ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




72-2細田邸。横浜市中区山手町72。1993(平成5)年5月5日

上の写真で手前の通りは山手本通り、ベーリック・ホールのすぐ西である。その写真右に写っているのが下の写真の岡田邸。右手前の駐車場はベーリック・ホールのものらしく、今は立派な鉄門が付いた。
『日本近代建築総覧』に載っている2棟で、上の写真が「72細田健司邸、中区山手町72-2、建築年=大正、木造2階建て」、下が「72某邸宅、山手町72-5、建築年=大正、木造2階建て、備考=72細田邸と同形式」となっている。設計・施工者が空欄だが、『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)には「72番」の物件名で、「設計=宮内初太郎、施工=宮内建築事務所、建築年=昭和5年、構造=不詳」としている。『横浜市>認定歴史建造物』では「72-5邸」を「岡田邸、建築年=昭和4年(1929)」で、これで落ち着いたらしい。
神奈川の近代建築探訪O邸』では設計者につて「戦前の横浜を代表する建築事務所として、県内外で数多くの建築物の施工を手掛けた、宮内建築事務所の施工、同事務所所長の宮内初太郎の設計により」とある。このサイトの写真では2基ある煙突が改装されている。暖炉にストーブを設置したのかもしれない。
現在は細田邸は建て替えられたが、その奥のO邸は健在だ。平成10年度の横浜市歴史的建造物に認定された。



72-5岡田邸。中区山手町72。1993(平成5)年5月5日

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ベーリック・ホール。横浜市中区山手町72。2013(平成25)年4月18日

緑の協会>ベーリック・ホール』によると、イギリス人貿易商B.R.ベリックの邸宅として、昭和5(1930)年にJ.H.モーガンの設計で建てられた邸宅。外観は「スパニッシュスタイルを基調とし、外観は玄関の3連アーチや、クワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されている」。「第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、昭和31(1956)年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄付された。その後、平成12(2000)年まで、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されていた。…平成13(2001)年に横浜市は、建物の所在する用地を元町公園の拡張区域として買収するとともに、建物についてはカトリック・マリア会から寄付を受けた。復原・改修等の工事を経て、平成14(2002)年から一般公開している」。
美の巨人たち>ベーリック・ホール』によると、モーガンが設計した住宅のほとんどがスパニッシュスタイルで、それも横浜に集中しているという。1915年のサンディエゴ万博で展示されたスパニッシュスタイルの住宅が全米で大流行し、それを知ったモーガンが横浜の風土によく映えると考え取り入れたのだそうだ。
「バートラム・ロバート・ベリック」および「セント・ジョセフ・インターナショナル・スクール」については『 日本のすばらしい建築物>ベーリック・ホール』が参考になる。


ベーリック・ホール。1993(平成5)年5月5日

セント・ジョセフ・インターナショナルスクールの寄宿舎だった頃の写真。門が開いていたので、緊張しながらも、ついのこのこ入ってしまった風を装って撮ってきた写真。

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えの木てい(89安藤彦郎邸)。横浜市中区山手町89。1993(平成5)年5月5日

えの木てい>えの木ていの歴史』には「昭和2(1927)年、日本人建築家朝香吉蔵氏が設計した英国式の洋館で当時を偲ばせる貴重な建築物としても知られています。元はアメリカン人検事が暮らしていましたが、昭和45(1970)年に現オーナーのご両親が自宅用に買い取りました」とあり、えの木ていを開店したのは昭和54(1979)年。
朝香吉蔵は隣の山手234番館の設計者でもあるが、施工者も両方とも宮内建築事務所。『神奈川の近代建築探訪>O邸』にO邸(72番邸)の設計者について「戦前の横浜を代表する建築事務所として、県内外で数多くの建築物の施工を手掛けた、宮内建築事務所の施工、同事務所所長の宮内初太郎の設計により建てられた住宅です」と紹介されている。宮内建築事務所が手掛けた建物には以上のほかに、横浜市中区山手町に「横浜共立学園本校舎」(設計=ヴォーリズ、昭和6年)、「フェリス女学院」(設計=森山伊望、昭和4.年)。宇都宮の「カトリック松が峰教会」(設計=ヒンデル、昭和7年)などが知られている。
写真は20年以上前のものだが当然ながら佇まいは変らない。看板は素朴な感じで、電柱は今はないのではないか。紅茶でケーキを味わう店だろうから、おじさんが一人で入るわけにはいかない。

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山手234番館。横浜市山手町234。1993(平成5)年5月5日

山手234番館は正面1階のベランダの前に円柱が立ち並んでいるのが特徴だから、上の写真ではそれがないので別の建物のような感じだ。元のように修復される前の姿である。そんなものに意味があるのかどうか自分でも分からないが、ここでは修復前の写真を並べてみた。
山手234番館公式サイト|公益財団法人 横浜市緑の協会』によると、昭和2(1927)年頃に外国人向けの共同住宅(アパートメントハウス)として建てられた。設計者は隣のえの木ていと同じ朝香吉蔵。「昭和50年代頃までアパートメントとして使用されていたが、平成元(1989)年に横浜市が歴史的景観の保全を目的に取得。平成9(1997)年から保全改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開している」。
日本のすばらしい建築物 >山手234番館』によれば、設計者の朝香吉蔵は「明治22年に山形で生まれ、横浜の浅野造船所や横浜船渠株式会社建築部などを経て、大正12年に事務所を開設。住宅設計を中心に、横浜の震災復興を支えた建築家の一人」ということだ。


山手234番館玄関ポーチ。左:1997(平成9)年6月2日、右:1993(平成5)年5月5日

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横浜山手聖公会。神奈川県横浜市中区山手町234。1997(平成9)年6月2日

横浜山手の観光の中心は山手本通りの外国人墓地からベーリック・ホールにかけてで、その中間の三叉路の角にあるのが横浜山手聖公会だ。資料では「クライスト・チャーチ」という名称も多く使われている。通りに向いて三層の西洋の城郭のような塔を向けていて、威厳がありそうな雰囲気だ。
J. H.モーガンの設計で、建築年は昭和9年というのと昭和6年とがある。聖公会のHPでは1931(昭和6)年。RC造で、塔屋の後ろに聖堂(礼拝堂)、聖堂の左右に部屋があるようだ。外観は「大谷石を効果的に使ったノルマン(英ロマネスク建築)風会堂」(『建築探偵術入門』文春文庫、1986年)、「イギリスの田舎風の、オールド・ノルマン建築の雰囲気」(『かながわの近代建築』河合正一著、かもめ文庫、昭和58年)なのだそうだ。


横浜山手聖公会。2013(平成25)年4月18日

建物は1945年5月29日 の横浜大空襲で焼夷弾によりに内部を焼失する。戦後、1947年 に修復された。1993年には外壁などを修復する工事が行われている。2004年1月4日に放火による火災で内部を焼失するという事件が起こるが、11月までに修復された。今、2016年4月撮影のストリートビューを見ると、建物全体に工事用足場が組まれている。外壁の化粧直しだろうか。

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大徳帽子店。中央区銀座8-4。1985(昭和60)年6月2日

中央通りの銀座8丁目の博品館の隣にあった老舗の帽子店。明治14年創業という。店舗は関東大震災後に建った看板建築だろう。帽子だけでは商売は難しいのだろう、一般の紳士洋品も置いているようだ。撮影後数年して廃業したという。
大徳帽子店、タナカ眼鏡店、志ぐれ煮の貝新と並んでいる。現在はこの3軒が「三陽銀座タワー」に替わっている。貝新はそのビルの同じ場所で営業している。三陽銀座タワーはサンヨーレインコートとバーバリで知られる三陽商会の販売店で、2015年9月のオープン。ビルもそのときの竣工なのだろうか? 三陽商会はこのビルでバーバリを売りたかったに違いない。
博品館のビルは1978(昭和53)年9月の竣工で、玩具店の博品館もその時の創業。その前は「観光会館」というビルで、キャバレー・ハリウッドがあった。

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左:帝国製鉄。中央区銀座8-4。1987(昭和62)年5月24日
右:村喜五号館。銀座8-4。1988(昭和63)年2月21日

左写真の3階建ての古そうな建物は外堀通りの東側にあった。その両隣のビルは変っていなくて、左が「小沢ビル(現・もりくま11)」、右が「銀座はちかん3110」。古い建物には「帝国製鉄㈱」の袖看板がついている。1986年の住宅地図には「フリーエ」とあり、1階にそのような店名の飲食店でもあったようだ。「大分合同新聞ビル」(1998.12築、9階地下1)に替わった。
右写真の村喜五号館は帝国製鉄のちょうど裏に背中合わせで建っていて、ソニー通りに今もある。アーチ窓が特徴で一見古そうに見えるビルだが、だれも特に注目するわけでもないので、1960年代に建てられたなんでもないビルなのかもしれない。「ヨーソロ」の看板があるが、地下2階に昭和43年5月27日に開店した「海軍酒場」。『異都発掘』(荒俣宏著、集英社文庫、昭和62年、580円)で取り上げられている。
村喜五号館の右の2階建ての家は写真では「緋羅野」というバーのようだが、この家も改装されてギャラリーとして使われている。
写真左端は「銀座はちかん3110」で左写真の右に写っている。外堀通りとソニー通りの両方に向いている。元々、外堀通り沿いに八官神社があった場所に1982年8月に建ったビル。ソニー通りに向いて拝殿を設けている。このビルには「鉄道模型バー」というのがある。八官町の町名が銀座に変わるときに町名を残そうと、「穀豊稲荷」と言われていたのを八官神社と改称したのだという。

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天ぷら萩、日本観興ビル。中央区銀座8-4。1985(昭和60)年4月28日

外堀通りから花椿通りの方を見ている。花椿通りとの南(左)の角は空き地。切り口を見せている3階建ての建物が伸びていたのだろう。その半分になってしまった建物は陸屋根のようで、あるいはRC造かとも思える。「天ぷら萩」は昭和30年頃の火保図に記載がある。
萩の左の4階建てのビルは「日本観興ビル」。『日本近代建築総覧』に「日本観興ビル(旧伊丹ビル)、建築年=昭和6年、構造=RC、設計=不明、施工=月瀬組、備考=施工図にH.Kanakatsuとサインされる」で載っている。
日本観興ビルはソニー通りとの角に建っていてそのもう一方の角は、輸入洋品の「オサダ2号店」。
現在は萩とその隣の空き地に「プラーザ銀座ビル」、日本観興ビルは「ワタナベファーストビル」にそれぞれ建て替わっている。



左:日本観興ビル、1986(昭和61)年5月11日。右:天ぷら萩、1991(平成3)年頃

日本観興ビルの東側面の後ろが写っていないが、写真手前の「しど」の看板の右にくっついて写っている窓を中心に左右対称。

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