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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

アート畑の人

2019-11-15 | 芸術、とか
あいちトリエンナーレの一連のことを振り返ってて、
実際に何度か行った人の展示があった時と撤去後の比較レポートを読んだりしてて、
根本的なところでモヤモヤし続けていました。
聡明でニュートラルに見える人でも、
表現の自由には大きくイエス、でも慰安婦問題にはそぉっとノー、という発言なんだよね。
展示内容に問題はあるけど表現の自由のためには展示するべき、ってスタンス。
この展示内容に問題がある=「歴史修正主義者の日本人を不快にさせるもの」は問題である
という認識ってことよね?結局慰安婦問題にはノー、ってことよね。うーん。
むしろそう言うスタンスこそが聡明ということになっているのかもしれない。うーん。
アート畑の人はすごく賢い人もそんな感じで、こっそり、がっかりしている。
わたしにはとうていわからない難しいことを、大変な知識と教養を元に話すような人でも。

表現の自由の方が賛同を得やすいのか大きな声で主張しやすい、とは思う。
でも、慰安婦問題は微妙だしどうかと思うけど表現の自由はアートには大事だからね、
という姿勢は、結局もっと根本的で大きな問題から目を背けてるだけだと思うんだけどな。
元々の歴史問題、人権問題をスルーして、単に表現の自由イシューにしてしまうのって、
慰安婦問題は問題であるというのを既成事実のようにしてしまうところもあって
それって歴史修正主義に加担することになっちゃうと思うんだけど。

そういう人たちにもやもやしていたところで、東京藝大の元学長、文化庁の宮田長官。
この人が、あいちトリエンナーレに関しても、ずっと黙ってた末に弾圧側として発表をして
仮にも東京藝大の元学長が、まさかそこまでひどくはないよね?という思いを砕かれた。
東京藝大に、私個人はなんのしがらももないけど、日本でただ「芸大」といえば
この学校としか思われないほど、日本の芸術アカデミズムの中心で頂点であるわけで、
芸術が好きで好きでやりたくてやりたくて、芸術のために死ねるくらいの気持ちで
死ぬ努力をしてそこに入ったはずの人やその周りにいる人たちが、今、怒ってくれれば
わたしもまだまだスッキリするのだけど、どうもそういう声を見ない。
むしろ、この人はいい人なんだとか板挟みで苦しんでいるはずとか庇う声ばかり耳にした。
わたしもそれでしばらくは板挟みは確かに辛いしな、と思って様子を見ていたけど
結局わかったのは、はっきり、この人は単なる政権の犬だということです。
権力の手先。そんな者に芸術をどうこうする資格はないと思うくらいの、腐った犬。
(罪のないわんこたちごめんよ)
基本的に激しい言い方をかなり避けるわたしが人に対して腐った犬とまで言うのは珍しいよ。
それだけ裏切られた思いがつらいのです。心からがっかりしたし怒ってる。
宮田文化庁長官が、文楽のパンフレットに書いてる挨拶文を見ても、よくわかる。
権力の犬以外何者でもない。この人を擁護してた藝大関係者の甘さを改めて感じた。
というかこの人を批判しない藝大にはもう、裏切られた感しかなくて、余計腹たつ。
権力の犬だった人で優れた芸術家っているんだろうか?
反語的表現ではなく、普通の疑問。いるのかな?

あいちトリエンナーレの問題で、わたしが一番怒っているのは実はこの人に対してです。
馬鹿なだけの河村名古屋市長なんかより、この人の欺瞞の方が許せないのです。
それでもこの人をかばうなら、
もう日本の現代アート界に見るものなんかないわ、とやけくそになるほど残念。
心を権力に売り渡した政府御用達の芸術なんか、滅びればいい。
お金と権威で磨かれたきれいな服できれいな場所で腐った作品を褒めていればいい。

人権問題や歴史を振り返ることに背を向ける人や、表現の自由より権力に媚びる人たちの
アート畑なんか、ほんとうにどうでもいい。わたし忘れないからねこれ。

ルート・ブリュック展

2019-10-19 | 芸術、とか
いつもの伊丹市美術館の展示で、これは素晴らしいよと人に勧められてて
わたしが見た後も何人かの友達が見に行って褒めてた展示。

これはポスターになってるライオンに化けたロバ、だっけ?

まず2階に初期の作品があります。
ルート・ブリュックはフィンランドの陶芸家。

元々は建築家を志していたそうですが、ごく初期の作品はナイーブで素朴な詩情。
日常的なものもモチーフになっています。



それからイタリアの家とか。












それから宗教的な作品とか。これは最後の晩餐だっけ。

ノアの箱舟かな。

この辺までの作品は、東洋陶磁美術館のフィンランド陶器展にあった陶板作品に似てますね。

地下の展示は写真はダメとのことでしたが
一階に展示してある小さなタイルを並べた作品で、地下の作品の雰囲気がわかるかも。





地下の展示室の入り口。


実を言うとこの地下の部屋の、後期〜晩年の作品を見るまでは
特に深い感銘もなく、ぼーっと気楽に見ていたのですよ。
フィンランド陶芸という、なんだか北欧おしゃれなふんわりしたイメージのままに
素朴で温かみのある作品ね、はいはい、って感じで。
でも地下の部屋の蝶のタイルのきれいさにため息をつき、さらに晩年の抽象度を高めた
細かいタイルの作品に、わー!なんだこれは!すごくいい!となったのでした。
好きなタイプの現代アートだと思ったし、美しく丁寧で芯がありクールながら手触りがある。
(実際は作品には触っちゃダメですよ。人の手を経てる感触が見られるということです)
彼女の人生は、割と恵まれたものだったようで、こういう場所に生まれて
こういう人生を送りたかったなぁと、羨ましい気持ちで大きな作品の前に佇んでいました。

写真と造形

2019-10-11 | 芸術、とか
ワカモノばっかりの店でポツンとビール飲んで休んでたんだけど、ワカモノ怖い。
外国にいるより心細いぞ、ワカモノだらけって。ワカモノって怖いものなさそうに見えるし。
地味な人間なので、若くて元気な人やおしゃれな人が怖いのです。
あ、でも友だちは派手な人も多いけど、友だちは怖くないな。だって友達だもんな。
そういえば学生時代の昔から、自分は地味なのに友だちは派手な人が多かった。
なんしか、ぼーっとするにはワカモノたちが怖すぎたので
次の予定までに小一時間、ビール飲みながら本をざざっと勢いよく一冊読んだ。

写真家の本。
ああ、まだ一眼レフも持ってない頃、写真のことを何も知らない頃に読んだ本だなぁ、
こういう気持ちも忘れてたなぁと、自分のその頃の写真への気持ちを思い出す。
そしてそのあと、その人の話を聴きに行ったのです。
知り合いのギャラリーで、その写真家と画家の2人展をしていたのでした。
トークは面白く、その後ギャラリーでのパーティでもたくさんお話伺って、
さらにそのあと飲みに行った店にたまたまいらしたのでまたご一緒させてただいた。
本の印象より、エネルギッシュな人だなあ、モテるだろなぁ。というのが一番大きな印象。
そして写真が本当に好きなんだなぁ、楽しんでいるなぁというのはよくわかる。
そういう人は好きです。非常に魅力的な人であった。
でも本当に弱い者の側のことは、わからない人だろうなぁと、ちょっと思う。
明るいところにいる人だから。まあ、そのほうがモテるし成功もする。

ここ何年か、写真家や小説家、翻訳家のトークは意識的によく行くようにしてるけど、
この日はもう一人の画家というか、造形のアーティストとのトークだったので
その方の話も聞いたのですが、手で実際に物を作るアーティストの話は久しぶりで、
なんだかすごく手がムズムズした。作りたい。描きたいなぁ。体の中からムズムズする。
(ちなみにこちらも大変素敵な方でした。そしてどちらもよく喋る!)
写真は好きだけど、どんないい写真見てもこんな風にムズムズはしない。
でも白い紙にたっぷりの絵の具を一筆するっと塗る動画を見るだけで、全身ムズムズする。
梅干し見て唾液が出るのと同じくらいの、身体反応です。
表現じゃなく、もっとプリミティブな、描くこと、塗ることへの衝動が
自分にはあるんだなぁと、つくづく思った。

ギャラリー風
中西學・菅原一剛 展
Both Sides Now

東洋陶磁美術館:フィンランド陶芸

2019-10-02 | 芸術、とか
「フィンランド陶器とマリメッコ・スピリッツ」展ですね。

日本人、マリメッコ好きよね。大体、音がかわいいのよね。マリメッコ。
わたしはなんでも、パ行の音が入るとかわいい感じになると思っているのだけど
マリメッコのかわいさの原因は、まずは「ッコ」というところだと思う。
追いかけっこ、見せ合いっこ、わけっこ。「っこ」はなんか優しくてかわいいのよ。
それにマリというちょっとフェミニンな柔らかい音がついて、そりゃ無敵のかわいさ。
フィンランド語ではマリちゃんのドレス??やっぱりかわいいやん。笑

昔息子に教わった、東京カランコロンという人たちの「マリメッコとにらめっこ」

この出だしのなんとも言えない脱力した音とサビのところが頭に残って
マリメッコと聞くと無意識にこのサビを口ずさんでしまう。笑

東洋陶磁美術館については何度か書いてるので省略。
陶器についてもよくわからないので省略で、写真だけアップします。
去年くらいから写真撮影オーケーになったので、スマホやカメラで
写真撮ってる人も多いですがよっぽど混んでないとあまり気になりません。
スマホより音のしない小さいコンデジカメラで撮ってきました。
まずはフィンランドの陶芸。











フィンランドの?猫。うちの猫もこんな顔のときある。

陶板の作品。ポエジー。ヨーロッパの童話の世界。



それからマリメッコお姉さん?







デザイナーのノート。こういうの見るの好き。



マリメッコ茶室




そしてアジアの常設展示たち。何年もかけて何度もあってるので馴染みの仲良しさん、のつもり。








「世界を変えた美しい本」展

2019-09-21 | 芸術、とか
チケットをいただいてたので最終日に駆け込み。京都の細見美術館です。
インドのタラブックスという、手作業でそれは美しい本を作っている出版社の本たち。
上映してたドキュメンタリーで、本当に手作業で作っているのに見入ってしまった。
美術館サイトより:タラブックスは、インド南部のチェンナイを拠点とする出版社で、 1994年の設立以来、子どもや大人向けにハンドメイド本やビジュアルブックの出版を中心に行ってきました。そのジャンルは児童文学、写真、グラフィックノベル、芸術、美術教育と多岐にわたります。 インド土着の人々や各地に伝わる芸術を取り上げ、 他に類を見ない試みで、 民俗画家たちの作品を初めて本にしたパイオニアと言えます。
タラブックスが本を製作するにあたっては、内容やデザインはもちろん、印刷や製本の方法に至るまで、編集者、作家、画家、デザイナーや印刷職人が意見を出し合うチームでの本づくりにこだわると共に、本のかたちの可能性を学び、追及し続けています。その結果、デジタル隆盛のこの時代に、紙の本に人々の関心をむけることができました。
是非、この機会にタラブックスの出版社としての社会的取り組みに注目し、その美しい本の魅力に触れてみて下さい。

展示は写真撮影オーケーだったので何枚か撮ったものをアップします。
まずこれはチケットの絵の本

数の絵本

これは鹿のなんとか(名前忘れた)のシリーズ?





独特な感じの猫がかわいい。

赤と黒でモダンな雰囲気のものもあった。



木や葉っぱの絵も好き。







海の生き物たち



舞台「チェーホフも鳥の名前」

2019-09-20 | 芸術、とか
ニットキャップシアターの舞台「チェーホフも鳥の名前」
時間が全くなくて諦めてたのに、週末に見た友達に好きと思うと勧められたので、
無理やり午後休にして最終日に見ちゃった。
3時間の長いお芝居だけど、すごいおもしろかった。
たまってる仕事置いて観に言った甲斐がありました。

1890年に30歳のチェーホフがサハリンに来た事実を中心に、
19世紀末から20世紀のサハリンを舞台にいくつかの家族の何世代もの話が繋がる。
何冊もの大河小説を読みきった気分。
ロシア、ソ連、日本、サハリンの原住民、日本人にされて連れてこられた朝鮮人など
歴史に翻弄される多様な存在と個々の視点をうまく一つの大きな流れに載せてある。
演奏される生の音楽もとてもいいけど、ラストのエモい音楽と古い写真の
スライドショー的なやり方は、盛り上げ過ぎて泣けてずるい。

去年だったか渡辺美佐子さんの、サイパンの日本人の話の舞台を少し思い出す。
(感想→「サイパンの約束」)
サイパンもサハリンも、日本がイケイケどんどんで自国の領土にした後、戦争でまた失って、
その間に移住した日本人や振り回された原住民、
日本人にされながら都合よく働かされながら戦後放置された朝鮮人などに
数多の物語のある土地であるところは共通点があるよね。
一昨年くらいに見たチェーホフのカモメを意欲的に翻案したお芝居もすごくよかったし、
(感想→「カルメギ」)
無理しても舞台ももっと見なあかんなとつくづく思いました。

日本の戦後のあり方、犯した加害への無自覚さ、無反省さや歴史修正的な姿勢に批判的な人には
迎合的と思われるかもしれないけど、(いやわたし自身もそこは同様に批判的なのですが)
わたしはやっぱり、「この世界の片隅で」のすずさんは好きだし、
サハリンやサイパンで必死で生きた日本人たちにも共感してしまう。
それはそれとして、そこでさらに差別されていた原住民や併合されて日本人にされたり、
もう日本人じゃないと置き去りにされたりした朝鮮人たちにももちろん心を痛める。
そこで思うのは、誰も殺さず痛めつけずなんとか必死で生きてきたただの市井の人であるならば
自分がどっちの立場だったかなんて、たまたまのことでしかないんじゃないかということ。
わたしは加害の自覚もないまま必死で戦時を生きた日本人のすずさんだったかもしれない、
わたしは日本に奴隷のように扱われた植民地の朝鮮人だったかもしれない。
そう思うとそのどちらにも共感をしてしまうことも仕方ない。
そういう気持ちで、お芝居の中では表立っては対立することのない立場の違う人々の、
それぞれのいろんな部分に、共感しながら見ました。

お芝居の中に、登場人物が飼っているシンゾー丸とプーチン丸という犬が登場しました。
それぞれの特徴を皮肉っていて中々笑えましたが、
こういうのって映画だと、今はもうやりにくいんじゃないだろうかと少し思った。
わたしは映画に比べると演劇は全然見ていない方なのだけど、
カンヌで大賞を取った素晴らしい韓国映画でも、今の嫌韓日本では上映が難航するという
権力に媚びへつらい、批判も反抗もなくしつつある日本の映画業界を思うと、
舞台人の中には、日本の映画人よりまだ良心がたくさん残ってるのかもしれないと思う。
たまたま、わたしがそう言うお芝居を見ているだけなのかもしれないけど。

あと、中身だけでなく、このタイトルの良さ!
チェーホフはもちろん大作家の名前ですが、サハリンにある町の名前にもなってるのです。
日本語では野田町という町でした。
でも鳥の名前ではない。それでも、このタイトル。イメージの広がるいいタイトルだなぁ。
チラシの写真とデザインがまたこのタイトルにぴったりでとても印象的だった。


追記:後日もらった友達のコメントがとてもまとまっててわかりやすいのでコピペして貼ります。
「チェーホフも鳥の名前」も、「サイパンの約束」も、「カルメギ」も、歴史を、国籍や人種を離れて、それぞれの個性を持った一人の人間が立っている位置から描くという点で共通してますよね。
後期の劇団維新派の舞台も、島並みをたどって南方へと行きついた日本人を描いていましたが、視点は同様でした。
大きな物語から見れば、侵略する側と侵略される側に二極化されてしまうのでしょうけど、個々人レベルの小さな物語を丹念にひもといていくなら、世界はそんな単純なものではなく、一人一人の人間は皆、さまざまな濃淡の上に存在しているんだなぁってことが感じ取れます。
映画であれ舞台であれ、そんなことに気づかせてくれる作品が、いつも気になりますね(^-^)

子供の絵と美術史

2019-08-24 | 芸術、とか
ニューヨークのメトロポリタン美術館で、子どもたちの絵を展示、という記事を以前見た。
かわいい、楽しい、素敵〜、というのとは別に、
これは、アートってなんだろうと考える良い機会を大人たちにも与える企画だなぁと思う。

おそらく世界中に大勢大勢いる多くの芸術家たちが、
どんなに実力や才能があっても中々辿り着けない超有名美術館の壁に、
なんでもない子どもたちの絵が掛けられて、世界中から見られるわけです。
作品には、上手い下手などの技術や才能、現代の美術の文脈の問題や知識、
教養の差などはあるでしょうが、小ごくさい子の無邪気な作品でも、
先入観なくひとつの作品として見たら、大人の作品と比べて遜色ないと思われることも
見る人によるとあるかもしれない。
特に美術を志しているわけでもなんでもない子どもの絵が、
何億円の絵と同じように展示されるのって、
そして値段を離れたその価値について考えさせるって、
すごいことなんじゃないかって思う。

現代美術を考える時、美術史やアート市場の事抜きでは考えられないことがとても多い。
素晴らしい作品でも、値段を聞くと腰を抜かすような金額がついてて
それがまた知名度を上げ、結果的に美術史に残る文字が大きくなり、
そうやって残って行くものが歴史を作りその先にその時々の現代が乗っかる。
でも子供の絵には、そういうものが一切ない。すがすがしいなぁ。

芸術ってなんだろう、美術館ってなんだろうと考えながら見てみたいものですね。

舞台:箱庭弁当

2019-07-23 | 芸術、とか


身体障害者だけの劇団、劇団態変の舞台。初めて見た。
30年以上やってるということで、素人が見ても内容はこなれてるけど、
手足のない人が、転がりながら這いながら舞台を横切るのを
長い時間じっと見てるみたいな場面も多くて、
どういう見方をしたらいいのか、見終わってしばらく混乱してた。

上演後のトークは気鋭の政治学者白井聡さんがきたけど、すべりまくってましたね。
でも、かみあわなさが、おかしかった。
ポリコレを気にしながら、障害について当事者たちを前にどう語ればいいのか
慣れてなくてよくわからない上に
アートとしてどう受け取ればいいのかも決めかねて、
それなのにまともなことを言おうとして、中身の軽い話になってしまった。
とはいえ、その中でも、言ってることは普通で真っ当ではあった。

ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)の「楽日」という映画を思い出しました。
寝て起きてもまだ同じシーンという観客に結構な忍耐を要求する映画で
「箱庭弁当」では演技というより動き、パフォーマンスなんだけど
どちらも観客に時間をかけてじっと見ることを要求するのだなと思った。

いつもはもっと物語のないパフォーマンスらしいのですが、
これは全体的にはファンタジーなストーリー的なものが少しあります。
お弁当箱から逃げ出したおかずやおにぎりの・・・えっと、なんだろう?
やはりはっきり辻褄の合う筋はなくて、
冒険もあるし、記憶や追想もありそうだし、いくつかのイメージで構成されています。
これはチラシの裏。

あと、生演奏の音楽が素晴らしかったです。

クマのプーさん展

2019-07-18 | 芸術、とか
ディズニーの大体のものが苦手で、プーさんも好きじゃないけど、
オリジナルのプーさんはすごく好き。
コブタの小さいぬいぐるみ(もちろんディズニーではないやつ)は好きすぎて
3つ同じものを持ってる。
原作の挿絵はもう、じたばたするくらい好きなので見に行きました。混んでた。



そして、その混んでる美術館で、プーさんの小さい原画を前に、
ろくに絵も見ないでお互いのことしか考えてないカップルが微妙に立ち止まってると、
とても邪魔です!いや、ほんとそういうカップルがすごく多かった。
(ひがみじゃないよ!・・・多分。笑)

入場に並んでる時の後ろのカップルの会話。
女「デート久しぶりやな〜」
男「ほんまや。USJ以来やな。中々会われへんなー(不満そうに)」
女「ん?なんか文句あるー?」
男「あるわ!なんでもっと会われへんねん」
女「今日は洗濯するからあかんとかそっちも言うやん。それはどうなん!?」
男「おれのせいか?なにゃそれ。あーもー!汁かけるぞ」
女(笑いながら)「なんの汁やねん」
男(笑いながら)「ふふん」
そしていちゃちゃな雰囲気に・・・

あと、子供の頃に好きだったプーの思い出話をかわゆく話している女子が複数いた。
「この地図覚えてるぅ〜!」男子は目を細めて聞く。
聞くのはいいけど小さい絵の前に立ち止まるなっちゅうねん!(ひがみではありません)

そして原画は基本的に鉛筆の小さい絵で点数も多くはなく、
確かによかったけど、あの混んでる中でそれを見るより、
家で自分の本の中の挿絵を見てる方がいい気もしました。
でもまあ、好きだから見に行くけど。

芸術の役割

2019-06-27 | 芸術、とか
ブライアンイーノの記事で、芸術の役割みたいなのがあって、概ね同感でした。
アーティストとしてはかなり冷めた発言で、芸術の社会に対する役割の限界を
淡々と語っています。
→リンク「ブライナン・イーノ、現代のアートやカルチャーはその意味が取り違えられていると語る」

>芸術や文化が、こうした意味でとても重要な働きをしてきた一方で、「アートとは別にやらなくてもいいことのすべてを意味している」とブライアン・イーノは述べ、生活していく上では二次的なものに過ぎないと説明しているが、こうしたアートの基本的な性格が最近ではどうも取り違えられやすくなっていると指摘している。
>「その一方でアートというのは、あればとてもいいものなのですが、言ってみれば贅沢品や趣向品みたいなもので、しっかりした仕事場でみっちり働いたあとで、帰宅して息抜きにやるようなことなのです。ですから、芸術や文化をまるで経済行為に繋がるものとして考えるのは新しい発想だということです」

芸術はおやつみたいなもので、なくても生きていけるとわたしも思ってる。
パンより理想!といえる人は、ものすごく強い人か、パンに困ったことのない人か。
でも自分の美大卒業式で学長か誰かが、いや芸術には力があると言った言葉は
軽んじたくないなぁとは、やはりずっと思っているのです。
パンこそが必要なものであっても、理想にも力があると信じたい。

そして美大の卒業式から10年近く経って
やっぱりまだわたしは長田弘さんの詩に、結局、強く共感している。

>パンのみにあらずだなんて
>うそよ
>パンをおいしく食べることが文化だわ。
>まずパンね、それからわたしはかんがえる。


これは戦っている人への言い訳でしかないのではないかと思いながらも、
美味しいものを作っていいお酒を飲んで、自分の人生をまず充実させてしまう。
パン大事やで。まずはパン!と。
いや、わたしの呑気な楽しい晩酌ではなく、もっとそれが必要な人の、
心や体が飢えている人のパン。それが一番大事なはずですが、
でもとりあえず、わたしはわたしの一日を充実させる。
それはそれでいいのだと今は、頭では考えているけど。
だから、
長田弘さんの詩の「それからわたしはかんがえる」というところが好き、
それから考えればいい。考えよう。考えるのをやめないようにしよう。

ゴヤ 理性の眠り

2019-06-26 | 芸術、とか
ゴヤ 理性の眠り「ロス・カプリチョスに」見る奇想と創意。
半年前に見た展示なのですがちょっとメモ。
これはこの美術館の収蔵品展なのですが、ゴヤの版画をまとめてゆっくり見て、
動物テーマの俳句の展示で応挙や若冲の軸などを見て、楽しかった。

ゴヤは、「裸のマハ」や「我が子を喰らうサトゥルヌス」なども有名な宮廷画家ですが
わたしにとっては「マドリード1808年5月3日」という
スペイン戦争で銃殺される人の絵の画家です。

美大時代に美術史カードを作るときにゴヤではこの絵をざっと写し取って描いたので
今も一番印象に残ってるのですが、ゴヤの銅版画はあまり見たことなかった。
版画はさらに、批判と皮肉の作品で、
政治や愚かな人間、腐敗した社会や教会を皮肉な目で風刺していて、
よっぽど反骨精神の強い理想の高い人なのかと思えば、
実はゴヤ自身は結構保身もする、名誉やお金の欲も強い、子供は甘やかしてダメにする、と、
自分に都合のいい中途半端な生き方をした男だったようで、
理想や思想があっても、勝手でわがままでダメな部分もあったのだなぁ。
こういう時代の男って、そういうものかもしれません。

版画自体は、素晴らしいものです。デッサンのうまさ、黒と白の対比の鮮やかさ、
構図のオリジナリティとモダンさ、そして人の一番いやらしい表情を捉える才能。
添えられている文章も含蓄に富んで面白いのですが
全体に暗く重くグロテスクな風刺に満ちていて、家に飾りたいとは思わない作品ですね。

伊丹で飲むのは好きなので、伊丹市美術館の帰りは飲んで帰ることが多いです。



この日も3軒くらいハシゴしました。美術館とお酒のはしご。いい組み合わせ。

デッサンの正解

2019-04-15 | 芸術、とか
絵のデッサンと写真のこと。辻褄合ってないけどぼやぼやと考えたこと。
写真は、シャッターを押せば上手下手はあるし、
構図やフレーミングの問題はあるけど
デッサンのできを問われることはない。

写真がどんなに作り込むものになっても、デッサンのセンスはいらないけど、
絵はそこから難しい。
アマチュアの絵は、いやよく見たらこの形にはならないでしょ?という
デッサンのおかしいものが時々ある。
デッサンは、必ず完璧に正しくあるべきというのではないし、下手でもいいかな、
センスがあったり辻褄が合っていたりすれば、下手でもいいかもしれない。
とはいえデッサンって正解を求めやすいのか、求められがちだし、センスもいる。
写真はそれクリアしたあとからのスタートだもんなぁ。
普通にシャッタを押せば撮れるので、壊していく作業ばかりする人もいるだろう。
絵は壊す前に作らないといけない。

写真というものがすごく好きだけど、
やはりどこかで絵の方が好きだし上だと思っているのかなわたしは。
上下なんかないのはわかっているのにね。

「悪童日記」の本と舞台とトーク

2019-03-27 | 芸術、とか
時々行く読書会で、課題本が「悪童日記」でその原作の舞台を見て
演出家のトークを聴くという会があって、3月初めに、お休みをとって行ってきました。
「悪童日記」は映画だけ見たことがあったので、本を買ってみましたが
するすると読めて、もっと難しい感じかと思ってたのに全然違って驚いた。
そして本の文体や中身も、映画を見てお話は知ってたのに、驚いた。これはすごい。
非常にユニークで現代的。舞台は第二次大戦下のハンガリーを想定してあるのだけど。
そして、映画も良かったけどこの小説の凄さは、全部は表せてないなと。
とにかく読んでほしい。好みは分かれると思うけど素晴らしい文学です。

舞台は、「サファリ・P」という劇団?の公演。
演劇に暗いので、サファリ・Pのことを全然知らなかったけど、いやはや面白かった!
原作では作者は母語でないフランス語で書いていて、
しかも一般的な感情を排したり主観を厳しく制限したりしていて、
簡潔に事実だけを述べるようでありながら、いびつで不思議な文体なのですが、
そういう文体の面白さを舞台にすることを目指したと書かれています。

小説は双子の日記の体裁なのですが、たとえば「僕らは〜が好きだ」とは書かず、
「僕らは〜をたくさん食べる」と事実だけを述べる、と書かれています。
それくらい徹底的に感情や主観を排したら、やはり不思議な文体になっていくのです。
その舞台化ですが、舞台ではなんと俳優に固定した役が当てはめられていないのでした。
五人の役者さんが登場しますが、くるくると役がかわる。
そして何人かの俳優さんはダンサーでもあって、ダンスの場面も動きが素晴らしい。
すごく面白く見たのですが、これ、物語を知らない人が見たら
どれくらいわかるんだろう?というのが、すごい疑問。
誰が誰で何を言っているのか、混乱したままかなりのスピード感で
疾走していくような舞台は、話を知らずに見たらどんななのかな〜と。
それはそれで、全然違う見方になって、面白いのだろうか?すごく気になる。

昼にお芝居を見て、夜にはその脚本演出をされた山口茜さんと
ハヤカワ文庫の編集長の方とのトーク。
舞台の後の、疲れ切ってはいるものの高揚した感じの演出家の方のお話は
舞台の熱気の残り香のような、ライブ感がありました。

この日は、お芝居の後、若い友達の現代アート系の個展と、



京都国立博物館の斉白石の中国画も見にいって
すごく充実した日だった。
斉白石の絵は、わたしがマレーシアで習っていた水墨画の先生を思い出させて
懐かしくて懐かしくて、感傷的になるほどだった。
特に植物の、葉っぱや花の、線、色、筆使い。
先生お元気かしらん。先生の絵も人柄も好きで楽しかったなぁ。

小林一三と旅の土産

2019-03-14 | 芸術、とか
少し前ですが、池田の逸翁美術館で「西洋ちょこっとアンティーク」展を見ました。
ここは阪急電鉄や宝塚歌劇創始者の小林一三の個人美術館で、こじんまりしている。
所蔵品も、個人のものとしてはもちろん潤沢ですが、
美術館としてはやはり特別多くはないので、時々行くと、前に見たものもある。
でも、それもまたいいんですよね。馴染み感があって、うれしい。
毎回、こじんまりとした規模なりにいろんな切り口の企画を考えていて
わたしは結構好きです。

今回は、その小林一三が洋行したときに買ってきたものと日記などの展示。
1935年だったようで。一年くらい欧米をぐるっと回るような旅でした。
1910年代、箕面有馬電気軌道(阪急宝塚線)を開業し、宝塚少女歌劇(宝塚歌劇)の公演を始めた小林一三。1920年代には宝塚ホテル・阪急百貨店を開き、洋風の生活スタイルを関西にも広めた。そして1930年代、東京宝塚劇場や各地の映画館を次々に開場し、最新の娯楽で人々を楽しませていた。
 そんな「昭和モダン」の真っ只中、1935年、小林一三は初めて欧米へと外遊する。電車や歌劇など、大正時代、既に西洋の文化を自らの仕事の一部としていた一三であったが、実は自身では欧米の実状に触れた事が無かった。その1年間に及ぶアメリカからヨーロッパを巡る旅の途次、一三は各国の美術館・博物館を訪れ、また各地で様々な美術工芸品を買い入れている。陶磁やガラスの器、扇や手箱などの装飾品に至るまで、品目は多岐にわたる。ところがアール・デコなど同時代のモダンな製品よりも、むしろ歴史や伝統を感じさせるアンティークといえる品物に、一三は関心を持ったようだ。
本展では、日々の旅行記とともに、外遊記念として持ち帰った品々を展示し、当時、小林一三が抱いていた西洋文化に対する想いをたどる。
(美術館サイトより)

買い物旅行のように色々買ってますが、欲にはきりがないとぼやいていて親近感。
あと、欧米の建築や技術や文化の厚さに何度も感嘆して、日本はまだまだだ、
これから追いつかないといけないというようなことも書いています。
その後、愚かな戦争に突き進んだ日本を、どのように見ていたんでしょうね。
勝てるはずないやろ、とあきれて突っ込んでいたかなぁ?

「けり」と違和感

2019-02-21 | 芸術、とか
俳句の「けり」は照れくさいと友達が言ってて、
そう言われればそうかもしれないなぁ〜、なるほどなぁと納得した。
普段使わない「けり」には確かに違和感がある。
それを、恥ずかしいと感じるのは奥ゆかしいというかセンスがあるのだなぁ。
でも、わたしは、がさつさと、言葉に対して素人である気楽さのせいか
その違和感を、非日常でおもしろいとしか思ってなかった。

普段使わない言葉を使うのが面白いということは、わたしには時々あって、
いっとき「〜あそばせ」とか「いまそがり」みたいのがツボだったりして、
古い言葉から近代の東京弁まで、何かの言い回しや語彙にひとりハマることがある。
SNSなどで間違ったいい馬渡や文法で使いちらして無知を晒してしまいますが。笑
結局、違和感というものは、わたしには面白いんだと思います。

言葉といえば、この前見かけた英語の形容詞には並び順規則があるみたいの、
受験の時には覚えるんだろうけど、そういわれれば気にしたことがない。
間違ってもさほど困らないから覚える気にならないせいかな?
だから正確に覚えているわけではないけど、
実際は、もし間違ってるとなんとなく座りが悪い気がするし、
自分でしゃべる時もそんなに間違ってないと思う。
なんとなくこっちかなーと思ったのが合ってることが多いです。
そんな風になんとなく言葉を勘や馴れや雰囲気で使っててなんとかなってると、
逆に、たまに違和感のあるものをわざと使うのが楽しいのです。
それで俳句が好きなのかもしれないな。