浅葱斑蝶 亜紀子
毎朝ベランダで眺めている木から、この頃は目白がこぼれ出てくる。鳴きながら弾丸飛びに通り抜ける。その木が何の木か分からない。七階のベランダよりも背が高い。秋になる前から緑と黄色の葉が段だらで不思議に思っていた。いつもの徳川園散歩の帰り道、その根方へ回ってみる。根元は二つの木が一つになったような形で大人の二抱えほどもある。灰色の滑らかな肌。黐の木かしら。よく感じの似ている園内の黐の木はもっと小さいが、今は真っ赤な実をつけている。そういえば黐の木は雌雄異株で雄木には実がならないと中里さんに教わった。これは黐の大きな雄木ということか。写真に撮ってメールすれば夜までには中里さんの解答を貰えたのだが、もういない。
橡誌上に長らく「草木判別の栞」を執筆された中里さんはアマチュアの植物研究家。連載に毎回添えられた手書きの植物図も分かりやすかった。かつて専門家の採集、調査研究に参加されていたのだと聞いた。活動の中心の先生が誰の言にも耳を傾け、権威を笠に着ないざっくばらんな人柄で魅せられたとも。中里さんも在野の気風、大きなものにおもねることなくいつも飄々としていた。
町野けい子先生たち女性ばかりのおこじょ会の黒一点。最長老だが山で鍛えた足は健脚の女性たちに引けを取らない。そこここで立ち止まり植物談義。皆珍しいものを見つけると中里さんを呼んでは教えを乞うた。歩く図鑑のよう。私も何年間かその吟行に加えていただき、毎度中里さんの後を追っかけて歩いていた。何度教えてもらってもすぐに忘れて次回もまた同じことを聞くという生徒であったが、一緒に歩くのが楽しかった。十年前の震災の日、吟行の後の昼食会兼句会の会場の釜飯屋で揺れに合い、都内を延々八キロ程歩いた時の中里さんは黙々と淡々としていた。
元来寡黙な氏は句会でも多くは語らず、順番が回ってきた時に短く鋭い感想を述べられた。これは少し耳が遠くなられていた故ということもあったろうか。折々に町野先生が声を大きくしてフォローされていた。そして食事会で欠かさぬ軽い一杯を美味しそうにいただくのがこのお二人であった。
東大のキャンパスが吟行地であった日のこと。中里さんは子供の頃東大病院に入院されていた母上の見舞いによく来たのだと話された。実の母親を早くに亡くされ、その後に母親となった人達もまた亡くされたと。新潟から来た人に一番馴染んでスキーを覚えたことなど。あの日、どうしてその話が出たのか。ただ飄然と歩く氏の後ろ姿を思い出す。
四年前の町野先生の葬儀の朝、先生からいただいた実生のマロニエの葉が一度に落葉した。寒い朝だった。 駅から教会へ向かう途次、中里さんにその話をすると「そういうことはあるんです」「私の実母が亡くなった年にそれまで毎年たくさん花を付けていた芙蓉が咲かなかった」と。
その後の町野先生の追悼句会の折、中里さんはもう俳句は止めようかと思ったとポツリと言われた。私はいつだったか吟行の帰りの電車で町野先生と二人になった時、相談というでもなく、打ち明けるというでもなく、娘の話を聞いてもらったことを思い出した。本当にただ聞いてもらっただけの時間。中里さんにも町野先生とそんな時間があったのだろうとふと思った。
しかし中里さんは俳句をやめることなく吟行も句会も変わらず続けられ、植物と共に蝶にも詳しくなられていたので時折はメールで蝶の確認もしてもらった。橡誌上ではこの三年ほど新たな掲載「山歩きの四季」を楽しみに拝読。それが今年一月で筆を折られた。青啄木鳥集の投句は続けられていたものの、このコロナ渦中のネット句会への参加が途絶え案じていた。夏の終わり、おこじょ会のメンバーすら人伝てに中里さんの入院の話。お見舞い先も分からぬまま、十月になってからひと月ほど前に亡くなられたことを知る。ご遺族との連絡も取れず、風に吹かれるように逝ってしまわれた。
俄かに肌寒くなった日、黐であろうあの大木の下に行ってみた。ふわりふわりと蝶が一つ。あっ、浅葱斑蝶。徳川園内の四阿のほとりにほんのひと叢の藤袴があるが、そこでこの蝶を見たことはない。中里さん、本当にこういうことがあるのですね。