落葉して季の階段下りてゆく
老どちの住む屋のもみぢ華やかに
亜紀子
小望月 亜紀子
いよいよと白きも増えて木の葉髪
そよそよとかたことと来る台風が
秋ついり晏起の雀軒を出て
香草に触れ秋霖の傘にほふ
下山して雨の巷に紛れ込む
今更に九月のやぶ蚊猛々し
出来秋の角の穂草や街雀
ふるさととたがふ十五夜団子かな
雀らは糧の夢みる小望月
野の千草のやうに売らるる月の供花
野の花を月にとつみし日の遠き
十六夜や乙女ささめく並木路
枝移りの横たてちよんちよん小鳥来る
けふといふ一日燃え尽く秋落暉
焦心のちちろひりひり夜もすがら
水のこゑ 亜紀子
句材が見つからない時、あるいは句作りそのものに行き詰まったときなど庭の虫を探してみる。本当に猫の額ながら虫たちにとってはそれなりの世界。私の知らなかった世界があって楽しい。
玄関先に小さな実生の柚の木がある。京都水尾の吟行で持ち帰った実。その種を試しに蒔いたものが一つだけ育った。六十センチほどの苗のさまで数年経ている。毎年アゲハチョウが卵を産みつける。緑の葉は幼虫の餌になり、シーズン中に何度か丸裸にされるのだが枯れることはない。かといって大きくもならない。
八月も末というのに一向に去らぬ猛暑の中、葉っぱの表に二匹のアゲハの幼虫を見つける。体長6、7ミリ、黒と白の鳥の糞そっくりの芋虫。そこへ小型のスズメバチが飛んで来た。柚の木の回りを飛んで、時折は葉に留まりもしてしきりに触覚を動かす。蜂の狩りを見たいと日差しの下でじっと注視。つい数日前にかなり大きなオンブバッタを抱えて飛んでいるのを見て驚いたばかり。いかにして獲物に跳びかかるのか。だがしかし、蜂はなかなか芋虫を見つけられない。芋虫の姿は完璧に丸見えなのによほど目が悪いようだ。ニアミスすら起こらない。何だか不思議な思いで見ていると、蜂が探索するのは芋虫の齧った痕のある葉っぱばかりと気づく。そう思って見れば、二匹の芋虫は申し合わせたように全き緑の葉の付けねに近いところにじっと乗っている。蜂は何度か行ったり来たりして、穴や齧り痕を探っていたがついに諦めたらしくどこかへ飛んで行ってしまった。調べてみるといったいに蜂の視力は低いとのこと。本当のようだ。ただし四センチほどの柚の葉にある虫食い痕を識別する視力はあるということか。そして芋虫がお天道様の下でうんちに化けて堂々と動かないのは、蜂除けでなくて、やっぱり鳥除けなのだろうか。しかし鳥は自分の出したものの形を認識しているだろうか。
二匹の芋虫の後日談。いつものパターンで三、四日の間に一匹づつ消えていなくなってしまった。食べるものが無くなって移動したのか、あるいは何者かに捕食されたのか不明。小さな柚の木の幼虫は緑色のきれいな姿まで育ったことがない。
子供の頃、父が蓑虫をバター炒めにして食べさせてくれたことがあった。蓑の袋を切って、芋虫をいくつもフライパンで料理した。偏見のない幼ゆえ、結構美味しくいただいた。従兄弟たちも一緒だったので、今でも折りに話題に上ることがあるが、何故蓑虫を食べる気になったのか誰にも分からない。父が虫好きであったのは確か。
鈴虫は水芸人よ翅けぶり 星眠
鈴虫のこゑ水となり風となり 星眠
『営巣期』から、鈴虫の二句。一句目は滝の白糸よろしく、水芸の扇使いと鈴虫の翅づかいのイメージが響きあう。二句目の水の声は一句目の水芸から呼び覚まされるような気もするが、父の作句姿勢からするとイメージだけで言葉を作ることはないだろうから、実際に水音に聞こえたのだろう。水音というと、せせらぎの音だろうか。風となるのは涼風に紛れて運ばれる声だろう。分かった気になっていたが、風にも似た水音というのが、実際のところちょっと疑問でもあった。
毎年お隣さんが鈴虫を孵し、まだいささか暑さの残っているうちから涼やかな声が聞こえてくる。例によって狭庭の土いじりしながら句材を求めていると、どこかで水を使っているようで水道が鳴る音がする。洗濯か風呂に水でも張っているようだ。かすかな音だが途切れることもない。自分の家の水が出しっぱなしかなと思い返したときに、はたと気づく。鈴虫だわ。星眠先生の水のこゑはこれかも。水鳴る音にも似る虫の声。父の聞いていた鈴虫は、翅使いの観察からして野の虫ではなく、一日中書斎に置いていた籠のものと思われる。私が家庭に入ってから何度かプラスチックの籠入り鈴虫を郵送してくれたこともあった。父も鈴虫を洗濯機か風呂桶に注水中のかすかな振動の音と勘違いしたかもしれない。今となっては確かめることはできない。
選後鑑賞 亜紀子
飯盒の次つぎ噴くや夕河鹿 市川美貴子
大勢のグループでのキャンプ。河原のあちこちで飯盒が噴き上がる。焚き付けの上手下手があるのでグループごとに多少時間差もあるだろうが、おおよそ同時に良い飯の匂いが立ち始める。そちこちで歓声も。日暮れの風にせせらぎの音、河鹿の声が何とも快い。KとG音のくり返しが思いのほか耳に滑らかで、河鹿の鳴き声かとも。
秋思あり通勤リュック胸に抱き 小野田晴子
通勤電車のラッシュ時を想像。スーツにリュック姿の若い勤め人。リュックは背負ったままだと狭い車内では邪魔なので、前抱きにして持つ人が多い。あるいは運良く座席に腰掛けることができて膝に置いて抱えこんでいるのかも。その肩がいささか落ち込んでいるように見えるのは、何か憂いをかかえているようだ。リュック姿の人物をまだ仕事に慣れぬ若者と解釈したけれど、若者でなくても、もちろん一人称の作者自身としても成り立つ句。秋思ありの思い切った出だしが、中七下五の描写の余韻へ続く。
軍艦島黒き廃墟や長崎忌 細辻幸子
長崎市端島、通称軍艦島。明治から昭和にかけて栄えた海底炭坑の島。光と影の歴史を負いながら、昭和四九年に閉山し無人島となった。世界文化遺産に登録されて、上陸に制限はあるものの現在は観光ブームに乗っているようだ。掲句では黒き廃墟と言い切り、長崎忌へと繋げた。作者は島の深い闇の部分をじっと見つめている。
一筋の秋風となり兄逝けり 水本艶子
作者の悲しみを、人の世の哀れを、秋風が言い取った一句。その底に静かな観照が感じられる。
雲切れて満月海に降り来たり 新井実保子
海上の雲間に現れた煌々たる望月。水を照らす月光を詠み取ったことで、より広く美しいさまが映し出された。海に降り来たりという表現に、月の女神の爪先が降り立つイメージも。
瓜きざみ常と変はらぬ誕生日 田村美佐江
瓜きざみに、いつも通りの身も心も健康な様子が感じられる。誕生日にしては何かもの足りない思いが湧くことこそ、健やかなる証拠というものだろう。
釜蓋朔日味噌饅頭の湯気盛ん 角田はる子
地獄の釜の蓋が開くといわれるお盆の月の始まり、釜蓋朔日。蒸篭から盛んに上がる湯気に、ちょっと地獄を連想。鄙びた味噌饅頭は懐かしの故郷を思わせる。
霧襖たてて火の山鎮もれり 宮崎安子
信州と群馬の境、浅間山を思う。今はもう秋、避暑客も観光客もめっきり減って静かに霧に包まれている。霧襖たてての表現に膝を打つ。
手話ミサの指ひらひらと今朝の秋 水谷勢津子
手話ミサとは、手話通訳による説教や祈りということだろう。手話の手指の動きをひらひらと感じる作者は祈りを耳で聞いている。しかし、軽やかな指の動きもまた神のことばそのものと思える。それゆえに、今朝の秋という清々しさ。
悉く露めざめたり彌撒の樂 星眠
(火山灰の道より)
高原の教会。簡潔で美しいミサの調べに、千草におく露も感じて煌めく。
(亜紀子・脚注)