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sigh of relief

くたくたな1日を今日も生き延びて
冷たいシャンパンとチーズと生ハム、
届いた本と手紙に気持ちが緩む、
感じ。

没後50年 藤田嗣治展

2019-02-05 | 芸術、とか
勝手にあちこち動いたあと、夕ご飯の約束があるのって、いいな。
移動や行動は一人が好きだけど、ご飯は人と食べると美味しいし楽しい。
旅も、勝手に行って、夕ご飯だけ美味しい店で待ち合わせ、というのが最高です。

去年ですが、京都国立近代美術館での藤田嗣治の展示を各自勝手に見た後、
時間を決めて集まってご飯食べながら話そうというのに出かけました。
もともと写真の先生や友達仲間で、気の置けない人たちで、とても楽しかった。

藤田嗣治の絵は嫌いじゃないけど、知れば知るほど、
男って、恵まれた人って、ほんとお気楽よねぇ・・・という意地悪な気持ちになってしまう。
彼には彼の、芸術家としての苦悩も人としての苦悩もあったのはわかるけど、
でも、お気楽よねーと、やっぱりしつこく思う。

フランスではちやほやされ、帰国したら戦意高揚絵画を描き、名誉職につき、
尊敬され大事にされ、戦後も過ちを認めず謝らないまま、
責められるのめんどくせーって感じでフランスに行ってフランス人になっちゃって、
洗礼を受けて、マリアの左右に修道士姿の自分たち夫婦がいるという絵を描き、
もう全て許された気持ちでいたんだろうなーと思うと、ほんと勝手で都合がいいなぁと。

彼の戦争賛美は特に右翼的な愛国心というわけでなく、戦争に酔ってたというわけでもなく、
戦争は勝つと信じてたらしいので、その上でちょっと時事的な硬いこともしてみよっかな、
裸婦とか描けないご時世だしな、ってノリだったのかもしれませんが?
無理に描かされたわけでは決してなく、自分から描いてたわけなので、
やっぱり擁護する気にはなりませんね。侵略戦争を賛美して最後まで謝らなかった人。

そういえば、猫好きのフジタは、猫っぽいといえば、猫っぽい。
自分のことしか考えてないし、その時々で都合のいい居心地のいいところに動いて
なんら恥じるところがなく自分の苦悩と喜びの中だけに生きる。
まあ芸術家ってそういう自分のことしか考えない猫みたいな人でもいいと思うけど、
猫は戦争しませんからね。
ましてや侵略戦争をや。だな。

というような話をまくしたててした気がする。
彼の才能には感服してるし、絵も好きだし、彼の展示は何度も見てるし映画も見たし
ブログにも何度か書いてるんだけどね。
→FOUJITAと小栗監督トーク

舞台:サイパンの約束

2018-12-15 | 芸術、とか
2時間半休憩なし。情報量多くて消耗しますが、面白かったです。
確か最近も、人権なんていらないみたいなことを言った政治家が与党にいましたが、
まさにそれを体現していた戦時の日本のサイパンが舞台のお芝居。

サイパンの生き残り女性の手記を元に映画を撮るためのワークショップという、
劇中劇的な作りです。
サイパンに移住した人は、内地の人に差別され2級国民扱いだった沖縄の人がとても多く
現地の人はもちろんさらにその下。
サイパンにいた人たちも、沖縄と同じように道具にされ見捨てられる被害者だけど、
その一員が、反戦思想を持ち正しいことを伝える人を殺す加害者にもなる。
国も軍も個人も、ある局面では被害者であっても別の局面では加害者であるし、
家族や人間関係上の個人も同様で、どこをどう切り取っても
勧善懲悪の物語などないのが現実なんだなあと思いながら見ました。
情報量が多いと書いたけど、構造が複雑で重層的になっているので、
見ている最中にはすぐに理解できないところが多く、必死でついて行く感じでした。
声高な主張はせずに、現実の複雑さを整理せずに
容赦なく舞台に写し取っている見応えのあるお芝居でした。

戦前戦中にサイパンにいた女性の書いた手記を映画にするために、
現代のサイパンに昔のサイパンの舞台セットを組み、その作者女性を交えて
ワークショップをしていく中で、彼女が取り戻していく記憶の景色が
次々と再現され演じられていき…
米軍との激戦、日本軍の玉砕。
タッポーチョ山のゲリラ戦、バンザイ・クリフでの集団自決。
そして、東京大空襲・原爆投下の爆撃機は、ここから飛び立った──。

太平洋の小さな島、サイパン・テニアンが日本領だった、二十九年間。
その終止符を打ったはずの戦争を、
私たちはほんとうに終わらせることができたのだろうか。
(燐光群サイトより)

86歳の渡辺美佐子さんの演技は素晴らしくて、認知症のある女性の役ですが
本当の認知症にしか見えず、大丈夫だろうかと終始ハラハラして見てしまった。
すごいなぁ。

燐光群のお芝居は一昨年だったか、竹下景子さんの出ていた
「天使も嘘をつく」を見ました。
どちらも、複雑なことを複雑なまま描くというところは同じだなぁと思いました。
→ 主宰の演出家の方のインタビュー

無垢な線

2018-12-13 | 芸術、とか
無垢ということについて考えたのだった。
朝、きれいに開いた山茶花の花を見て、疵ひとつなくきれいだったので
写真に撮ろうとしかけて、ふと、いわゆる日の丸構図で、
この花が真ん中にある子供ぽい構図で写真を撮るかどうか考えたときに、
無垢ということについて考えたのだった。
まっすぐに物を見て作為を挟まずに写真を撮るために、
素人っぽく幼稚に見えがちな日の丸構図で、ひたすら素直にシャッターを押すか、
ということから、翻って、子供の無垢というものについて。
iPhoneしか持ってなかったので結局撮らなかったんだけど

子供の無垢や純真は、2、3歳頃にはもう終わっていくとわたしは考えている。
言葉を覚えて、友達ができて、社会との付き合いが始まると、
そんなに小さくても、嘘をつくこともごまかすことも、もう避けられないから
否応なしに、無垢はどんどん終わっていく。と思う。

子供の絵を見るとそれは一目瞭然で、保育園や幼稚園に行き始めると、
子供たちの絵はどんどん似通ってくる。
女の子はやたら目の大きなお姫様みたいな絵を描くし、男の子は電車や乗り物を描く。
(もちろん例外はありますよ。中にはピカソも北斎もたくさんいるでしょうからね)
そして子供らしい日の丸構図の中にある無垢は、
デフォルメされたチューリップやひまわりの絵に隠れてしまう。
大体の子供達は実物のチューリップを穴があくほど観察したことなどなくて、
チューリップをよく知らないほとんどの人の、
イメージの中にしかないチューリップの記号を描いてるだけ。
それは無知ではあるけど、無垢でもあるだろうか?いや違うよなぁ。

そして、自分の写真はそれになってないだろうか?
いろいろ覚えてしまったことで、無垢はもう全部死んでしまって、
汚れた作為しか残ってない写真になってないだろうか?

写真を、作為を入れずに無垢に撮るということの難しさは、
子供の頃に大人なみに描けたピカソが
生涯かかって子供の絵を取り戻すみたいな話にも表れてるけど、
絵はね、3、4歳で大体もうダメな気がする。
同じような記号をできるだけ上手く描くという上下しかないところに行ってしまう。
でも絵の、線、ということについては、もう少し先まで無垢は残ってるように思う。
今まで子どもに絵を教えたりしてみてきた経験から考えると、6、7歳くらいかな。
線は社会の記号化の影響を受けにくいのかもしれない。
つまらない画一的な絵を描き始めても、
線自体はまだ子供の無垢な線が残っていることは多いからなぁ。

子どもの絵のクラスをしていたときも、それで自分は?といつも自問していた。
写真は、簡単に大人のような写真が撮れてしまうだけに、
ピカソほどの努力をしないでも、
子どもの無垢を取り戻すことができるのではないかとも。
いやそんな簡単ではないけど。

というようなことを呟いてたら、無垢について友達に聞かれたのですが、
写生にうるさい日本画的には、とりあえず文字通り実際によく見て知る
ということですかねぇ。
チューリップなら花びらが何枚でどういう風についてて
雄しべや雌しべがどうなっているのか、葉っぱはどこから出ててどういう厚みなのか、
それを実際にデフォルメ入れずに実物をよくよく見るというくらいの意味です。
自分が持っている、あるいは社会的に持たされてしまった記号の先入観で
実物を汚さずに、ありのままをじっくりと見ること。
よくよく見ることで自分自身の枠組みが持てるくらいになったら、
そこで生まれる独自の理解のようなものは、
いい意味では個性というものになるかと思います。
そしてその個性に耽溺しないで、
見るということを常に新鮮にしておくのが、写生ということかなぁ。

でも、線に関しては、絵とはまた別なんですよ。
絵はモチーフの選び方から始まってるから。
女の子がお姫様やお花と家を描くみたいなところ。
目は大きくきらきらしてとか、そういうところ。
でもモチーフを離れて線というものを見ると、大人と違うものが、
7歳くらいまではある感じなんですよねぇ・・・。
線の無垢は社会的記号やそれによる先入観では汚れないから。

プーシキン美術館展の絵

2018-09-13 | 芸術、とか
→美術館の人々の写真も撮ったけど、絵もちゃんと観ましたよ。笑

モネの「草上の昼食」はたくさんの人が写真を撮っていたけど
わたしとすれ違いに観に来ていたお友達は、
一体何を食べているのだろうとピクニックの食べ物をアップで撮ったりされてて
いつも、特別美味しいものをたくさん食べている人らしいなぁと関心しました。
それっていい絵の見方よね〜。


これはボナールの絵。なんて暖かくて甘やかな幸せそうな色だろう。




牛の絵2点。
牛は、なんか好きなんですよ。だってすごくやさしい感じでしょう。
ロバが好きなのと似てるかなぁ。
そして当たり前だけど、牛って何百年前も、
今とちっとも変わらない牛だったんだよねぇと、変な感じに関心。
牛の絵はいいねぇ。


ルソーも好きだなぁ。
高校時代、学校の美術の時間で初めて油絵をやったとき
一番最初にやらされたのが、名画の模写。
わたしはデュフィを選んだのですが、友達がルソーを模写してて
ペトペトとはっきりした色の絵の具を平坦に塗っていくのが楽しそうで
ルソーもいいな〜と思ったのを思い出します。


モネの睡蓮の絵はたくさんあって、フランスや大阪や神戸や京都や他の場所でも
ぽつぽつと見てきたので、もうなんとなく馴染みに気分になります。
名画と呼ばれるものに、一庶民が馴染みになれるなんて、いい時代だな。


これは「ボスポラス海峡」行ったことないけど、
若い頃から何度も想像した場所で、ブログにも書いた。
息子の旅:ギリシャとトルコ
五木寛之の小説に出てきたエセーニンの詩の中のボスフォラス海峡。
いつか自分の目でみる機会があるかなぁ。

印象派あたりの絵は、日本ではとても人気があるのでみる機会が多く
なんとなくもういいやという気分になって、
あまりわざわざ見に行くこともあまりなくなっていたんだけど
たまに見ると、全体に見慣れているだけに、
ゆったりといいかげんな気分で見ることができて、とても楽しく見ました。

プーシキン美術展の人々

2018-09-12 | 芸術、とか
国立国際美術館のプーシキン美術館展のチケットを友達にもらってたんだけど、
金土の夕方の開館延長時間に限り、なんと写真撮影OKというのを新聞で見かけて
これはその時間に行かねば!と、金曜の午後に無理やり大阪に仕事を作り
早めに済ませて5時前に入館。
一通りざっと見た頃に5時が来て、今から写真撮影してもいいとのアナウンスが。
ところが、考えてみると、有名絵画の撮影など、素人が展示用のライトの下で
手持ちカメラでやっても、絵葉書や画集には及ぶはずもなく
錚々たる有名な絵が並んでいるのは見るだけにして
普段あまり撮る機会のない、美術館の中の様子を少し撮りました。











「キャラメル」

2018-09-10 | 芸術、とか
実をともなわない深刻さが本当にいやだというようなことを昨日書いたけど、
最近見た劇団石のお芝居「キャラメル」は、その全く逆で、
前半は特に、笑いの陰にある、深刻に見せない切実さが勝手に胸を打ち、
なんでもない可笑しい場面でも、ぽろぽろ涙が出る作品でした。
声高な訴えや深刻ぶったお涙頂戴は苦手ですが、
このお芝居にはそういうものはなくて、可笑しさも優しさも悲しさも、
全部必然の切実さなのでした。目が重くなるくらい泣いた。

後半の山場の、さすがに深刻なシーンは、逆にわたしは涙が出るというよりも、
映画や本でも、女性が蹂躙されるシーンでだけは、いつもそうなるように、
吐き気がして気持ち悪くなり、舞台を味わう余裕もなく、ほとんどパニックで、
身体中の気持ち悪さをこらえるだけで精一杯だった。
でもそういうシーンは少しで、すぐにまた、ふわりと軽やかな笑いをとる、
その塩梅が、優しさとしか思えなくて、また最後まで涙が出た。

元慰安婦のおばあさんふたりを主役にしたふたり芝居です。
騙されて慰安婦として連れて行かれ酷い目にあい、戦後故郷に帰れず、
日本で、働いて働いて働いて生きてきた二人のうち一人が亡くなって
そのお葬式の用意の様子を軸に、話は進みます。
亡くなった方のおばあさんも、生きている方のおばあさんと普通に会話しながら
自分のお葬式の準備を、一緒にやっていくというシュールな展開で、
ほかに現代の朝鮮学校の女子高校生たちや、過去に出会った人たちが出てきます。
基本的には二人芝居で(正確には何でも屋さん役の男性がもう一人出てくる)
おばあさんの役の人が何役もやります。

冒頭、高校生の女の子が自転車で現れるところは軽やかでさわやかでかわいく
その後のおばあさんたちのシーンも
なんとも言えないやさしいユーモアのトーンが続きます。
わたしはこのおばあさん役で脚本も書かれている、きむきがんさんに
すっかり魅せられてしまった。この人のすごいやさしさ強さはなんだろうと。
後半クライマックスの部分は、前述したようにパニックになる程のつらさでしたが
でも、全体から見るとそういうシーンはほんの少しだし、
それも泣き叫び、恨みつらみをぶつけるようなシーンではないのです。
過去のしうちを責めたいのではない、ただ、なかったことにはしないでほしい。
真剣に受け止めて覚えていてほしい。そうすれば心から謝りたい気持ちになるはず。
求めているのはそれだけなのだ、というようなことを、結局は言ってた気がする。
なんでそれだけのことが、できないんだろうなぁ・・・。

慰安婦問題を扱っているからには、今の日本ではこのお芝居を
多くの人が見ることはないのかもしれないけど、見てほしいなぁと思う。
映画などで、メッセージは正しくて素晴らしくても、作品として微妙なものを、
わたしはやはり褒めることができないタイプなのですが、
これは作品としてとても良かった。
あまりにも痛々しく深刻で、扱いにくいテーマのお芝居なのに、脚本も役者も良くて
政治的な文脈を離れても、とてもいい作品になってると思う。
いや、政治的でなくなることはできないし、それでいいのですが。
今回が5回目の公演ということだけど、まだまだ変わって行くだろうし、
よくなっていくだろう。また見たいと思いました。

個人的なことですが、わたしは韓国的なものには好きでないものが多かったため
(だって日本以上にひどい封建主義社会だったもん)関わりたくないんだけど、
これはおばあさん二人のお芝居というのが良かったのかもしれない。
わたしが怒っているのはいつも、男たちの父権的な抑圧や支配や暴力、
権力志向や威張り散らした男尊女卑に対してであって、
耐えて耐えて生きてきたやさしいおばあさんたちには、
何の恨みもないし、共感ばかりなのだから。
そう、ホントもう、男たちの悲劇なんかどうでもいいんだよ。
勝手に競争して、勝手に戦争して、勝手に死ねばいい。
でも巻き込まれ利用され殺されるばかりの女たちの話は、いつでも聞きます。聞きたい。

深刻なモノが苦手だ

2018-09-09 | 芸術、とか
深刻なものが苦手だ。
深刻なものの多くがフェイクだから。
美しさや切実さの結果としての深刻さは心に沁みるものだけど、
そういう裏打ちのないただの深刻さにはいちいち疲れたり呆れたりしてしまう。
ただの深刻さそれ自体に罪はないのかもしれないけど、つまんないなぁと思うし
深刻なだけの作品には、うんざりする。有名な大御所のものでもそういうのある。
マーケティングするのが悪いとは言わないんですよ。
それを凌ぐ美やスケールを見せてくれれば、それはそれで感嘆する。
でも一番難しくて、わたしが一番大事に思うことは「切実さ」だろうな。
社会問題を扱ったアート作品には、深刻ぶっているくせに切実さに欠け、
ああ、嘘っぽいなぁと思うものや、薄っぺらだなぁと思うものが多くて、
すぐに用心してシャットアウトして気持ちを閉ざしまうけど、
実はいいものを見逃してしまってるかもしれないなぁ。
これはわたしの、ちゃんとひとつひとつの作品や作家に対峙して、
本質を突き詰めるだけのエネルギーが欠如してるせい。疲れるもんね。

自分が何か作るときには、決して深刻ぶらないようにしたいけど、
なんだか軽くふんわりとラッピングして提示するのもどうかと思うし、
深刻ぶらずに素直に真面目に自分の切実さを表現するのは、難しいことだな。

日本画は、結構計画的に足していく作業なので、よく考えて推敲して作ることになり
そこには元からある切実さがちゃんと残り、さらに積み重なっていくように思うけど、
写真って、撮ったあと加工すればするほど、
深刻さや雰囲気は増すけど、元々ない切実さはどうしようもないように思う。
日本画も写真もなんでも、真面目にやるのは難しいね。

レオ・レオーニ展

2018-08-31 | 芸術、とか
集団で何かするというのにどうしてもなじめなかったわたしは、
「スイミー」に特に惹かれたことがないのですが、
「フレデリック」は好きで、前に→ブログに書いたこともあります
詩はうまく作れないけど、気持ちだけは詩人だからフレデリックに惹かれるのかな。
それだけじゃなく、この毎日書いてる自分のブログ自体が、
フレデリックが春や夏に色や光を集めるようなものだなと思う。
人生の冬に備えて、いいものを全部ここに残しておくのです。

それでレオ・レオーニ展見てきました。

チケットがかわいいと、それだけでうれしい。



展示はこじんまりとはしてたものの、
前回のディック・ブルーナ展より原画も多く、初めて見る油絵や
グラフィックデザイナー時代の作品も興味深くてよかった。
特に油絵がよかったですね。

レオ・レオーニという人は、元々、
母親は世界的オペラ歌手というような裕福なインテリ家庭の出身で
才能があり恵まれた人だったのは、ディック・ブルーナと似てるかな。
絵本以外のアート作品を作るときの、眈々と楽しそうな様子は
余裕のある人が好きなことを楽しんでいる感じだな。
そして、絵本でも繰り返し描いているように
多様性というのがテーマの人なのだなぁと、インタビュー動画を見て思った。


そして、美術館に行ったら、チラシで封筒を作ります。
デザインによっては封筒にできないのもあるけど、
レオ・レオーニのは表にほとんど文字が入ってないシンプルなデザインなので
ちゃんと定形サイズかできました。
チラシ2、3枚もらってすみません。もらった分、宣伝します・・・。

プラドとボローニャ

2018-08-31 | 芸術、とか
兵庫県立美術館のプラド美術館展ですが、ツイッターでフォローしてる方が、
めっちゃかわいいと褒めてたベラスケスの「東方三博士の礼拝」の赤ちゃんイエスが、
本当に本当にかわいくて、
何か巻かれてマトリョーシカ体型になってるとこといい、
むずかった顔にすぐつながりそうな表情といい、たまらんかったでした。
こんなにかわいくていいのか。


「ぷらっとプラド」って、このコピーどうなの?というのはさておき、
この美術館ね、駅から美術館への道が本当にダメ。
広々としてきれいでまっすぐな道なんだけど、車のことしか考えないで、
歩く人のことを全然考えないような人が作ったのね。日陰が全くないのです。
真夏は真冬に、大型の良い展示をしてることが多いんだけど
どっちもこの道の暑すぎ寒すぎがつらい。行くたびに犯罪級の酷い道だなと思う。
その、あまりの暑さのせいか、閃輝暗点という、視界の一部がモザイクのように
キラキラ眩しく光る症状が始まってしまったので
(片頭痛の前によく起こる症状です)
視界の三分の一くらいが欠けてて、たくさんの絵を見る集中力が全く足りず
雑な見方をしてしまった。
ティッツィアーノとベラスケスとルーベンスの前のベンチで、
欠けた視界で20分くらい休んだら少しマシにはなったし
贅沢な休憩といえば、途方もなく贅沢な休憩でしたね。

静物画は、大きな宗教画に比べると身近な感じがして、
頼めばもらえそうな気分になり、大きな絵より熱心に、
どれ貰おうかなぁと見てしまう。
パパ・ブリューゲルのお花もいいけど、
印刷では全然良くなかった、2つの果物皿と果物の絵をもらおうかな〜。
くれるなら。(くれないけど)


あと印象的だったのは1615年の行列の絵でした。
画家はDenis van Alsloot または Denijs van Alslootで、
「ブリュッセルのオメガングもしくは鸚鵡の祝祭:職業組合の行列」
長〜い長〜い幾つもに折れ曲がった行列。これは絵本的に楽しい。絵本にしてほしい。
ちょっと安野光雅さんっぽいかな。
一人一人がそれぞれ細かく個性豊かに描かれてて、一人ずつ見ておもしろかった。
実物はとても大きな絵で、ここの写真じゃ良さは全然わからない。


そのあとに行ったボローニャ国際絵本原画展も、
もう夏のルーティンだから毎年行くけど、行くたびに、暑い暑いと文句が出る。
何十年も毎年真夏にやってるわけですが、なんで秋じゃないのか。
絵本展だから夏休みに、ということなら仕方ないんだけど、ここも駅から遠い。
でも文句言いながら毎年行くし、これからもずっといくと思います。仕方ない。
30年以上通ってるから、50年を目指して毎夏行くしかない。

今年は、個人的にはすごい好みというのが少なかったかなぁ。
図録は買いませんでした。
絵本原画展って、次元は少し違うけど、
おもしろい現代アート見たときと同じくらい、気持ちが自由になって、
こんなんありなのか」!という驚きに心が解放されるのが楽しみなんだけど、
今年はそういう驚きが少し足りなかった気がする。個人の感想です。好みは色々。

美術展のチケットをいつもくれる友達がいるのだけど、
今回もプラドのチケットは、その友達がくれました。
見に行ったら必ずその展示の絵葉書を買って、
その友達にお礼の葉書を送るまでが、遠足だし、おまけの楽しみ。
前述した幼子イエスの絵葉書を送りました。

歌舞伎 忠臣蔵

2018-08-20 | 芸術、とか
歌舞伎をよくいている友達に連れてってもらって、すごい暑い日に
浴衣の美女4人と一緒に、わたしひとりワンピースで出かけた。だって、暑い。。。
歌舞伎のチケットは、高いですね。
でも、とても面白かったし、襲名の口上は華やかで、年に一度くらいの贅沢に満足。
「女殺油地獄」の、染五郎改め幸四郎さんの、艶っぽいことといったら。
ダメな男の(悪いけど悪いというよりは、ひたすらダメな男なのよねぇ)
ダメだけどやたら色っぽいところやかわいいところが、本当にうまいなぁ。

その前、口上の前が「元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿」だったんですけど、
お家のため、お家第一の滅私奉公の美みたいなのは、割と(特に昔は)世界中にあるし
案外外国の人にもわかりやすいんじゃないかと思うけど、
お家再興より敵討ちが上位に来て、そちらの方が潔く美しいみたいなモラルってのも
世界的にあるもんなんだろうか?と、ふと。
お家第一なら、家名復興の方が上に来そうに思うけど、
みんな一緒に滅びても、命より大事な主君のお家が途絶えても、
憎い奴を成敗する方が大事なのって、お家より主君個人の恨みが大事ってことよね?
お家再興のチャンスがないなら、わかるんですよ、だってもう後がないんだから
そりゃ身を捨てて敵討ちをしますよ、家来としては。
でもチャンスがあるのに、美しい滅びを選ぶのねぇ。ふむー。
なんかどこをどうとっても合理的じゃない、死なばもろとも、なんだけど、
滅びの美学というか、名誉の戦死とかはその流れかな。

滅私奉公といえば、カズオイシグロの「日の名残り」を思い出すけど、
あれは滅私奉公の執事の美学を丁寧に描きながら、彼を批判も擁護もしてないというか
いや批判も擁護もしてるのか、そういう小説だった。優しいようで冷たいようで、
優しいかな。
主人公の滅私奉公具合を、冷静に丹念に描きこむことで、批判に読めるんだけど、
作者の視線には同時に、その(愚かな)主人公に寄り添うところが必ずあるのよね。
でもその批判を全く読み取れず、
あの小説を単純に執事の美学を賛美する小説と読んで感動してた人もいたから、
読み方っていろいろだなぁ、と思ったことを思い出したのだった。

幕間のおやつ


これを観ました。






その次の週に、逸翁美術館に行ってこれを観たんですけど、
今回の襲名披露の写真などもあって、歌舞伎観たばかりだったので楽しかった。

舞台:カルメギ

2018-08-09 | 芸術、とか
ひゃー!すごい良かった。感心しすぎて呆然。
あまり演劇がわからないわたしが言うのもなんですが、チェーホフ好きな人も、
東アジアの近代史に興味のある人も、みんな見るべき!
映画クラスタの人に映画の良さで比べるならば、
今年なら「君の名前で僕を呼んで」並みの良さかなと思ったくらい。(内容は全然違います)

>「チェーホフ作『かもめ』を1930年代の日帝朝鮮に翻案、韓国最高峰の東亜演劇賞にて三冠を受賞し日韓合作のエポックメーキングとなった名作。歴史に翻弄される若き芸術家の物語、鳴り響くK&J ポップ、東アジアに生きる私たちの現在、未来へ、待望の再演。」

レヴューを幾つか見たけど、なんだかチェーホフの原作を知らないままのレヴューが多い。
みんな、古典もう少し知ろう!(自戒を込めて)
チェーホフがどういう作家で、この戯曲がどういう感じのものか、
ほんの粗筋だけでも知ってるのと知らないのとでは、感想は変わってくるんじゃないかな。
知ってる方が断然楽しめると思います。
基本的にはチェーホフの戯曲をほぼ踏襲してあって、人間関係や出来事は大体そのままかな。
設定だけは大胆に違って、舞台の、国も政治も状況も変えることで、
登場人物の間に都市と地方だけでなく、支配と被支配の関係も持ち込むことになり、
より興味深く、示唆的になってる上に、原作も十分生きてるという
すばらしい仕上がりと思う。

また、チェーホフだけでなく、日韓の近代史もある程度わかってないと
深いところまでわかりにくいかも、という、かなりニッチな観客層を求める舞台なんですけど、
ロシア、チェーホフ、日韓併合時代、どれもほんの最低限程度でも知ってはいる身としては
ひたすら感心して、終わった時には、面白かった〜!とテンションの上がった舞台でした。

舞台はこんな感じで、客席は舞台と同じ高さから360度ぐるりと舞台を取り囲んでいる。

上部に字幕が付いていて、俳優が韓国語を話すときには日本語が出ます。
クシャクシャな新聞や雑誌などの紙切れが床を覆っているけど、それも
日本語のもの韓国語のもの入り混じり、ひとつひとつがいろいろな記号をまとっている。

韓国の俳優8人と、日本の俳優4人が、それぞれの国の人の役を演じますが、
日本の植民地支配下なのでみんなで話す時は基本的に日本語を話すし
それ以外の独白も日本語が多いです。
セリフが多いところはちょっとこなれてない日本語に感じる箇所もあったけど
総じて俳優も良かったと思う。
ちらりちらりと、(原作にはない)被占領民の悲しさや皮肉も散りばめてあるけど、
それは原作のエッセンスを壊さずに、深みだけを増しているようで、この脚本もうまい。
演劇のことは何も知らないのにたまたまポスターを見かけて見に行っただけなんですが、
舞台にしかできない、見せられないものを見せてもらえて、本当に見て良かった。
現代演劇について素人すぎるので(年に1本見るか見ないか)
ちょっと勉強したくなるほどよかったです。(そして、ちょっと勉強します)

なお、タイトルの「カルメギ」は韓国語のカモメのカタカナ読み。
韓国での上映時には日本語の「かもめ」そのままの音をハングルで表したタイトルだったよう。

原作:アントン・チェーホフ「かもめ」
脚本・演出協力:ソン・ギウン
演出:多田淳之介
東京デスロック(日本)+第12言語演劇スタジオ(韓国)

どうでもいいけど、主演の韓国人俳優さん、すらりとハンサムで誰かに似てると思いつつ
ずっと思い出せなくて、何週間も経ってやっと気づいた。若い頃の風見しんごだ!笑

落語で宝塚(エリザベート!)

2018-07-30 | 芸術、とか
神戸は新開地に出来たばかりの喜楽館に行ってきました。
今回は、宝塚がテーマの夜席。いろんなものがあるなぁ。





前半の、宝塚歌劇に関する落語はよかった。
たまに歌劇に詳しくないとよくわからないところもあったけど、かなり笑えた。
特に、宝塚大歌劇場への行き方の説明を落語にしたのが、地元民としては楽しかった。
客層も、普段の落語の寄席とはちがって、さほど年配じゃない女性も多かったので
宝塚ファンの方で来られてる人も多かったのかも。

でもエリザベート名場面集は、も少し工夫が必要。
このものすごい下手な素人芝居に90分は長すぎ(^_^;)
よく頑張ってるのはわかるけど。w

あんまり美しくないエリザベートやトート・・・。



最初と途中、ナレーションを浪曲と生の三味線で語る演出はとてもよかったので
基本的にそれで話を回すことにして、
歌と踊りは有名な場面と面白い場面だけを選んで、うんと減らして、
60分弱の尺にすると、いい感じになるんじゃないかなぁ。
幼稚園並みの舞台で笑えるのは30分くらいよねぇ。

とはいえ、なんかほんと、変なもんを見た面白さはある。
古典落語が好きなんですけど、たまにはこういうのもいいかもしれません。笑

ディック・ブルーナ展と棺桶

2018-07-28 | 芸術、とか
ミッフィーちゃんじゃなく、主にペーパーバックの装丁デザインの展示。
原画はほんの少しだけだで、ほとんどが装丁などのデザインの模写展示で、
こじんまりしてるけど、さすがのセンス、ディック・ブルーナはいいなー。

彼はもともと親の会社を継ぐことになってて経営を期待されてたけど
絶対無理と思ってデザインをやるようになった、とかそういうことらしい。
ディック・ブルーナ晩年の、すごく機嫌のいいかわいいおじいさん姿には品があって
なるほど元々ぼっちゃんなのね〜と思った。
そういう風に思われるのが、きっとすごく嫌だったかもしれないけど。
二十歳そこそこのときの、室内かなんかの線描が2、3枚あったけど、
その頃から、すごい清潔でセンスのある線を描く人だったのがわかって驚いた。

以下3枚は、ディック・ブルーナへのオマージュ作品の展示より。






美術館に行くと、チラシで封筒を作る趣味があるのですが、
ディック・ブルーナのデザイン展では、本が好きすぎて読みすぎて
目が赤くなってるブラックベアの小さい封筒ができました。

今回のポスターもブラックベアですね。

そして、ディック・ブルーナ展で買った手ぬぐいは、ミッフィーちゃんにみえるけど、
どうやらミッフィーのお婆さんらしいうさぎが棺桶の中?で眠る姿の絵。

ん?と、二度見して、買ってしまった。
でも。全体の雰囲気は、いつものミッフィーとなんら変わりがなくかわいいので、
すごいシュール。

気に入って、もうハンカチ代わりに使ってます。

江戸の戯画と鈴木春信展

2018-06-21 | 芸術、とか
大阪市立美術館でやってる「江戸の戯画」展のチケットをもらってたので
ギリギリに駆け込みました。いつもギリギリだな。
「江戸の戯画」展は見に行った人も多くて評判が良く、楽しい展示でした。
滑稽な人間もおかしいけど、動物を不思議に擬人化して描いたものが可愛くて好き。

戯画というくくりで、国芳、北斎、暁斎などの小粋な絵を集めるのはセンスいいね。

でも個人的には、このあと近くのあべのハルカス美術館で見た鈴木春信の方が好きです。

どんなにたくさん見ても全然疲れない絵なんです。
才気溢れないし、危機迫らないし、笑わせる尖ったウィットもない、
とにかく、なんしか、雅。過剰さも歪さもない、うっとりする調和の世界。
北斎などは、これに比べると技術や才能、執念に感嘆しすぎて疲れるんですよ。
春信はゆったりと気持ち良く同じ気分で見続けてればいいのです。
暑い日の美術館ハシゴでへろへろになったけど、見てよかった。

これは、春信カプチーノ。
最初はもっとはっきりしてたけど、運んでいるうちに少し崩れちゃった。
こういうの好きです。コーヒーはブラック派だけど、頼んでしまう。

鈴木春信見る前に、市立美術館横の慶沢園(住友家本邸庭園跡)をぶらぶら散歩。
東屋の中は風が吹いて気持ちよく、ご近所さんでしょうか年配の方が
よもやま話をしながら将棋を指している。
広大な庭、ではなく、割とこじんまりしていて池の周りを1周しても疲れないので
これくらいの大きさの庭が近くにあるといいなぁと思った。


「江戸の戯画」展概要(公式サイトより)
太平の世が続いた江戸時代には、多くの戯画(ぎが)が描かれました。一口に戯画といっても多種多様なものがありますが、本展では「鳥羽絵」をキーワードに江戸時代の戯画をご紹介します。
鳥羽絵は、広く戯画や漫画を指す言葉として使われることもありますが、より限られた意味では、18世紀に大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画を指します。そこに描かれる人物は、目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由来するものとされます。
鳥羽絵は、18世紀の大坂で鳥羽絵本として出版され、その人気は明治にまで及びました。また、上方に留まらず、江戸の浮世絵などにも影響を与えています。鳥羽絵を洗練させたとされる大坂の「耳鳥斎(にちょうさい)」はもちろん、鳥羽絵本の影響を受けたと考えられる江戸の「北斎(ほくさい)」や「国芳(くによし)」、そしてその流れをくむ「暁斎(きょうさい)」など、時代や地域により変化しながらも、笑いの感覚は脈々と受け継がれてきました。
本展では、そのような流れを追いつつ江戸時代の戯画のエッセンスをご覧いただきます。また、歌川国芳の「金魚づくしシリーズ」全9点がそろうのも見どころの一つです(前期のみ)。 笑いを文化として発展させてきた大阪の地で、多彩な笑いの世界をご紹介します。(出品予定作品:約280点)

「応挙は雪松、呉春は白梅」

2018-03-12 | 芸術、とか
友達にチケットを頂いてたので、最終日の午後駆け込んで見てきた。
小さい美術館の小さい展示だけど、呉春の白梅図屏風がすごくよくて、超満足。
呉春を見た帰りには、やっぱり呉春飲んで帰らなくちゃね。

この逸翁美術館のある池田というところのお酒が呉春なんですけど、
四条派の呉春という絵描きは、師の与謝蕪村の勧めで
「呉服(くれは)の里」池田に移り住み、翌年新春を迎えたときに、
呉服の春ということで、姓を呉、名を春に改めたそうです。

円山応挙の円山派も呉春の四条派も、どちらも写実を大事にし、
対象の形態や性質を的確に表すという点では似ているけど、
円山派はそのもののエネルギーや流れまでを表し、
四条派はそのものの含まれる世界の叙情性を俳諧の影響も受けて表している、
というようなことが説明されてました。ふむふむ。

そして円山派の絵は対象物がこちらに飛び出してくるのに対し、
四条派の絵は、対象物の背景に広がる世界の奥行きが見える、とも書かれていて、
そういうものかなぁと、
ちょうど部屋の両側で向き合って展示されてる、
こちらの美術館の収蔵品である、応挙の「雪中松図屏風」
(著名な「雪松図屏風」(三井記念美術館、国宝)の習作とされる)と、
同じく収蔵品である、呉春の「白梅図屏風」の間に立っていたわたしは、
その大きな屏風を180度ずつまわりながらそれぞれ何度も見比べてみたのですが、
なんとなんと本当にその通りに見えて、驚いた!しみじみと感心!



白梅図の方は色が微妙で梅の花の白の濃淡も、写真ではわからないですね。
こういうのは実物見るしかないなぁ。
実物はもう少し青みがかって、明るい海の底のような不思議な雰囲気でした。



応挙の松は、ぐうっとせり出してくるし(絵がそれほどリアルで3次元的というわけでは
ないんですけど、表現としてそう言う感じがあるんですよ)
呉春の梅は静かに背景の深さを思わせる。驚いたなぁ。なるほどなぁ。唸った。

この美術館はとてもこじんまりとしてて、展示数は40数点だけだし小品も多いんだけど
これくらいの展示数だと、全部の作品をゆっくりみてどれも覚えていられるのがいい。
どの絵ともお近づきになれるというか仲良くなれるというか、
次に見たときに覚えていて、やあ久しぶり!という気持ちになれるのが好きです。
こういう美術館はまた、独自の収蔵品中心に企画を組むことが多いので
今回とても好きになった白梅図屏風も、きっとまた何年か後に
またここの別の企画などで再会すると思うのも、いいんですよね。
その時の自分にどんな風に見えるのかも楽しみです。

>粗い糸を藍染した平織の絹を背景に用い、月光の下、枝を大きく拡げた白梅が奥行を持って浮かび上がる。 画面の静けさからは、蕪村の辞世の句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」が想い起こされる。(公式サイトより白梅図について)