ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





旧旅館太洋。墨田区東向島1-24。2013(平成25)6月9日

旅館いむらだった建物の隣の家。いむらと同じ大きさの入母屋屋根の日本家屋で、前面の白い看板建築のようにした造作はカフェーだった名残りかと思うが、廃業後の改修のようにも見える。1968(昭和43)年の地図に「旅館大洋」とあり、赤線廃止後に旅館に転業したのだろう。もちろん割烹旅館とはいかず、どういう性格のものだったかはおおよそ想像がつく。
赤線廃止後10年たった1968年の地図には「大藤旅館、白鳥旅館」(10番地)「旅館松かげ、旅館桜井、旅館いむら、旅館大洋、旅館成元」(24番地)が見つかる。
1985年の住宅地図に「太洋旅館」の記載があり、かなり長い間旅館の営業を続けていたようである。
波トタンの塀は広い敷地を持つ隅田造園のもの。その間の路地を描いたペン画は小針美男(こはりよしお)氏の画集『東京文学画帳』(創林社発行、1978年、1600円)からお借りした。「昭和三十五年八月十二日墨田区鳩の町路地裏」とメモがあり、当ブログ前回の旅館いむらが描かれている絵と同じ日付だ。




旅館太洋の裏の民家。左:2009(平成21)年3月29日、右:2013(平成25)3月17日

旅館太洋のある一画には同じような大きさで形も同様な家が6軒あった。写真の家はカフェーの外観の造りではないので、他のカフェーにしていた家の元の形はこのようなものだったのかと想像がつく。写真の家もカエーだったと思われるから、その造りを取り払ったのかもしれない。向かって左側の家はアパートで、それに建て替えられる前は、『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に「かなりの部屋数があったと思われる店」で載っている家だった。

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旧旅館いむら。墨田区東向島1-24。2013(平成25)3月17日

鳩の街商店街の中ほどから横丁を入った、区立寺島保育園の向かいの建物。1968(昭和43)年の地図に「バー白バラ、旅館いむら」となっている家。2階にめぐらした白い囲いはカエーだったときの名残りだと思うが、かなり改修されていると思われる。写真ではその囲いが長く続いている感じだが、2軒の家が並んでいて、奥の家は「旅館太洋」だった家。旅館いむらだった建物では横の青いタイルを張り付けた3本の柱に注目が集まる。
戦災に遭わなかった家を改装したものなのだろうかと、古い航空写真を見てみた。昭和22年のそれでは、この家を含めて、カフェー街を形成していた一角が白く抜けている。写真を加工したとしか見えないが、なにを意味しているのだか不思議である。昭和38年の航空写真では割と1軒ずつがよく識別できる。屋根が明るく写っていて、葺いて間もない瓦屋根が光っているのかもしれない。ぼくは今では、24番地のカフェーだった家は戦後になって建てられたのだろうと推定している。そういえば、そこに残っている建物で、はっきり戦前の家だと指摘できそうなものは見当たらない。



上の絵は小針美男(こはりよしお)氏が描いた鳩の街のカフェー街。氏は昭和2年、東向島に生まれた画家。『東京文学画帳』(創林社発行、1978年、1600円)という画集から、資料として無断でお借りした「昭和三十五年八月十二日墨田区鳩の街」。赤線廃止2年後に描かれたもので、なんとなくうら寂しい気分が出ている。このペン画の左手前に旅館いむらが描かれている。その隣の家は『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に「かなりの部屋数があったと思われる店」で載っている。その写真を見ると、この店の正面は絵の路地からみて横にある。右手前の家は1968年の地図の「旅館松かげ」。奥に看板が出ているのは「(旅)館桜井」と「桜井別館」で、建物は今も残っている。奥の突き当りは「造園石置場」(現在は駐車場)。

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都荘。墨田区東向島1-22。2009(平成21)3月29日

鳩の街商店街の石武商店の辺りの裏の路地にある元カフェーの建物。角の柱、庇の縁、建物横の窓の上の壁、窓の下の裾の壁がタイル貼りで、貼った場所ごとにタイルの大きさと色が異なる。都荘の並び奥の家もカフェーだった家だろう。向かい側には当ブログ前回で出した「二本線の家」がある。上左写真の左隅に角を丸くした庇が写っている。この家もカフェーだった家だ。要するに写真の路地には、両側にカフェーが立ち並んでいたとみられる。
下の写真は同じ建物を少し広角のレンズのデジカメで撮ったので、建物の上の方までが写っている。上の写真から4年後の撮影だが、なんと壁と柱のタイルが塗り込められてしまっている。家の人はカフェーだったことをあまり広めたくはなかったのかもしれないが、やはり残念だ。また、左隣の家が建て替わった。


都荘。墨田区東向島1-22。2013(平成25)3月17日



旧赤沢テレビ。東向島1-22。2009(平成21)3月29日

鳩の街商店街のカフェこぐまの横を入っていったところで、家の横の路地は都荘の路地に通じている。正面は角の壁が丸くなっている以外にはカフェーの面影はあまりない。路地を覗いて建物の横を見ると、角を丸めた庇と、その下の狭い入口があり、入り口の上にはアーチの線が残っている。

『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年、950円)に「最も印象的だった一軒」としている家は22番地の南の道路沿いにあったのではないかと、ぼくは推定している。その家はネットでは『ニッポン懐景録墨田区>東向島』で見ることができる。同サイトには都荘の隣、建て替えられた家の写真も載っている。

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左:石武商店。墨田区東向島1-23。2004(平成16)年1月24日
右:洋食の喜多美。2013(平成25)3月17日

鳩の街商店街の銅板貼り看板建築の店舗。「洋傘製造卸」の石武商店は高級な洋傘を手作りしているのだろうか。喜多美はネット検索ではそれらしいのはヒットせず、営業していないようだ。



左:ピンク壁の家。東向島1-23。2009(平成21)年3月29日
右:二本線の家。東向島1-23。2009(平成21)年3月29日

カフェーだった時の造りが残っている家。カエこぐまや石武商店の裏手にある。
鳩の街の赤線だったところは商店街の東側の裏にあった。カフェーの建物には独特な特徴があって、その造りが残っていればそれと判る。戦災に遭わなかった鳩の街では民家や商店、町工場だった家や長屋を改装してカフェーにしたものが多かったと思われる。100軒ほどのカフェーがあったというから、赤線だった地域で残っている古い建物は、カフェーだった確率が高いのだが、今、すぐにそれと判るのは十数軒で、よく観察すれば20軒くらいはあるのかもしれない。廃業してから50年以上も経つから、けっこう残っていると言える。ただ、最近になって取り壊される家が何軒か出てきて、見て回るのなら今のうちである。
左写真の家は二階が見えていて、和風の家を改装したのだろうと判る。たいていは右写真の家のように、二階ベランダの前に囲いを壁のようにめぐらす場合が多く、元の家の造りが見えているのは珍しい。カフェーは一階がホール、帳場、トイレなどで、二階に目的の部屋がある。路地の向かいも同様の家だから、ベランダの囲いは目隠しという実用的な目的があったのだと思う。ピンク壁の家はその造作を取り払ったのかもしれない。

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東京建物ビル。中央区八重洲1-9
左:1987(昭和62)年7月25日
上:1991(平成3)8月4日

土木建築工事画報 昭和5年3月号』に「東京建物株式会社新築工事」という記事が載っている。執筆者は東京建物の技師の前田利八という人。以下、そこからの引用である。
冒頭に「東京駅の裏口、所謂槇町線の大通りに昨秋新築落成した、八層楼の褐色大建築こそ、オフィスとして実に豪奢な近代的な内容外観を備えた最近工事の一例である。」とある。「槇町線」というのはかつての外堀線で、当時、外堀通りを走っていた市電のことだと思うが、東京建物ビルは八重洲通り沿いに建っている。場所は震災前には「日本橋区上槇町」で、当時は「呉服橋3丁目」に変わったばかりの頃だ。八重洲通りの向かい、現八重洲2丁目が「京橋区槇町」。東京駅の裏口である八重洲口は改札口が設けられたばかりの時で、外堀に架かっていた八重洲橋を渡っていった。
建設工事は1928(昭和3)年9月1日着工、1929(昭和4)年10月30日竣工。設計=阿部美樹志、施工=大倉土木株式会社、施主=東京建物株式会社。本誌には現場工事関係者として、「東京建物技師前田利八、阿部事務所高橋技師、大倉土木建築部技師山田馬治」の名前が出ている。その子孫の方が名前をネット検索しないとも限らないので書き写しておく。
阿部事務所は「外堀線の槇町ビルディングがまだ完成しない本年(昭和4年)六月中旬、丸ノ内の昭和ビルから移転」(『土木建築工事画報 昭和4年11月号』の「阿部美樹志博士の卓上小談」)してきていた。槇町ビルは東京建物ビルのすぐ裏、外堀通り沿いにあった5階建てビルで、昭和40年頃までは存在していたようだ。
外観のデザインは、「様式はビザンチンスタイルを加味せる近世復興式」としている。ビザンチン様式といわれてもピンとこない。ニコライ堂に似たところがどこかにあったのだろうか。ビル平面の中央部に2基のエレベーターがあり、その位置に塔屋があるのだが、路上からではよく見えない。



左:『建築工事画報 昭和5年3月号』表紙の写真。右:近影。2013(平成25)年5月19日

東京建物株式会社は「安田財閥の創始者、安田善次郎が1896年(明治29年)に設立した日本で最も古い歴史を持つ総合不動産会社」(ウィキペディア)。ビルの1階は2つの大きな営業所があるだけで、当初から東京建物の本社と安田銀行が入るための内装にしたのだろう。
現在は昭和33年に建った隣の新館も含めて東京建物ビルと言っているようだ。

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平屋の四軒長屋
墨田区京島3-29
2013(平成25)年2月10日(5枚とも)

四ツ目通り沿いの区立曳舟小学校の向かいの横丁を南に入った住宅地である。長屋の前の道は、この辺りでは裏通りと言っていいくらいの道幅で、四ツ目通りから入るとゆるいS字状に南下して橘銀座商店街に出る。本当の道筋はその手前で西寄りに曲がって曳舟たから通りに出る方の道だろう。古い航空写真を見ると、この道路沿い両側に長屋が隙間なく並んでいたようである。
下の写真は、上の長屋と並んで残っている四軒長屋。


四軒長屋。京島3-29



元五軒長屋。京島3-30

3枚目写真の長屋のすぐ近くにある切り離された長屋。長屋が戸別に建て替わっていく場合が、一般に普通に見られる。上の写真では長屋の両端が建て替わり、真ん中の1戸が取り壊された状態のようである。

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キクヤクリーニング店の四軒長屋。墨田区京島3-33。2004(平成16)年1月24日

曳舟たから通り沿いの、看板建築にした長屋式の店舗。右端の幟と立て看板を出しているのがクリーニング店で、左の食堂は店名が判らないがわりと最近(撮影日の)開店した店らしい。1985年の地図では、左から「カフェ大木、岡本加工所、旧坂井電機、喜久屋(旧岡野菓子店)」(「旧」は1968年の地図による)。
昔の航空写真を見ると、写真右の駐車場には、写真の四軒長屋と同じ看板建築の四軒長屋が建っていたようである。その長屋には、やはり1985年の地図では「八橋不動産(旧紀文酒店)、㈱持野組、旧バー乙、タカラ(宝)フォット」。
現在は改装されて「看板」部分が取り外され、下の写真のようになってしまった。


近影。2013(平成25)年2月10日

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