Nonsection Radical

撮影と本の空間

愛がないのかもしれない

2010年01月11日 | Weblog
某月某日
「2009年最高の映画」「ボッキしながら号泣」
そんな甘い言葉に釣られて久しぶりに映画「愛のむきだし」をDVDで観た。
残念ながら「最高」の映画かどうかわからなかったし、「ボッキ」も「号泣」もしなかった。
4時間の大作なのだが、途中へんなストーリーカットがあり、流れがよく理解出来ないなぁと感じたのは、satoboが映画の理解力が悪いからだと思っていたが、付録につく本編でカットされたシーンというのを見て流れがわかったので、ちょっと作りが悪かったんだと理解した。
しかし本編を見終わって、さらに付録シーン(これも135分)を観ても、もうひとつ気持ちがハッキリしない。
かといってもう一度見直すには4時間かかる。

映画っていうのはなんなんだろう。
そう思ったのが唯一の感想だ。
この映画を最高だと言ったのは映画評論をする人だが、その人の考えとsatoboの考えとは乖離がある事がわかった。
もちろんこの映画が悪いと言っているわけではない。
できるだけみんなにも観て欲しい。
そこでの感想をsatoboの「考え」とすりあわせて、「他人」の考えを理解したいのだ。
つまり、ワケがわかんなくなっている。
映画の中味がワケわかんないのではなく、映画というものがワケわかんなくなったのだ。
歳を取ると涙もろくなり、すぐに泣くsatoboなのだが、どうしてこの映画では泣く事もなく、パンチラにもボッキしなかったのかわからない。
ボッキの方は(笑)、加齢とパンチラに興味がないからなのだが、涙があふれないワケがわからない。
この映画では「愛」を突きつけているのだが、それでいくとsatoboには愛がないからかもしれない。
アガペもエロスもジタバタした人生の前で何の救いにもならないと思っている原始仏教徒のsatoboである。
これが原因か?
しかし映画では宗教的な思想は「実は」何も扱っていないと思う。
宗教的でない愛だと思うとともに、宗教的であろうとなかろうとsatoboの心に愛が理解出来ないと突きつける映画であって、映画が理解出来ないと突きつける映画であったのだ。
機会を見てもう一度観てみようと思う。
コメント
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