Nonsection Radical

撮影と本の空間

かろのうろんや

2011年01月07日 | Weblog
大阪に来て不満に思うのは、うどんがマズくなった事だ。
うどんやそばは手軽な食事の範疇であるべきで、実際近年までそうであった。
手軽だがマズくていいわけがない。
かといって、こだわりを表に出すのも困りものだ。
一時、ラーメン店でどこそこなになにのダシ、なんの塩等、「こだわり」をうたい文句にする店が増えたが、そんなものはいうものでない。
黙っておいしいと思わせればイイのだ。
また、うどんやそばを高級な食べ物とする流れもあるが、それはそれで勝手にするがイイ。
ほんのわずかな量のそばをありがたがって食べるのだから、きっと金はあるが、トシを取って満足な量を食べる事が出来ない年寄り世代の戯れ事と嗤えばイイ。
逆に貧乏臭い。
悔しかったら店は山盛りで出し、客はガツガツ喰ってみろ。

うどんが、あるいはそばが、ウマくなくなったのは、街なかの気軽なお店が衰退したからではないかと想像してみる。
東京でも以前は適当な場所には必ずそば屋さんがあって、家族で営んでいたものだ。
あの「ありがとう」の世界である。
知らない人は知らないでよろしい。
でも相良直美の歌は聴きなさい。

京都、大阪でもうどん屋さんがアチコチにあり、どこもソコソコの値段で、ソコソコの美味しさだった。
でもたぶん「立ち食い」が出来て、そちらに客を取られた事も影響し、代替わりが出来ずに閉店という事もあったのだろう。
先日も京都・新京極で25年前に行った京都で一番ウマいきつねうどんを出すお店(価格比較)を探したのだが、なかった。
25年前でもキッタネェ店で、昔の娘さんと呼べる年頃の「おねえさん」が、少し腰を曲げて丼を運んできたのであるから、代替わりしていなければ店もなくなって当然であろう。

一方、立ち食い店は当然、薮から棒蕎麦などを目標にしていたわけでもなく、もっぱら街のお店の味を追求していった結果、段々と味が良くなっていったのだが、その「競争相手」が減るにしたがって「味の追求=企業努力」がおろそかになり、「利益の追求=企業努力」に移っていったのではないか?
客の方も、普段食べているものが街の店から立ち食いに変わっていき、その味にならされてしまった結果、マズい事にならされてしまったのではないのか。
そんな仮説をたててみたくなるほど、文句もいわず普通に食している人だらけだ。
「これ、美味しいと思う?」
と、思わず問いたくなる。
値段が安いから仕方ないというのなら、庶民の街(貧乏人の集まり)としては、残念な事ではないか。
そりゃぁきつねうどんに800円も出せば美味しいのだろうが、それはちょっと違うだろうと言いたいのだ。
それはビールが中瓶で800円したら思う気持ちと同じだ。

satoboもせっせとお店に通うから、頑張ってソコソコの値段で美味しいうどんを出してね。
この気持ちは、5000円ポッキリのアルサロに通うから、頑張ってスペシャルサービスをしてね、という気持ちと通じるものがある気もしないでもない。
コメント (2)
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