とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 245 Miss Universe 1959 - Universal International News

2017-11-16 01:35:06 | 日記
日本人がミスコン世界大会で優勝するとは !!! 当時私は正直驚きました。日本人の体形でも優勝できるんだ。この児島明子さんは当時の日本の女性に自信を与えたことと思います。

Miss Universe 1959 - Universal International News



児島 明子(こじま あきこ、1936年10月29日 - )は、日本のモデルである。1959年(昭和34年)に開催された第8回ミス・ユニバース世界大会で栄冠を獲得した。日本人・有色人種・アジア人として初めてのミス・ユニバース世界大会優勝者である。

人物・来歴

1936年(昭和11年)、東京・世田谷区豪徳寺生まれ。5歳から水泳を始めた。小学校2年のとき戦争のため高知県高知市に疎開し、高知市立潮江小学校・私立土佐女子中学校を卒業した。1950年(昭和25年)には父が亡くなり、以後は姉や弟と共に(明子は4人きょうだいの2人目)母に育てられた。高知市立高知商業高等学校在学中は平泳ぎの選手として活躍した。

1953年(昭和28年)推薦を辞退した姉の代わりに、帝国劇場で開かれた第2回ミス・ユニバース日本大会に四国代表として出場し、日本代表に選ばれた伊東絹子(世界大会で第3位に入賞)に次ぐ準ミスに入賞した。

高校卒業後、帰京してFMGに所属し、モデルをしていた1958年(昭和33年)ミス・ユニバースとミス・ワールドの日本代表を同時に選ぶ大会に応募し、東京代表となった。しかし日本代表を選ぶ直前の6月4日、都内で行われた各地代表のパレードの最中、児島らが乗っていた車が追突事故に巻き込まれ、児島を含む4人が負傷した。児島は有力候補と見られていたが、やむなく棄権した。児島は2か月の入院を余儀なくされたが、翌年の地区予選を免除され、東京体育館で開かれる日本大会に出場出来ることになった。年が明けると、オーストラリアを2回訪れてファッションショーに参加した。

1959年(昭和34年)6月12日、三たび挑戦した児島はミス・ユニバース日本代表(『ミス・ジャパン』)に選出され、同年7月24日(日本時間25日)にアメリカ・ロングビーチで開催された、第8回ミス・ユニバース世界大会に出場した。大会では、最終審査で、ブラジル、イングランド、USA、ノルウェーを抑えて優勝、第8代「ミス・ユニバース」の栄冠に輝く。当時の身長は168cm、体重は54kg、スリーサイズは94-58-97cm。バスト94cmとヒップ97cmは、公表された限りにおいて、どちらも現在に至るまで歴代日本代表の最大サイズである。

翌1960年(昭和35年)7月、児島はミス・ユニバースの任期を終え、マイアミビーチで開かれた第9回世界大会で後継者にその地位を譲った。児島から日本代表を引き継いだ古野弥生はセミファイナルに進出したが、最終審査に残ることは出来なかった。

1966年(昭和41年)4月29日、俳優の宝田明と結婚し、二男一女を授かったが、1984年(昭和59年)に離婚。子供は三人とも児島が引き取り、養育した。歌手の児島未散は長女で、宝田との最初の子供である。(Wikiより)

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