小さな日記 亜紀子
これは暖冬が幸いしたのだろうか。玄関の鉢のシンビジウムを、昨年の花が終ったあと地植えにした。耐寒性の強い蘭とはいうものの、名古屋での露地栽培はなかば冒険の気もする。それが冬を越して、一茎ちゃんと今年の花をつけた。葉陰から葡萄茶がかった蕾が首を出している。細かな心配りの下手な私は、鉢物はどんどん地に下ろすので時に失敗もある。どうやらシンビジウムは大丈夫そうだ。それから日を経ぬ朝、今度はあっと目を見張る。春蘭が咲いている。仄かなオレンジ色、確か「曙」の名がついていた。子供達と春休みのドライブで和歌山の南方熊楠記念館へ行った道すがら買い求めた。帰宅してすぐフィージョアの根方に植えたものの、枯れはしないが一向に花咲かない。二十年は経っている。既に成人した子供達に告げると、旅行のことは断片しか記憶にないようだ。
春蘭は種から育てるのが難しく、かつては山採りした野生種が株分けされて流通するのみであったらしい。現在では技術の進歩、自然保護の観点などから人工交配種も多く流通しているとのこと。我家の曙は二昔前のものなので、野生種かもしれない。長い時間かけて花茎を伸ばす条件が整ったのは希有なることと喜んでいると、橡集に次の句が送られてきた。
咲きました夫の残ししほくり花 鬼形かね子
ほくりとは春蘭の別名。咲きましたの一言に驚きと喜びが聞こえてくる。ご主人が残していかれてからどれくらいの時を経ているのか。季節が一巡りして迎えた春か、あるいは我家の春蘭のように長い空白があったのか。いずれにせよ上五にいたく共感を覚え、これも暖冬のせいかもしれぬと勝手に想像している。
毎月毎月人さまの句を拝見し、自分も句を詠み、俳句というのは私的日記に限りなく近いところにあるとつくづく感じる。それも五七五に収まるだけのほんの一コマ。願わくばその一コマの生まれる背景の、もっとずっと長く広い時間をも読者に感じてもらえるように詠みたいが、凡なる自分には叶わぬところ。
日記といえば野上弥生子の戦前、戦中、戦後にわたる膨大な日記がある。子供達が少し大きくなった頃、付添いの待ち時間というのが結構あって、その間に図書館から借りては読んだ。時系列的な記事はもちろん、日記同様に彼女の日課であった読書の評や、社会時評や人物評、そして内省。多岐にわたって包み飾らぬ思索の道筋と人間探索の跡が見える。弥生子らしい文体にいつの間に引き込まれた。これだけの読み物を、私的日記として数十年間ほぼ毎日、家庭人であった弥生子が書き続けたことは驚き。アスリートが身体を鍛えるように、日記は文章修練、思考鍛錬の方法だったのだろうか。そのために日々の時間をやりくりしていたのではと思う。一筋の道を極めようとする人の凄さ。ものを極めた人も我々と何ら変わりのない日常がある筈だが、到達したところが尋常ではない。図書館通いをしなくなって久しく、弥生子日記読みも中断してしまった。これを書きながら是非また読みたいという思いが湧いてきた。
凡凡人としては「行きづまって嘆く人、漠然と行きづまりを感じながらもあまり気にせずに眼前、身辺の句を楽しむ人、この二通りが俳人の通り相場でしょう。後者が大多数ですが、今度のは相当いいと思って出句しているのが私たちの現状です。つまり私もふくめて九割以上は下手の横好きなのです。むずかしくて、中々うまくゆかぬから面白いのです。これが遊びの値打なのです。」(俳句入門のために)という星眠先生の言葉が救いだ。少し角度を変えて永遠の素人と言い換えてみる。素人ゆえの幸せがある。俳句と日常生活とどちらを選びますかと問われたら、私は胸に手を当てて、迷わず日常が優先と答えるだろう。しかし現実には大切な日常から俳句が生まれ、大切な日常を支えてくれているのが俳句で、二つを切り離すのは不自然である。小さな日記を綴るための小さな俳句という形を遺してくれた先人が有り難い。