橡の木の下で

俳句と共に

「晩夏」平成30年『橡』10月号より

2018-09-25 11:35:21 | 俳句とエッセイ

 晩夏     亜紀子

 

うべなふは安寧かけさ百合ひらく

秋立つる暦知りたるちちろの音

ハルビンの槐か白し主なく

泣きながら帰る鴉か大夕立

はつかなる日のうつろひに鉦叩

幼き日盆に集ひし家も失せ

校庭の一樹晩夏の影をひく

塚山の青松虫の闇一個

鴉らももの知る顔の今朝の秋

貝になる街台風の風一夜

富士登山とて眠さうな山ガール

部活つ子総身日焼け真つ黒け

精励恪勤朝あさの虫夜々の虫

夏休み終る合図のはたた神

ひと夏の沈思黙考蟬の殻


「添削」平成30年『橡』10月号より

2018-09-25 11:31:30 | 俳句とエッセイ

 添削     亜紀子 

 名古屋の句会の折、ベテラン俳人の同人Iさんが人の句をつい直したくなるという話をされた。たまたまその席で出された他の人の句について添削のアイデアを口にされ、確かにIさん流に直せばより俳句らしくなった。それに続いてIさんは、指導されている別の句会でささっと添削したくなるのだが果たして直してしまって良いのかどうか、責任者として常に悩むところだという。私が添削についてどう考えているかと問われた。

 私は基本的には添削をしないことにしているので特別悩むことはない。しかしながら何故にと理由を尋ねられるといささか考え込む。父星眠は私の句を添削することが全くなかったので、その星眠流を継承しているだけだとも言える。名古屋の句会に限って言えば、会員は皆さん人生における大先輩、経験値が自分とは比べ物にならない。俳句流の言葉遣いのバラエティーなどを提示してみたり、句因を聞き出し確認して、ならばその句因にそぐう表現を考えてみたらと申し上げたりはする。だが、明らかな誤字や文法の間違いは別として、「私の言葉」で直すことは不可能。

 『俳句入門のために』星眠著・揺籃社の「選句」の項を読み返す。

 アラビアンナイトのひらけゴマの話(「アリババと四十人の盗賊」で家の戸に付けられた目印をアリババの女奴隷が町中の戸につけて盗賊の目を眩ました)を枕に、俳句の選もどれも良いこれも良いと丸をつけていると本当によい句はわからなくなりますねという一文。きびしい選によって勉強するのが上達の正道です。相手の作句力が高いほど丸は減るでしょう。ちょっとやそっとでは驚かず、感心しなくなるのです。一方で、また句歴は古いが、力もセンスもない人が無闇に厳選してきびしいことを言うのもいけません。楽しさがなくなりますという一言。どちらの言も身につまされる。

 代用教員制度のあった頃、代用教員から習った生徒に優秀な人が多く出たというくだり。先生は検定を受ける自分の勉強をして生徒には自習ばかりさせている例が多いが、先生の学ぶ姿勢が生徒に影響を与えたのだろうという昔話から、俳句も自分で考え、苦労しながらすすむより手はありません、人だのみはいけませんと続く。この辺り、父が私に実践して示してくれたのだろうと顧みる。

 その一方、今は亡き町野けい子先生が名古屋に来られた日の会話を思い出す。我の強いことは学ぶ上で悪いことではないが、自分だけでは上達しない。ことに初学の間は先輩の言に素直に耳を傾けなければいけないという話をされた。昔子供が小さかった頃、剣道を教えてくれたおじいさん先生が、上手くなる子は皆一様に素直で、言われたことをすぐ実行するんだと話していらした。何にしても学ぶということは同様なのだろう。

 さて、あれこれ引用して書き散らした。多分、添削は誰がどの相手にどう用いるかによって功罪さまざま、一様ではないということなのだろう。では私自身が添削をしない究極の理由は。実のところ単純だ。稀に他人の句に手を入れて例示することもあるけれど、ぶっちゃけそれが原句より良いかどうか自信がないということ。その人の一句はその人のこれまでの来し方、現在置かれている状況、これからの希望、その他諸々その人にまつわる全てを元にしている。掛け替えのないもの。どんなに原句の意に添う努力をしても、やはり本人以外には詠めない。上手い下手とは次元の違う問題だ。そうして他人が添削しなくても、自己添削という方法がある。すなわち推敲。私の添削で原句改悪になったら私の責任になるが、推敲して拙い句になったとしても、こちらには責任がない。大変無責任な物言いで申し訳ないのだが、、。自分で直す過程で何を詠まんとしたのか意図がより明確になることがあったり、あるいは別のものが見えてきて原句とは違う角度になったり、作句の楽しさはそこに生まれると思っている。努力と結果は一朝一夕には結び付かないのだけれど、過程を楽しもうと日々私自身に言い聞かせている。


選後鑑賞平成30年「橡」10月号より

2018-09-25 11:24:04 | 俳句とエッセイ

  選後鑑賞    亜紀子

 

白木槿咲く中蔵はこぼたるる  木下多惠子

 

 旧家の土蔵が取り壊される。耐震の問題もある。時の流れの中、もの皆すべていずれは失われてゆく定めではあろうが。共にあった時間を振り返る。共に旧りきた己が佇んでいる。「蔵はこぼたるる」の助詞「は」に思いが籠っている。毎年咲いてきた木槿の白い花だけが今年も変わらず寄り添うている。

 

虻とめて野あざみ傾ぐ夢二荘  小菅さと子

 

 竹久夢二は群馬県榛名湖畔が気に入り、アトリエを建て隠棲の地として選んだそうだ。榛名山美術研究所の構想のもと、資金集めも進めたが本人は病に倒れ実現されずに終ってしまう。群馬の橡会員が折々に「夢二荘」あるいは山荘として詠んでいるのは湖畔に復元された夢二アトリエだろう。虻とめて僅かに傾いだ野薊の花が山上の湖の岸辺の風情と、夢二の絵の趣きとを共に伝える。

 

ふるさとは廃校廃線蕎麦咲けり 吉田庸子

 

 山あいにある町だろうか。蕎麦の花に懐かしさと侘しさが交錯する。私が社会科で人口ピラミッドを習った頃はまだまだ子供も若者も多かったのだが。いずれ欧米形になるよと教えてくれた先生も、本当に今の姿になるとは信じていなかったのでは。子供がいなければ学校はなくなり、利用者がいなくなれば大掛かりな公共交通機関は止まる。仕方ないといえば仕方ないのだが、子供が全くいなくなったわけではなく、利用者が皆無というわけではないところに、不便と嘆きがある。

 

お花畑に棚引く煙チーズ小屋  前園真起子

 ヨーロッパアルプスの旅吟か。工場生産でない、地元の小さな生産者によるチーズ作りか。棚引く煙は牛乳を炊いているのだろうか。一面のお花畑の中、絵になる光景。旅に弾む作者の素直な気持ちが表れる。アルプスの少女ハイジの心。

 

子等の去りもとのひとりや蚊遣焚く 奥村綾子

 

 お盆休みが終る時に、はからずも湧く呟き。橡集にも同様の題材の句が集まる。掲句は「蚊遣り焚く」が効いている。燻る煙、燻る思い。

 

竈馬に子らの魂消るキャンプの夜  関澤澄子

 

 翅のないバッタの姿のカマドウマ。湿気の多い、暗いところを好む。竈のある台所などとうに失せた今の建物には彼らの住処はないだろう。現代っ子が日常生活で遭遇する機会はないと思われる。子供らが小さかった日、山の家でベンジョコオロギと呼んで気味悪がっていたが、慣れてからは「マックロクロスケ」とトトロに登場する生き物の名で親しんだ。三段跳び選手のような跳躍力。場所によってはうようよ群れている。キャンプ場で「魂消た」子供達、さもありなん。

 

臥す妻に顔見せに行くじょく暑かな 西田沾子

 

 糟糠の妻を病院へ見舞う。暑い盛り、ことに今夏の異常な暑さの下での往き来は、看病する者にとっても骨の折れることと想像される。そこを「顔見せに行く」と何気なく表現したところ、無尽の優しさを見る。

 

白南風に徳利木綿弾け跳ぶ   関屋ミヨ子

 

 トックリキワタはパンヤ科の落葉高木。その名の通り、大木になった幹が徳利形。花はピンクで美しく、果実が熟し割れると種を包む白い棉が飛んで行くのだそう。植物園の温室で見られるが、南の地域では街路樹にもなるようだ。作者はどこで見られたろう。ちょうど棉の飛び出す瞬間に出会ったようで、幸運。白南風がいい。

 

 


平成30年「橡」10月号より

2018-09-25 11:20:48 | 星眠 季節の俳句

小人らの忘れ帽子や錦木に  星眠

              (営巣期より)

 

 錦木の小さな果実。赤く熟すと裂けて中から朱色の種が一つ。

種にかぶさる果皮のさまは小人帽子。いくつも、いくつも。

                    (亜紀子脚注)