とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

(番外)あちこち「SYOWA」 ご成婚パレード

2017-12-05 18:07:33 | 日記
当時新しい時代の到来を感じ、私もうきうきしました。よくよく覚えています。

ご成婚パレード 1/3


皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀(こうたいしなるひとしんのうとおわだまさこのけっこんのぎ)は、1993年(平成5年)6月9日に日本の皇居にある宮中三殿において、国事行為として行われた皇室の儀式(結婚の儀)である。本儀式により日本の皇太子・徳仁親王(当時33歳)と小和田雅子(当時29歳)は結婚し、雅子は皇太子妃となった。一連の出来事は皇太子の父である今上天皇の皇太子時代の結婚と同様、皇太子ご成婚(ご結婚)や皇太子さまご成婚、皇太子さま・雅子さまご成婚などのようにマスメディアでは表現される。


夫妻

夫となる徳仁親王は今上天皇と皇后美智子の第1皇男子(第1子長男)であり、御称号を浩宮(ひろのみや)とし、以下の婚約と結婚が進められる間に、31歳で立太子の礼を行い皇太子となった。2016年現在皇位継承順位第1位である。

妻となる小和田雅子は婚約当時外務省勤務で、同じく外交官であり当時外務事務次官を務めていた小和田恆の長女である。幼少時より父についてソビエト連邦、アメリカ合衆国での生活を経験した帰国子女で、ハーバード大学経済学部を卒業、学士入学で東京大学在学中に外交官試験に合格、中退して外務省に入省し、研修でオックスフォード大学に留学した。彼女は日本で男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出というテーマに揺れた世代である。

結婚の儀と一連の儀式

結婚の儀

ウィキソースに皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律の原文があります。
6月9日当日、東京の天候は前日より雨であった。この日は日本において「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」によるこの年限りの臨時の休日であり、皇太子の結婚の儀・朝見の儀・宮中饗宴の儀は国事行為として行われた。
また結婚関連儀式は4月9日の「神宮神武天皇山陵及び昭和天皇山陵に勅使発遣の儀」から納采の儀をはじめ6月29日の「昭和天皇山陵に謁するの儀」まで合計で15件ほどが行われたが、3つの国事行為以外は皇室の私的行事として扱われた。

6時30分、東宮侍従長と女官長が雅子を迎えに上がり、雅子は水色に水玉模様の地紋が入ったシルクのツーピースで目黒区の実家を後にした。同居の家族たちとお手伝いの女性、ショコラという名の飼い犬に挨拶し、宮内庁からの迎えの車に乗り込んだ。雅子の母・優美子は「お体に気をつけて、お国のために一生懸命お務めしてほしい」と伝えた。
皇居到着後は御潔斎所に入り、伝統に基づいた平安装束の正装への着替えを行った。

徳仁親王は皇太子だけが身につけることができる、上る朝日の色といわれる黄丹袍の束帯と垂纓(すいえい)の冠、笏、雅子は大垂髪に、亀甲を地紋に白い支子紋をあしらった二陪織物の青色唐衣、若松菱文を地文に南天をくわえた尾長鳥を紅色の丸い紋にした黄色の表着、忍冬唐草(にんどうからくさ)を立涌(たちわき)に配した地文の固地綾(かたじあや)で、夏の色目である花橘(はなたちばな)の五衣(いつつぎぬ)、濃色(こきいろ)幸菱文(さいわいびしもん)生(きの)固地綾の単、白小袖、濃色精好(せいごう)織りの長袴の十二単姿で、桐竹鳳凰を地摺絵(じずりえ)とする穀織(こめおり)の裳をつけ、手には皇后から譲られた檜扇を持っていた。文様のクチナシは黄丹袍を染める染料のひとつである。

10時00分から始まった宮中での結婚の儀では、二人は宮中三殿の賢所に昇殿し、回廊から賢所の内陣に進み、右に皇太子、左に雅子が、それぞれ半畳の畳に着席した。皇太子が内々陣の八咫鏡に玉串を捧げ、立ち座りを繰り返して4回拝礼する「両段再拝」をし、雅子は着席のまま拝礼した。皇太子が結婚を奉告する告文(つげぶみ)を読み、その後賢所の外陣に移り、掌典長から神酒をいただいて、最後に拝礼し15分間で終了、続いて約10分間、皇霊殿、神殿に拝礼した。退出後に、皇族代表として秋篠宮夫妻が拝礼したほか、儀式中の皇太子夫妻拝礼時には参列者も拝礼した。儀式前後には、神楽歌が奉納された。

この儀式には天皇・皇后をのぞくモーニング姿の男性皇族とアフタヌーンドレス姿の女性皇族たち、三権の長、各都道府県知事、雅子の親族など計812人が賢所の前庭にある幄舎(あくしゃ)で参列した。雅子の母・優美子と妹たちは涙をハンカチで押さえながらこの儀式を見ていた。

朝見の儀

続いて東宮仮御所で昼食後、皇居正殿・松の間で15時00分から結婚後初めて天皇皇后に会う儀式、朝見の儀(ちょうけんのぎ)が行われた。
皇太子はホワイトタイに大勲位菊花大綬章、皇太子妃は皇族女子の第一礼装であるローブ・デコルテに、香淳皇后、皇后美智子と受け継がれているダイヤモンドのティアラほか揃いのアクセサリー一式、勲一等宝冠章、オペラ・グローブを身に付けて儀に臨んだ。ローブ・デコルテは森英恵デザインであり、納采の儀で贈られた織り柄の生地「明暉瑞鳥錦」で仕立てた。
皇太子夫妻は結婚を報告し、天皇皇后は祝福の意を伝えて、親子固めの杯が交わされた。具体的には、御台盤(テーブル)に儀式の料理や、黒豆をみりんで煮た「九年酒」が用意されており、それぞれがこの酒を飲み、御台盤の上で箸を立てる儀式をして終了した。

高円宮憲仁親王は、「あれをお付けになるためにお生まれになったというぐらいお似合い」と皇太子妃のティアラ姿を絶賛した。
儀式後、皇居宮殿竹の間で記念撮影が行われ、夫妻となった二人と天皇・皇后が並んだその写真は、公式のものとして報道などで広く公開されている。このあと、吹上御所の皇太后に挨拶をした。

パレード


パレードに使用されたロールス・ロイス・コーニッシュ
朝見の儀を終え16時42分、皇太子とともに皇居宮殿南車寄に現れた皇太子妃は、ローブ・デコルテの上に薔薇の花びら形の白と金の飾りを襟にあしらった半袖のジャケットを着用し、ドレスと共布のハンドバッグを手にしていた。デザインした森によればこれは彼女が雅子に会ったときの印象が「静かな方だが華やかで白い薔薇のような女性」であったためで、花びらを一枚一枚フラワーアレンジメントのように取り付けた。

皇太子同妃は、パレードのために用意された、ロールス・ロイスのオープンカーに乗り込んだ。雨は夫妻を祝福するかのようにこのパレードの前に止み、薄日が差し天気は回復していた。このため、10数分前にオープンカー使用を決定した。
オープンカーは16時45分に宮内庁楽部の演奏する近衛秀健作曲・指揮の「平成の春」、團伊玖磨の「新・祝典行進曲」に送られて出発した。沿道では警視庁音楽隊・消防庁音楽隊・陸上自衛隊中央音楽隊も「新・祝典行進曲」を演奏し、上智大学前で聖イグナチオ教会聖歌隊の「喜びの歌」斉唱もあった。

パレードのオープンカーは周囲を白バイやパトカーなどが護衛して全長170メートルに及び、コースは皇居正門の二重橋から、皇居前広場を出て内堀通りに沿い、警視庁本庁舎前、最高裁判所前を通り、半蔵門前から新宿通りに曲がり、四谷見附交差点を曲がって赤坂迎賓館前から、赤坂御用地の鮫が橋門まで4.25キロメートルであった。

パレードは約30分間で、その沿道を19万2千人(資料によっては約20万人)の人々が日の丸の小旗を手に持って埋め尽くし、夫妻に祝福の言葉をかけた。中には沿道にある学習院初等科の生徒たちも含まれた。この間、夫妻は笑顔で沿道に手を振り続けていた。(Wikiより)