とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 256 天皇陛下即位の礼 正殿の儀

2017-12-02 00:08:56 | 日記
今上天皇の即位。その一部始終を固唾をのんでテレビで見守っていました。・・・この天皇の退位の日程が決定しました。国民から広く親しまれた温かみのある天皇そして皇后陛下でした。私は運よく東京会館で皇太子時代のご夫妻のお姿を拝見いたしました。ですから一入この度の退位ということを重く受け止めています。被災地にそしてかつての戦地にも足しげくでかけられました。すばらしい天皇でした。感謝の気持ちでいっぱいです。

天皇陛下 即位の礼 正殿の儀 [高画質ノーカット] Enthronement of the Japanese Emperor, Akihito (with English commentary)


即位の礼(そくいのれい)は、天皇が践祚(せんそ)後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。即位式(そくいしき)の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼(ごたいれい)または御大典(ごたいてん)とも称される。

概要

皇嗣が新たに皇位に就くことを即位というが、古代では神へ寿詞(よごと)を奏上し、神璽を献納する事を中心とした、簡素なものであったが、平安時代に皇位の継承である践祚と即位が別の儀式として行われるようになり、唐風の儀式が江戸時代まで続いた。即位にかかる儀式全般を即位儀礼というが、これは皇嗣が即位する「践祚の儀」と即位したことを内外に宣下する「即位の礼」に分かれる。

明治時代に旧「皇室典範」に属する登極令によって儀式の内容が細かく規定されたが、1947年(昭和22年)に、同令は旧皇室典範と共に廃止となった為、現行の新「皇室典範」でも即位の礼を行う定めがあるにも拘らず、内容についての具体的規定は無い。そのため、大嘗祭をどの様に行うのか、昭和天皇の崩御前後から、様々な(政治・思想的)立場から論議が起きた。

明治維新による近代化以降の現代に至る、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代と、他の重要な皇室慶弔行事と同様に、即位の礼の日は、その年限りの祝日となることが慣例となっている。大日本帝国憲法下で即位の礼を行った大正天皇と昭和天皇の時には勅令により、日本国憲法下で即位の礼を行った今上天皇の即位の礼の時は法律によって、祝日として定められた。


儀礼

上代は践祚と即位との区別がなかったが、桓武天皇からは、践祚後に日を隔てて即位式を行う例ができ、貞観儀式の制定に至り区別することになった。儀式内容も元日の朝賀に準じて唐風様式で行われるようになった。装束は律令制度上最高の礼装である礼服を用いた。中国皇帝を真似て天皇が南面して座し、親王以下無位に至るまで、諸臣が朝庭に北面して君臣関係を確認した。ところが、平安時代中期になると、早くもこの形が崩れ、殿上の擬侍従(平安初期には親王がつとめたので上首を親王代とよび、次席と少納言の3人の構成で左右計6人)に内弁(上卿に相当)・外弁(一般参列者の公卿であるが、指名された者のみが立つ。殿上人以下の参列はなくなった。なお外弁の内の一人が宣命使となる。中世から近世にかけて外弁は大納言・中納言・参議各2名というのが一般的であった。)・典儀などの限られた公卿・官人しか即位式に参加せず、その役目を持たない公卿は大臣であっても、高御座の左右に設けられた幔の内側から「見物」している有様であった。

1016年(長和5年)2月7日に行われた後一条天皇の即位式の様子は、当時の朝廷の重鎮であった大納言・藤原実資の日記『小右記』に詳しく記されているが、それは実資が即位式の参加者ではなく、見物者として観察出来たことによるものであった。なお、摂政は平安時代後期(堀河天皇以後)以後には高御座の中層または下層、関白は高御座の後方東側(南側から見て右寄り)の北廂東幔内に束帯姿で(礼服でないのは正式な参列でないから)控える例であった(後一条天皇の摂政であった藤原道長もこの位置にいるため、初期の摂政も同様であった可能性が高い)。

儀典の会場は、平安時代を通じ、原則的に、朝堂院(八省院)の大極殿が用いられたが、大極殿焼損のため陽成天皇は豐楽殿を使用した。病気のため冷泉天皇は内裏の紫宸殿で即位し、大極殿焼失のため後三条天皇は太政官庁、安徳天皇は内裏の紫宸殿を用いた。大極殿は1176年(安元2年)の安元の大火以降廃絶したため、鎌倉時代より室町時代中期の後土御門天皇までのすべての天皇(ただし、京都にいなかった南朝の後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇は例外)は、太政官庁を使用した。応仁の乱後の後柏原天皇は即位礼の経費調達が困難なため、20年にわたり延引を重ねたが、この天皇の即位礼以後は、里内裏の紫宸殿を使用することとなり、近代に及んだ。太政官庁は後柏原天皇の即位の準備が始まった文亀元年の段階ですでに存在せず、再建の予定もなかった。
中世以降(初例は後三条天皇とされているが、恒例となったのは後深草天皇以後とされる)には、即位灌頂と呼ばれる仏教様式の儀式も執り行われた。江戸時代後期まで、その様式は続けられた。

皇室行事の中でも最も重要な儀式の一つであるが、戦国時代の後柏原天皇の時期は皇室財政が逼迫しており、1500年(明応9年)に即位したにも拘らず、儀式を行えず、1521年(大永元年)、室町幕府などからの援助を元に、即位22年目にして即位礼を行った。直接のきっかけは幕府が二万疋を献じたことであるが、実際には文亀年間以来それまでに何度か幕府から献じられていた費用および、朝廷が本願寺などからの献金を得て準備した道具が蓄積しており、その費用だけで実施できたのではない。後奈良天皇は後柏原天皇即位の所用品が多く残されていたにもかかわらず、やはり費用不足で十年ほど即位が延引した。また、正親町天皇の時も皇室財政から即位礼費用の拠出は叶わず、毛利元就の援助を得て挙行した。しかし、多くの困難にもかかわらず、承久の乱のため短期間しか在位できなかった九条廃帝を除き、一代も欠かさずこの儀式は挙行されている。

なお、宮廷儀礼は平安時代より雑人(庶民)の見物の対象であったが、承久の乱後の四条天皇即位では庭上にも見物人が乱入し、これ以後も公家日記に、見物人のため儀式に支障をきたしていたことがうかがわれる記事が散見される。 後柏原天皇即位に際しても「雲霞の如く」見物人が集まったという。こうした伝統を受けて江戸時代には、切手札(観覧券のようなもの)を買うことで、一般庶民も京都御所での即位の儀式を見ることができた事が最近の研究により判明している[3]。なお、後桜町天皇即位のとき、儀礼の役にあたらず、ただ出御した天皇のお見送りだけに参内した野宮定晴は、「武家奴隷(武士の下人)」や「雑人」が多くて一般の公家の多くが儀式を見物できなかったこと、にもかかわらず幕府の使者は非公式ながら紫宸殿に上げてもらって見物できたことに憤慨している。

明治維新により東京奠都し、天皇が国家の最高指導者に位置付けられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関わる一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨規定されていた為、大正天皇・昭和天皇の御大礼は平安様式に則り京都御所にて執り行われた。

1947年(昭和22年)制定の現行の皇室典範では場所については規定されず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われた。この為、従来「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」となった。
儀式は皇室の祖神である天照大神と歴代の天皇へ期日を奉告することに始まり、皇居内の三殿への報告と、伊勢神宮へ勅使が遣わせられる。時期は登極令により春から秋とされ、先帝の崩御から1年間は服喪期間として即位の礼・大嘗祭は行われない。なお、この服喪期間を特に「諒闇」という。

即位の礼では最重要の儀式が「正殿の儀」であり、天皇は束帯、皇后は十二単に身を包む。天皇の束帯は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」と言い、天皇以外は着用できない。正殿の儀にて使用される玉座は天皇のものを高御座(たかみくら)、皇后のものを御帳台(みちょうだい)と呼ぶ。造りは三層黒塗り継檀の上に八角形の屋根を置き、鳳凰・鏡等の装飾がある。高さ5.9メートル、幅6メートル、重さ8トンに及ぶ。(Wikiより)