このラジオ放送は当時の私も聴いていました。ドラマの展開とは反対の伸び伸びとした明るい主題歌は歌詞を覚えて口遊んでいました。
少年の家 鐘の鳴る丘
川田正子 / とんがり帽子
『鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、昭和22年(1947年)7月5日から昭和25年(1950年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画。菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。昭和23年(1948年)から昭和24年(1949年)には松竹で映画化もされている。
「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定による。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。
主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌:川田正子、ゆりかご会)も広く歌われ、昭和23年(1948年)の選抜高校野球の入場行進曲にもなった。歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」と呼ばれることも多い。また「とんがり帽子」は古関の母校である福島県立福島商業高等学校の応援歌の一つとして使用されている。
1947年7月から1950年12月までNHKラジオで放送。初年は毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分間の放送だったが、翌年からは月曜日から金曜日の連日放送へと変更した。
戦争から復員してきた青年、加賀美修平(声・小山源喜)が、戦災孤児たちのために、信州に彼らの住める場所を作ってあげようと努める物語。修平が復員してきたとき、弟の修吉(声・稗田淳)も、両親を失い孤児収容所に入っていた。その修吉を迎えに来た東京で、修平はたくさんの戦災孤児、親も家も失って街頭で靴磨きなどをして生きている子供たちを目の当たりにして、彼らのために安住の場を作ってあげたいと決意したのだ。実際、当時の日本には「浮浪児」と呼ばれる戦災孤児が何万人も街頭にいて社会問題と化していた。
そういう社会状況を背景にしたドラマ「鐘の鳴る丘」は、浮浪児たちのかたくなな心をときほぐし、少年の家を建てようとする主人公・修平青年の情熱と、次第に力を合わせてたくましく生きようとする子供たちの姿が多くの聴取者の共感と感動を呼び、主題歌とともに戦後早々の時期を代表する国民的ヒット番組となった。
放送開始後の反響
「もっと回数を増やして」という聴取者からの投書がNHKに殺到したため、昭和23年(1948年)の4月からは週2回から週5回へと放送回数を増やし、児童たちが放送のたびに放送会館へ通うのも不可能になったために、録音放送へと変更した。CIEはNHKに対して、当時最新であった連続15分の録音を可能とする録音機を提供したが、それはまだNHKが所有していない機材であった。連日放送により、さらに人気が高まった。
放送番組世論調査(日本放送協会編「ラジオ年鑑」25年度版)によると、90%近い人が「鐘の鳴る丘のラジオ放送を聞いたことがある」と答えている。昭和25年時点でも「今でも毎日聞いている」が25%、「今でもときどき聞いている」が51%という高い数字を示している。テレビ放送はまだなく、NHKラジオを聴くことが家庭での最大の娯楽だった時代のことだ。
一方で、作品には「ぶっ殺してやる」 「ばかやろう」といったセリフが多くあったために、一部の保護者や教育者からは「言葉づかいがひどすぎる」 「教育上許せない番組だ」と評され、教育論争も起こった。しかし、幼少時に肉親に捨てられた過去を持つ菊田は、自分もそのような過去を持つからこそ「人生のすみっこで、だれからも話しかけてもらえないような子どもたち」に語りかけられるのだと、批判にも動じることはなかった。
キャスト
加賀見隆平:佐田啓二
加賀見修吉:本尾正幸
加賀見勘造:井上正夫
加賀見かね:英百合子
秦野由利枝:高杉妙子
秦野豊:菅井一郎
秦野芳枝:平野郁子
泉沢万次:山口勇
隆太:野坂頼明
俊二:前田正二
留男:芝田幸雄、松岡正憲
謙一:小野寺薫
みどり:伊藤和子
桂一:鈴木豊明
俊春:徳大寺伸
源吉:山路義人
しの:飯田蝶子
昌夫:江原達怡
まき子:大塚富子
ガンちゃん:辻正太郎
山の龍太:深沢博夫
クロ:小田金薫
とき子:渡辺孟代子
よし坊:山本清子
長坂美也子:並木路子(第三篇)
樋口早苗:森川まさみ(第三篇)
若原とみ江:水上令子(第三篇)
西条たか:逢初夢子(第三篇)
足立健次:北竜二(第三篇)
とき子の母:川田芳子(第三篇)
立花:笠智衆(第一篇)
山田親分:小堀誠(第二篇)
金子:殿山泰司(第三篇)(Wikiより)
少年の家 鐘の鳴る丘
川田正子 / とんがり帽子
『鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、昭和22年(1947年)7月5日から昭和25年(1950年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画。菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。昭和23年(1948年)から昭和24年(1949年)には松竹で映画化もされている。
「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定による。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。
主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌:川田正子、ゆりかご会)も広く歌われ、昭和23年(1948年)の選抜高校野球の入場行進曲にもなった。歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」と呼ばれることも多い。また「とんがり帽子」は古関の母校である福島県立福島商業高等学校の応援歌の一つとして使用されている。
1947年7月から1950年12月までNHKラジオで放送。初年は毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分間の放送だったが、翌年からは月曜日から金曜日の連日放送へと変更した。
戦争から復員してきた青年、加賀美修平(声・小山源喜)が、戦災孤児たちのために、信州に彼らの住める場所を作ってあげようと努める物語。修平が復員してきたとき、弟の修吉(声・稗田淳)も、両親を失い孤児収容所に入っていた。その修吉を迎えに来た東京で、修平はたくさんの戦災孤児、親も家も失って街頭で靴磨きなどをして生きている子供たちを目の当たりにして、彼らのために安住の場を作ってあげたいと決意したのだ。実際、当時の日本には「浮浪児」と呼ばれる戦災孤児が何万人も街頭にいて社会問題と化していた。
そういう社会状況を背景にしたドラマ「鐘の鳴る丘」は、浮浪児たちのかたくなな心をときほぐし、少年の家を建てようとする主人公・修平青年の情熱と、次第に力を合わせてたくましく生きようとする子供たちの姿が多くの聴取者の共感と感動を呼び、主題歌とともに戦後早々の時期を代表する国民的ヒット番組となった。
放送開始後の反響
「もっと回数を増やして」という聴取者からの投書がNHKに殺到したため、昭和23年(1948年)の4月からは週2回から週5回へと放送回数を増やし、児童たちが放送のたびに放送会館へ通うのも不可能になったために、録音放送へと変更した。CIEはNHKに対して、当時最新であった連続15分の録音を可能とする録音機を提供したが、それはまだNHKが所有していない機材であった。連日放送により、さらに人気が高まった。
放送番組世論調査(日本放送協会編「ラジオ年鑑」25年度版)によると、90%近い人が「鐘の鳴る丘のラジオ放送を聞いたことがある」と答えている。昭和25年時点でも「今でも毎日聞いている」が25%、「今でもときどき聞いている」が51%という高い数字を示している。テレビ放送はまだなく、NHKラジオを聴くことが家庭での最大の娯楽だった時代のことだ。
一方で、作品には「ぶっ殺してやる」 「ばかやろう」といったセリフが多くあったために、一部の保護者や教育者からは「言葉づかいがひどすぎる」 「教育上許せない番組だ」と評され、教育論争も起こった。しかし、幼少時に肉親に捨てられた過去を持つ菊田は、自分もそのような過去を持つからこそ「人生のすみっこで、だれからも話しかけてもらえないような子どもたち」に語りかけられるのだと、批判にも動じることはなかった。
キャスト
加賀見隆平:佐田啓二
加賀見修吉:本尾正幸
加賀見勘造:井上正夫
加賀見かね:英百合子
秦野由利枝:高杉妙子
秦野豊:菅井一郎
秦野芳枝:平野郁子
泉沢万次:山口勇
隆太:野坂頼明
俊二:前田正二
留男:芝田幸雄、松岡正憲
謙一:小野寺薫
みどり:伊藤和子
桂一:鈴木豊明
俊春:徳大寺伸
源吉:山路義人
しの:飯田蝶子
昌夫:江原達怡
まき子:大塚富子
ガンちゃん:辻正太郎
山の龍太:深沢博夫
クロ:小田金薫
とき子:渡辺孟代子
よし坊:山本清子
長坂美也子:並木路子(第三篇)
樋口早苗:森川まさみ(第三篇)
若原とみ江:水上令子(第三篇)
西条たか:逢初夢子(第三篇)
足立健次:北竜二(第三篇)
とき子の母:川田芳子(第三篇)
立花:笠智衆(第一篇)
山田親分:小堀誠(第二篇)
金子:殿山泰司(第三篇)(Wikiより)