とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 195 すめらみことみまかりたまひぬ。

2017-07-07 17:55:40 | 日記
すめらみことみまかりたまひぬ。 その日、私は生徒の前でこう言いました。その時のキョトンとしていた生徒の顔を思い出します。・・・私は夢のお告げでそのことを知らされました。これは大変なことになったと思っていました。出勤途中の車の中でそのニュースを知り、ドキッとしました。正夢だった !!! これは大変、生徒にそのことを告げたいと思いました。

昭和64年(1989)1月7日 昭和天皇ご崩御から元号が代わるまでの1日のドキュメント



昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇[注釈 1](在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。
幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。

1月7日・8日およびそれ以後のマスコミの動き

NHKでは、1989年(昭和64年)1月7日の午前5時24分から「容体深刻報道」を総合テレビ・ラジオ第1・FMの3波で放送。午前6時36分18秒から午前10時までの「危篤報道から崩御報道」と午後2時34分30秒から午後2時59分までの「新元号発表」はNHKのテレビ・ラジオ全波(総合テレビ・教育テレビ・ラジオ第1・ラジオ第2・FM・衛星第1・衛星第2)で報道特別番組が放送された。1989年(平成元年)1月8日午前0時5分40秒(平成改元後の最初のニュース)までラジオ第1とFMで同一内容(ラジオの報道特別番組)が放送された。ラジオ第2では1月7日に限り一部番組が音楽のみの放送に差し替えられた。教育テレビでは1月7日に限り一部番組が芸術番組や環境番組に差し替えられ、『N響アワー』は曲目変更をした上で放送された。


7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。報道特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を撮る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。

1989年(昭和64年)1月7日の危篤報道(午前6時35分発表)以降翌1月8日終日までは、NHK(総合)、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち・生涯、エピソードにまつわる番組などが放送された。また、この2日間はCMが放送されなかった。

NHK教育テレビ以外の全テレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。また、この2日間は、ほぼ昭和天皇のエピソードや昭和という時代を振り返るエピソードを中心の番組編成が行われていたが、テレビ朝日は8日には、ゴールデンアワー時の放送について当初の内容を変更し、田原総一朗の司会による「天皇制はどうあるべきか」という番組に変更した。2日目を過ぎた後もフジテレビが『森田一義アワー 笑っていいとも!』を同番組の企画「テレフォンショッキング」の総集編『友達の輪スペシャル』に差し替えて放送するなど、自粛ムードに基づく放送を行っていたがその後収束していった。(Wikiより)