巣鴉 亜紀子
山懐に可愛い目の七つ子を持っていると唄えば、鴉はいかにも牧歌的な鳥である。しかしながら、私の居るこの町内では完全に都市型の鳥類だ。ゴミの収集の朝は早くから電信棒に止って獲物のポリ袋を狙っている。どの家もゴミはぎりぎりまで手許に置いて、通りに車や人の往来が繁くなってから出すようにこころがけている。引越して来たばかりの頃はそれを知らず、早起きは三文の得とばかりに早々に出して清々した気になっていたら、近所の奥さんに鴉に気をつけてと教えられた。それぞれ工夫して黄色のネットをかぶせたり、箱に入れたりして対抗している。たまに狼藉もあるが、そんな時は誰ともなく後片付けをしているのは下町の良さで、鴉には真似できんだろうと思う。
この春は小学生たちの通学路沿いの電信棒に巣がかけられた。それも数本おいて二ヶ所である。よほど居心地の良い、安全な場所と見える。ゴミ収集車の通り道でもあるし。歩道に夥しい木の枝が散っているのを訝しく思い、見上げたところ粗巣がかかっていた。その下で公営住宅の住人のおじさんが箒をかけている。鴉ですかねと聞くと、そうだと言う。子供達が通るから悪さをしなければ良いがとも。電力会社が巣落しをするかもしれない。
別に鴉が憎いわけではない。むしろ、鴉には強い愛着を持っている。身近なだけに、他人とは思えない、人間に対すると同じような親愛の情が自然のうちに湧いてくる。悪声とも思われているだろう鴉は、季節ごとに声色、節回しが変わり、それぞれの時を教えてくれる。春は艶良く、子別れ時はひと騒ぎ、晩秋ともなれば物悲しいのは当たり前っぽいが、梅雨鴉の不思議に複雑な声は面白い。あれ、どこの誰が喋っているのだろうと、鳥の声とも思われぬのだ。そんな句を出した覚えがある。数年前、京都伏見の吟行の折、小沢チエ子さんがそのことに触れて、チエ子さんも鴉の声を聞くと他人とは思えないのだと話してくれた。京都でも鴉は街の鳥なのだろう。寺社の緑も多いから、塒にも困らないだろう。もう久しくチエ子さんにお目にかからない。鴉の唄が変わるとき、いつも思い出される。
チエ子さんは平成十三年三月に青啄木鳥集の同人になられた。それからの六年間の平成十八年二月までの作品を浚って、鴉の句を探してみた。二十数句、これは多いと言える。その半分ほどを紹介しよう。
嵯峨狂言釈迦に鴉の笑ひ声
鴉の子木の芽流しに前のめり
歌好きの鴉に山の栗笑ふ
烏の子返事みじかし小町寺
サファリパーク虎の餌を捕る鴉の子
花火師や子鴉さわぐ火薬詰め
大寒や空に鴉の一騎打ち
盂蘭盆や木蔭にいくつ鴉の目
葉ざくらや夕べ鴉の声濡れて
子ら去りて鴉が替る水あそび
昨日より別れ鴉のこゑ聴かず
いずれも活き活き生きている鴉たち。嵯峨狂言の句は後に自句自解の文章が載り、釈迦も美人には弱いという筋の伝統狂言に寺庭の樹上鴉も呵々大笑したように聞えたとある。チエ子さんが鴉になっている。盂蘭盆会の句には「語り合ふことも老い先吊忍」の句が続き、鴉が覗き聞きしている話がしのばれる。
いつも傍にあって見慣れているものは親しい。知らぬ間に情が移る。観察が行き届いているので、ちょっとした違いに目が向く。平面的な観察ではない。否、観察という言葉はもはや相応しくない。対象と自己との間の交わりである。相手をよく見るには見ている自己の内面も見つめる必要がある。相手が見えてこそ自分が見え、自分が見えてこそ相手がさらに深く見えてくる。心と心の行き交いがある。端的に言えば、それは愛情というものだろう。
星眠先生も愛情を持って鴉を詠んでいる。
営巣期鴉声いよいよ愚かなる
名乗りつつ天地俯仰の寒鴉
風荒れて鴉浮沈の斑雪山
黒南風の鳶を深追ひ親鴉
たくさんあるけれど、紙面尽きた。