ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

何か新しいものに出会うと、「見る前に飛んでしまえ!」と思う・・・

2008年01月16日 | Weblog
「相鉄瓦版」2008.1,2月合併号より。

俳優の大杉漣さんが言っていたこと言葉だった。この号の特集は「人生は五十歳から」というタイトルが付いていた。大杉さんは現在50代後半にさしかかっているが、実に前向きにこれまでの人生を歩んできたようだ。この言葉がそれを象徴している。

大杉さんは53歳の時に「ライフ オン ザ ロングボード」という映画に出演している。これは55歳の男性が役の中でサーフィンをすることになっていた。実際はそれまで大杉さんはサーフィンをしたことがなかった。しかし、とりあえずやってみようというチャレンジ精神で練習をしている。

実際やってみると、こんなに楽しいのか!と実感している。撮影の合間の練習では上達はしないものの、サーファーの気持ちがわかってきたという。映画のクライマックスのシーンではボードの上に立つテイクオフができなければいけなかった。

ところが、それまで一度もテイクオフには成功したことはなかったのだ。スタッフは代わりのテイクオフをする吹き替えの人を用意していたが、大杉さんは監督に自分に「やるだけ、やらせてほしい」と直訴している。心の中では当然ながら不安があったようだ。

やってみた結果、十数メートルながら立つことができたのだった。役のなかの主人公が喜びを爆発させる場面があったが、それは演技ではなかったという。素の表情の自分が映っていたようだ。大杉さんはこの役を通じて「一歩踏み出すことの大切さ」をあらためて教わったと述懐している。

これは“石橋を叩いて渡る”と対局にある発想でもあるかな。また映画の撮影が終わったあとでも、サーフィンを趣味として続けているという。仕事を通じて得たものを趣味としてしまっている。転んでもただでは起きない・・・か。すごい!

「職人やデザイナーも本当はすごい確率で失敗している」

2008年01月15日 | Weblog
「丹精で繁盛」瀬戸山玄著より。

この本の中にはさまざまな職種で働く専門技術や独自のノウハウを蓄積した人たちの取材が丁寧に描かれていた。そのなかで日本の伝統職人技術に独自の挑戦で成功した左官職人、狭土(はざと)秀平さんの話があった。最近では有楽町にできている外資系豪華ホテル「ザ・ペニンシュラ東京」の壁面を仕上げていた。それは彼を含め8人の飛騨高山からきた職人によるものだった。

その最初の部分で筆者の瀬戸山氏が「人が真似できない物づくりの技を磨いて身につけていたら、もっと別の生き方も開けていたのではないか」と若い頃に妄想を抱いていたと語っているのが印象的だった。そして、それを実現していたのが狭土さんでもあった。現在は1年先まで東京での仕事の予定が詰まっているという。とはいっても、そこに至るまでは苦労の連続だったようだ。

自分では満足できない出来栄えではあっても、みんながいいと言って救われる場合も多いらしい。一般の人から見れば、それが失敗か成功かもわからないためであろう。それだけ自分のなかの完成度のレベルは高いともいえそうだ。有名デザイナーの作品だから絶対にいいとは限らないということになる。「むしろ失敗の中に成功例が残っていくに過ぎない」とも振り返っている。

物づくりの際、大道をいくと、結局オーソドックスで常識的なものになってしまう。だから、新しい物を作ろうとするなら、大道から外れる勇気も必要になってくる。創造をつかさどる右脳と論理思考の左脳のバランスが右6.5、左3.5がいいとこの左官職人は語る。誰もが認め感動できる丹精込められた仕事はこんなレベルから始まっているようだ。

「こだわり」という奇妙な流行語。

2008年01月14日 | Weblog
「丹精で繁盛」瀬戸山玄著より。

この本のサブタイトルには“物づくりの現場を見にゆく”とあった。ところが、この筆者はただ外から見るだけではなく、実際に自身で体験までもしていた。東京のある完全無農薬の有機栽培をしている農園を観察するため近所に引っ越しまでしている。そしてその農園で3年間も野菜作りを手伝っていた。

その現場での体験でより丹精という言葉の意味が理解できたようだ。しばしば、「こだわり」という言葉を耳にする。かつて、こだわるという言葉はあまりいい意味では使われていなかった。「まだそんなことに“こだわっている”のか」などと。しかし、最近ではいい意味で用いられていることのほうが多そうだ。「こだわりの食材」「私のこだわり」など。

しかし、「丹精をこめた」という場合には、決して悪いイメージはない。むしろ、丁寧で心がこもっているような意味合いがありそうだ。「丹精をこめたお米や料理」なら、しっかりと味わって食べてみたいと思う。「こだわり」に比べるとずいぶんと気持ちがこもっている感じがする。もちろんこの言葉も自分から言い出すものではないだろうが。

そうすると作り手本人が「こだわり」などというとかえって信用できなくなってくる。筆者は、工夫と苦労を重ねた末に独自の繁盛への道を切り開いた方たちを丹念に取材している。一見地味なテーマではあるが一気に読んでしまえるのは、物づくりにかかわる人のアイデアや迫力を感じたからかもしれない。


給料袋に代わる演出をすればいい・・・

2008年01月13日 | Weblog
「R25」2008.1.4号より。

所ジョージさんがインタビュー記事の中で言っていたフレーズ。そもそも給料袋というもの自体かつて学生時代にアルバイトでもらったくらいで、その後は目にしたことなどなかった。手にすることができるのはただの給与明細書だけにすぎない。

つまり、一般にはお父さん(実際にはほとんどの給与所得者)が給料日に手にするのはただの紙一枚の明細書だけなのだ。コンピューターで金額の数字が打ち込まれているものだ。何度手にしても厚みは同じもの。

所さんは給料袋を持って帰らないようになってから、親のありがたみが薄れたと感じられるならば、それに代わる演出をしてありがたみを感じてもらったらどうか、という提案だった。それには何か買った物を手に持って帰るといいという。そういえば手運びのお土産は手作り感にも通じるところがありそうだ。

子供が幼いころは、確かにしばしば食べ物のお土産などを買って帰ったものだった。それで家族が喜んでくれれば嬉しくも感じられた。しかし、子供らも成長するとありきたりなそんなものでは大して喜ばなくなってくる。実際親のありがたみを感じさせるのは結構難しい・・・な。

蛇足

フリーペパーの「R25」を手にできない方は下記のウェブでもご覧いただける。

http://r25.jp/

60歳にして得た「天職」

2008年01月12日 | Weblog
「朝日新聞、土曜版」2008.1.5付けより。

(これは昨日の日記の続きとなる。)このコーナーの“こころの定年”というコーナーに付けられていた今回の題名が上記の「60歳にして得た天職」だった。

会社勤めをしながら美容師の資格を取得するというのも、想像しただけでも苦労が多そうだ。それまで実技の経験などあるわけがない。通常1年のところを3年かけて資格を取得している。国家試験には2度落ちていた。毎朝人形を相手にカットの練習を続けたという。

結局資格を取るのに7年かかっている。しかし退職した58歳のときには、美容師のほかにホームヘルパー2級の資格も取得していた。退職後は英国の専門学校に2ヶ月留学、帰国後国内の美容室で2年間修業して開業している。

現在、高齢者やハンディのある人の自宅や施設への訪問サービスも好評のようだ。すでに横浜と杉並に支店があるというほどだから、胸を張って天職といえるのだろう。Fさんは現在66歳になっている。

まっすぐに目標に向かって苦労を乗り越えた結果はじめて天職に出会えたのだろう。50歳の時に目にした新聞記事に感動したことが、こんなにも人生を変えてしまうものか・・・な。

やや蛇足になってしまうが、この1週間後の土曜版(1/12付け)のインタビュー記事のなかで、松本幸四郎さん(65歳)が「60歳を過ぎてから見る夢こそ本当の夢だ」といっているのとやや関連していそうだな、と思った次第。

天職に出会えた人は当然、イコール夢を実現できた人だともいえそうだ。やはり並大抵の努力では夢に近づくことはできそうもない・・・かな。

自分がいなくても組織は回る・・・

2008年01月11日 | Weblog
「朝日新聞、土曜版」2008.1.5付けより。

“こころの定年”というコーナーで目にしたもの。Fさんは45歳の時に3か月のリフレッシュ研修を受けた。その時に受けたショックが大きかったらしい。それは研修そのものの内容ではなかった。

自分がいなくても組織は回るということを知ってショックを受けたのだった。彼は組織の中では重要な支店長というポストだったようだが、3ヶ月間いなくてもその支店、会社自体にとってはそれほどダメージがなかったということだろう。

また逆に一人がいないことで、会社の機能がマヒしてしまうようであれば、とんでもないことではあるが。会社や組織というものは、社員という部品の交換はいくらでも可能だということだろう。

一国の総理大臣だって途中で健康上の問題でギブアップしても国としては機能している。過去の歴史を振り返れば現役の大統領や日本の総理大臣さえ暗殺されたというい事件もあった。しかし歴史の大きな流れのなかでは国の中で大混乱が発生したわけでもなく、それすら忘れ去られたかのように現在がある。

(話がそれてしまった。)Fさんは、それで仕事以外にも打ち込める何かを探していた。そして50歳のときにある新聞記事に出会っている。それはボランティアの美容師に髪をきれいにセットしてもらったのをきっかけに、元気に歩けるようになった92歳の老女の話だった。

それまで施設で寝たきりだったにもかかわらず、歩けるようになったという記事を目にして、Fさんは美容師になろうと決心をしている。サラリーマンが50歳を過ぎてからまったく別の世界に飛び込もうという勇気もすごいと感心してしまった。

30歳の頃の体重63キロと腹囲85センチをキープ・・・

2008年01月10日 | Weblog
「朝日新聞、土曜版」2008.1.5より。

問題はこう語っている人が現在何歳なのかだろう。すでに新聞をお読みの方はご存じだと思うが、66年間もの上記の数字をキープしていることになる。つまり現在、96歳の日野原重明先生だったのです。

ここで、ちょっとおやっと思ってしまったのは、一般には腹囲85センチ以上ならメタボ注意報が出ているはずなのに(私自身も毎回それに当たっている)、いつも元気で長寿でいられることだった。

しかも75歳を過ぎた頃から、多忙のため運動する時間もない生活を送っているとも語る。で、今年は変えたい習慣ということについて述べていた。それは何と徹夜をやめ、毎日睡眠時間を30分増やすことにしたという。

つまり今までは週に1回徹夜をし、午前2時から6時半までだった4時間半の睡眠時間のうち徹夜をやめて睡眠時間を5時間にするというものだった。

あのお歳で毎週徹夜をしてきたと知って驚いた次第。かなり不健康な感じもするが。私など夜中の12時を過ぎればとても起きてはいられないのに。

超人の日野原先生が新年に詠んだ一句が添えられていた。「私には余生なんてないよこれからぞ」いやはや・・・ですね。早く余生を楽しみたい、などと考えるのは罪悪のような気になってしまう。


「野球は人生そのものだ」なんて長嶋さんが言っていたが、・・・

2008年01月09日 | Weblog
「朝日新聞」2008.1.3付けより。

上記のフレーズは星野仙一(北京五輪野球日本代表監督)氏が述懐したものだった。星野氏は「その通りだと思う」と語っている。その理由として、犠牲バントを例に取り上げている。野球後進国に教えに行くと、子供たちが「どうして打たせてくれないんだ」と言うそうだ。

そこで、星野氏は「野球というのは自分が犠牲になったりアウトになったりして得点を競うスポーツなんだよ」と教えている。結局それは社会生活でのなかでも同じことだから、長嶋氏が言った“人生そのもの”、に通じているのだ。

自分が自分がといっているだけでは、チームで戦うスポーツも社会生活も成り立たない。野球でいえば、一、二番と四番打者では期待される役割や能力が違うことを考えれば容易に想像できる。

たとえいくら投手がゼロで抑えようが味方がゼロでは勝ちはあり得ない。試合展開によってはどんな強打者でも死四球、犠牲バントや犠牲フライも要求されることもある。いずれにしても得点を入れることを前提として勝ちを競うスポーツなのだから。

星野監督の指導方針の根底には明大の恩師島岡監督の影響があるようだ。試合がピンチの時は「何とかせい」が口癖だったという。細かな指示はないから、自分たちで考えなければならなかったようだ。

そのため“とりあえずインコースは当たってでも塁にでよう”とさえ工夫をしたらしい。もしこれを日々の生活に置き換えたらどうだろう。もし、生活が厳しかったら、とりあえずどんな仕事でもいいから就かなければと思うかもしれない。

ニートと呼ばれる人たちを除けば、きっとそういう気持ちで働いている人が多そうだ。また今している仕事がうまく運ばなかったらどうかと考えれば、モチベーションや創意工夫が足りないことにも気付くかもしれない・・・な。(と、自分に言い聞かせたりして)

蛇足

このインタビュー記事の最後のほうで星野氏は「私はまだ、熱さでは若者に負けないと思っている」と述べていた。この熱血監督はオリンピック代表の前に“団塊の世代の代表”でもあるかな。


知の世界への挑戦に年齢は関係ない。

2008年01月08日 | Weblog
「朝日新聞」2008.1.3付けより。

この言葉は「声」という読者の投書欄にあったもの。この日のテーマは“出会い”だった。これは77歳の無職の男性からの投書の中にあったものだった。読書が好きらしいこの人は書店で『岩波数学入門辞典』を注文したのだ。

その際「今さらこんな本を頼んで変でしょう」と書店主にいうと「もうお一方おいでですよ」と答えている。なんとその人は卒寿を過ぎた男性だったようだ。しかもそんな話をしているうちにその孫が「おじいさんの本、入ってますか」と言いながら店内に入ってきたという。

そして、この77歳の男性が見ていると『プラトン全集』だったのだ。そして、へえーと感心してしまった、と述べている。そして、それに刺激されて『哲学の歴史』(中央公論新社)を買って今読み続けているという。

実際にその方に会ったわけでもなのに90歳を超える見知らぬ男性に「私も負けずに読書を続けます」と心のなかで話しかけているようだ。77歳の男性は昔大学で数学を教え、また90過ぎの男性も元教職についていたという。

そんなところも学ぶことに何の抵抗もなかったのかもしれない。この投書を読んだときには学ぶことに遅過ぎることはない、と教えられているような気にもなった・・・な。前向きに読書する気持ちを持てるだけでもすごいこと。


私へのお年玉・・・

2008年01月07日 | Weblog
子供たちにとって、新年のお楽しみはお年玉だろう。今年も親戚の甥や姪たち6人にお年玉を持参した。今年は初めてパソコンからダウンロードしたハンドメイドのお年玉のポチ袋に入れて持って行った。(そのポチ袋については12/31と1/2の日記で触れいていた)

そしたら、何と!その全員からまたお返しをもらってしまったのだ。とはいっても買ったりしたモノではない。それは一枚の紙に書かれた“お礼の寄せ書き”だった。

恐らく深夜か早朝の私が寝ている間に、甥によって車で届けられたものだろう。朝新聞を取りに行った際に、年賀状とともに輪ゴムで留めらポストに入れてあった。

一番上が9歳から下は0歳までの6人だったが、さすがに赤ちゃんは書けないので親が書いていた。鉛筆の文字からは覚えたてのひらがなを一生懸命に書いていている様子が伝わってきた。どの文字からもぬくもりが伝わってくる。これがアナログの良さだと実感。

中心の手書きの丸のなかには「Sおじさんへ」と書いてある。その周辺には思い思いのお礼の言葉がつづられている。また絵も描かれていた。私にはそれが貴重なA4一枚のお年玉でもあった。額に入れて飾ってもいいような気持にさえなる。

とりあえず今は年賀状と一緒に束ねてあるが。いずれ6人の子供たちが成長したらまた見せてやりたいものだな。こういう無邪気なものはお金には変えられない価値があると思った次第。


「同一物との接近遭遇」で恥ずかしい思いをすること。

2008年01月06日 | Weblog
「衝動買い日記」鹿島茂著より。

上記のカッコ内の言葉だけだと、なんだか抽象的で意味不明な感じもする。もっと具体的に書けば次のようになる。~~とくに女の人の場合に当てはまりそうだが、外を歩いているとき同じ洋服を着ている人に出くわしたらどうだろう。きっと、嫌な気持ちになることが想像できる。

もし、同じブランドのデザインであっても色や柄さえ違っていれば、ややほっとするかもしれない。当然既成品なら同じものは大量生産されているので、まったく同じものを着ている人に出会うことも当然ありえる。

でも、男の場合はどうだろう。背広を例にとれば、どれも似たりよったりなものだ。一番多いのは濃紺かもしれない。数メートルの距離からならどれも同じように見えて当然だ。

そんなものにいちいち気を使っていられない。むしろ制服、作業服というイメージでスーツを着ている人も多いに違いない。せいぜい変化をつけるならワイシャツとネクタイくらいなものだろう。そういえば、約25年前にまったく同じネクタイを結んでいる人に電車で出会ったことがあるが、やはりその時はがっかりしたものだった。

とにかく働いている女性は通勤時などには、頻繁に異なるバリエーションをつけている。自らの気分転換もあるだろうが、やはりどこか人とは異なる個性的な洋服を着たいという気持ちもあるのだろう。男女関係なく「同一物との接近遭遇」はできるだけ避けたいという気持ちはあるはず。

もし、同一の洋服や服飾品を見かけてこちらが恥ずかしいとかガッカリしたと感じたなら、きっとその相手も同様な気持ちかも・・・な。

声に出さなくてもできる応援がある。

2008年01月05日 | Weblog
昨夜、応援というテーマで日記を書いていたらMさんからは、ご自身は「子供の応援団」だというコメントをいただいた。このワンセンテンスだけでほのぼのとした気持ちが伝わってきた。微笑ましい限り。

なるほど、親はいつも子供の応援団でありたいもの。とくに子供たちが小さい頃は運動会などに出かけるとべつに声を張り上げなくても気持では応援してしまう。ビデオ撮影する親バカは応援の証拠でもあるに違いない。

そして、子供が成長して受験生になれば、また夜食を作り塾に通わせたりもする。それもいわば子供への応援の一種とも思える。考えれば、子供にとって親は一生の応援団かもしれないな。

ところで、こんなブログを書いている時にも訪問してくださる方や足跡やコメント、メッセージを残してくださる方々もまた、自分にとっては応援してくれているようにも思えた次第。コメントという声がない応援も実にうれしい。心より感謝!感謝!!(昨夜の日記はいささか長すぎたので今夜は短めに)


「明日は勝てよ」という応援・・・

2008年01月04日 | Weblog
「人脈より人望のある人が成功する」中谷彰宏著より。

毎年、正月の2、3日にはテレビで大学箱根駅伝を見てしまう。(とは言っても今回もすべて見たわけではないが。)沿道にはどこも人があふれていた。その人の群れは多さだけで選手への応援になっているに違いない。声援が多いほど選手への力づけになるだろう。

往路の優勝校は早稲田だった。しかしまだ総合優勝が決まってない段階では喜びも半分だったことだろう。その時の渡辺監督のインタビューでは「駒沢さんが強いことはわかってますから」といっていたのが印象的だった。そして、その言葉どおりに駒沢は逆転優勝を遂げている。やはり、強いチームは本当に強いチームを知っているのだなと痛感した次第。


応援と言ってもただ言葉だけや気持ちのこともあるでしょうが、とくにスポーツの応援には体全体で表現する派手なものもありますね。Jリーグが活発な地元では、ひいきのチームカラーのTシャツを着て顔にペイントを塗りたくり、盛んに動き回っている様子を目にします。

最近ではプロ野球のスタンドでも行われるようになりましたが、ウェーブという応援はサッカーから来たものでしたね。そんな様子は応援すること自体を楽しんでいるようで、実に健康的だなという印象さえ感じられますね。しかし、あまり熱狂的に勝ち負けにこだわり過ぎると暴動も元にもなるようですが。スタンドでのいさかいもたまに目にします。

また甲子園ではよくPL学園の生徒全員によるプラカードで絵文字を作る応援が印象的です。それは芸術にさえ思えますね。たんい応援団が指揮をとって声を張り上げるだけでなく、生徒全員が統一された応援も見ごたえがありあます。

応援の仕方はスポーツによってさまざまで面白いことに気づきます。たとえば、変わったところでは大相撲で横綱が負けた時には座布団が土俵に向かって投げられます。これも実は応援の一種だったのです。これは負けた横綱へのブーイングでありまた「明日は勝てよ」という応援のようです。と、同時に横綱と負かした力士へのオべーション(声援)でもあったのでした。

やじ馬でもなんでも声を張り上げたり、体全体で表現できる応援があると楽しそうですね。その前に自分がその競技に関心がなければ応援もできませんがね。


日本の野球は、プロ野球より学生野球が先・・・

2008年01月03日 | Weblog
「人脈より人望のある人が成功する」中谷彰宏著より。

先日たまたまある資料を見ていたら、プロ野球連盟が結成されたのは1936年(大正11年)だということを知りました。また、東京六大学野球が結成されたのは1925年だったのです。

さらに、もっと古いのは今の全国高校野球選手権大会(当時は中等学校)だったのです。これは1915年(大正4年)に第一回大会が行われていました。決勝戦の結果は、「京都二中2-1秋田中」でした。

プロ野球連盟が結成された年には、全国中等学校野球大会はもう第22回、選抜大会は第13回を迎えていたのです。この中谷氏の本によれば、早稲田大学の野球部が初めてアメリカ遠征をしたのが、1905年といいますから、もう100年以上前のことでした。

そして、早稲田大学の野球部がアメリカに遠征して勝ったのはリトルリーグ相手の時だけとありました。しかし、学んできたのはエール交換という応援の仕方だったようです。それは、現在になっても野球を見に行くとその光景を見ることができますね。

応援はされるとうれしいものでしょうが、する方も結構楽しいものですね。とくにそれが母校の応援ともなればかなり力が入るもの。これを書きながら、自分も20、30年前には神宮球場へ母校の応援によく行ったことを思い出した次第です。


新年のお手軽印刷(2つほど)

2008年01月02日 | Weblog
(その1)
昨日、地元県内の神社へ初詣に行って帰ってくると、ポストには年賀状の束があった。これはいつものパターンでもあるが。そのほとんどはパソコンによる印刷によるものだが、やはり直筆の一文のないものはそれがいくらきれいに印刷されていようとも、ただのDMにしか見えてこない。こんな感想を抱くのもいつものパターンだとふと気付く。

しかし、元旦に届くように送ってくれたということは、暮れの27、28日ごろには投函してくれたのだろうと感謝せねば。もちろん私も25日には昨年いただいた方にはすべて送付していたが。しかし、毎年のことだがこちらが書いていない人からも届いていたので、その分だけさっそくパソコンに向かって印刷した。その後、ひと言メッセージを付け加えて投函しておいた。パソコンとプリンターでお手軽印刷できることは実にありがたい。

(その2)
今日は実家の兄のところに新年のあいさつに出かけたが、その際に甥や姪の子供たちにお年玉の用意が必要だった。手元にお年玉用のポチ袋がみつからなかったが、一昨日の日記(12/31)にも書いた「お金の洋服屋」というサイトをさっそく開いて、数種類の袋のデザインをダウンロードしたのだ。

これを知っているだけで、実にお気楽に印刷ができる。印刷した用紙をハサミで切り取って、のりづけしたらもう出来上がり。なんと楽な作業だったことだろう!やはりお金を渡すときには、ちょっとした洋服を着せてあげるとお金も喜びそうだな。