ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

厳しく言えば美大は詐欺の確信犯とも言える。

2011年02月14日 | Weblog

「週末はギャラリーめぐり」山本冬彦著より。

これは実にショッキングな発言でもあったが現実だ。私自身は美大の卒ではないが、絵画に関心があった頃は行きたいと思った一時期もあった。なぜ詐欺などという表現が使われたかといえば、簡単にいえば経済でいう需要と供給との関係が異常にアンバランスなことが原因だからだった。

つまり将来のプロの絵描きとしての夢を持って入学してくる美大生はやがて卒業するが、その後実際にプロとして自立できるのは約3%だという。ここには「今や美大・音大は巨大なフリーター養成所になっている…」という表現もあった。

美大・音大を出ても定職に就けない人が実に多いことがうかがえる。日本でプロの絵描きとして専業で生きていける作家は百人もいないのではないだろうか?と、山本氏は指摘する。

かなり名のある作家でも、大学や塾・カルチャーセンターなどで教えるなどの定職があるから描き続けられるようだ。そんな現実にもかかわらず夢を追う若者は多い。そして先の見えなそんな夢を追って、アルバイトで食いつないでいるうちに中年になってしまうこともややかわいそうにも思えてくる。

そこで山本氏は今のような大量の美大卒業生がいること自体がおかしいと指摘している。そして、美大や教師陣もそのことは承知のはずだったのだ。しかし、それを明らかにしてしまったら彼らもまた職を失ってしまう・・・。だから上記のフレーズになる。う~む・・・


アートは分かる、分からないではなく自分が感じるものでいい・・・

2011年02月13日 | Weblog

「週末はギャラリーめぐり」山本冬彦著より。

まさにその通りでしょうね。しばしば、絵はよく分からないという声を耳にするが、それは自分が理屈や先入観で難しく考えているからではないだろうか。

もっと感覚的なもので、人の評価より自分が楽しいと感じればそれでいいのだ。理屈抜きに気に入るか入らないかだけでもいいようだ。

だから大美術館でフランスの有名画家の絵画展だからという理由で観に行ってもそれは、本当に絵画そのものを楽しむこととは違っているのだろう。

一応教科書にも掲載されている画家の展覧会だから、観ておく価値はあるだろうという程度の思いこみではないだろうか。

以前、ある人に抽象がよく分からないと言ったことがある。するとその人は、ネクタイの柄を選ぶときと同じだと思えばいいと言われて、すぐに納得した覚えがある。絵に余計な理屈は不要なのだな・・・


同時代を生きた作家とコレクターという関係。

2011年02月12日 | Weblog

「週末はギャラリーめぐり」山本冬彦著より。

山本さんが初めて絵画を購入したのは、30年以上前に会社員だった29歳の時だったと振り返る。その後無名な若い作家の作品を中心にコレクションをしてきたと語るが、後に有名作家や美大の教授になった人もいるようだ。

自身も年齢を重ね、作家も同じだけ成長し、実力を伸ばして活躍する様子を確認できるのは、なんと素晴らしいことだろう。中には消えてゆく作家もいるとはいうが。

作家の成長を眺め、交流を楽しむということから、まったく別のことを思い出した。それは私がかつて何度か訪れた甲子園の高校野球や神宮での大学野球のことだった。

当時、球場で生で見ていた選手が、その後ドラフトにかかりプロに入団して一軍で活躍する姿は特にファンでなくてもいいものだった。やがて、彼らも現役を引退し、コーチ、監督などの指導者や解説者になっていく。

こんなこともまた同時代を生きていると感じさせてくれる。そこでもまた狭き門だ。美術界にしろ野球界にしろ第一線で生き延びる厳しさは同様だと感じた次第。(タイトルのフレーズとはややずれてしまったかも。)


作家の顔が見える作品を日常生活で身近に使ってみる・・・

2011年02月11日 | Weblog

「週末はギャラリーめぐり」山本冬彦著より。

この本はふだんあまり絵画など美術作品になじみのない読者にも、入門書として読み易く書かれている。また若いアーティストに対する支援についても熱く語られていた。

さて、上記フレーズのあとには「美術品が身近な存在になります」と続く。ここでの美術品とは実用として使える陶磁器や漆器なのど食器類、花器などを指していた。

高名な作家ものならお気楽に買ったり使ったりはできないもの。しかし、若い陶芸家のものなら、意外に安く買え実用として使用できる。

そういえば、我が家にも地元に住む東京芸大の陶芸科卒の女性作家のコーヒー碗皿があった。コーヒー好きの妻は時どき使っているようだ。

それは大量生産のブランド物の器と異なり、ひと味違って味わえるのだろう。こんなこともありふれた日常を豊かに変えてくれるのかもしれない・・・な。


ネットやメールで意外がつながりが・・・

2011年02月10日 | Weblog

別にフレーズというわけでもなく、ふと自分が感じたことだった。とはいっても、最近わだいになっているフェイスブックでのつながりでもなかった。先月の末頃、ときどき私のブログを訪問してくださる“アートソムリエ”さんのブログを読ませていただいている時だった。氏はサラリーマンコレクター(絵画作品)として名の知れた方だ。

そこには氏自身の著書の紹介があったのだ。「週末はギャラリーめぐり」(山本冬彦著)だった。その後さっそく新書版の本を読み始めたのだ。そして、その本のおよそ半分くらいのところまで読んでいると、ふと私の知り合いのMさん(やはり絵画のコレクター)にメールを書いてみようという気になったのだ。

私自身はまったく絵画のコレクターではないが、絵画鑑賞は比較的好きな方だ。Mさんとは絵画の話で気があって、約35年ほど前から親しかった。“今こんな本を読んでます”と、ケータイでメールをすると、その30分後にさっそく返信があり、何と!「いま読んでいる本の152ページに私のことが紹介されています」とあったのだ。

私はその時120ページあたりを読んでいたが、すぐにそのページを開いてみれば、なるほどMさんのフルネームでコレクター仲間の活動ということで触れられていたのだ。アートソムリエさんとMさんは20年来のコレクター仲間としての知り合いらしい。こんなつながりも楽しいひと時と感じた次第。


どんな失敗も「成功という宝石」を輝かせるための研磨剤なのだ。

2011年02月09日 | Weblog
『「一勝九敗」の成功法則」ジョン・C・マクスウェル著より。

このフレーズ自体が、宝石のように輝いてみえる名言に思えた次第。これは古いことわざが元になっているようだ。

それは「宝石は磨かなければ光らない。人も試練を経験しなければ完全にはなれない」というものだった。日本の「苦労は買ってでもせよ」というのとも似ている。

さて、ここで再びこの本のタイトルを振り返ってみた。「一勝九敗」では、それだけみれば完全な負け越しになってしまっている。しかし、この本を読み進むうちに、九敗とは数多くの失敗の意味だと感じとれる。

そして、そんな失敗から学んだことを生かしてこそ、最後に成功に結びつけることができるというのが、一勝だったのだ。だから、順番では“九敗後の一勝”ということになるはず。

しかもこの一勝はイコール成功ということで、それ以前の九敗を大きく上回る、帳消しにするほど大きいものであるのだろう。やはり今までのように、ボケっとしていては、ダメなのだなぁ・・・


偉大な発明・発見の多くが“怪我の功名”から生まれている。

2011年02月08日 | Weblog

『「一勝九敗」の成功法則」ジョン・C・マクスウェル著より。

これも、前日触れた「一度失敗してみる」という部分からのものだが、失敗してみるとどうなるかという一つの結果でもあった。ちょっとミスすれば失敗だと思ってしまう。しかし、場合によってはそれが「予想外の結果」を生み出すことにもなっていたのだ。

ここにはいくつかの過去の実例があった。エジソンが蓄音器を発明したのは、まったくの偶然からだったとある。また、ゆでた小麦を一晩鍋の中に入れっぱなしにしていた結果、ケロッグ・コーンフレークが誕生したようだ。キッチンペーパーのスコットタオルは、トイレットペーパーをつくる機械が不具合を起したときにできたものだった。

かつてのノーベル賞を受賞するような発見も、研究の途中で思わぬ偶然の結果見つかったというような話もよく聞く。結果を単にミスととるか、思わぬ発見と考えるかの違いで大きく変わる。

さて、こんな大きな発見でなくても、自分自身で“怪我の功名”と呼べるような経験があるだろうか、とふと考えてしまった。自分のミスではないが、、電車が遅れて時間がたっぷりできてしまい、何気なく売店で買った本から仕事のいいヒントが得られたということもあった。いい意味での予想外の結果・・・これからも期待したいもの。


進歩する唯一の方法は「トライ・アンド・エラー」をくり返すこと。

2011年02月07日 | Weblog
『「一勝九敗」の成功法則」ジョン・C・マクスウェル著より。

ここでの大きなタイトルは「一度失敗してみる」となっていた。より大きなチャンスをつかむためにはそれは不可欠な要素だと思える。興味深いエピソードがあった。

それはある美術学校の陶芸の授業でのことだった。教師はクラスを2つに分け、半分の生徒には“作品の量”で、もう半分の生徒には“作品の質”によって採点すると告げたのだ。

すると、結果は優秀な作品は“量グループ”から生まれていたという。つまりたくさんの作品を作っていく過程で、失敗しそこから学んだことでいい作品を生み出せたのだった。

一方“質グループ”の生徒は完璧な作品について理屈をこねて手を動かさなかったため、中途半端で作品になりそこねた粘土だけが残ったそうだ。

こんなことから、筆者は目標がビジネス、スポーツ、芸術、人間関係などどんな分野でも同じことは当てはまると指摘している。単にデータや情報を眺めていても、実績にはつながらないことはよく理解できる。


「ばかげたことをやらないと、知的なアイデアも生まれない」

2011年02月06日 | Weblog
『「一勝九敗」の成功法則』ジョン・C・マクスウェル著より。

これは『エクセレント・カンパニー』の共著であるトム・ピーターズが言っている言葉だった。どんなことも無難にやり遂げようとだけ思っていると、実に面白くないものだ。

たとえ商品や提供するサービスが100%完ぺきだと思っても、それは相手(たとえばお客さん)から見れば、当然のことに違いない。

感動してもらったり、印象に残すためにはプラスアルファ付加価値を残さなければならないのだろう。そして、そんなアイデアはばかげたことをやって初めて生まれる可能性ものあるのだ。

当たり前のことを当たり前にやっているだけでは、いいアイデアなど生まれそうもない。本当にいいアイデアは多数の失敗作があるからこその結果ともいえる。

それはエジソンが言っていたように、人が失敗だと考えることも、それではダメだといういうことが分かったと考えれば失敗ではないというのと同じなのだろう。負けず嫌いとも思えるが。

ここにテキサスの古いことわざの紹介があった。「牛を手放さない限り、どれだけミルクをこぼそうと、どうってことはない」。つまり、失敗は取り戻せない、というのは勘違いだと知るべきだったのだ。

失敗できるチャンスがあるだけでも幸せだ・・・

2011年02月05日 | Weblog
『「一勝九敗」の成功法則』ジョン・C・マクスウェル著より。

このフレーズもまた、訳者である齋藤氏自身の経験から出た言葉でもあった。氏は失敗以前の段階で悶々とするなとアドバイスしている。今でこそ多数のベストセラー本を次々に出し、著作も350冊に及ぶ齋藤氏だが、初めからスムースにいったわけではなった。

20代の頃には、本を出して世に認められたいという気持ちでいっぱいだったと振り返る。しかし、大学での論文は一般の人が読む機会が少なく、世に問うことはできなかったのだ。出版社からも声がかかることもなかった。

ここから齋藤氏が学んだのは、「立場がないと失敗すらできない」ということだったようだ。ビジネスマンなら自分で責任をもって主体的に動かなければ成功も失敗もあり得ない。

ということから、失敗できるということは、リングに上がれた(=とりあえずのチャンスは与えられた)ということでもあったのだ。リングに上がれなければ試合での勝ち負けなどまったく関係ないことだった。何ごともまずは実力がなければ・・・かな。


成功の“勝ちパターン”とは、「自分の得意技を結集して錐(きり)のように突き刺す」というイメージ・・・

2011年02月04日 | Weblog
『「一勝九敗」の成功法則』ジョン・C・マクスウェル著より。

確か同じようなタイトルで柳井正氏もかつて書いていたのを思い出す。この翻訳は齋藤孝氏だったので、手にとってみる気になった。

そして、上記フレーズは「訳者のことば」の部分にあったもので、齋藤氏自身にとっての言葉だった。才能のあるなしよりも、むしろ密度の濃い自分の得意技をぶつけるほうが大事だという。

また、錐である“得意技”は3つくらい準備しておければ理想らしい。それが自分のスタイルになるということだった。とはいってもそうそう簡単に得意技を習得できるわけではない。

スポーツの世界では2万回の練習で一つの技を習得できるそうだが、ビジネスの世界も同様のようだ。失敗するのはまだ未熟で、技が足りないと考えた方がいいらしい。こう考えれば失敗した時の落ち込みも納得できる・・・かも。


人は、知っていることが増えると、否定的になってしまう生き物・・・

2011年02月03日 | Weblog

「シロウトだからなんでもできる!」齋藤裕美著より。

これを逆説的な表現でいえば、シロウトは恐いもの知らずとなるかもしれない。つまり知らないことの方が多ければ向こう見ずなこともできるのだ。

筆者も17歳で起業していた。それもシロウトだからできたことだと振り返る。よくマスコミなどでは10代の起業家が紹介されるが、実にはつらつとして羨ましく感じる。

プロになれば、当然ながら業界についての知識は豊富に持っていなければならないだろう。だからこそ、始める前にこれは不可能だと判断してしまい前に進めなくなってしまうのだだろう。

振り返れば、社会人になりたてはだれも新人だ。それでもいつしか中堅になり後から後輩が入れば先輩になりベテランになっていく。知らず知らずのうちにノウハウを身につけプロに近づいているのだろう。

そうなると冒険はしにくくなることも確かだ。安全策より挑戦の意欲や好奇心が勝るのはやはりシロウトのうちだろうな。またアマチュアだからこそ新しい着眼点が見つかったりもするのだろう。

いろいろな情報や知識にまどわされて、あれもダメこれもダメとなったら、面白さも半減してしまうに違いない。知らないからこそできることって、意外に素晴らしいことにも思えてくる。体験することでプラスになることもあるだろうし。



思いつきには賞味期限がある。

2011年02月02日 | Weblog

「シロウトだからなんでもできる!」齋藤裕美著より。

たまに自分ではいいアイデアが思い浮かんだと感じることもある。しかし、そのままにしておくといつか自然と忘れ去ってしまう。またそれを手帳などに書き留めておいても、繰り返し見返さないとそれもいつしか消えてしまう。

つまり仕事でも夢でもそれを出しっぱなしではいつまでたっても形にはできない。いくら素晴らしいアイデアであろうと、誰にも評価されない。つまり思うことだけなら誰にでもできるということになる。人に話したところで同じことだろう。

いつか自分のホームーページをつくる、絵画展を開くというような夢も、現在すでになにかを始めていなければ前には進まない。絵に描いた餅と同じことになってしまう。思いつきを形にするには、自分に条件を出してできることを素早く始めることのようだ。

締め切りをつくり、プレッシャーをかけることで、思いつきの賞味期限はできるのだろう。つまりその賞味期限内にやることが大事だという意味だった。

やや関係ないが、また私自身もつねに思っていることは、「思いつきでやっていることも継続すれば、それが自分のスタイルになる」ということだった。たとえば、このブログも思いつきでスタートしたが、今のところは書くことが生活の一部になっているのかも。



消費者はもはや、企業にモノやサービスのみを求めてはいない。

2011年02月01日 | Weblog
「これならわかる!ドラッカー思考」枝川公一著より。

というとは、それ以外の何を求めているのだろうかと、振り返ってしまった。癒し、安心、ワクワク感、快適さ・・・なのだろうか。

ここでは、“生活を革新し、よりよい暮らしができるための知識を提供してくれることを望んでいる、”とあった。これが企業が生き残るための第一条件だという。

つまり企業は一般消費者がどんなものに価値を感じるかをつねにリサーチしているのだろう。しかし消費者側がそれに気がついてないことのほうが多いかもしれない。

それは年代や個人の趣味によっても大きく異なってくるものだろう。コンビニのサービスの豊富さ、100円ショップのありがたさ、ネットのお気軽さもそれを体験するまでは分からなかったものだ。

10年前までは、家族全員が携帯電話をいつも身につけて外出するとは考えられなかった。一度その便利さを味わえば、もう離せなくなってしまう。それによって暮らしは大きく変わってきている。