共同印刷本社。文京区小石川4-14。2006(平成18)年12月13日
播磨坂の下、千川通りとの植物園前交差点に向いた正面の凹円弧が特徴的なビル。共同印刷のHPの沿革には「1935(昭和10)本館から6号館までの全館新築が完成……」とある。工場のほうが先に竣工したようなので、本社ビルは昭和9~10年ではないかと思う。設計・施工は工場と同じく清水組であろう。
共同印刷というと1926(大正15)年の労働争議が有名なのだが「沿革」では勿論ふれていない。そしてそれを小説にした徳永直(とくながすなお)の『太陽のない街』(1929年)。「太陽のない」というのは労働者側の負けになる争議の結果を象徴した言葉なのだろうが、千川(小石川)の谷間に展開する日の射さない印刷製本の街の謂でもある。
ぼくは小学生(1955年頃。中学生になっていたかもしれない)で、この本を読んだ。子供用に編集された本だったのだろう、挿絵もあった。父が買い与えたのである。父は叔父と印刷業をしていたのだが、それでも今考えると子供に読ませたいような本とは思えず、変な感じがする。印刷屋なんかになるなといいたかったのだろうか。それ以来読んでいないので、内容はほぼ忘れた。
共同印刷本館。小石川4-14
2006(平成18)年12月13日
千川通り沿いに建つ工場の建物。1枚目写真の左に写っている塔屋がある建物だ。本館とは本社ビルのことではではないかという気もするが、『清水建設200年作品集』には左写真のビルの写真に「共同印刷本館、1935(昭和10)年6月、発注:共同印刷、設計:当社」とあるので、それに従った。作品集の写真では本社はまだ建設中の初期の段階。
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当時の面影はないですが、坂の下にあり、暗渠のある湿った感じがする一帯で、その点は連想させるものがありました。建物はきれいになっていましたが、湾曲したフォルムが往時のままで見ごたえがありました。
とにかく谷筋であるという地形は現在も変わらないのですが、「太陽のない街」というほど深い谷ではなく、希望を持てない人々が暮らす街、の意味が強いのでしょうね。
確認できませんが、
余り社会的背景の動きの記述はなかったと記憶しています。
あくまで、貧しく虐げられている印刷工たちの
実生活や争議へのかかわりあいの視点から描かれています。
救いようのない暗い生活、将来、でもそれが実態だったのでしょうね。