とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 193 少年の家 鐘の鳴る丘

2017-07-02 16:26:58 | 日記
このラジオ放送は当時の私も聴いていました。ドラマの展開とは反対の伸び伸びとした明るい主題歌は歌詞を覚えて口遊んでいました。

少年の家 鐘の鳴る丘



川田正子 / とんがり帽子


『鐘の鳴る丘』(かねのなるおか)は、昭和22年(1947年)7月5日から昭和25年(1950年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ、またそれを原作とした映画。菊田一夫作。ラジオドラマの放送回数は790回に及ぶ。昭和23年(1948年)から昭和24年(1949年)には松竹で映画化もされている。

「鐘の鳴る丘」とは、その共同生活の施設が丘の上にあり、とがった屋根の時計台に鐘を備えているというドラマの設定による。空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。

主題歌「とんがり帽子」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌:川田正子、ゆりかご会)も広く歌われ、昭和23年(1948年)の選抜高校野球の入場行進曲にもなった。歌の題名は「とんがり帽子」だが、ドラマの名前から「鐘の鳴る丘」と呼ばれることも多い。また「とんがり帽子」は古関の母校である福島県立福島商業高等学校の応援歌の一つとして使用されている。

1947年7月から1950年12月までNHKラジオで放送。初年は毎週土曜日と日曜日の午後5時15分から15分間の放送だったが、翌年からは月曜日から金曜日の連日放送へと変更した。

戦争から復員してきた青年、加賀美修平(声・小山源喜)が、戦災孤児たちのために、信州に彼らの住める場所を作ってあげようと努める物語。修平が復員してきたとき、弟の修吉(声・稗田淳)も、両親を失い孤児収容所に入っていた。その修吉を迎えに来た東京で、修平はたくさんの戦災孤児、親も家も失って街頭で靴磨きなどをして生きている子供たちを目の当たりにして、彼らのために安住の場を作ってあげたいと決意したのだ。実際、当時の日本には「浮浪児」と呼ばれる戦災孤児が何万人も街頭にいて社会問題と化していた。

そういう社会状況を背景にしたドラマ「鐘の鳴る丘」は、浮浪児たちのかたくなな心をときほぐし、少年の家を建てようとする主人公・修平青年の情熱と、次第に力を合わせてたくましく生きようとする子供たちの姿が多くの聴取者の共感と感動を呼び、主題歌とともに戦後早々の時期を代表する国民的ヒット番組となった。

放送開始後の反響

「もっと回数を増やして」という聴取者からの投書がNHKに殺到したため、昭和23年(1948年)の4月からは週2回から週5回へと放送回数を増やし、児童たちが放送のたびに放送会館へ通うのも不可能になったために、録音放送へと変更した。CIEはNHKに対して、当時最新であった連続15分の録音を可能とする録音機を提供したが、それはまだNHKが所有していない機材であった。連日放送により、さらに人気が高まった。

放送番組世論調査(日本放送協会編「ラジオ年鑑」25年度版)によると、90%近い人が「鐘の鳴る丘のラジオ放送を聞いたことがある」と答えている。昭和25年時点でも「今でも毎日聞いている」が25%、「今でもときどき聞いている」が51%という高い数字を示している。テレビ放送はまだなく、NHKラジオを聴くことが家庭での最大の娯楽だった時代のことだ。

一方で、作品には「ぶっ殺してやる」 「ばかやろう」といったセリフが多くあったために、一部の保護者や教育者からは「言葉づかいがひどすぎる」 「教育上許せない番組だ」と評され、教育論争も起こった。しかし、幼少時に肉親に捨てられた過去を持つ菊田は、自分もそのような過去を持つからこそ「人生のすみっこで、だれからも話しかけてもらえないような子どもたち」に語りかけられるのだと、批判にも動じることはなかった。

キャスト

加賀見隆平:佐田啓二
加賀見修吉:本尾正幸
加賀見勘造:井上正夫
加賀見かね:英百合子
秦野由利枝:高杉妙子
秦野豊:菅井一郎
秦野芳枝:平野郁子
泉沢万次:山口勇
隆太:野坂頼明
俊二:前田正二
留男:芝田幸雄、松岡正憲
謙一:小野寺薫
みどり:伊藤和子
桂一:鈴木豊明
俊春:徳大寺伸
源吉:山路義人
しの:飯田蝶子
昌夫:江原達怡
まき子:大塚富子
ガンちゃん:辻正太郎
山の龍太:深沢博夫
クロ:小田金薫
とき子:渡辺孟代子
よし坊:山本清子
長坂美也子:並木路子(第三篇)
樋口早苗:森川まさみ(第三篇)
若原とみ江:水上令子(第三篇)
西条たか:逢初夢子(第三篇)
足立健次:北竜二(第三篇)
とき子の母:川田芳子(第三篇)
立花:笠智衆(第一篇)
山田親分:小堀誠(第二篇)
金子:殿山泰司(第三篇)(Wikiより)


あちこち「SYOWA」 192 天涯歌女 李香蘭

2017-07-02 00:04:12 | 日記
後、政治家として活躍するが、その頃のことしか私は知りません。しかし、時代の波は彼女を中国人女優として活躍させました。この数奇な運命は忘れてはいけないと思います。

天涯歌女 李香蘭


山口 淑子(やまぐち よしこ、1920年(大正9年)2月12日 - 2014年(平成26年)9月7日[1])は、日本の歌手、女優、政治家である。戸籍名:大鷹淑子(旧姓:山口)。 翊教女子中学卒。さまざまな名前で活動し、戦前の中国(中華民国)と満州国・日本・戦後の香港で李 香蘭(り こうらん、リ・シャンラン)、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国ではシャーリー・ヤマグチの名で映画、歌などで活躍した。日本の敗戦を上海で迎えた彼女は、中国人として祖国を裏切った漢奸の容疑で中華民國の軍事裁判に掛けられたものの、日本人であることが証明され、漢奸罪は適用されず、国外追放処分となり、日本に帰国した。

帰国後は、旧姓(当時の本名)・山口淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年(昭和33年)に結婚のため芸能界を退いた。そして1969年(昭和44年)にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年(昭和49年)3月まで務めた。後に1974年(昭和49年)から1992年(平成4年)までの18年間は、参議院議員をも務めた。2006年に日本チャップリン協会(大野裕之会長)の名誉顧問に就いた。
2014年9月7日、心不全のため東京都千代田区一番町の自宅で死去した。満94歳。叙正四位。


1920年(大正9年)2月12日に、中華民国奉天省(現:中華人民共和国遼寧省)の炭坑の町、奉天北煙台で生まれた。南満州鉄道(満鉄)で中国語を教えていた佐賀県出身の父・山口文雄と福岡県出身の母・アイ(旧姓石橋)の間に生まれ「淑子」と名付けられる。奉天(現:瀋陽市)と北平(現:北京市)で育った。本籍は佐賀県杵島郡北方町(現:武雄市)。

親中国的であった父親の方針で、幼い頃から中国語に親しんだ。小学生の頃に家族で奉天へ移住し、その頃に父親の友人であり家族ぐるみで交流のあった瀋陽銀行の頭取・李際春将軍(後に漢奸罪で処刑される)の、義理の娘分(乾女児)となり、「李香蘭(リー・シャンラン)」という中国名を得た。その後、のちに天津市長になった潘毓桂とも義理の娘として縁を結んだ。中国の旧習では、元来縁を深めるために互いの子供を義子とする習慣があった。これは実際に戸籍を移す法的な養子という関係ではなく、それぞれの姓で互いの子女に名前を付けあうなどのものである。

その後、奉天に住む幼なじみのユダヤ系ロシア人であるリューバの母からの紹介を受け、白系ロシア人と結婚したイタリア人オペラ歌手のマダム・ポドレソフのもとに通い、ここで声楽を習うようになった。1934年(昭和9年)、淑子は「潘淑華」の名(潘毓桂の義子としての名前)で北京のミッション・スクール(翊教女子中学)に入学し、1937年(昭和12年)に卒業した。

日本語も中国語も堪能であり、またその絶世の美貌と澄み渡るような歌声から、奉天放送局の新満洲歌曲の歌手に抜擢され、日中戦争開戦の翌1938年(昭和13年)には満州国の国策映画会社・満洲映画協会(満映)から中国人の専属映画女優「李香蘭」(リー・シャンラン)としてデビューした。映画の主題歌も歌って大ヒットさせ、女優として歌手として、日本や満洲国で大人気となった。そして、流暢な北京語とエキゾチックな容貌から、日本でも満洲でも多くの人々から中国人スターと信じられていた[5]。また、この頃「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子との親交があった。

『萬世流芳』の大ヒットにより中国民衆から人気を得た李香蘭は、上海から北京の両親のもとへ帰郷し、北京飯店で記者会見を開いた。 当初、この記者会見で彼女は自分が日本人であることを告白しようとしていたが、父の知人であった李記者招待会長に相談したところ、「今この苦しい時に、あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう。それだけはやめてくれ」と諭され、告白を取りやめた。

この記者会見が終わりかけた時、一人の若い中国人新聞記者が立ち上がり、「李香蘭さん、あなたが『白蘭の歌』や『支那の夜』など一連の日本映画に出演した真意を伺いたいのです。あの映画は中国を理解していないどころか、侮辱してます。それなのに、なぜあのような日本映画に出演したのですか? あなたは中国人でしょう。中国人としての誇りをどこに捨てたのですか」と質問した。これに対し彼女は、「20歳前後の分別のない自分の過ちでした。今は後悔しています。あの映画に出たことを後悔しています。今後、こういうことは決して致しません。どうか許してください」と答えるや、記者会見会場内からは大きな拍手が沸いたという。
(Wikiより)