カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

もらい泣き。

2014-07-14 13:01:19 | Weblog

 ワールドカップが終わってしまった。

 今朝も目覚まし時計でちゃんと起きて決勝を見た。

 さすがに素晴らしい内容の決勝戦だった、感動した。

 やはりサッカーは面白い、今日でその世界最高峰の祭典が見れなくなるのが惜しい気もしている。

 延長後半に一点入れられたアルゼンチンのファンたちの落胆ぶり、その涙にもらい泣きであった。

 ブラジル戦のファンたちの涙にももらい泣きした。

 小さい子供からお年寄りまで涙を流し落胆に暮れるその姿は、まだ日本にはない何気ない日常の中にさえある生きた生活の中にサッカー文化が根付いている表れだと感じたし、それは信仰のような形ですらあるかもしれないと思えた。

 いつか日本もそのようになれば、きっともっと上位に食い込めるのではないかと期待する。

 その日本では長友のインタビュー時の涙に、私も一緒に泣いた。

 ワールドカップまでの4年間の思いをインタビュアーに聞かれた長友は、途端に目頭を押さえ、その場を少し離さざるを得なくなり、溢れ出る涙を抑えるように天を仰ぎ、高まる感情をどうにか抑えようとしたが、それがどうにもならなくなり、言葉の代わりとして涙があふれ続けた、その思いに計り知れない努力と信じる力によって支えてきた彼の中の彼が子供のように涙したのかもしれない、それが私のそれに反応し、私も涙した。

 優勝者ドイツ以外には届かない祈り、叶わない願いがたくさんたくさんあったワールドカップであったであろう、そのすべては無であったのだろうか、いや、きっとそうとも言えないだろう。

 子供の時のペレの話である、ブラジルの敗戦に涙する父親に彼はこう言った。

 「パパ、泣かないで。僕がきっとブラジルを優勝させるから」そして、そのペレは約束を守ったのである。

 これからまたペレのような子供たちが敗戦に涙する大人の夢を引き継ぎ、より素晴らしいサッカーを提供するようになるのである。

 そして、私たちはそれに間違えなく感動する。

 涙の向こうにそれがあると信じれるのであれば、生きる糧は自ら生み出すものであり、自由選択の可能性の中にあると言えよう。

 こうした涙はカタルシスを与え、それは必要なものである、恥ずかしいと思うこともあるが、素直な心の現れとして意味あるものではないだろうか。

 
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クアトロ・ラガッツィ。

2014-07-11 12:30:32 | Weblog

 昨夜「クワトロ・ラガッツィ{天正少年使節と世界帝国}」上下巻を読み終えた。

 一冊500ページほどあり、とても読み応えのある素晴らしい本であった。

 ザビエルが1549年に鹿児島に上陸して以来、鎖国までの八十余年間に日本では世界に類のないカトリックの信者数が増え、また世界に類のない殉教者を出した。

 殉教者は幼子から老若男女数十万に及ぶ、その事実を改めて知ると、この日本にこれまでもイエスのカルワリオの苦しみを味わった者たちがいることに敬服せざるを得ない。

 この「クワトロ・ラガッツィ」は作者である若桑氏が資料をたぶん数百冊読み漁り、検討に検討を重ね、その信憑性の高い事実を提示したり、また日本の資料だけではなく、
当時の宣教師側からの資料との比較、そして、そこに疑問を抱いたり、時に彼女が裁判をそこで開き、ある人物の弁護をしたりするのもとても面白かった。

 遠藤氏に興味を持ち、「沈黙」から潜伏キリシタンものを読むようになり、戦国時代の小説も好むようになり、私自身がカトリックの洗礼を受けるという決意のもとで日本にどうキリスト教が入ってきたかに興味を持つようなってから、それを知るようになり、カトリックになり、最終的にこの「クワトロ・ラガッツィ」に出会えたことは導かれたものかも知れないと思わずにはいられない。

 ちなみにこの「クワトロ・ラガッツィ」には私のヒーローの一人ペトロ岐部のことは残念ながら出てこないが、「沈黙」のモデルフェレイラは出てくる。

 彼は天正少年使節の一人だった中浦ジュリアンと同時期に長崎で穴吊りの拷問を受けた。

 フェレイラは五時間で棄教したが、ジュリアンは六十歳の老体だったが五日穴吊りされ、そのまま殉教した。

 私には到底フェレイラを非難することなど出来ないが、ジュリアンの信仰に敬服するばかりである、もちろん、それは他の多くの殉教者にもである。

 その声を聴くことが出来ないが日本人のカトリックの一人として、やはり、聴きたいと意志は持っていたいのである。

 大きな歴史の波に弱気人間はのまれるしかなかったが、その中であれ、健気に生き抜く姿には人間の持つ何とも言えぬ神性があったのではないだろうか。

 今は遠藤氏の「宿敵・上巻」を読んでいる、またそれを感じようとしている。

 話は変わるが、台風一過の晴天を浴びて、私の緑のカーテンの朝顔は二階のベランダまで登って来ているその姿を私は飽きずに何度も見つめている。

 そこに植物の中にある健気さとその神性を見つけ出すように。

 
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明日が締め切り。

2014-07-09 13:29:28 | Weblog

 明日がとりあえずアピアのあたふたの原稿の締め切りであるが、書いたはいいが、4000文字ぐらいになってしまった。さて、どうしたものか。まだ書き直したいと思っているし、言葉が足らない、言葉が出てこないと奥歯に力をいれてしまうところである。しかし、とりあえず、書き終えた。

 また明日ゆっくりと修正しよう。




 月曜日の朝、私はプレムダンに行くジョアンに、もしサドゥーに何かあった場合には携帯に連絡して欲しいと伝えた。

 毎朝の駅の仕事に向かう前に行く病院の訪問を終えて、マナーモードにしていた携帯を見るとジョアンからの着信が二度あった。

 まさか、サドゥーに・・・、と思いながらも、すでに心のうちでは覚悟を決めて、ジョアンに電話した。

 サドゥーは昨夜亡くなったと言うことだった。サドゥーはホーリーの夜に亡くなったのだ。サドゥーはヒンドゥー教のサドゥーとして生き、結婚もせず、親兄弟などとは一切会わずに、私利私欲なく、その生涯の長い間を病人のケアのために使い、最後にカトリックになり、言葉を話し始めた。そして、選んだ最後の日がホーリーの夜とは、私にはあまりに完璧に思えてしょうがなかった。あまりに美しく思えてしょうがなかった。彼の生涯、そのすべては神さまのために美しいことをしたことに終わった。

 人間にはサドゥーのような生き方が可能なのか、私は彼を聖人だと思わずにはいられなかった。駅の仕事を終え、花輪を買ってプレムダンに行った。多くの患者が私を見るとサドゥーが亡くなったことを知らせてくれた。一人の小さな知的障害の男の子はサドゥーの死を惜しんで泣きじゃくっていた。サドゥーは誰にでもほんとうに優しくあり、愛された男だった。

 一人の患者が私のところに駆け寄って来て、サドゥーが亡くなったことを言うと、彼は亡くなる前にサドゥーが話したことを教えてくれた。

 「私はもう先に行くから、あなたたちは後からゆっくりと来なさい」と。

 彼はそれをとても嬉しそうに教えてくれた。私ははっとした。死は決して哀しむべきものだけではない、十二分に生命を生き抜いた死は祝福されるものであることを肌身で知ったのだった。私は微笑んだ。サドゥーを思い、感謝の思いに包まれ、比類ない喜びに包まれた。それはサドゥーが周りの者たちに祝福を与え続け、天国に旅立ったと言うことの証しが私のうちに芽生えたのであった。

 近くにいたジョアンに私は「今日はサドゥーのために祈ろう」と言うと、ジョアンは微笑んで言った「いいえ、サドゥーが私たちのために祈ってくれている」と。
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カニューレ。

2014-07-08 13:22:31 | Weblog

 どうにかしようと思っても、どうにもならないことはある。

 その地団駄を踏むような歯がゆさは私のもので、彼のものではない。

 しかし、それは彼が現在感じているものの一部のようでもあるのだろう。

 心は移るのである、がしかし、そこで自他の区別をしながら、変えられるものと変えられないものとを見極め、それを受け容れる勇気と静けさを必要とする。

 心に傷を付けるようにして、そうしたことは何度も分かろうと試みてきた。

 しかし、命に係わることとなると、それはやはり難解である。

 先週の土曜日のカレーの炊き出しに久しぶりに顔を出した男性がいた。

 彼は親、兄弟を激しく憎んでいた、いや、それだけではない、この世の中を憎みながら自己否定感強く生きていた。

 彼は愛情を飢えながら生きざるを得なく、その生き方は痛々しいほど生きづらく映った。

 しかし、穏やかな会話の時に時折見せる笑顔の奥底からは、彼が愛を完全になくしていないことも知っていた。

 その日、私が挨拶をしても、彼は首を丸めて、私に一度も顔を合わせようとしてなかった。

 何かどうしても気になったので、彼が二度目のカレーをもらうために並び、それをもらった後に、私は彼を引き留めた。

 すると、彼の首にタオルが巻かれていることに気が付き、彼が話そうとするのだが、声はまったく出ずに、手振り身振りだけで意思を激しく伝えようとしてきた。

 そして、彼は財布の中から折りたたんであった紙を広げ、それを私に渡した。

 そこには彼の本名と病気名が記載されてあり、その病名は喉頭がんと書いてあった。

 首に巻いた汚れたタオルが下がると気管切開されてあり、カニューレが見えた。

 彼の声が出ないのが分かった。

 そして、カニューレの周りから膿が出ていて、激しい悪臭を漂わせていた。

 タオルにも膿が付いていて、しばらく、病院はもちろんのこと、何の消毒もしていないことが分かった。

 私は病院や山谷にある無料クリニックの山友会に行くように話したが、彼は激しく拒否した。

 がんだと言う絶望感、声を無くした絶望感、そのあまりの苦悩からか、怒りをあらわにし、それを激しく両手を動かして、言葉の代りに意思を伝えようとしていたが、彼の表情の方がより強く、その怒りと絶望感を私に伝えた。

 彼の手話は私には怒りを除いて何も分からなかったと言っていいだろうが、しばらく、彼の怒り溢れる手振りを目の前で見ていた。

 彼の痛みを感じながら見ていた。

 彼は医師への不信とともにきっと病院も勝手に出てきてしまったのであろう、それが目に浮かんだ。

 彼のような患者の場合、精神科医との連携があるべきところであるが、それは行われたのか、どうなのかは分からない。

 ただ彼がカニューレから膿を出しながら、何の処置もしないままに新たながんの転移の可能{顎には赤い腫瘍があった}があるままで、彼は今日も苦しみのうちに路上生活をしているのだろう。

 あなたは死にたい奴は死なせてやればいいと望むのか。

 どうしようもない苦しみのなかにいる者はもっと苦しめばいいと望むのか。

 そんなことは決してないでしょう、私と同じように彼の苦しみを思い、彼のために祈ることであろう。

 無力であるが、決して無ではない、そこに神さまの救いを乞い願う姿は愛を育てていく糧となるだろう。


 
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あんはおしゃべり?

2014-07-07 13:06:24 | Weblog

 昨日はそろそろ爪の長くなってきたあんの爪切りのために、近所のホームセンターの中にはあるあんの美容院に行こうとした。

 まず美容院に電話を掛け、約一時間後の三時の予約をした。

 雨の日には乗らないミニなのでここ最近はまったくミニに乗っていなかった。

 なので、今日は頑張ってもらおうと思い、キーを回ると、シュルシュルシュルとだけセルが回るだけでエンジンは一度うんと言ったが、その後、うんともすんとも言わなくなってしまった。

 その間、あんは家の中でヒュ~ンと言って、ドライブに連れてってとそわそわしていた。

 はぁ~、残念だが、時すでに遅し、あまりにミニに乗らなかったのでバッテリーが上がってしまったのである。

 ホームセンターまで歩いていくことにした、有り難いことに気温はあまり高くなく、このくらいであれば、あんはどうにか頑張って歩いてくれるだろうと期待を持てた。

 あんを励まし励まし30分ぐらい歩いてホームセンターに着いた。

 運良く前回もあんの爪を切ってくれたトリマーさんが今回も担当してくれた。

 彼女はとても優しくあんに接してくれるので、あんは少し震えはしていたものの泣き声は出さずにトリマー室に大人しく連れて行かれた。

 がしかし、いや、やはりと言う感じで、少し経つとキャンキャンキャン・・・とあんの声が聞こえてくる。

 私はその声に胸の痛めながらも、じっとあんと同じように我慢して、耳を澄ませていた。

 そこであんの声の少しの変化を感じた。

 それは以前よりは声のボリュームが減った感じのように思われた。

 ほんの少しだがあんは慣れてきたのかなと思えた。

 私はあんのことが心配でたまにトリマー室を覗いては、あんに見つかるとまたあんは大声を出すかも知れぬと思い、すぐに隠れては、でも、傍にいることをあんに知らせながら、嫌ことを頑張って受け容れているあんのおやつを買ってあげようかと何度も売っているおやつを手にしたりして気を紛らわしていた。

 「終わりました」と笑顔でトリマーさんがあんを連れて出てきた。

 「ありがとうございます!いつも騒いでごめんなさい・・・」

 あんはもう嫌なことが終わったことを肌で感じているので澄ました顔をしていた。

 「あんちゃん、良く頑張ったね」とそう言って、トリマーさんはあんをたくさん撫でてくれた。

 「すいません、ほんとうに。あんは怖がりビビリなのでギャーギャー言ってすいません」

 「いや、大丈夫ですよ。柴ちゃんはおしゃべりなんです」

 えぇ、と思った。

 あんがおしゃべり・・・?

 あれはただ怖いから騒いでいるだけで、でも、それをおしゃべりと言ってくれるんですか・・・?

 心の中で呟いた。

 それはトリマーさんの営業トークだと分かっていながらも、それだけではない、心あるトリマーさんのお人柄と仕事の上手さに感心するのであった。

 彼女が切ったあんの爪はとても綺麗にしっかりと切ってある、それにあんもこのトリマーさんが好きなようで、トリマーさんがあんに顔を近づけると、あんはトリマーさんの顔をペロペロとしていた。
 

 
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今日も少しだけ書いた。

2014-07-04 13:06:13 | Weblog

 
 {誓いを超えた誓いへ}



 私は未だかつて、彼ほどに自分の死期を知る人を知らなかった。彼は完璧なほどに素晴らしい最後を自ら整え、魂とともに愛の生命を生き抜いた。それは美しすぎるほど美しく、神々しくあり、神に見守られたものであったに違いない。私はそれをどうしても疑えないのだ。

 彼はカルカッタのマザーテレサの施設プレムダンで働いていた。私は95年から彼を知り、彼に助けられてきた。彼がいつどのようにしてプレムダンに来たかは誰も知らない、なぜなら、彼は「喋らない誓い」を立てていたヒンドゥー教のサドゥー{修行者}であった。

 きっと何かがあり、プレムダンに来たことであろう、もしかすれば、最初は行き倒れて運ばれた患者だったのかもしれない。しかし、私の知る彼はいつもワーカーのように、患者たちの世話をしていた。それも誰もが嫌がるような仕事も嫌な顔一つ見せず、寡黙に行っていた。その姿には誰もが敬意を示した。シスターたちですら、そうであった。患者たちからは「サドゥーババ」と呼ばれていた。「ババ」とはベンガル語で「父」と言う意味である。

 その彼が歳を重ねていく上で病気にもなり、働けなくなったが、それでも、他の患者たちは彼への尊敬の念を無くすことは決してなかった。

 今年二月半ば、サドゥーは様態がかなり悪くなり、自らアイルランドのNGO「Hope」の病院に入院することを望み、入院した。私はそれを知り、彼を心配していたが仕事の忙しさを言い訳に見舞いには行かなかった。

 それから二週間ぐらい経った頃、サドゥーがプレムダンに戻ってきたことを知った。しかし、その退院は病状が良くなっての退院ではないことを知り、私と彼を知るボランティアたちは確信した。サドゥーは「死ぬためにプレムダンに帰ってきた」ことを。

 その後、彼はプレムダンでカトリックの洗礼を受けた。名前はジョセフメリーである。彼が洗礼を受けたと言う、その意味は安易に想像できるものではないが、彼自身が間近に死を覚悟していることを誰もが感じたであろう。彼はヒンドゥーのサドゥーとしての誓いを超えて、永遠の誓いの中へ、その時歩もうとしていた。

 3月12日の夜マザーハウスのアドレーション後、友達のイタリア人神父から、サドゥーの様態がかなり悪いので会いに行った方がいいと知らされた。翌日木曜でボランティアは休みだった。朝ミサを終えてから、私は一人でプレムダンに向かった。ミサの間やプレムダンに行く道すがら、私はサドゥーとの思い出を一つひとつ思い出しては目頭を熱くし、祈っていた。

 プレムダンに着き、最初サドゥーに会った時、彼だと分からなかったほど、顔を膨れていた。彼は苦しそうに息をしながらも、私と目をあわし、時に私の言うことに頷いてくれたり、今朝のミサでは心配でずっと祈っていたと言うと、彼は昔のような優しい笑みを浮かべたりもした。会話の中で私もカトリックなったことを告げたりもした。

 お互いに長い年月をかけてカトリックになったが、サドゥーの場合は命をかけた永遠の誓いへと向かう洗礼でもあるのだろう、それは神さまが彼を絶え間く抱きかかえているのが目に見えるようだった。私はまた来ることを告げて、プレムダンを去った。

 午後に私のゴッドファーザーのジムとゴッドマザーのジョアンとの食事会があった。そこで普段プレムダンで働いているジョアンにサドゥーのことを聞くと、サドゥーは一昨日喋ったと言うことだった。彼が喋れるとは、にわかには信じられない話であった。しかし、彼ももうサドゥーではなく、カトリックの信者であるからサドゥーになった時の誓いを守らなくても良くなっているのである。だから、数十年ぶりに彼は喋ったのである、ベンガル語、ヒンドゥー語、英語も喋ったとのことだった。

 彼は死を前にして、語らずにはいられなかったのか、何かを言い残したかったのか、私には確かなことは分からない、しかし、ただ分かるのはサドゥーは死への準備をしていることだけである。もう彼にはあまり時間がなかった。ジョアンはサドゥーが今日まだ生きていると思えないくらいに一昨日は様態が悪かったと話していた。

 3月15日土曜日、私は駅の仕事が早く終わったのでサドゥーに会うためにプレムダンに向かった。そこで初めて彼の声を聞いた。その声はまだ音を出すようになってからままならない不憫さもあり、簡単な言葉しか発することが出来なかったが、私がはっきりと理解できるものであった。

 彼にいつから喋ることを止めたのかと聞くと、うまく返事が出来なかったのだろう、右手の指先で3と7と書いたのだった。彼は何と37年間も話すことをしなかったのである。想像できるであろうか、例え神さまとの誓いとは言え、そんなに長い間不自由な生活になることが分かりながら、誓いを守り続けることが果たして可能なのであったのだろうか、いや、信じなくてはならなかった。その証明者であるサドゥーが目の前にいるのである。

 私には到底理解しがたいが、誓いを破ることなく己の真理に生きた男の神々しさに畏敬の念を抱くしかなかった。

 サドゥーには現在シュシュババンの院長であるシスターポリタ{以前は長い間プレムダンの男性病棟の責任者}にもサドゥーのことを昨日の午後に伝えたことを知らせた。

 その時、彼女もサドゥーが話したことを知ると、とても驚いていた。そして、彼女もサドゥーに会うに行くと言っていたことをサドゥーに話すと、彼は仰向けに寝たベッドの上で、人差し指を天にさし、天国で会うと示した。

 それは「もう間に合わない」と言う意味だと言うことが瞬時に分かった。サドゥーはすでに分かっていた。シスターポリタはもしかするとプレムダンに来る時間がないかも知れないと・・・。シュシュババンの院長とは、世界から集まってくる物資の処理から養子縁組、そして、子供たちの世話とその管理など計り知れないほどのハードワークである。

 だが、私は言わざるを得なかった「シスターポリタは忙しいけど、たぶん、来ると思う。彼女もサドゥーのことをとても心配していた」と伝えた。

 しかし、彼は優しく微笑んでいた。それを知っただけで十分ですと言葉に出さずに微笑みにそれを現していた。

 サドゥーはその時すでに分かっていたのである、自分の死ぬ時を。それも逃げも隠れもせず、落ち着き払った心で、死を受け容れる覚悟をしていたのである。

 この日プレムダンを離れる時サドゥーにこう言った。

 「明日はホーリーだから、駅の仕事はお休みなんだ」

 彼はとても愛くるしい顔で微笑んだ。ホーリーとはヒンドゥー教徒のカラーの祭りで色を他人つけあったりする、そして、中にはドラッグ入りのラッシーなどを飲んだりする者がいたり、狂乱状態にもなったりする者もいるので、駅の仕事は危険な状態が想像され、毎年休みにしている。これをインド人と一緒に楽しむボランティアもいるが、レイプされたりした者もいた。

 サドゥーはホーリーは色付けらたり大変だからねと言う感じでの微笑みであった。それがほんとうに人懐っこくて美しい微笑みだった。

 「サドゥー、月曜日にまた来るからね」と私は微笑み返した。


 
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アピアのフライヤー。

2014-07-03 13:02:32 | Weblog

 アピアのフライヤーに載せる原稿の締め切りが迫った来たので今日は書いていたがまだ終わらない、やはり2000文字はゆうに超えそうである。文字数と対決するのもたまにはいいものかもしれない。

 しかし、難しいものであると改めて感じる次第である。書きたいことの半分のような中途半端にならないように心している。



 {誓いを超えた誓いへ}



 私は未だかつて、彼ほどに自分の死期を知る人を知らなかった。彼は完璧なほどに素晴らしい最後を自ら整え、魂とともに愛の生命を生き抜いた。それは美しすぎるほど美しく、神々しくあり、神に見守られたものであったに違いない。私はそれをどうしても疑えないのだ。

 彼はカルカッタのマザーテレサの施設プレムダンで働いていた。私は95年から彼を知り、彼に助けられてきた。彼がいつどのようにしてプレムダンに来たかは誰も知らない、なぜなら、彼は「喋らない誓い」を立てていたヒンドゥー教のサドゥー{修行者}であった。

 きっと何かがあり、プレムダンに来たことであろう、もしかすれば、最初は行き倒れて運ばれた患者だったのかもしれない。しかし、私の知る彼はいつもワーカーのように、患者たちの世話をしていた。それも誰もが嫌がるような仕事も嫌な顔一つ見せず、寡黙に行っていた。その姿には誰もが敬意を示した。シスターたちですら、そうであった。患者たちからは「サドゥーババ」と呼ばれていた。「ババ」とはベンガル語で「父」と言う意味である。

 その彼が歳を重ねていく上で病気にもなり、働けなくなったが、それでも、他の患者たちは彼への尊敬の念を無くすことは決してなかった。

 今年二月半ば、サドゥーは様態がかなり悪くなり、自らアイルランドのNGO「Hope」の病院に入院することを望み、入院した。私はそれを知り、彼を心配していたが仕事の忙しさを言い訳に見舞いには行かなかった。

 それから二週間ぐらい経った頃、サドゥーがプレムダンに戻ってきたことを知った。しかし、その退院は病状が良くなっての退院ではないことを知り、私と彼を知るボランティアたちは確信した。サドゥーは「死ぬためにプレムダンに帰ってきた」ことを。

 その後、彼はプレムダンでカトリックの洗礼を受けた。名前はジョセフメリーである。彼が洗礼を受けたと言う、その意味は安易に想像できるものではないが、彼自身が間近に死を覚悟していることを誰もが感じたであろう。彼はヒンドゥーのサドゥーとしての誓いを超えて、永遠の誓いの中へ、その時歩もうとしていた。

 3月12日の夜マザーハウスのアドレーション後、友達のイタリア人神父から、サドゥーの様態がかなり悪いので会いに行った方がいいと知らされた。翌日木曜でボランティアは休みだった。朝ミサを終えてから、私は一人でプレムダンに向かった。ミサの間やプレムダンに行く道すがら、私はサドゥーとの思い出を一つひとつ思い出しては目頭を熱くし、祈っていた。

 プレムダンに着き、最初サドゥーに会った時、彼だと分からなかったほど、顔を膨れていた。彼は苦しそうに息をしながらも、私と目をあわし、時に私の言うことに頷いてくれたり、今朝のミサでは心配でずっと祈っていたと言うと、彼は昔のような優しい笑みを浮かべたりもした。会話の中で私もカトリックなったことを告げたりもした。

 お互いに長い年月をかけてカトリックになったが、サドゥーの場合は命をかけた永遠の誓いへと向かう洗礼でもあるのだろう、それは神さまが彼を絶え間く抱きかかえているのが目に見えるようだった。私はまた来ることを告げて、プレムダンを去った。

 午後に私のゴッドファーザーのジムとゴッドマザーのジョアンとの食事会があった。そこで普段プレムダンで働いているジョアンにサドゥーのことを聞くと、サドゥーは一昨日喋ったと言うことだった。彼が喋れるとは、にわかには信じられない話であった。しかし、彼ももうサドゥーではなく、カトリックの信者であるからサドゥーになった時の誓いを守らなくても良くなっているのである。だから、数十年ぶりに彼は喋ったのである、ベンガル語、ヒンドゥー語、英語も喋ったとのことだった。

 彼は死を前にして、語らずにはいられなかったのか、何かを言い残したかったのか、私には確かなことは分からない、しかし、ただ分かるのはサドゥーは死への準備をしていることだけである。もう彼にはあまり時間がなかった。ジョアンはサドゥーが今日まだ生きていると思えないくらいに一昨日は様態が悪かったと話していた。

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同じ道。その9。

2014-07-02 12:57:03 | Weblog

 病院の廊下には音もなく静まり返っていたが、何かを語りだしたいのものたちがその痛みにうずきながらも、夜のとばりに従い、ただ沈黙せざるを得ない空気が漂っていた。

 私たちはまたバブルーのところに戻ろうとしていた。

 ふと廊下の汚れきったガラス窓から室内にいるバブルーの姿を見た。

 「マリア、見て。バブルーを・・・」

 私たちはバブルーの一挙一動をじっと見つめた、彼は何と一人で起き上がりベッド上に座り、そして、ベッドから降り、ベッド下に置いてあった、トイレに行けぬものが使う洗面器に何の痛みを感じずに普通に身体を動かし、用を足していた。

 私は思わず苦笑いしながら、疲れた溜息を吐き出すように「バブルーは大丈夫だろ。ちゃんと一人で出来るんだよ。昼間のバブルーはどうだった?」とマリアに言った。

 「そうなんだ、昼間は身体を動かすにもたいへんで、一人で立ったり歩いたりはまったく出来ない状態だった・・・」

 そう言いながら、マリアは少しショックを受けていた。

 「大丈夫だよ、バブルーは。ほんとうはどうにか身体は動かせるんだよ。ただいろいろとしてくれるから、それに甘えることを覚えただけだよ。ちゃんと賢いしさ。一人でどうにか出来るんだよ」

 汚れきった窓の向こうのバブルーはもうベッド上に何ら障害もなく戻っていた。

 私はマリアに期待した、バブルーのズル賢さに騙されても、何があっても差し伸べるその愛の手は変えないことを。

 小さいことかも知れないが、それを意識して本心から許すことにより、その愛は輝きを失わない。

 こうした助けた相手に騙される経験を数々味わってきた私と違って、マリアの心境はかなり複雑だったであろう、だが、現実を見てほしかった。

 何よりもマザーも同じような経験を想像を絶するほど味わってきたことを自身の今の苦しみのうちに見出してほしかった。

 なぜなら、そこでマザーは必ず慰めを与えてくれるからであり、生きたマザーとの出会いがあるからである。

 「さぁ、バブルーに挨拶をして今日はもう帰ろう」

 「うん・・・」疲れ切った顔ににわかに安堵の色を伺わせ、マリアは答えた。

 バブルーの前に行き、今日はもう自分たちは帰ると伝えると、バブルーは何が欲しいあれが欲しいと言い始めたので、今日はもう何もない、ここでは特別扱いはしない、ときっぱりと断った、心のうちのどこかではバブルーの甘えを制する思いもあったであろう。

 バブルーは私の言うことをなくなく聞きいれたその情けない顔をした表情を見ると、どうしても憎めない男としか思えなかった。

 それから、周りの他の患者たちに声を掛けながら、その病室を出た。

 
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同じ道。その8。

2014-07-01 12:59:11 | Weblog

 「バブルー、大丈夫か?見てみろ。水、ビスケット、食器、ブランケットを買ってきたよ」

 バブルーは私が渡したバックの中身を興味深く点検するように一つひとつ品を取り出しては見ていた。

 「バブルー、医者は来た?八時に血液検査があるって、シスターに聞いて来たんだけど」

 「誰も来ていない」

 「そうか、それじゃ、ちょっと聞いてくるか」

 やはり時間通りには何も行われないと思いながら、疲れた肩をまた落しては、夜の八時に病院に現れた私にバブルーの周りの患者たちも気になっているようだったので心を整えて、バブルーのことを説明し挨拶をしてから、私とマリアはナースのいるところに向かった。

 一人のナースにバブルーの医師のことを聞くと、今はオペ中だと言うことで話をすぐに切られてしまった。

 いつ終わるのかと聞いても、分かりませんと答えるだけで忙しそうにし、私たちとは目を合わせようとはしなかった。

 近くを若い医師が通り、聞いてみると、私は彼の担当ではないから、何も分からないと言うことだった。

 初めから分かっていたことだが、向こうから言われた時間だろうが時間通りにこの病院では何も進んでいない、時計がないのと同じである、そう思わざるを得ないほどの経験をずっとしてきたのだ。

 だが、まだ若いマリアはシスターから言われたことをしっかりとしなくてはならないと思う正義感から苦しんでいるのが色濃く分かった。

 「どうする?マリア」

 「・・・、オペ室に行って聞いてみよう」

 「そうか」

 とだけ答え、彼女についていった。

 しかし、やはりここでも同じことだった。

 私は確信していた、今夜はシスターから言われたバブルーの血液検査のことは何にも進まないと言うことを。

 そして、今マリアが感じているだろう身体の疲れを除いた苦悩だけは、私が引き受けると言うことを、明日になり今夜のことをシスターに話すのは私の役目であり、マリアには何の責任もないように計らうことを心に決めていた。

 私は怒られるのは慣れている、いや、しかし、シスターライオニータは感情にのまれ怒りを起こすようなシスターではないことも分かっていた。

 私たちは常に心しなくてはならないことがある、それは私が好きなラインホルト・ニーバーの祈りの中に深く見出すことが出来る。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

 変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

 そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。}

 私たちには出来ることと出来ないことがあり、またそれを見極める勇気と冷静さが必要である、と同時にそれは諦めではないことを含み、マザーの思いを重ねるのであれば、出来るものは私たちのうちの最良のことを出来るように切に願い、ひたすらに行いをすると言うことである。

 私はこの夜のバブルーの血液検査は無理であると結論付けた、そして、それは何よりもまず命に関わる問題ではなく、ここは病院であるし、バブルーは少しおかしな顔はしているがメンタルな患者ではない、必要であれば、彼がどうにかするだろうと考えたのである。

 何かあれば、マザーハウスのシスターライオニータに連絡が行くのである。

 私たちは今夜とりあえずバブルーの入院に必要な物を持ってきただけで、それだけで十分であった。

 私は未だ笑顔を見せぬ疲れきり困惑した顔のマリアにそう言い聞かせた。

 {つづく}

 
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