて、
宝塚阪急や梅田阪神のとこの店なんかはテーブルの間隔も狭くていつも人が多くて
落ち着かなかったんだけど、
うちの近所の店はかなりゆったりとしたテーブル配置で、
昼間はランチの人がとても多いけど、
夕方の空いてる時間なら読むものを持って長居しやすいかなと思ってました。
バーで本を読むのも好きだけど、年をとると暗い場所で本を読むのが
結構つらくなってくるので、落ち着くカフェはいい。

そして、この夏にやってるここの夜のセットはなんだかとても好きかも。
フードとスイーツとドリンク2つのセットに、
書き下ろし短編やエッセイの入った小さな冊子が付いてるセットなのです。

ゆっくり読書してくださいという意味で、ドリンクが2つセットに入ってるというのは、
鷹揚なことだなと思う。食後のドリンクと読書。素敵だ。
この小冊子も細長い形で、なんかかわいい。

本とカフェという組み合わせが気持ちいいだけでなく、
ゆっくりしていいんですよというお店の姿勢が、いいなと思うのです。
これって、お店が、お客の回転ということを捨てているわけで、
カフェというのは多少のフードは出していても、
多くのレストランに比べると客単価は少なめで、
回転で売り上げを確保してやっていくことの多い業態ですよね。
飲食店が、お客さんの回転を捨てるって、客単価が大きい店でないと損だし、
うちの近所みたいな夜はすいてる店ならともかく、
繁華街のお客さんの多い店だと、店的にはもったいないことだと思うんだけど
チェーン店なので全国的にやっているのでしょう。
個人オーナーのお店には時々あると思うけど、チェーン店でこういう
あんまり儲からなくていいから、楽しいことをしようという姿勢は珍しいような。

で、夜だけのセットだけど一度行ってみようと翌々日に行ったら
なんとこの小冊子がなくなったら終わりと言うことで、やってなかった。

あー残念。またやらないかなぁ〜

女子エッセイ

2016-08-19 | 本とか
女子エッセイみたいなのを、30代くらいまでは気楽な読み物として楽しく読んでたし、
なるほどと思ったりもしたし、お風呂でのぼせずに読むのに好んでいたけど、
久しぶりに読むと、なんかもういいやとばかり思って、
年とって世の中がわからなくなったからかなと思ったけど、
単に飽きたんだろうと思う。
そういうのは、ネットでアホほど読んでるからだきっと。
紙の本で読むと、なんかむなしい。
アラサーアラフォーあたりの、ちょっとこじれた女子エッセイ。

でもまあ、さっと読めるし、お風呂には向いてるかと思ってたけど、
お風呂でももういいやと思ったのだった。
基本的に本はかなりつまらなくても最後までなんとか読む派だけど、
途中であきらめた。
さっと読めなくても、文学読むほうが、今の自分は楽しいとわかったのでした。

軽い読み物がダメなわけじゃなく、ネットでは、すごくたくさん読んでる。
(あの人やあの人の本をdisってるのではありません!)
あとはやっぱり、そういうエッセイ的な読み物って切り口や洞察がおもしろくても、
やっぱりある程度人を今の時代のあるカテゴリーの人に類型化して書かれてるし、
そこにある今の時代も、類型化からも、もう自分が離れすぎてて、
他人事としてまあ面白いくらいにしか感じられなくなってることかな。
でも、類型化された他人事にそもそも興味がないし。

20代〜40代くらいの、結婚しない女子やできない女子や
したくない女子やした女子や、そういう女子たちについて、
もう別にどうでもいいからなぁ。
もてたい女子やもててる女子やもててた女子やもてたかった女子や、
そういうのもどうでもいい。
(自分は、もてたいもてたい言ってるけど。笑)
そういう意味での不惑は50歳くらいから、今なのかも、わたしは。

そういうわけで、結局やっぱり分厚いクレストブックスをお風呂用に買って
ひと月かけてのろのろ読むのである。

「ハウルの動く城」

2016-06-30 | 本とか
息子が7週間ほどアメリカ、南米、ヨーロッパを移動する旅をしていたとき、
アニメの「ハウルの動く城」の舞台だというストラスブールの写真を送ってきて、
それを見た人が、原作面白いよと薦めるので、ハウルの本を読んでみました。
窮屈で、運のない長女を長年やってきた自分には、
ヒロインのソフィーの気持ちがわかりすぎて、なんだか結構一気に読みました。
あらすじはアニメが有名だから、みなさんご存知でしょうと省略。

ソフィーは魔女の呪いで突然18歳から90歳くらいの老女になるんだけど、
受け入れてしまえば、18歳から突然老人になったってたいしたことじゃないのかも。
実際ソフィーは、パニックになったりすることもなく、わりとすぐに状況を受け入れ
すたすたと、やるべきと思うことの方へ進んでいきます。
悲観したり嘆いたりはあまりなく、次へ次へと動くソフィーは
心が強く肝の据わった子だったからなのかもしれないけど、
おばあさんになることで、自分が囚われていたいろんなものが
するするとほどけていく気持ち良さを感じたんだろうなと思う。
怖いものや従うべきものが遠くなり、なんだか不思議な自由があることに、
気持ちがすこんと広々したんじゃないかな。
醜くても不便でも衰えててもいいから、今の自分でないものになりたい、
という気持ちになることは、わたしもよくあるし、
さらに、社会や、時には自分自身で自分を縛っているたくさんのことからも
うんと年をとれば自由になれるかもしれないと憧れもあって、
ソフィーもそうだったんだろう、
実際にそうなってしまうまで自覚がなかったにしても、と思いました。

ファンタジーとしての部分は、あんまりよくわかりませんが(ファンタジー苦手)
ソフィーの人物造形とその変化だけでも、とても面白く読みました。
ハウルもいいですけどね。自惚れ屋で自分のことしか考えてなくて
面倒や嫌なことからは隠れたり逃げたりしたいずるさやいい加減さ、弱さもあって、
でも、なんだか変な優しさがある男の子。憎めません。

ひとにたまたま勧められる本って、面白いことが多くて楽しい。
今はまた別の人に進められた本を読んでいますが、
これがものすごく面白くてほぼ全ページに付箋がついてしまう勢いです。笑

在庫なし

2016-06-11 | 本とか
多和田葉子さんの「雪の練習生」を、初めて読んだときにも感心したけど、
先日読書会の課題で改めて読み直したら、なんと緻密で豊穣な世界だろうと
感心の枠を超えてまた感動し、
読書会で勧められた彼女の岩波新書の随筆を買いに
梅田の大きな書店をさまよったけどどこにも在庫が無くて、
評価の高い本らしいのに、ああ、ほんと本屋さんってもうだめだなぁと
帰宅してアマゾンでぽちっ。
できれば、本は本屋さんで買うのが好きだしそうしたいんですよ。
だからアマゾンでぽちらずに、ついでがあるときまで待って
街の大きな本屋さんに行ったりする。
本屋さんという場所は好きだし応援したいから。
でも最近、いつも、
何か探しに行っても在庫がないことばかり続いていやになっちゃう。
そうなると、送料無料で絶版でなければ必ず在庫があって、
そして絶版でも中古があるアマゾンに頼るしかなくなってきちゃう。
本屋さんのばか~!

本を読むって

2016-06-08 | 本とか
わたしにとって、本を読むというのは主に小説を読むということで
(たまに詩やノンフィクションも読むし図鑑も好きだけど)、
なんとなく、みんなそういうもんだと思ってきたんだけど、
最近、わたしの読む本は小説が多いねって言われて、え?と思ったのでした。
ああそうか、本って小説以外もいっぱいあるんだった。当たり前だけど。

読書家と思うある知り合いが、あまり小説を読んでいない人で、
わたしって本=小説くらいの勢いで小説ばかり読んでたけど、
偏ってるんだなぁと、認識を新たにした、今頃、この年で。笑
でもやっぱり読むのは小説が多いし好きですね。
必ずしも物語が好きだからというわけではなく
ディテールを積み上げた静かな小説も好きだし
詩のような言葉やイメージの美しい小説も好きですが、
読んでるものの多くは色々な物語があって、それを楽しんでいます。

映画や小説におそらく平均的な人たちより少し多めに接してると思うけど、
そこで数え切れないたくさんの人やその人生を見てきたのに、
それらは一体自分の中のどこをどう通ってどこに行っちゃったのかと思う。
面白い物語を読むたびに、
自分自身は何十年かかって結局一つの凡庸な人生しか生きられないのに
その何倍も豊穣な人生を、いくつもいくつもこうして読んで、
それらを味わったあとに、その数え切れないたくさんの人生は、
自分の中のどこにたまっているんだろうと思う。

自分の頭の中は、いつも、ぽかんとからっぽな時が多いんだけどなぁ。

「菜食主義者」

2016-05-28 | 本とか
韓国の現代小説を読んだのは、なんと初めてだった。
さほどたくさん翻訳されてないからだろうし、
わざわざ探さなければ目にすることも少ないからかな。
これはそんな中で、良い韓国現代小説を、
ちょっとスタイリッシュな装丁で出しているシリーズの一作目らしい。
実際、わたしは表紙の絵と装丁のスマートさに惹かれて手に取り買いました。

翻訳というものは、どうしても翻訳であって、原著と同じものにはなりえず、
常にいつも色々な問題が付きまとうけど、
その中で韓国語は日本語とかなり似ている構造を持つので、
英語など他言語からの翻訳よりは、
翻訳につきまとう問題は軽いんじゃないか、と思うので、
どんどんいい本が翻訳されるといいなと思います。

最初の一編を読んだときは、うまいなぁとけっこう衝撃を受けたけど、
次の話を読んでから(3つの連作になってる)改めて考えると、
完成度は高いとはいえ、不備なところも少しはあるなぁと気づいた。
韓国社会ではここまでコミュニケーションのない夫婦が普通なのか?とか、
普通はまず精神疾患を疑うでしょ、なんで誰もそうならない?とか、
小さなご都合主義的不自然さは、探せばないこともない。
あとがき解説に若いのに老成した作家というふうに書かれているけど
その辺、やっぱり若い人が書いた感じは、ちょっとするかな。
でもそういうこと以上に強さのある素晴らしい作品だとは思う。
韓国人作家として初めてブッカー賞を受賞したそうですが、納得。
日本なら芥川賞の候補になるような感じの作品ですが。

内容は、後味が悪くて、にゅるっとしてて、結構滅入る連作でした。
表紙の絵が、昔自分が日本画の課題で描いた玉ねぎを思い出して買った本だけど、
こんなに重苦しい話とは思わなかった。

ベトナム戦争でベトナム人を何人やっつけた、なんてことが自慢の
家父長的な声の大きい父親がごく普通の人に見えてくるような、
娘の突然の気味の悪い変化から始まります。
娘は結婚してるんだけど、ある時急に菜食になる。肉を一切食べなくなります。
・1作目は、夫婦と、娘家族との話。
肉を食べないだけでなく、コミュニケーションや言動がかなりおかしくなってて
読んでいても不気味さを感じますが、周りの人間は不思議に思うばかりで
誰も精神的な問題だと考えないのはちょっと不自然かなぁ。
・2作目は菜食になった女の姉の夫(つまり義兄)の話。
芸術家肌でいつも気だるく、精神的に健康なところがほとんどない感じの男が
妻の妹である菜食の女の蒙古斑にとりつかれて・・・。
・3作目は菜食になった女とその姉(2作目の男の妻ですね)の物語。
外側からは一番まともに見えるだろう朗らかでそつのなかった姉の、
心の奥の疲弊がねちっこく描かれています。

この菜食の女にはいらいらさせられる。
この女を全く理解できない気持ち悪い生き物のように思えたらいいんだけど
そうも思えないので、本当に落ち着かなく気持ち悪くいらいらする。
この女だけでなく、女の夫にも、
彼女の姉にもその夫にも、登場人物全員にもれなくいらいらさせられる。
このいらいらは、他人事じゃない部分が自分にも必ずあるから起こる、いらいらだ。

この小説は彼女の壊れていく過程というふうに読めるけど本当にそうなのか?
彼女が自分を純粋なものにしようとし、どんどん消えるように透き通るように
人間じゃないものの方へ向かうのは壊れるということなのか。
まわりの「普通」の人間たちの方が本当は壊れているんじゃないのか?
などと考えます。
彼女は、環境やまわりの人間のせいでこうなったというよりは
人間として「普通」に生きるということを受け入れられなかったのだと思う。
「普通」に生きるには、汚れるということが避けられない、
それが受け入れられなかった人なんだろうなと。

極彩飾の花を身体中に描かれた男女の交合シーンの描写など、
ぺっとりと湿った鮮やかなイメージを
ゆっくりと、ねっとりと、喚起させる素晴らしい描写力は随所に見られ、
濃厚でありながらところどころ澄んだ複雑重層的イメージを作り上げる筆力はさすが。
でもそれ以上に全体に陰々滅々いらいらとして、あー疲れた。
読み返すことはないかもしれないけど、いつまでも幾つかのイメージが
心に残る本ではあります。

「荒地の恋」と「珈琲とエクレアと詩人」

2016-05-04 | 本とか
「明子さん、どうやら僕は、恋に落ちたようだ。」

ねじめ正一が、田村隆一の奥さんと北村太郎とのことを書いた本「荒れ地の恋」は
この荒地派のふたりの詩人と一人の女性の、どろどろ?を書いた小説。

北村太郎は若い頃、なんだかすごく好きだった詩人。一番好きだったかも。
長い間、新聞社で校閲の仕事と翻訳の仕事をしてた人で、
詩人としてはあまり有名じゃないのかな。
高校生くらいの頃、たまたま入った古本屋さんで、
たまたま手に取った詩集が最初の出会いでした。
今もたまに、彼の詩の一節が浮かぶことがある。
わたしが彼の詩集「ピアノ線の夢」を読んでいたあの時、あの同じ時期に、
彼はこんな人生を生きていたのかぁ、と不思議な気分で読みました。
どういう人なのか全然知らなかったけど、今、なるほどなぁと腑に落ちる。

一方、田村隆一はとても有名ですね。
言葉なんか覚えるんじゃなかった、と言う一節を誰でも聞いたことがあるのでは。
彼の詩集も持ってたし、好きだったけど、読みみ比べてみて、
当時は断然、北村太郎が好きだった。今はどうかなぁ。
われらの詩は神の唾液か
悪魔の唾液か・・・

田村隆一がもてたろうなというのは、たやすく想像できる。
素晴らしい詩を書きながら、ひどいアル中で、愛嬌があり、意地悪で複雑で、
過剰も欠損も含めて、抗えない引力を持つ人だったろうなと思う。
周りも自分自身も何もかも壊した残骸が、あの美しい詩になるのだろうか。
北村太郎は全く違う感じだったろう。
小柄で地味で優しくて、でもきっとストイックで難しい人。

田村隆一の妻は北村太郎と家を出ました。
結局田村隆一のところに戻ったけど。
でも3人で共同生活をしたり、田村が別の女性を連れ込んだり、
その後も元の鞘に収まったあとでも北村太郎の家にも掃除や世話に通ったり。
・・・どろどろだなぁ。
でもなんか、なまぐさい愛憎という感じではないんですよねぇ。不思議。
北村は、田村に比べるとはるかに常識人として生きてはいるけど
(長くサラリーマンだったし)心がやっぱり詩人なんだなぁと思う。
そして、田村の妻と恋愛するようになってから、たくさんの詩を書きました。
全く、詩人という生き物は・・・(わたしはつい何でも許してしまいそうになる)
しかし、それとは別に、
時代もあるのだろうけど、男どもの勝手さにはイラつきましたけどね。

一緒に買った本「珈琲とエクレアと詩人」は、その後何年も読まないままだった。
「荒地の恋」でお腹いっぱいな気分になったせいかもしれない。
でも先日風邪をひいて寝込んでいた時に、
薄くてサラサラ読めそうなこの本を、やっと手に取ったのでした。
風邪でも読める隙間の多い平易な本で、すぐに読み終わってしまった。

北村太郎の晩年をよく知る校正者の女性が、彼の思い出について書いた本だけど、
「荒地の恋」の濃度は全くなく、
慕っていた詩人との思い出が、淡々と、ポツリポツリと書かれている。
文章は素人で凡庸だしうまくもないけど、優しさのある本だなぁと思いました。

「荒地の恋」に書かれた3人の人生の、出来事のあらすじだけを追うと、
派手でアンモラルでどろどろの人間関係を想像するけど、
実際の毎日は、こんな風に過ぎていったんだなぁ、と思う本ですね。
あらすじ以外の、重要でない日常のことの方が書かれているわけですが、
なんでも、あらすじだけでは何もわからないもんだなぁとしみじみ思う。

北村太郎の詩を少し抜き書きしましょう。
もうすぐ夏なので、夏に関係のある詩から2つほど。
今読むと、自分の書く文章は、北村太郎に結構影響を受けている気がします。

まだ夏が始まらないのに
季節が終わったなと実感するのは
夏だけだと思いながら
梅雨の夜を過ごしている
時は直線ではなく
円を描きながら動いていて
それがもはや五十個以上の円になってしまった

(『死の死』より)

気がかりは
日没の
時刻だけなのだと考えながら
ねむれないからねむらずに
ウィスキーの水割りをのんでいる
がまんできない暑さの長さってほんとうにあったのかしら?
さよならといえる季節はたしかに夏だけなのだ
それが証拠に
ただいま、といって現れるのは
いつも秋
ねむれないからねむらずに
コオロギの繊細な澄んだ音と
遠くの救急車のピーポーピーポーとを
同時に聴いていて
ごく静かに降りつのってくる
雨足を見る

(北村太郎詩集『ピアノ線の夢』の『秋のうた』より)

ねじめ正一「荒地の恋」
橋口幸子「珈琲とエクレアと詩人」

「ことり」

2016-05-03 | 本とか
春から秋には、よく植物の図鑑を見ていて、それを趣味と言っていいと思うんだけど、
今はことりの小説を読んでいるので、1冊だけある文庫サイズの鳥の図鑑を見ています。
鳥は小さくて丸っこいのが好きだなぁ。
カラフルな鳥も多いけど地味な色のもかわいいです。

小川洋子さんの小説ですが、ここに出てくる、人の言葉をやめたお兄さんの作る
小鳥のブローチがほしくてたまりません。
ことり模様のキャンディの包み紙を何10枚?も重ねて糊付けしたものから切り出した
立体的なことりのブローチで、カラフルだけどワックスの少しレトロで半透明な
ぬるっとした質感が少し物悲しいような、小さなことりのブローチを想像します。

ことりのおじさん、と、のちに呼ばれるようになった主人公は
人間の言葉を話さないお兄さんがいて、お兄さんは鳥のように歌うのですが
その言葉をわかるのは主人公だけで、でも主人公は鳥の言葉は話せない。
お兄さんは人とのコミュニケーションをしないので、主人公が仕事をし
お兄さんは家にいるという形でお兄さんがなくなるまで一緒にいます。
でも主人公はお兄さんをとても愛してるんですねぇ。
敬い、愛し、大事にしていました。
主人公も決して社交的ではなく、人間と付き合うのが得意ではないので、
その後、誤解を受けたりすれ違ったりして、悲しい出来事も起こります。
全体にちょっと物悲しいトーンのように思うけど、そうでもないのかもしれない。
悲しいのはこの二人ではなく、年をとることかもなぁと、ちょっと思って、
でもそういうことは、わたしが若かったら思いもしなかったかもと思った。
年をとると孤独は、惨めに見えるのですね。
若い時の孤独は、清々しくさえ見えるのにな。

小説を読んでいると、この(社会的な生き物としては)不器用な兄弟を愛おしく思うし
共感も同情もするのだけど、実際に近所にこういう人がいたら
よくわからない気持ち悪い人と、わたしも思ってしまうのかなぁ。
ことりのブローチも、よくわからない変なものと思ってしまうのかなぁ・・・。

写真はステキ手芸家のお友達が作ったブローチ。

ジュンパ・ラヒリ(原書)読書会

2016-04-29 | 本とか
ジュンパ・ラヒリは好きな作家なので、
原書(英語)を読む読書会があると聞いて、あまり迷わずに参加申し込みしました。
ラヒリが好きなのは、移民の人々の生活や人生に興味があるからで、
そういう映画もよく見るということは、前にも書きました。
ラヒリの小説も、ほとんどインド系移民の話なので、とても興味深い。
しかも、それ以上の深みもあり、技巧的にもうならされる素晴らしい作家と思う。

今回のは短編で、ざっと英語で読むだけならいいんだけど、
翻訳と比べて疑問な点や感想のある点などを考えるという宿題付き?なので、
翻訳と照らし合わせるのに時間がかかった。
英語なら英語、日本語なら日本語を小説としてざっくり読むのは
そんなに大変じゃないんだけど(その小説の英語のレベルによるけど)、
翻訳をじっくり比べ始めると別の頭使うんですよね。
そして気になる箇所をピックアップして用意して持っていく、と、
前日にぎりぎり終わり、当日の朝にコンビニのコピー機でプリント。
(うちのプリンタ調子悪いので)
読書会のためにこんなに準備したの初めて、というくらい頑張りましたが、
そういえば、この前のミランダ・ジュライのトークも当日の朝に、
課題本を勘違いしてたことに気づいて、本屋3件走り回って手に入れ、
カフェ移動しながら奈良までの道のりひたすら読み続け、
ぎりぎり読み終わったんだった。ぜいぜい。
いつもホント落ち着きがないですね・・・。

参加者は10人くらい、とりあえず順番に適量ずつ読み、
気になったところや意見を話し合うという進行で、
英語について、内容について、訳し方について、いろんなことを和やかに話します。
語学にも文学にもそれぞれ気を配るので、結構時間がかかり、わたしは
次の予定があったので途中で抜けることになりましたが、おもしろかったです。

大人の素人の?人の朗読というか音読を聞く機会は珍しくて、
読書会自体と同じくらい、そちらも興味深かった。
以前わたしは初心者の大人に教えてたけど、今回はもっといろんなレベルでした。
発音や音読のレベルは英語力とは必ずしも一致していません。
英語の知識が多そうな人でも発音には案外無頓着な人もいれば、
英語力の低さがそのまま読むレベルに現れている人もいる。
でも、それぞれなりに真面目に読めばいいので、
発音などの細かい事は気にしないで、皆さんどんどん読まれる、
和やかで寛容な雰囲気のあるいい会だと思います。

読書会自体はそれでいいんだけど、それとは別の話として、
(久しぶりにそういうとこ行って、久しぶりに自分の英語力が相対的にどんなものか、
ちょっと確認できたし)元講師として発音について思ったことを少し。
英語力も高く、かなりきれいに読まれる方でさえ、
語尾の「n」が発音されないことが多い。これが一番気になったかな。
これって初心者教えてる時もそうでした。日本の人には難しいのかな。
でもわたしは、語尾の「n」が次の母音と繋がらないと、
背中がむずむず落ち着かなくひっかかちゃう気分になります・・・。
あと、「l」と「r」の混同や、「r」がないのに不必要に口の中を広くし、
無意識に舌を丸めてしまう人も多い。
でもまあ総じて、女性の方が発音はきれいだった気がします。
そういうことも興味深かった日でした。

「f 植物園の巣穴」

2016-03-19 | 本とか
2009年の梨木香歩の異形譚小説。
文庫本の背表紙には「月下香の匂ひ漂ふ一夜。歯が痛む植物園の園丁は、誘われるように椋の木の巣穴に落ちた。前世は犬だった歯科医の家内、ナマズ神主、烏帽子を被った鯉、アイルランドの治水神と出会う。動植物界と地理を豊かに描き、命の連なりをえがく会心の異界譚。」
死んだ妻、同じ名前のやはりもう亡くなっているねえや、世界の境界がぼやけて混じって、
ファンタジーは苦手なのですが、異界譚や異形譚はけっこう好きです。
でもこういう小説は説明しにくいですね。

梨木香歩はものすごくものすごく、一番好きと言っていいくらいの作家だったのに
最近以前ほど入り込めない気がしてきました。
多分自分が変わったんでしょうね。
年を取っても、ゆっくりと、でも、どんどんかわることがあるんだなぁ。
とはいえ、今も好きな作家です。

私は暫し呆然とし、そして開き直った。
その「治水」は是が非でも必要な「治水」なのか。人間の家というものはいつの時代も、盤石の地盤の上に建てられてことなどないのだ。地震が来れば崩壊する。崩壊しないまでも打撃は被る。その上で生活する人もまた、同様である。確かなものなど何もない。人はいつもぎりぎり人の形を保っているのである。一寸揺すられれば異形の正体を現す。雌鶏頭にも犬にもなろう。子どもの体躯にもなろう。生きるということはそういうことなのである。家の治水まで知ったことか。私は今、千代に合わねばならないのだ。


「真昼なのに昏い部屋」

2016-03-18 | 本とか
不倫小説というかなんというか。江國香織さんの小説です。
江國香織さんは、若い頃はよく読んで最近はほとんど読まない作家の一人だけど
たまにお風呂用に文庫本を買うことはあります。

美弥子さんは子供のいない主婦。
近くに住む大学の先生のアメリカ人ジョーンズさんと恋に落ちます。
赤い糸で布巾に刺し子している美弥子さんの、白い小さい手。白い小さい顔、黒くつやつやのおかっぱ頭。長袖のTシャツに裾を折り返したジーンズという普段着ながら、美弥子さんは小鳥のようにかわいい人だとジョーンズさんは思います。小鳥なのに縫い物をしたりお茶を入れたり、歩いたり笑ったりするのですから、見ているだけで胸がいっぱいになります。
恋に落ちる経過の描写はとても丁寧で、多くの人の身に覚えがあることでしょう。

ジョーンズさんは自由でオープンな人ですが、
自由すぎて奥さんを束縛しなさすぎて、別れることになったりした人。
ジョーンズさんにとって、女性が自分の隣で幸福そうにしているのを見ることほど嬉しいことはありません。たとえその女性が自分のものではないとしても。……その意味でも女性を花や植物に喩えるのは当を得ていると思いながら、ジョーンズさんはお酒を一口のみました。植物は誰のものでもありません。遠い昔に、ジョーンズさんのそういう考え方に耐えられす泣きながらくってかかってきた女性がいたことを、もちろんジョーンズさんは憶えています。最初の奥さんのケイティです。……彼女はたぶん、お前は俺のものだと言ってほしかったのでしょう。

一方、美弥子さんは無垢というか馬鹿というか、世の中には自分以外の人がいて、
自分と違う考え方をするというようなことなど、いろいろとわかってない人です。
以下はジョーンズさんの友達のナタリーによる美弥子さん評。
腹が立つのは、美弥子さんがひどく無邪気に見えることでした。まるで、自分の良心には一点の曇りもないというように。ナタリーの意見では、それは誰かのーあるいは何かのー保護下にある女の特徴でした。遠い昔、自分もそうだったことを憶えています。夫だった男性の横で、いまの美弥子さんみたいににこにこしていたときが確かにあったのです。
こういう、無邪気でか細く庇護が必要な風に見えて、
恋愛すると無垢故に奔放で自由になる女っていうの、
小説の中に出てくる作家とか教授とかって、そういう女にやたら弱い気がする。

まあとにかくそういうわけで、ふたりともこの恋の何が悪いのかわかりません。

美弥子さんはあまりにぼんやりしているので、
自分の心が他の男に移ったというような自覚がありません。
夫は夫で今まで通り好きで、ジョーンズさんはジョーンズさんで好きになって、
それで何が悪くてなんの不都合があるのかよくわからないんですね。
そういう価値観を共有できる相手同士だったら、
わたしも全然かまわないと思うのですが、
旦那さんはそうではなかったので怒り狂います。
このくだりの描写では確かに旦那さんがわけわかんない卑劣な大騒ぎをするので、
美弥子さんがまともな被害者に見えるくらいですが、
まあ普通の結婚という夫婦契約を交わした配偶者なら、
この場合に怒ること自体は当然でしょうから、
そういうことが一応でもわかってない美弥子さんは無垢にもほどがあると思われます。
でも、無垢?な美弥子さんにとっては旦那さんが自分の浮気を知って怒るのは、
まだジョーンズさんと性的関係がないにしろ、あったにしろ、どっちにしても
不当な仕打ちに思えます。

この小説を純愛小説とわたしが呼ばないわけは最後の最後のところにあります。
自覚的に社会の規範に囚われない男と、無自覚で社会の規範を知らない女の、
そういうもの(世の中の常識とか汚かったりつまらなかったりするものごと)から
解き放たれた次元での自由で無垢な純愛、
と言えそうな感じでお話は進んでいくのですが、
最後のページの最後の文章で作者はそういう考え方を突き放すような、
冷水を浴びせるようなことをさらっと書きます。
特別な相手としがらみを越えて愛しあう運命の恋、みたいなのを否定して、
自由ってそういうものじゃないのだと言うみたいに。
そこで、ああ、ふにゃっとした純愛小説でなくてよかった、と思いました。

「漂砂のうたう」

2016-03-17 | 本とか
冬はいつもお風呂で本を読みますが、いろんな国や時代に行くのが楽しい。
先日もお風呂で、明治の初めの時代に行ってきました。
世の中が大きく変わって、えらく景気の悪い、不満の多く渦巻く時代だったようで、
この小説の主人公は当時ベストセラーになってた「学問ノススメ」を
世の中がこういう方向一色に変わるのか、とぼやきながら、
苦々しく眺めるのでした。
木内昇の「漂砂のうたう」このタイトル、いいですねぇ。余韻がいい。

この本の舞台は遊郭なんですけど、物語に全然関係ないことですが、
廓ですっかり落ちぶれてさっぱり客のつかない不器量な遊女が
首を吊ろうとしたけど失敗する自殺未遂の場面が出てきて考えました。
今はお化粧技術で一般人が108円で買えるようなグッズで
別人のような美女に化けることができるけど、
この時代は醜女は醜女として生きていくしかなかったのかしらん?

美人、と言ってぱっと思い浮かべる人って、美人というより
美人の雰囲気みたいなのがある人で、それを押し通せる強さがある人かなぁ、
もちろん本当に容姿の整った人というのも思い浮かべるけど。
そういう意味では今は大体誰でも美人になれる可能性のある時代かもしれません。
今ならお化粧と服やセンスでかなりどうとでもなる気がします。
わたしのお化粧は、せいぜい10分足らずの簡単なものだけど、
それでもお化粧できなかったら困るので、今の時代でよかったです。笑

そういうわけで明治10年の根津遊郭の話ですが、
主人公は遊郭の入り口で客引きのようなことをする仕事の男。
元々は武士の次男坊だった彼は、今の自分を沼の底にいると思い、
そこから出たいと思いつつもどこか投げやりで希望もなく生きてて、
その泥水の中でも凛として清らかで聡明な人気花魁を
陥れる策略に関わったりする。
世の中や周りの人々を冷めた目で見ていて、拗ねてひねくれて冷たい主人公なので、
あまりに感情移入できず、読むのがしんどいところもあったけど
最後の方の展開に、はっとして後半は一気に読みました。
ラストのあたりまで基本的に辛気臭い小説です、暗くてしんどい。
でも、いろいろと伏線があって、それが収束していくところは読ませます。
この主人公も、ねっからの悪人ではないし、
幸せになって欲しいと思った登場人物は、最後には晴れ晴れと
自分の運命を切り開くようになるので、読後感はとてもよかった。
落語と噺家が重要なモチーフとして出てくるので、
その辺はとても興味深く読みました。

ダメな噺家ポン太のセリフ。
「ねェ、お兄いさん。そんなに奪えるものじゃあないんですよ、その人の芯にあるものなんてさァ。周りが奪えるものはね、些細なもんなの。せいぜい巾着くらいなもんですよ」

小さい声で話す方が、人は注意して聞くものだというのは、
子どもを教えるときのテクニックの一つとして教わったし
生のジャズベースソロを聴いた時も思ったことだけど、ここにも。
圓朝はやはり、声を張ることはない。噺を聴こうと客の方が身を乗り出すうち、噺家の呼吸に自然と飲まれてしまうのだ。

賭博場の用心棒?のセリフ。なんかもうぼろぼろでやぶれかぶれで、
怒るべき時に怒れないダメな自分のことのよう・・・。
江戸で揉まれるうちにすべて忘れてしもうたけぇ。流されちょるうち、河原石みてぇに丸うなってしもうたわ。

明治初期の流行り唄の都々逸
よしやなんかい苦熱の地でも 粋な自由の風がふく
よしやあじやの癖じやと云ど 卑屈さんすなこちの人
よしや朝寝が好きじやといえど 殺し尽せぬあけがらす
よしやシビルはまだ不自由でも ポリチカルさえ自由なら

「終生ヒトのオスは飼わず」

2016-03-14 | 本とか
→いわた書店のお任せ選書で選んでもらった本の一冊。
もうずいぶん前に読み終わったんだけど、
ロシア語通訳の第一人者でもあった作家、米原万里さんのエッセイです。
主に飼っていた動物たちのこと。本当に動物好きだったようで
たくさんの犬や猫を保護しては飼っていたようですね。
あと、大好きだったお父様の思い出も。
脈絡なく、ぽつぽつと抜き書き。

ウサギを飼ったときに、私も痛感した。ウサギは、サイズは猫ほどだったが、何を考えているのか、どうものごとを感じているのか、サッパリ読み取れなかった。向こうもそうだったのではないか。ちゃんとコミュニケーションがとれないまま逝ってしまったウサギのことを思い出すと今も心がチクチクする。その点、猫は気心が知れているから同居しやすい。
この人のこういうところが信用できるなぁと思うところです。
猫や犬と違ってウサギの気持ちはわからないことが多いし、懐かなかったり、
いうことを聞いてくれなかったりもするので、
驕った人間には下等な生き物で頭が悪いのだと思われることが多いようです。
でもね、なんか違うと思うんですよ、それ。
頭が悪いわけではなく、考え方や感じ方コミュニケーションの取り方が
人間や犬猫とは全く違うだけのことなんじゃないかと。
そういうことをわかっている人の書き方です。しかもとてもやさしい。

だから日本に帰国したときはショックでした。…周りは受験モード、…文学史もまったくの丸暗記で、著者名と作品名と年代を覚えているのに、作品を読んでいる人はクラスに誰一人いない。気味悪くなりましたね。だって文学は国民の精神のエキスでしょう。その国を知るためにはまず文学を読めとずっと習ってきたんですよ。この国には永遠に住まなきゃいけないのに、この教育にはアダプトできないと絶望的になりました・・・。
チェコから戻った時のカルチャーショックですが、本当にそうですね。
文学ではなく文学史の授業だとしても、読まないで文学の何をわかるというのか。

父が共産党員でなければ入党する前にもっと考えていたでしょうし、入党してもすぐに脱党したと思います。父を人間として信頼していたので躊躇したんですね。結局、党に14年間いましたが、その「査問体質」を知ったのは、収穫だったと思います。無謬主義って、自信のなさの裏返しなんですね。
今でも共産主義の良さはあると思っているんです。住宅や食料、医療、教育、文化という人間にとっての生活必需品をお金儲けの対象からはずしたこと。今の日本を見ていると特にそう思いますね。

戦後共産党幹部となり代議士となったお父様は家庭では大変いいお父さんで、
大変太っていたけど、いつもゆったり穏やかで、
こどもたちのために一生懸命手品を仕入れたりお話を創って話してくれたりして
私も妹もそんな父が大好きで大好きで、幼い頃は、父への愛を全ての太っている男性と共産党へ普遍化していった節がある。……妹は小学校に上がる頃まで太った中年男に会う度に電車の中だろうと街中だろうとツカツカと歩み寄って、「おじちゃんは太ってるねえ、共産党?」という問答をしきりにやった。
お父さんが好きすぎて、太ってる男性に好感を抱くというのは、微笑ましいけど
大人でもそういうことってあるかもと思いました。
自分自身、好きな人に似た人には、好感をもちやすい気がします。

わが九条「改正」試案
1:日本国民は国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2:従って、日本はいかなる軍事同盟にも加盟せず、いかなる外国の軍隊をも日本の領域内に駐留させてはならない。
3:しかし、自国の独立と平和、安全を維持するために、自衛のための陸海空軍その他の戦力を持つことができる。
4:過去の多くの侵略戦争が自衛という名目で行われてきた歴史を教訓として、自衛についてはいかなる拡大解釈も、これを認めない。すなわち、日本の自衛戦力は、日本の領土外で交戦することはできない。

インド洋へのイージス艦派遣とイラクへの自衛隊派兵の後、2005年に書かれた文章。
アメリカ合衆国の傘下に入り属国化してきたのは、
それなりの賢明な選択だったと言いながら、面従腹背のツールとして憲法九条が
貞操帯的役割を果たしてきたのに、それを自ら進んで取り外す勢いであると
当時の政治指導者について皮肉っています。
翌年に亡くなった著者は、それから10年後の今の日本を見たら、
どんなに嘆くことでしょうね。

読書会:わたしを離さないで

2016-02-29 | 本とか
この本は以前、本も読んで映画も見て→短い感想を書いたのですが
今回、もう一度読み直して読書会に行ってきました。
今テレビでこのドラマをやってるので、この本が選ばれたのでしょうが
読書会にこられた方は映画を見た方は多かったけど
ドラマにはほとんど言及されなくて、
わたしのように、テレビを見ない人が多い会だったのかも。
以前から何度かお邪魔している会ですが、今回は1年ぶりくらいでした。

読書会では、やはりこの小説の設定の雑さが指摘されて、
受け付けにくかったと言う人が多かったです。
人間をクローンできる技術の進歩と、生きた人間切り売りの臓器売買合法という
人命軽視や(普通に判断してこのクローンを人間でないと考えるのは無理がある)
人権的更新性が共存している矛盾・・・なんか不自然で無理な感じがある設定です。
作家に筆力があるのでディテールや人の書き方は読ませるし、
映画は原作世界を壊さない、儚い美しい映像で見せましたが、
ドラマにはこの無理な設定だけしかないなら見るのはしんどいかもしれないなぁ。

小説の中に主人公の子ども時代の寄宿学校で作品交換会というのがあって、
そこでは絵画などのアート作品と同様に詩も出品されてたという場面で、
前に考えた→「詩の自動販売機」を思い出し、その話をしました。
わたしはこのアイデアが、本当に好きなんです。
本をたくさん読む人たちには共感されたのではないかと思う。

読んだあとに、沈んでしまう気が滅入るという感想も多かったです。
この小説の中の人たちが哀しいのは、生まれて死ぬまでの使命が決まってて
選択の自由がないことが考えられますが、
寿命の短さに関しては、単に短い人生が不幸なのではなく
他の人生と比較して可能性が限りなくないことの方かなと思ったりしました。
恵まれた、幸せと言える子供時代を過ごしてもなお、哀しいのはそれかなぁと。
あと彼らに関しては「死ぬ」という言葉は使われず、使命を終える、
提供を終えるみたいな言い方を必ずされてたことで
やはり同じ人間として扱われてなかったことがわかるなぁとか。

好きなシーンは、上記した映画の感想でも書いた、
なくし物が流れ着く場所のエピソードの他に、
「突然全ての雲が吹き払われ、楽しさと笑いだけが残った」瞬間が
書かれている場面があります。
「思い出すと懐かしさと暖かさがこみ上げてくる」瞬間。
「世界の手触りが優しくなった」瞬間。
そういう特別な瞬間って、わたしもいくつか思い出せる。
このエピソード読むと、わかるわかる!ってすごく思います。

逆に胸が痛いのは、終わり間近の部分で、希望をなくした主人公が
裏道ばかり選んで運転しているところ。
裏道は自分たちのようなもののためだけにあるという気持ちになって、
他の普通の人は明るい道を行けばいい、
自分たちは「世界の裏側のとりわけ暗いどこか」を走るしかないのだと
そういう気持ちになって運転しているところ。
これに近い気分というのも、やはり覚えがあります。
自分だけがついてない、つらい人生であるような、寂しいながらも
どこか自嘲気味な気分の時。
小説の主人公の場合は、わたしのような勝手に落ち込んだ状態とは別で、
本当に「普通の」人とは同じになれない中での哀しさですが。

じっくり読み返した本だけど、いろんな人の話を聞いていると
こまごましたことも、大きなことも、新たに気づくことが必ずあって、
真面目な読書会は堅苦しい気がするけど、それでもやっぱり楽しいのです。
人の話をよく聞くということが、せっかちでうっかりもののわたしにも
少しだけできるようになってきた、と思う。

talk around books

2016-02-16 | 本とか
→そうやって、ばたばた、よろよろと、たどり着いた読書会。

奈良の県立図書情報館という場所で、
以前京都の素敵本屋さん恵文社一乗寺店の店長をされてて
今は独立して誠光社という本屋さんをされている堀部篤史さんが
コーディネイターをされてるシリーズの6回目でした。
他の回も興味はあったのだけど、何しろ遠いので、第6回だけ参加。
サリンジャーの「ナインストーリーズ」やカーヴァー、ブローティガン、
カート・ヴォネガットの「スローター・ハウス5」などアメリカ文学の入門に
ぴったりのシリーズで、近くだったら全部聴きたかったなぁ。

読書会とは書かれているものの、実際は堀部さんによるトークで、
参加者同士で話をするような部分はほとんどなかったのですが、
課題本だけでなく、ミランダ・ジュライの他の本や
彼女の他のアート活動など多方面にわたってお話しされて興味深かったです。
わたしは、彼女の映画はたまたま見てたし、
前に彼女の本についてブログに書いた時にも結構調べたので
情報的にはさほど新しい内容ではなかったのですが
とてもよくまとまって、わかりやすく約2時間あっという間でした。
おいしいお茶とケーキも出ていい時間だったなぁ。

ミランダの小説には大体、イタい女性が出てきます。
勘違い女だったり、やりすぎ女だったり、おどおど女だったり。
思春期に自分も覚えがあるような、自意識過剰な無様さです。
彼女は「自意識の重さとコミュニケーションの困難さ」を書いていると
堀部さんは言ってましたが、その通りですね。
そこから一歩出るような行動をしてみても、やはり無様なままの人間を、
どの短編でも繰り返し書いています。
今の自分なら、少しモゾモゾしながらも、読むことができるけど
若い頃ならなんだか自分の恥ずかしさを晒されたように感じて
もっと居心地悪く、登場人物にも好意的でいられなかったかもしれませんね。

彼女の小説以外のアート作品もいくつか紹介されました。
The Hall Way というインスタレーションは細長い廊下のあちこちに
手書きのテキスト(指示書?)がぶら下げてあるもので、
それは日本での展示では日本語に訳されています。
ググったら youtubeにありました。これ。


英語版。こういう指示は英語の方がしっくりくる気がする。



この名刺サイズのカードもいろんな指示のようなことが書いてある。
中にはアインシュタインやシャネルの名刺の偽物?も混じってます。


この本も、やはりいろんな指示を与えてそれへの回答の写真などを集めたもの。
たとえば、5年生の時の宝物は何?とか
あなたを泣かせた映画について描写しなさいとか、
両親のキスシーンを写真に撮るとか。

オノヨーコのグレープフルーツブック(わたしには何十年も大事な本)ほど
自分の、あるいは世界の何かを壊す、という方向ではなく、
でも甘ったるいスピリチュアルな自己啓発本みたいな
自分の内面を見つめて自分を認めて愛してやりましょうみたいな安易さもない。
この本は買っちゃおうかなぁと思ってます。
でも今ググったらサイトがあった!面白い!楽しい!
→Learning to love you more

あとは、彼女の作ったアプリですね。伝言ゲームみたいな、実用性のないアプリ。
誰かにメッセージを送りたい時に、アプリに登録してる別の誰かに指示が行き、
その誰かがメッセージを届けるというアプリで、でも出会い系ではなく
なんだか不思議な形のコミュニケーションを試すものです。

ソフィ・カルやオノ・ヨーコとの類似性にも触れていましたが
表現の方法が同じカテゴリーに分類されても
中身はそれぞれ違うなぁと、わたしは思います。
ミランダは、やはりなんらかのコミュニケーションの形とその先を、
小説も含めていろんな方法で表現していってる作家です。

というわけで、小説自体への言及は多くはなかったのですが
ミランダにとって小説も、他のたくさんのアート活動のひとつ、
という位置付けだということを考えると、こういうトークになりますね。
自分の中でも、ばらばらにぼんやりと気になっていたことを
きちんとまとめて見ることができて、いいトークでした。