「明子さん、どうやら僕は、恋に落ちたようだ。」
ねじめ正一が、田村隆一の奥さんと北村太郎とのことを書いた本「荒れ地の恋」は
この荒地派のふたりの詩人と一人の女性の、どろどろ?を書いた小説。
北村太郎は若い頃、なんだかすごく好きだった詩人。一番好きだったかも。
長い間、新聞社で校閲の仕事と翻訳の仕事をしてた人で、
詩人としてはあまり有名じゃないのかな。
高校生くらいの頃、たまたま入った古本屋さんで、
たまたま手に取った詩集が最初の出会いでした。
今もたまに、彼の詩の一節が浮かぶことがある。
わたしが彼の詩集「ピアノ線の夢」を読んでいたあの時、あの同じ時期に、
彼はこんな人生を生きていたのかぁ、と不思議な気分で読みました。
どういう人なのか全然知らなかったけど、今、なるほどなぁと腑に落ちる。
一方、田村隆一はとても有名ですね。
言葉なんか覚えるんじゃなかった、と言う一節を誰でも聞いたことがあるのでは。
彼の詩集も持ってたし、好きだったけど、読みみ比べてみて、
当時は断然、北村太郎が好きだった。今はどうかなぁ。
われらの詩は神の唾液か
悪魔の唾液か・・・
田村隆一がもてたろうなというのは、たやすく想像できる。
素晴らしい詩を書きながら、ひどいアル中で、愛嬌があり、意地悪で複雑で、
過剰も欠損も含めて、抗えない引力を持つ人だったろうなと思う。
周りも自分自身も何もかも壊した残骸が、あの美しい詩になるのだろうか。
北村太郎は全く違う感じだったろう。
小柄で地味で優しくて、でもきっとストイックで難しい人。
田村隆一の妻は北村太郎と家を出ました。
結局田村隆一のところに戻ったけど。
でも3人で共同生活をしたり、田村が別の女性を連れ込んだり、
その後も元の鞘に収まったあとでも北村太郎の家にも掃除や世話に通ったり。
・・・どろどろだなぁ。
でもなんか、なまぐさい愛憎という感じではないんですよねぇ。不思議。
北村は、田村に比べるとはるかに常識人として生きてはいるけど
(長くサラリーマンだったし)心がやっぱり詩人なんだなぁと思う。
そして、田村の妻と恋愛するようになってから、たくさんの詩を書きました。
全く、詩人という生き物は・・・(わたしはつい何でも許してしまいそうになる)
しかし、それとは別に、
時代もあるのだろうけど、男どもの勝手さにはイラつきましたけどね。
一緒に買った本「珈琲とエクレアと詩人」は、その後何年も読まないままだった。
「荒地の恋」でお腹いっぱいな気分になったせいかもしれない。
でも先日風邪をひいて寝込んでいた時に、
薄くてサラサラ読めそうなこの本を、やっと手に取ったのでした。
風邪でも読める隙間の多い平易な本で、すぐに読み終わってしまった。
北村太郎の晩年をよく知る校正者の女性が、彼の思い出について書いた本だけど、
「荒地の恋」の濃度は全くなく、
慕っていた詩人との思い出が、淡々と、ポツリポツリと書かれている。
文章は素人で凡庸だしうまくもないけど、優しさのある本だなぁと思いました。
「荒地の恋」に書かれた3人の人生の、出来事のあらすじだけを追うと、
派手でアンモラルでどろどろの人間関係を想像するけど、
実際の毎日は、こんな風に過ぎていったんだなぁ、と思う本ですね。
あらすじ以外の、重要でない日常のことの方が書かれているわけですが、
なんでも、あらすじだけでは何もわからないもんだなぁとしみじみ思う。
北村太郎の詩を少し抜き書きしましょう。
もうすぐ夏なので、夏に関係のある詩から2つほど。
今読むと、自分の書く文章は、北村太郎に結構影響を受けている気がします。
まだ夏が始まらないのに
季節が終わったなと実感するのは
夏だけだと思いながら
梅雨の夜を過ごしている
時は直線ではなく
円を描きながら動いていて
それがもはや五十個以上の円になってしまった
(『死の死』より)
気がかりは
日没の
時刻だけなのだと考えながら
ねむれないからねむらずに
ウィスキーの水割りをのんでいる
がまんできない暑さの長さってほんとうにあったのかしら?
さよならといえる季節はたしかに夏だけなのだ
それが証拠に
ただいま、といって現れるのは
いつも秋
ねむれないからねむらずに
コオロギの繊細な澄んだ音と
遠くの救急車のピーポーピーポーとを
同時に聴いていて
ごく静かに降りつのってくる
雨足を見る
(北村太郎詩集『ピアノ線の夢』の『秋のうた』より)
ねじめ正一「荒地の恋」
橋口幸子「珈琲とエクレアと詩人」
ねじめ正一が、田村隆一の奥さんと北村太郎とのことを書いた本「荒れ地の恋」は
この荒地派のふたりの詩人と一人の女性の、どろどろ?を書いた小説。
北村太郎は若い頃、なんだかすごく好きだった詩人。一番好きだったかも。
長い間、新聞社で校閲の仕事と翻訳の仕事をしてた人で、
詩人としてはあまり有名じゃないのかな。
高校生くらいの頃、たまたま入った古本屋さんで、
たまたま手に取った詩集が最初の出会いでした。
今もたまに、彼の詩の一節が浮かぶことがある。
わたしが彼の詩集「ピアノ線の夢」を読んでいたあの時、あの同じ時期に、
彼はこんな人生を生きていたのかぁ、と不思議な気分で読みました。
どういう人なのか全然知らなかったけど、今、なるほどなぁと腑に落ちる。
一方、田村隆一はとても有名ですね。
言葉なんか覚えるんじゃなかった、と言う一節を誰でも聞いたことがあるのでは。
彼の詩集も持ってたし、好きだったけど、読みみ比べてみて、
当時は断然、北村太郎が好きだった。今はどうかなぁ。
われらの詩は神の唾液か
悪魔の唾液か・・・
田村隆一がもてたろうなというのは、たやすく想像できる。
素晴らしい詩を書きながら、ひどいアル中で、愛嬌があり、意地悪で複雑で、
過剰も欠損も含めて、抗えない引力を持つ人だったろうなと思う。
周りも自分自身も何もかも壊した残骸が、あの美しい詩になるのだろうか。
北村太郎は全く違う感じだったろう。
小柄で地味で優しくて、でもきっとストイックで難しい人。
田村隆一の妻は北村太郎と家を出ました。
結局田村隆一のところに戻ったけど。
でも3人で共同生活をしたり、田村が別の女性を連れ込んだり、
その後も元の鞘に収まったあとでも北村太郎の家にも掃除や世話に通ったり。
・・・どろどろだなぁ。
でもなんか、なまぐさい愛憎という感じではないんですよねぇ。不思議。
北村は、田村に比べるとはるかに常識人として生きてはいるけど
(長くサラリーマンだったし)心がやっぱり詩人なんだなぁと思う。
そして、田村の妻と恋愛するようになってから、たくさんの詩を書きました。
全く、詩人という生き物は・・・(わたしはつい何でも許してしまいそうになる)
しかし、それとは別に、
時代もあるのだろうけど、男どもの勝手さにはイラつきましたけどね。
一緒に買った本「珈琲とエクレアと詩人」は、その後何年も読まないままだった。
「荒地の恋」でお腹いっぱいな気分になったせいかもしれない。
でも先日風邪をひいて寝込んでいた時に、
薄くてサラサラ読めそうなこの本を、やっと手に取ったのでした。
風邪でも読める隙間の多い平易な本で、すぐに読み終わってしまった。
北村太郎の晩年をよく知る校正者の女性が、彼の思い出について書いた本だけど、
「荒地の恋」の濃度は全くなく、
慕っていた詩人との思い出が、淡々と、ポツリポツリと書かれている。
文章は素人で凡庸だしうまくもないけど、優しさのある本だなぁと思いました。
「荒地の恋」に書かれた3人の人生の、出来事のあらすじだけを追うと、
派手でアンモラルでどろどろの人間関係を想像するけど、
実際の毎日は、こんな風に過ぎていったんだなぁ、と思う本ですね。
あらすじ以外の、重要でない日常のことの方が書かれているわけですが、
なんでも、あらすじだけでは何もわからないもんだなぁとしみじみ思う。
北村太郎の詩を少し抜き書きしましょう。
もうすぐ夏なので、夏に関係のある詩から2つほど。
今読むと、自分の書く文章は、北村太郎に結構影響を受けている気がします。
まだ夏が始まらないのに
季節が終わったなと実感するのは
夏だけだと思いながら
梅雨の夜を過ごしている
時は直線ではなく
円を描きながら動いていて
それがもはや五十個以上の円になってしまった
(『死の死』より)
気がかりは
日没の
時刻だけなのだと考えながら
ねむれないからねむらずに
ウィスキーの水割りをのんでいる
がまんできない暑さの長さってほんとうにあったのかしら?
さよならといえる季節はたしかに夏だけなのだ
それが証拠に
ただいま、といって現れるのは
いつも秋
ねむれないからねむらずに
コオロギの繊細な澄んだ音と
遠くの救急車のピーポーピーポーとを
同時に聴いていて
ごく静かに降りつのってくる
雨足を見る
(北村太郎詩集『ピアノ線の夢』の『秋のうた』より)
ねじめ正一「荒地の恋」
橋口幸子「珈琲とエクレアと詩人」
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