穏やかで情感あふれる唄い方が独特で私を随分癒してくれました。知床とはそんなにロマンチックな所なのかと憧れていました。「おときさん」の歌声は永遠に残ります。
『知床旅情』 加藤登紀子 (昭和46年)
加藤 登紀子(かとう ときこ、本名:藤本 登紀子、1943年12月27日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、女優。「おときさん」の愛称で親しまれている。 現在は星槎大学共生科学科の客員教授でもある。次女は歌手のYae。血液型O型。
略歴
満州ハルビン生まれ・京都育ち。実父は南満州鉄道勤務。東京都立駒場高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒。駒場高等学校では放送クラブに所属。
1965年 東京大学在学中に、第2回日本アマチュアシャンソンコンクール優勝。1966年 「誰も誰も知らない」でデビュー。「赤い風船」で第8回日本レコード大賞新人賞受賞。
1969年 「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1971年 「知床旅情」(作詞・作曲: 森繁久彌、ミリオンセラー)で、2度目の第13回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1972年 藤本敏夫と獄中結婚。出産のため、一時音楽を離れる。長女を出産。新東京国際空港建設予定地で開催された日本幻野祭にノーギャラで出演。
1973年 産休後、音楽界に復帰。
1975年 次女Yaeを出産。
1976年 2年前のアルバム「この世に生まれてきたら」に参加した告井延隆が本格的にライブに参加。以降告井およびセンチメンタル・シティ・ロマンスは加藤の音楽には欠かせない存在として現在までサポートを続けている。
1980年代には中国でコンサートを行い、残留日本人孤児と共に中国語で「知床旅情」を歌い、泣いた事がある。
1980年 三女を出産。
1981年、気候が温暖な千葉県に鴨川自然王国を夫の藤本と共に設立する。海の幸、山の幸が豊富で、東京都にも近い王国には老若男女問わず多くの人々が農業体験に参加している。
1983年の映画『居酒屋兆治』で高倉健の妻役、1986年のテレビドラマ『深夜にようこそ』では千葉真一の妻役で共演した。
1987年 「百万本のバラ」大ヒット。「難破船」(中森明菜)「わが人生に悔いなし」(石原裕次郎)といった提供曲も、好セールスを記録。
1988年、1990年 ニューヨークのカーネギー・ホール(大ホール)でコンサートを行う。
評価
森繁久彌は1969年に自身が主催のコンサートで、「ひとり寝の子守唄」を歌っていた加藤の声を楽屋越しに聴き、「誰が歌っているんだ。ツンドラの風の冷たさを知っている声だ」と言い、舞台の袖で両手を広げて迎えたというエピソードがあり、前述のとおり加藤がハルビン生まれで、森繁が旧満州からの引き揚げ者だったため、加藤は「大陸への思いの共有が、縁を結んだと思っている」と語っている。
また、両者が新幹線でたまたま遭遇し、加藤が「知床旅情」をカバーしていることを報告した際には、「聞いたよ。君は、歌はうまくはない。(でも)心はあるな」と森繁に言われたという。
桑田佳祐は、自身がリーダーを務めるバンドサザンオールスターズの楽曲「東京VICTORY」を「知床旅情」のようなイメージで制作していた旨を述べており、「やはり僕は日本人。いくらロックに憧れても、僕らは発祥地たる西洋の人たちと同じにできないじゃないですか。それより日本人には日本人のボディサイズに合った歌があって、僕は何とかそれを見つけたい」「森繁久彌さんの歌詞と、生ギター一本で歌う加藤さんの姿は今回、僕にとっての”いい歌”の基準でした」と述べている。
「東京VICTORY」の制作意図や歌詞のテーマを桑田のファンから知らされた加藤は「ありがとう!なんか、桑田さんからラブレターもらったみたいな気持ち。応えなきゃね」といった感想を述べている。なお、奇しくも桑田の父親も満州からの引き揚げ者であった。
(「Wikipedia」より)
『知床旅情』 加藤登紀子 (昭和46年)
加藤 登紀子(かとう ときこ、本名:藤本 登紀子、1943年12月27日 - )は、日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家、女優。「おときさん」の愛称で親しまれている。 現在は星槎大学共生科学科の客員教授でもある。次女は歌手のYae。血液型O型。
略歴
満州ハルビン生まれ・京都育ち。実父は南満州鉄道勤務。東京都立駒場高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒。駒場高等学校では放送クラブに所属。
1965年 東京大学在学中に、第2回日本アマチュアシャンソンコンクール優勝。1966年 「誰も誰も知らない」でデビュー。「赤い風船」で第8回日本レコード大賞新人賞受賞。
1969年 「ひとり寝の子守唄」で第11回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1971年 「知床旅情」(作詞・作曲: 森繁久彌、ミリオンセラー)で、2度目の第13回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1972年 藤本敏夫と獄中結婚。出産のため、一時音楽を離れる。長女を出産。新東京国際空港建設予定地で開催された日本幻野祭にノーギャラで出演。
1973年 産休後、音楽界に復帰。
1975年 次女Yaeを出産。
1976年 2年前のアルバム「この世に生まれてきたら」に参加した告井延隆が本格的にライブに参加。以降告井およびセンチメンタル・シティ・ロマンスは加藤の音楽には欠かせない存在として現在までサポートを続けている。
1980年代には中国でコンサートを行い、残留日本人孤児と共に中国語で「知床旅情」を歌い、泣いた事がある。
1980年 三女を出産。
1981年、気候が温暖な千葉県に鴨川自然王国を夫の藤本と共に設立する。海の幸、山の幸が豊富で、東京都にも近い王国には老若男女問わず多くの人々が農業体験に参加している。
1983年の映画『居酒屋兆治』で高倉健の妻役、1986年のテレビドラマ『深夜にようこそ』では千葉真一の妻役で共演した。
1987年 「百万本のバラ」大ヒット。「難破船」(中森明菜)「わが人生に悔いなし」(石原裕次郎)といった提供曲も、好セールスを記録。
1988年、1990年 ニューヨークのカーネギー・ホール(大ホール)でコンサートを行う。
評価
森繁久彌は1969年に自身が主催のコンサートで、「ひとり寝の子守唄」を歌っていた加藤の声を楽屋越しに聴き、「誰が歌っているんだ。ツンドラの風の冷たさを知っている声だ」と言い、舞台の袖で両手を広げて迎えたというエピソードがあり、前述のとおり加藤がハルビン生まれで、森繁が旧満州からの引き揚げ者だったため、加藤は「大陸への思いの共有が、縁を結んだと思っている」と語っている。
また、両者が新幹線でたまたま遭遇し、加藤が「知床旅情」をカバーしていることを報告した際には、「聞いたよ。君は、歌はうまくはない。(でも)心はあるな」と森繁に言われたという。
桑田佳祐は、自身がリーダーを務めるバンドサザンオールスターズの楽曲「東京VICTORY」を「知床旅情」のようなイメージで制作していた旨を述べており、「やはり僕は日本人。いくらロックに憧れても、僕らは発祥地たる西洋の人たちと同じにできないじゃないですか。それより日本人には日本人のボディサイズに合った歌があって、僕は何とかそれを見つけたい」「森繁久彌さんの歌詞と、生ギター一本で歌う加藤さんの姿は今回、僕にとっての”いい歌”の基準でした」と述べている。
「東京VICTORY」の制作意図や歌詞のテーマを桑田のファンから知らされた加藤は「ありがとう!なんか、桑田さんからラブレターもらったみたいな気持ち。応えなきゃね」といった感想を述べている。なお、奇しくも桑田の父親も満州からの引き揚げ者であった。
(「Wikipedia」より)