橡の木の下で

俳句と共に

上州空っ風と伊吹おろし 『俳壇』6月号 本阿弥書店 より

2016-05-17 08:30:17 | 俳句とエッセイ

上州空っ風と伊吹おろし     亜紀子 

 「かかあ天下に空っ風」で名にし負う上州に生まれ育った。かかあ天下はさておいて、冬の乾いた北西風は言葉どおり強かった。大陸から吹き込む風は越後にたっぷり雪を置いていく。上州を吹き荒れるときはからから。赤城おろしである。私の世代の昭和の子供たちはみんな皹の赤い頬をして鼻の下は鼻水でくわんくわん。確かに厳しい風であったと思うのだが、それが辛かったという記憶はない。子供は風の子、父母の庇護のもと、この世の風を真正面から受けることのなかった風の子供。

 父堀口星眠が空っ風をどう詠んでいたか探してみた。父は正真正銘の上州人、さぞやたくさんの句が出てくるだろうと期待したが、案外に数がない。涅槃西風、梅東風、春風などが多い。次いで秋の風。生来的に明るいもの好む人であった。数少ない空っ風の句。

烈風に白兎のごとき初浅間  堀口星眠

 この句の浅間山は上州側から見える景。轟々と鳴る風の中にあって雪兎のような山容は雄大であるが厳しさを感じさせない。

カラオケのキイはづれたる空つ風  堀口星眠

 私は父のカラオケを聞いたことがない。好きであったようだ。句会仲間の歓送迎会などの折りに歌ったそうで二、三の十八番もあったらしい。夜中に一人自分の部屋で練習するのを聞いたことがあるように思うが、あれは夢だったかもしれない。

八十の崖縁さらす空つ風  堀口星眠

 八十歳を過ぎ、晩年は闘病の暮らしとなった。持病は進行やむを得ぬたちのもので、医師としてその経過を見通した上の「崖縁」だったろう。服薬を決心したのもこの頃。それから十年余り、崖っぷちに立ちながらも空っ風に向かって調子のちょいとはずれた唄を楽しんでいるような、そんな人であった。

余呉の湖かりがね寒き波がしら  稲垣敏勝 

 所帯を持ち、私は上州から尾張に移り住んだ。濃尾平野は赤城おろしならぬ伊吹おろしにさらされる。若狭、琵琶湖と水の上を通る風は比較的湿っている。日本海側の雪雲を一緒に運んでくることも多く、故郷の空っ風とは少し趣を異にする。街中に暮らしているので伊吹山は見えず、颪として意識することはないが確かに冷たい強風である。冬場、風のある日は洗濯物は外に出さない。ビルの下を通ればいわゆるビル風となり、伊吹おろしは何倍かに増幅され翻弄される。夏暑く、冬寒い名古屋。冬が来ると何となし憂鬱である。と思うのだが、今これを書いている時にはすっかり忘れてしまっている。冬が去り、春光を意識するようになれば寒風の日々は消え去っている。萌え出た緑にこの春の一日が永遠に続くような心持ち。季節はめぐり、悲喜こもごもも来ては去り、それゆえに人は生きていけるのかもしれない。