教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

教育とは何か―「夢」の形成・実現者の育成

2012年03月18日 09時35分20秒 | 教育研究メモ

 記事「教育とは何か―教育を考える基本的枠組み」に、yrrさんから以下の批判コメントをいただきました(一部のみ引用)。

>結局、教育とは何ですか?
>「理想的な人間」とは何かが明らかにされておらず、何のために(つまり何に対して)「理想的な人間」をつくるのかが明示されていません。

 普段からの読者さんであれば、私がどんな教育観を持っているのかおおよそ予想がつくとは思います。ただ、この記事を読むだけでは、私が教育を何だと思っているのか、育てたい「理想的な人間」とは何かわかりません。一度は私の考えを読者に押しつけるような気がしたので直接答えるのを避けましたが、いつものように気に入らなければスルーしてもらえばいいので、このあたりで一度私自身の考えをまとめて批判にさらすのもよいかと思いました。以下に要旨だけまとめてみます。


 教育とは何か。古今、この問いに対して様々な答えが試みられてきた。究極的には「理想的人間をつくること」であると考えるが、「理想的人間」の定義は時代・社会・立場などの違いによって変化する。理想的人間の定義に踏み込んだ場合、すべての時代・社会・立場に通じた絶対的な答えは存在しない。しかし、この定義に踏み込まなければ、教育を考えることも、実践することもできない。絶対的な答えは存在しなくても、一定の合理性と共感とにより、他者と共有可能な答えは存在するであろう。以下、「教育とは何か」について、私個人の定義を試みる。

 教育とは、「夢」に向かって支援し、自ら「夢」を形成・実現できる人間を育成することだと私は考える。「夢」とは、個人の意志による生活目標であり、その人自身の過去・現在を踏まえて形成された、その人自身の現在・将来を変化させる精神的・身体的原動力である(※1)。生き方の目標であり、生きるためのエネルギーの発生源である。「夢」と「進路」とは近接する概念としてとらえたいが、「進路」は進学先・職業選択に限定されがちであるため、「夢」の下位概念としてとらえたい。「夢」は、個人の生き方全体を指すものであり、職業生活だけでなく家庭生活や道徳的生活をも含む。
 「夢」は個人の目標であるが、純粋に個人的なものではない。人間の生活は純粋に個人的なものとしては営めない。社会から様々な影響と物質的・精神的支援を受けて営まれるものである。そのため、個人の過去・現在・将来は、直接的に支えてくれる周囲の人々と、間接的に支えてくれる国民・社会の期待の中で形成されるものであり、道徳的にもそうでなくてはならないものである。周囲の人々の期待は様々であるが、国民・社会の期待は教育制度(とくに法制度)に表現されている。現代日本の教育は、基本的に、人々(子どもに限らず)の人格の完成と、国民すなわち国家・社会の形成者の育成を期する。個人は、人格の完成と将来の国家・社会の形成者になることを前提として、「夢」を形成する。「夢」は、期待される人格および将来の国家・社会のあり方(その内容は省略する)と無関係・矛盾関係にあるべきではない。むしろ、形成・実現者自ら、「夢」の形成・実現の前提として、ふまえようとすべきものである。
 「夢」の形成・実現は、様々な知識や技能を必要とする。まず、自分の経験を拡大・整理し、自分の適性・能力・限界などを認識する必要がある。自分の興味関心または周囲の勧めから、様々なものごとを実際・擬似的に経験し、知識・技能として習得していく。習得した知識・技能、およびそこから感受・予測される今後の成長の見通しから、自分の可能性を合理的に判断していく。また、それらと同時に、自分の周囲の状況を認識し、自分がこれまで生き/今生き/これから生きていく社会のあり方を認識する必要がある。だれがあなたにどんな期待をかけているのか、どんな職業や生き方の可能性があるのか、を知るのである。このようにして、「夢」は自分自身の意志により周囲との関連の中で形成され、実現に向かっていく。
 適切な「夢」を形成・実現するには、長期的な忍耐と努力とが必要である。つねに自分の内部・外部と向き合い、自己変容を求められるため、常に意志・生活の危機にさらされる。その危機を乗り越えるために、苦しみに乗り越える忍耐と、具体的な行動にうつす努力とが必要となる。それは自分一人では難しい。孤独では苦しみを乗り越えるには心許ないし、経験の乏しい場合は有効な知識や見通しを得られない。仲間が複数人いれば、励まし合って心を奮い立たせられるだけでなく、多様な立場からの意見から刺激を受けて、冷静な自己認識やよりよい判断を得ることができる。また、教育者がいれば、教材や授業を介して、自分だけではかかわれなかった人や世界とかかわり、新しい知識を得て、経験を拡げ、それらを整理し、助言を受けられる。「夢」の形成・実現には、仲間と教育者(とくに教師)とが必要である。
 「夢」の形成と実現とは生涯を通して行われるが、人生の各時期にはそれぞれ適した形成・実現のあり方がある。乳幼児・児童期は、主に「夢」を形成する準備をし、実際に形成し始める時期である。この時期には、「夢」を形成するために必要な基礎的知識・技能・態度等を育成する必要がある。とくに、心身の健康を保ち、自分を見つめて表現し、他者・世界とかかわり、将来の見通しを持って行動し、自ら学ぶようになることが目指される。教育は、これらの推進・達成を支援する。なお、これらは、現代日本においては教育基本法・学校教育法・指導要領・教育要領などに表現されている。生涯学習社会を「生きる力」を育成することとも言ってもよい。なお、この時期には、「夢」の実現そのものはまだ早いと思われる。この時期の発達を「夢」の実現に従属させること(すなわち将来だけのために乳幼児・児童期を犠牲にすること)は、かえって基礎的能力・態度等の育成を阻害する(※2)。また、「夢」は青年期以後に修正・変化する可能性のあるものであり、将来において修正(すなわち再形成)するためにも、「夢」の形成に必要な基礎的能力・態度等をこの時期に十分育成しておく必要がある。
 青年期以降は、ときには「夢」を修正しつつ、自ら「夢」に向かう時期である。「夢」に直接・間接に関連する専門的知識・技能(意欲・態度・心情を含む)を習得・育成・活用していくことが目指される。教育や生涯学習事業は、それを支援する。とくに中等教育すなわち普通教育段階にある中学生・高校生の時期は、基礎的・全体的知識や技能から専門的知識・技能へと次第に比重を増して習得・育成し、児童期までに形成した「夢」を基盤として、自分の適性と周囲の期待に応じて「夢」を調整・修正していく。そして、「夢」の実現に向けて、自分の知識・技能等を最大限活用して、生活していく。
 教育が育てるべき「理想的人間」とは、以上のような、社会的関係のなかで「夢」を自ら形成し、実現していく、「夢」の形成者・実現者のことである。「夢」の内容は、個人の選択による。たとえば、どのような政治的・思想的立場を選ぶかは、個人のおかれた社会的関係の影響をうけるとはいえ、自らの意志で選び取るべきである。したがって、教育者(教師)は被教育者が自らの意志で選択できる環境を作り出さなければならない。そのためには、教育者は多様な政治的・思想的・国際的立場などについて理解し、教育する際には中正の立場に立つ必要がある。実際の教育者には限界があるため、せいぜい2つ3つの立場を踏まえる程度しかできないし、無意識に特定の立場に立ってしまうことは無理のないことであろうが、それでもできるだけいくつかの立場を踏まえた上で中正的立場を取ろうとする姿勢が必要である。

<注>
※1
「夢」とは何か―生きるための原動力」(2009.3.7記事)
よりよく生きること―夢の役割」(2010.7.8記事)
「夢を持つこと」とは何か?―人間として成長・発達すること」(2012.2.12記事)
※2
発達状況に応じた保育について【1歳児】」(2011.6.10記事)


  以上、今、私が考えている「教育とは何か」の答えです。今後、自分自身の実践・研究・学習によって変化することはあるとは思いますが、ひとまず今まで私が考えてきたことを総まとめすることができたと思います。もっと深く言及すべきところ(とくに「夢」の形成の内容・方法)は残されていますが、一つの記事に収まりそうにないので、省略します。
 「夢」の実現が全体のテーマになっているのは、白石崇人という人物が語る教育論だから、だと思います。「夢」の実現というテーマは、私自身の履歴や人生観、教員・保育者養成という社会的役割と学生に対する責任、私の周囲の人々(このブログの読者も含む)とのかかわりから導き出されたものです。期せずして現勤務校も「学生の夢の実現」を大事にしていますが、これも立場上矛盾せずに積極的に主張できる理由の一つだと思います。
 こうして見ると、国民国家主義的な傾向が濃いですね。私は、教育・人間形成は周囲の社会に影響されるという立場を取りますので、こうなるのかなと思います。世界市民的な考え方や民族主義的な考え方には同意しかねるような気はします。
 ご感想・ご批判いただければ幸いです。根本的な批判には、すぐに答えられないかもしれませんが…

コメント
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