光喜庵にはかつて尼さんが住んでいたそうですが、今は小さなお堂だけが残っています。尼さんがいなくなった理由の一つは太平洋戦争です。物資が無くなり、里の人が尼さんに施しをする余裕がなったことです。そしても、もう一つの理由が戦後教育や高度成長にあると思います。仏を信じる人が少なくなったことや、施しを受けなくても仕事で充分食べていけるようになったことではないかと思います。
光喜庵に着いて、少しの間休憩
ところで、光喜庵に安置されているお地蔵様は異形です。それもそのはず、素人が作った仏像だからです。その素人の仏像を安置した理由は、ある時お地蔵様が盗まれたためのようです。盗まれては困るお地蔵様を別の場所に安置し、盗まれてもよい素人作りのお地蔵様を安置したのです。
田村知義墓所に向かう 田村知義のお墓 彼岸花を見ながら歩く
光喜庵の近くに、田村知義のお墓があります。そのお墓を訪れました。田村知義は戊辰戦争中、奇兵隊で活躍した人です。さらに、明治維新後は宿井村村長として、地元に貢献しました。冨永有隣もほぼ同じ頃に奇兵隊に関わって活躍しました。富永有隣は明治33年にに、田村知義はその一年後に亡くなりました。
富永有隣顕彰碑 末岡精一顕彰碑 瓜迫の観音堂
光喜庵を出ると、しばらく歩いて富永有隣顕彰碑に行きました。私は、今年になって何度もこの碑に行きました。昭和13年に建立されたこの顕彰碑はとても巨大です。遠くから見るとそうでもなですが、間近に行くと見上げるような大きさです。その顕彰碑の下には吉田松陰との出会いの文が刻まれています。
冨永有隣の墓所 城南公民館に向かう 城南公民館に到着
冨永有隣の顕彰碑の隣りには、有隣の義甥の末岡精一の顕彰碑が建っています。プロイセンに留学し、帰国後に明治憲法の土台を作ることに貢献しました。さらにその近くの瓜迫観音堂を見学した後、冨永有隣の墓所を訪ねました。そして、瓜迫農業公園に戻って休憩しました。休憩後、ひたすら城南公民館に向かって歩きました。今回はとても良い天気で、楽しいウォーキングでした。参加された方々、お疲れ様でした。
今回ウォーキングした城南宿井方面コース
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