崖縁 亜紀子
八十の崖縁さらす空つ風 星眠
(テーブルの下に)
父が持病の薬を飲み始めた頃の作。七十代のまだ矍鑠としていた時期の文章に、老いというものは知らぬ間に進んでいるが、ある時強く意識されるのだろうというような一節があり、八十の崖縁というのはそういう自覚のことを言っているのだと思う。何処に書かれたものだったか、地区の医師会報か何かだった筈なのだが、探しても探しても見つからない。仕舞ったつもりのところにない。そのうちに、本当にその文章があったのかどうか、夢のような気がしてきた。私もだいぶ崖の方へ踏み出している。
米国の医師アトゥール・ガワンデの「Being Mortal」邦題は「死すべき定め」の中に、一昔前の人間にとって死とは老いも若きもひとしなみに身近にあったものと書かれている。つい昨日までは元気であっても、ひとたび病に罹ったり、大怪我をしたりすれば突然のように逝ってしまう。死は驚きであったと。しかし、現代の先進国では医療の発達、公衆衛生の改善などにより、崖っぷちから真っ逆さまに落ちていくような死は少なくなったと言う。慢性の病であれば、一度は下降した健康も医療によって持ち直し落ち着いた状況を暫く保ち、しかしまた下降して、もう一度持ち直してといったアップダウンのある山道を降りて行くイメージだ。実のところ多くの現代人は崖から落ちるでなく、山坂をころがるでなく、折々に医療の手当を受けながら、ゆっくりと消え入るように下降して長命を保てるようになったとも書かれている。この長い終わりへの道程をどう考えていくのかがガワンデの著書の主旨である。父も八十の崖を落ちることなく、九十過ぎまで生き、もちろん弱々しくなっていったのは当然のことだが、いつも良い表情をしていた。それは薬剤のお陰ではなく、支える家族、友人、俳句のお陰、また持ち前の楽天的な性質のゆえだったと今思う。
初音して八十路の峠晴れにけり 星眠
(テーブルの下に)
しかしながら崖縁という言葉が不要ということではない。最後は皆崖を越えなければならない。その時には崖の高低や形状というものはもはや問題ではなくなる。何事につけ様々の手当を施して折々に対処していくのが我々人間だ。そして我々の力の及ばぬ事態に至れば、受け入れなければならないのが人間だ。
未だ嘗て経験のないと形容される昨今の異常気象も崖縁状況だろうか。地球温暖化をおおもとの原因に、世界中で引き起こされている気象災害。温室効果ガスと気候変動への警鐘はもう何十年も鳴らされ続けているのだが、手だてが追いつかぬ状況になってしまったのだろうか。皆で手をつないで一斉に崖を飛び降りる状況を考えるのが恐ろしい。
人の心にも崖縁がある。極端なストレスによる心身疲労。何とか対処している間は良いが、どこかで堪えきれなくなることもあるだろう。もともと繊細な性質の持ち主であれば、ストレスの影響は一層深刻である。崖縁の先にはいったい何があるのだろうか。何があろうとも生きてある限りは、やはり手だてを講じてより良く進んでいく。上を向き、前を向いて、それが我々だ。
七月、八月、猛暑日が続いている。庭草が弱っている。萎れるのを越して、葉先が枯れ始めている。暫くは朝晩撒水していたが、天気予報を見ると無駄な努力のような気がして、露地植えのものは打棄ってある。水は貴重だから。根さえ残っていれば、また来年があるだろう。