ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




古川好美堂。中央区日本橋人形町3-13。1985(昭和60)年4月28日

人形町交差点角のTT-2ビルの裏を入ったところで、右の通りが芳町通り、その向かい側に白く写っているのが京樽の店舗。蔵のあるのが「古川好美堂」、芳町通りとの角がそばの寿々木屋。この2軒は今も変わらないが、寿々木屋は建物を少し改装して、今は「きしめん」を売りにした立食いそば屋といった店になっている。
古川好美堂の蔵は戦前から建っていたと思われるが、店舗の方は戦後のもの。信玄袋などの袋物の製造と販売の店だった。写真の頃はどうだったか分からないが今は廃業したようだ。昭和8年の火保図に「古川」で載っている。



サクライ美容室、松寿し。日本橋人形町3-9。1987(昭和62)年4月5日

古川好美堂の斜め向かいになる。写真左の「サクライ美容室」の左が玄冶店の路地との角。写真の通りは人形町通りと大門通りとの間をそれらと平行に南北に通じている。関東大震災後の区画整理で新しく通された道路である。東京大空襲ではこの辺りでは、この裏通りの東側までが焼失したようである。
写真の家並みは今もそのまま残っている。サクライは「ヘアサロンステファン」に変わった。「松寿し」は1階を住居の造りに改装したが、2階から上は洋風看板建築の造りを残している。その右は二軒長屋で、左側の「達ちゃんオムライス」は閉店したという。右の「くじらい」(居酒屋)は健在。3階建てのビルの1階は今は「ポニークリーニング店」。その右は「新和ビル」。

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キクヤカメラ。中央区日本橋人形町3-9。1988(昭和63)年4月24日

人形町通りの人形町交差点の北で、写真右に有名なうぶけやがある。写真右端のビルは次田株式会社東京支店のビル。このビルは寄席の人形町末広が1970(昭和45)年1月20日で廃業した後に、その周囲の木造商店などをまとめて建てられたビルで、1971年5月竣工。今は再度建て替わって2004年7月に建った読売ISの本社ビルになっている。
横丁との角の建物は一応看板建築になるのだろうか。建物の左は写真では空き家のようだが、伊原紙店だった。
建物右のキクヤ(喜久屋)カメラは末広の右にあったのが、次田ビルの建築で移ってきたもの。それ以前は「北上電気店」。現在はつけめんの孔雀軒という店が入っている。
横丁側の新興電気(新興ビル)、角の看板建築、うぶけやの3棟が現存している。



うぶけや刃物店。日本橋人形町3-9.1984(昭和59)年1月

うぶけやは天明3年(1783年)創業の打刃物(日本刀などの製造技法を受け継ぐ伝統的な鍛造法で造られた刃物)の老舗。建物は昭和2年の建築という。入母屋造りとも数寄屋風ともいわれる店舗の造りは東京の商家としては珍しいかもしれない。『まち日本橋>日本橋ごよみ>うぶけや(2013.02、28号)』には「店内の総桑でつくられた大きな陳列棚や、唐傘天井が見事だ。昭和50年頃に改装した際には、これらのしつらいを保管しておき、完成後にそっくりそのまま移設したのだという」とある。この店構えから商品の確かさが伝わってくる。



1967(昭和42)年頃の人形町通り

当ブログの『伊勢龍商店』で、1967(昭和42)年の神田祭の神幸祭巡行と推定した写真の別ショット。人形町通りのわりと広い範囲が写っている。店名は右から、「土橋刃物店、キクヤカメラ、人形町末広、翁薬局、うぶけや」。その左は写真からは確認できないが「北上電気店、伊原紙店」だろうか。

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左:伊勢龍倉庫。中央区人形町3-8。1983(昭和58)年10月
右:橘稲荷神社。人形町3-8。1986(昭和61)年8月24日

旧伊勢龍ビル(現・人形町ミハマビル)の横の路地は歌舞伎、あるいは「お富さん」で知られる玄冶店(げんやだな)があったところとされ、人形町通りの歩道の車道際に「史跡 玄冶店」の碑が置かれている。寄席の人形町末広の後に次田株式会社東京支店のビルが建つ以前、昭和45年までは、この路地の両側とも戦前に建った木造の家が並んでいたと思われる。
現在は玄冶店の路地の人形町通り側の入口の北側は次田ビルが建て替わった読売ISの本社ビルで、その後ろはGoogle地図では空き地だが2016年2月のストリートビューではオフィスビルが建っている。空き地の北側の「スペース」という会社のビルが増築したのかもしれない。というわけで、今や玄冶店跡はビルに挟まれた普通の都心の路地になってしまった。
左写真のタイル貼りの家は伊勢龍の倉庫。その左に長屋風の家で、写真では麻雀禧味(きみ)。
右写真は路地を出た裏通りとの角にある橘稲荷。TT-2ビル(1990年8月竣工)の建設に合わせて造り直されたが同じ位置に今もある。昔の橘稲荷などはだれも写真に撮っていないだろうと、へたくそな写真を載せたわけだが、『昭和の風景写真日本橋人形町・兜町』に1960年代前半の頃と思える写真が載っている。それには祠がちゃんと写っている。



越路。人形町3-9。1985(昭和60)年4月14日

玄冶店の路地の北側にあった喫茶店。『東京カフェ案内>越路』によると、昭和31年の開店という。そして『純喫茶コレクション>越路』によると、2008年6月27日で閉店している。わりと最近まであった店だ。1970年頃には人形町通りの向かいにも店を出していたように覚えているが正確な場所は分からない。

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伊勢龍商店。中央区日本橋人形町3-8。1984(昭和59)年10月

人形町通りの人形町交差点の間近にあった出桁造りの商家。伊勢龍は明治6年創業の老舗の陶器店。看板には「美術陶磁器」と入れている。二階の前面にベランダを設けたわりとよく見るタイプの商家だ。細部に和風の装飾が施されているが、それも含めてほぼ全面的に銅板を貼っているのが特徴だ。右の白漆喰と思われる壁の造りは増築したものだろうか。
どういうわけか、洋風建築をリストアップした『日本近代建築総覧』に「伊勢龍商店、日本橋人形町3-2〈1980年頃に住居表示変更があり、現在は日本橋人形町3-8〉、建築年=昭和2年〈1927年〉、設計=(大工)、施工=-〈不明〉、備考=純和風」で載っている。
現在の建て替わったビルは1986(昭和61)年4月の完成で、伊勢龍ビルとか伊藤ビルといった。現在は「人形町ミハマビル」という名称である。伊勢龍はビルの運営がうまくいかなかったらしく、ビルを手放して水天宮の先に移転した。水天宮参りの土産物なども置いているようだ。
写真左下に文字が白く飛んでしまっているが、2枚の掲示板が写っている。建物の左角はショーウインドーでその上に出ている。右が「建築計画のお知らせ」、左は「玄冶店と橘稲荷由来記」。歌舞伎、あるいは「お富さん」で知られる玄冶店(げんやだな)は元は借家のことから地名に転化したものだが、伊勢龍横の路地一帯の辺りにあったとされる。橘稲荷は路地を抜けた裏通りとの角にある。現在は歩道の車道際に「史跡 玄冶店」の碑が置かれている。



伊勢龍商店。日本橋人形町3-8。左:1982(昭和57)年7月31日、右:1983(昭和58)年10月

右写真で子供が立っているのは次田株式会社東京支店のビル。足元の石の板は「寄席/人形町末広跡」の石碑。次田ビルは、人形町末広が1970(昭和45)年1月20日で廃業した後に建てられたビルで、1971年5月竣工(『言いたい放題>「末広」か「末廣」か?』)。その後次田ビルは建て直されて、現在は2004年7月に建った読売IS(インフォメーションサービス)の本社ビルに替わっている。石碑はそのビルの玄関脇に移されている。



神田祭の神幸祭巡行が人形町交差点にかかろうとするときの記録である。妻のアルバムにあったものだが撮影日が不明。都電が運行しているので1969(昭和44)年より以前である。写っている自動車は1965年頃の形式なので、1967(昭和42)年である可能性が高い。
写っている建物は左から、人形町末広、喜久屋カメラ、土橋刃物店。玄冶店の路地があって伊勢龍商店、たばこも売っているのが上方屋玩具店、島村洋菓子店。その右が交差点角の東京銀行

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旧東京銀行人形町支店、人形町ビル。中央区日本橋人形町3-8。1983(昭和58)年1月

人形町通りと芳町通り(中央区は愛称として認定していないが、地元の人はけっこう使っている)が交差する人形町交差点から浜町方向を見た昭和の景観である。大通り側の人形町3丁目8番地の範囲がほぼ入っている。下の写真で左に写っているビルが伊藤ビル(伊勢龍陶器店)で、このビルが建ったのが1986(昭和61)年4月。そして写真の古い3棟のビルと裏側の木造家屋とが建て替わった現在のTT-2ビルの竣工が1990(平成2)年8月なので、昭和の時代なら見られた景観ではなかったかと思う。
交差点角の4階建てのビルは東京銀行人形町支店だった建物。撮影時には東京銀行は人形町1丁目の日土地人形町ビルに移っていた。そのビルは人形町松竹が建て替わったもので、1972(昭和47)年の竣工なので、その時点で移転したかと思う。写真のビルは昭和8年の火保図に「住吉ビル(コンクリート造4階建て)」となっているビルと思われる。昭和7年に町名を改称する前は「住吉町」だった場所だ。戦後の昭和25年頃の火保図では「東京銀行/ミソノビル」。東京銀行は1946(昭和21)年に設立されたが、人形町支店は同時期の出店かもしれない。
旧東京銀行の右の6階建てタイル張りの壁のビルが「人形町ビル」。昭和8年の火保図では「稲垣ビルヂング(コンクリート造6階建て)」。戦後の火保図では「人形町ビル/日東重機KK」。写真では「ミヤギ事務機」。



旧東京銀行人形町支店、人形町ビル。日本橋人形町3-8。1988(昭和63)年1月24日



旧東京ガス日本橋サービスステーション。日本橋人形町3-8。1987(昭和62)年3月8日

1・2枚目写真の右奥のビル。大正時代の建物かと思えるような古めかしい外観のビルだ。東京ガスの営業所だったビル。昭和8年の火保図では「瓦斯会社日本橋出張所」。『人形町全町詳細図(昭和25年10月中旬)』という地図では「東京ガス日本橋派出所」。写真ではカバンの「ペルシャン」という店が出店している。ビルの横が分かる写真を撮っていなかった。

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喫茶里美。静岡県伊東市竹ノ内2-8。2015(平成27)年1月19日

手前から里美の前を通ってすぐ左へ入る道路が県道110号で、この個所ではクランク状になっている。左へ入らず右へ行くのが浄の池通り。
里美は建物を赤く塗ったり日除けテントの代わりによしずを立てたりと、ローカル感にあふれているが、建物の右半分をレンガ貼りの純喫茶風の造りにしてあるのは普通だ。暖簾を下げているのが喫茶店らしくないが。里美の右は「理容フジ」と「やまだ印刷」で古い家を看板建築にしたもの。
下の写真の、出桁造りの商家の花屋は上写真の右で左へ曲がったところにある。付近には山を背にした平地の端や平地を見下ろせる山の端といった立地に寺院がいくつもあるから、墓参用に安定した需要がありそうだ。


花のはなもり。伊東市竹ノ内2-8。2015(平成27)年1月18日

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タムラ洋菓子店。静岡県伊東市竹ノ内2-6。2015(平成27)年1月19日

写真正面の看板建築風の店の前を、右から左奥へカーブしている道路が国道135号の旧道で、あんじん通り商店街のアーケードが架かっている。手前から国道へぶつかる道は県道110号。右(北)へ続くあんじん通りの、南の始点となる三叉路だ。
看板建築の長屋風店舗は、航空写真を見ると2軒の家からなっている。5軒の店が入っていたようだが、みたところ今は全て空き家らしい。三叉路に向いた店に「ヨーロッパ菓子の店/タムラ」の、アーケードから下がっている看板が残っている。
写真左端が下の写真の看板建築。社名や店名は見当たらず住宅になっているらしい。



看板建築のしもた屋。伊東市竹ノ内2-6。2015(平成27)年1月19日



左:本間商店、伊東市竹ノ内2-7。右:旧家、伊東市竹ノ内2-8。2015(平成27)年1月18日

左写真は1枚目写真の右に後を見せている看板建築の店。アーケードの天井に付いている店名表示灯には「花鰹製造・海産物販売」とあり、乾物屋といっていいのだろう。
右写真は三叉路の県道に向いた日本家屋。戸袋が銅板張りだ。

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八百松本店。静岡県伊東市竹ノ内2-7。2015(平成27)年1月18日

玖須美温泉通りの商店街の中央辺りに信号のある交差点がある。浄ノ池通りという市道と交差している。写真左奥の向かい側に浄ノ池という国の天然記念物に指定されていた池があった。
八百松の屋号から、銀座元町、あんじん通りのヤオマツが思い浮かぶが関係はなさそうだ。同じ建物の左奥の看板は「ひもの/くぼた売店」。その左の白い看板建築は「小じま」といううなぎ屋。



鈴木歯科医院。伊東市竹ノ内2-1。2015(平成27)年1月18日

1枚目写真の交差点を右手前のほうへ行ったところの銅板張り看板建築。建物左の鈴木歯科医院は二階で開業しているのだろうか。間口が広くこれという装飾もない看板建築で、大味というしかない感じだ。一階の庇が壁と一体でつながっていて銅板張りになっているのが珍しい造りだ。


鈴木歯科医院。伊東市竹ノ内2-1。2015(平成27)年1月18日

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ハヤマ美容室、小松鮮魚店。静岡県伊東市竹ノ内2-7。2015(平成27)年1月18日

あんじん通りの三幸画廊の南にすぐ「和田の大湯」が見える。その共同浴場は「和田湯会館」という立派な建物入っている。2008年2月に建て替わったもので、それ以前は手前の駐車場にあったという。その旧建物がどんなものだったのか知りたいのだが、ネットでは探せなかった。
和田湯のある交差点と東西に交わっているのが「玖須美温泉通り」という商店街。玖須美は古い地区名だ。この通りはいちょう通りと海岸沿いの国道を結んでいて、古くは「浜新道」ともいったという。割と狭いので海岸方向への一方通行。商店街のところは両側にアーケードが設置されている。当記事の写真は和田湯の並び。向かい側の写真は撮っていなかったが、やはり看板建築風の建物が並び、付近のあんじん通りよりも商店街としての体裁は整っている。



小沢精肉店、水月堂。伊東市竹ノ内2-7。2015(平成27)年1月18日


スーパーナガヤ玖須美店
伊東市竹ノ内2-7
2015(平成27)年1月18日

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