3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

野菊の墓-本を読んで泣きたくなったら

2012-09-23 13:38:31 | 文学ノート


金曜日の夕方、花屋の店先に野菊が並んでいた。思わず一鉢買う。
土曜の朝日の高橋睦郎「季をひろう」は「野菊」だった。

野菊といえば、日本人ならだれもが思いつくのが、伊藤左千夫の「野菊の墓」だろう。
筆者も小学校6年ぐらいだったか、ちょうどいまぐらいの季節に読んだ記憶がある。
ボロボロ泣いた。
あまり感動したので、自分もひとつこういう悲しい物語を書いてみたいと思った。
その時構想した物語のあらすじは、次のようなものだったと記憶している。

タイトル:橋
時代背景等:明治後半、地方の田舎町
主な登場人物
  政夫:旧制中学に通う青年、母は再婚して橋の向こうにある医師のもとに嫁いでしまった。
  洋子:政夫の美貌の母、東京の女学校を卒業し、親の決めた結婚に馴染めず、泣く泣く嫁ぐ。政夫を産んだが、その後夫が精神的錯乱となり、実家に戻る。東京の女学校時代に知り合った医師と再婚、4男2女を産む。
  丈吉:洋子の元夫、素封家の生まれだが、精神に異常をきたし廃人となる。
  雄二郎:東京の医学校を出て、田舎で貧しい人のため医療に従事

政夫がすでに嫁いで別の家の人になっている母に会いたくなって、橋を渡る。こっそり母の姿を覗いている。それを雄二郎がみつけて、暖かく迎え入れてやるというはなし。政夫はその後結核になって亡くなってしまうという悲しい物語。遠い親戚の話を題材にしているのだが、これを何代にもわたって書き続けるとおもしろかったかもしれない。

ずっとあとになって、大人になってから、テレビで「野菊の花の君なりき」主演、笠智衆、をみて、やはりボロボロないてしまった。
どうしても欲しくなりDVDを買った。
今日は一つこのDVDで秋の一日を泣いてすごしてみようか。


       


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

出生前診断の是非をめぐって

2012-09-22 08:48:41 | 女性の地位
出生前診断、10週から障がいの有無が99%の確率でわかるようになった。

かつては生まれてみなければわからなかった。
だれもが健康な子どもを望むだろう。産まれてくる子どもに障がいがあることを願う親はいない。
しかし、実際は何%かの確率で生まれてくる。生まれたらすべてを引き受け懸命に育てる。育児放棄する親もいるにはいるが、みな、必死に育てているはずだ。そしてソーシャルサポートもある。

妊娠10週の段階、つまり初期の段階、で障がいの有無がわかるということなら、しかも血液検査ですむなら、ほとんどの妊婦は検査を受けるだろう。
その結果、障がいがある、ということがわかった場合どうするか。
そこからはそれぞれの選択である。
私の意見は、産んでもいいし、諦めてもよい。どちらの選択をしても、不利益を被らないように心身ともに社会的支援が必要だろうということである。どちらにしても重い選択なのである。産んだ母親に対して「自己責任」という論調もあるが、それは成熟した社会のあり方ではないと思う。



2012.9.6の毎日新聞にイギリスの話が掲載されていた。それについてすでに9.6のこのブログで書いたので、再録する。

■出生前診断(英国編)の話。
英国では、出生前診断が妊婦の権利として確立していて、すべての妊婦は無料で検査を提供しているとのこと。
重い障がいや病気を理由にした中絶は合法。関連する相談窓口もある。妊婦の自己選択を重視する英国。
それに対して、日本は、権利として確立していないし、程遠いように思える。

日本は戦前戦後、中絶の数は合法、非合法ふくめ、かなりの率だったと思う。しかし、昨今は、かつてより、いのち、を大切に、という教育がなされ、中絶に対する嫌悪感はかなり強いと思われる。英国のように出生前診断が権利で、もし、障がいがわかった場合、産むか産まないかは妊婦に選択に任されているという意見は多分あまり理解されない雰囲気だと思う。

筆者は基本的に、選択の自由は妊婦にあると思っている。中絶を選択するにしても妊娠を続行するにしてもどちらを選んでも不利益にならないようにサポートが必要であると思う。障がいの子どもを持つことで仕事をやめざるを得ないというような不利益がないような社会ならよいが、実際にはむずかしい。と考え、中絶する女性もいるだろうし、その選択を責めることはできないだろう。

主体的に産んで一生懸命に育てる、それはそれで良いと思う。障がいの子どもをもつことで見えてくる新しい世界、人生、生活もあるから必ずしも大変なことばかりではないと思うから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発ゼロはなぜトーンダウンしたのか

2012-09-21 07:59:06 | 現代社会論
政府のエネルギー政策はぶれまくっている。

フクシマを経験すればみな、ゼロ、と考える。
しかしだ。世界はそれを許さない、という外交上のしばりがでてきた。
ゼロにしますとは言えないのだ。

風力にしようが太陽光にしようが、それがたとえ安定的に供給できるような体制になったとしても、日本は原発をやめるわけにはいかない。

安全保障と産業構造上、それはできないということが明らかになったのだ。

中国の強大化で、日本は抑止として、核を持つしかなくなっていると思われる。
原発を止めてしまったら、どうだ。抑止が効かなくなる。対中国として、どうしてもそれは避けなければならない。
いつでも核武装できるという体制を見せつける、ということだ。
よって原発をやめるわけにはいかないのだ。

エネルギーや経済的な問題だけでなく、安全保障として必要。
世界の安定を維持するために、日本には核をもつ用意を常にしておいてほしい、というのがアメリカをはじめとする世界の大国の願い。

そういう構造をふまえるとこれはゼロにするわけにはいかない、というのが多方の見方になる。
だから、一端ゼロにしますなど行ってしまったが、後悔しているはずで、アメリカからのプレッシャーもあるのだろう。

討論型だかなんだか、よくわからない「ふつう」の人の話をきく、というような人気取りのパフォーマンスをしてみたものの、外交、安全保障など、やはり、複雑に入り組んでいて、今の安定はちょっと気を緩めれば、あっというまにたいへんなことが起きるかもしれないという一触即発。

世界は常に不安定要因に満ちている。
平和ボケしているのは日本人だけだ。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

半数のものが少数の掛け算割り算の意味がわかっていない小6-これは一大事である

2012-09-20 09:03:06 | 現代社会論
文部科学省の国立教育政策研究所が、全国学力テスト4回分の傾向を分析した結果、小学6年生の半数近くが、小5までに学ぶ「小数のかけ算・割り算」の意味を理解していないとみられることが分かった。

単純にこれはまずい。これではものつくり日本どころではない。
原発ゼロや15%、25%の話がこれではできないではないか。
経済成長率などは理解不能と思われる。高齢化社会?少子化?これも無理。

下位の5%ぐらいは障がいなどの理由で理解ができない子どもはいるだろうが、半分とは一大事である。
小学校の教育はここまで腐っているのか。
できなかった子ども、さかのぼってこの子らに「少数の割り算掛け算」を教えた教員を洗い出し、減俸にするぐらいにしなければダメだ。無償で補習をやってもらわなければなるまい


教員無責任時代だ。
自分の教えている子どもたちが出来ようが出来まいが「関係ない」のか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デスクワークのお供には食べる’いりこ’とポーションコーヒー

2012-09-19 10:31:51 | 日記



机に向かう時間が長い。
気分転換にチョコレート、濃厚飴をたべていたら、体重がたいへんなことになってしまった。

友人がいりこにしろ、というので、最近は食べるいりこ。
ポーションのエスプレッソをタンブラーにいれて、がぶがぶ飲んで目を覚まし、いりこを食べたべ仕事をするというスタイルに変えてみた。
いりこは、手が汚れず、顎の運動にもよい。
名案である。
ちなみに私のタンブラーは、ゴッホの絵のついたもの。
これも私のお気に入り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする