どこそこへ行ったという日記を書いても、satoboの日記では文章と画像は全然関連のないものとなっている。
それにはちゃんとした理由があって、なんとかしようかなと思う気持ちがあるにはあるが、なんともならないと思う気持ちもあって、そのままである。
現在のところ、画像は撮影した順番に何の脈略もなく日々載せている。
こうすると画像番号を順番に追っていけばイイだけなので、どれをすでに使ったかがわかりやすいのだ。
途中で新しい画像を付け加えると、以前の順番に復帰する時にどこまで使ったがわからなくなるし、途中使用の画像番号まで次にきた時にどれを使ったのかもわからなくなるのだ。
以前も同じ画像を使ってしまい、それを指摘されて「どれを見たのか覚えているんだぁ」と感心した事もあるのだが、自分では覚えていない。
そのくせ不思議なもので、使う画像に好みがあるようで、加工する時にやはり同じ画像を選んでいたりして重複するのである。
というわけで、話に出てきた場所の画像は、忘れた頃にこっそりと出て来る事になるのだが、それも愛嬌と思っていただきたい。
今日は車窓から見えたタテモノが不思議だったので現場検証に行った。
駅で飛び乗った電車があいにく快速で、目的の駅では停まら、ずやむなく2つ手前の駅で降りた。
当然そこから歩いて行くのだが、目的地は駅2つ半先にある。
事前にグーグルマップで現場を確認しようとしたのだが、らしいタテモノが見当たらず、だいたいこの辺りだろうと憶測だけで歩き出した。
ポケットサイズの地図は持っているので、住所さえ確認出来れば自分がどこに居るかわかるので、気がつけば岡山辺りを歩いていたという失敗はない。
かといって地図を頼りに歩くのではなく、もっぱら適当な道をクネクネと歩いて行くわけだ。
大きな道は面白くないので、出来るだけ横道に入っていくのだが、ドンドン細い路地に進んでいくので時々行き止まりに突き当たったりして引き返す事もある。
今日もそんな事をしながら、人一人入れるぐらいの路地を歩いていると急に古びた家屋の一画に入り込んだ。
それまでの建て売りの新しい住宅の建ち並んでいたところから、木の塀で囲まれた木造家屋、それもかなり立派な家の建ち並ぶところに来てしまった。
こういうところは区画整理などされず、昔ながらの道筋が残っているので、細い路地がクネクネと入りくんでいる。
そのクネクネは何か理由があってそうなっているのだが、今となっては知る由もない。
ただそういう場所の多くに、曲がり角に小さなお社や石、地方であれば道祖神などがあり、その地域の「区切り」を示すことが多いのだ。
その区切りの所以に興味があるのだが、そんなことは部外者にはわからない。
たぶん現在そこに住んでいる人の多くもわからないだろう。
しかし、その道の曲がり具合などをみると、ちょうどそこを区切りにするのにちょうど良い環境に思えるのだ。
わずかであるが、なにがしか区切りをはさんで「場の空気」が違っているのである。
あるいは意識的に場の空気を違うように画策されたのかもしれない。
「別れの一本杉」のように、木を植える事で意識的に区切りをつけ、時代とともにそれに見合った雰囲気がかもしだされてきたのかもしれない。
そういうことは神社仏閣では意識的にしているし。
そういう空気が変わる場所の写真をパチリと撮影するのが、satoboの景色写真だともいえるかもしれない。
だからそういう画像を文章とともに掲載すればわかってもらいやすいのだろうが、上記の理由でリアルタイムには進行しないのである。
それにはちゃんとした理由があって、なんとかしようかなと思う気持ちがあるにはあるが、なんともならないと思う気持ちもあって、そのままである。
現在のところ、画像は撮影した順番に何の脈略もなく日々載せている。
こうすると画像番号を順番に追っていけばイイだけなので、どれをすでに使ったかがわかりやすいのだ。
途中で新しい画像を付け加えると、以前の順番に復帰する時にどこまで使ったがわからなくなるし、途中使用の画像番号まで次にきた時にどれを使ったのかもわからなくなるのだ。
以前も同じ画像を使ってしまい、それを指摘されて「どれを見たのか覚えているんだぁ」と感心した事もあるのだが、自分では覚えていない。
そのくせ不思議なもので、使う画像に好みがあるようで、加工する時にやはり同じ画像を選んでいたりして重複するのである。
というわけで、話に出てきた場所の画像は、忘れた頃にこっそりと出て来る事になるのだが、それも愛嬌と思っていただきたい。
今日は車窓から見えたタテモノが不思議だったので現場検証に行った。
駅で飛び乗った電車があいにく快速で、目的の駅では停まら、ずやむなく2つ手前の駅で降りた。
当然そこから歩いて行くのだが、目的地は駅2つ半先にある。
事前にグーグルマップで現場を確認しようとしたのだが、らしいタテモノが見当たらず、だいたいこの辺りだろうと憶測だけで歩き出した。
ポケットサイズの地図は持っているので、住所さえ確認出来れば自分がどこに居るかわかるので、気がつけば岡山辺りを歩いていたという失敗はない。
かといって地図を頼りに歩くのではなく、もっぱら適当な道をクネクネと歩いて行くわけだ。
大きな道は面白くないので、出来るだけ横道に入っていくのだが、ドンドン細い路地に進んでいくので時々行き止まりに突き当たったりして引き返す事もある。
今日もそんな事をしながら、人一人入れるぐらいの路地を歩いていると急に古びた家屋の一画に入り込んだ。
それまでの建て売りの新しい住宅の建ち並んでいたところから、木の塀で囲まれた木造家屋、それもかなり立派な家の建ち並ぶところに来てしまった。
こういうところは区画整理などされず、昔ながらの道筋が残っているので、細い路地がクネクネと入りくんでいる。
そのクネクネは何か理由があってそうなっているのだが、今となっては知る由もない。
ただそういう場所の多くに、曲がり角に小さなお社や石、地方であれば道祖神などがあり、その地域の「区切り」を示すことが多いのだ。
その区切りの所以に興味があるのだが、そんなことは部外者にはわからない。
たぶん現在そこに住んでいる人の多くもわからないだろう。
しかし、その道の曲がり具合などをみると、ちょうどそこを区切りにするのにちょうど良い環境に思えるのだ。
わずかであるが、なにがしか区切りをはさんで「場の空気」が違っているのである。
あるいは意識的に場の空気を違うように画策されたのかもしれない。
「別れの一本杉」のように、木を植える事で意識的に区切りをつけ、時代とともにそれに見合った雰囲気がかもしだされてきたのかもしれない。
そういうことは神社仏閣では意識的にしているし。
そういう空気が変わる場所の写真をパチリと撮影するのが、satoboの景色写真だともいえるかもしれない。
だからそういう画像を文章とともに掲載すればわかってもらいやすいのだろうが、上記の理由でリアルタイムには進行しないのである。