ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜商工奨励館。神奈川県横浜市中区日本大通11。1987(昭和62)年8月9日

横浜商工奨励館は関東大震災で全焼したアメリカ領事館の跡地に建てられた。1・2階は国内外の商工業製品の陳列所、3・4階は横浜商工会議所を始めとする商工団体の事務所などが入った。建てたのは横浜市らしい。設計は横浜市建築課、施工は岩崎金太郎、1929(昭和4)年4月20日の竣工。
『なか区歴史の散歩道』(横浜開港資料館編纂、2007年)に、商工奨励館の設計を担当した建築課の技師として、木村龍雄、スタッフとして北川満多雄、徳永熊雄の名前が出てくる。当書には書いていないが当時の建築課長が山田七五郎という建築家である。施工者の岩崎金太郎は三浦郡の人で復興小学校をはじめとする横浜市の復興建設を請け負ったという。天皇の臨幸が予定されていたこともあり、着工から竣工まで9か月という短期間で完成させた。

アメリカ領事館は最初、1859(安政6)年の横浜開港時に神奈川宿の本覚寺に置かれた。3年間で移ったらしいが、その後の場所などはネットでは調べられない。関東大震災後はどうも山下町の海岸通りに移ったらしい。




上:1997(平成9)年6月2日
左:1987(昭和62)年8月9日

1975(昭和50)年に横浜商工会議所がビルを出て、たぶん現在の大桟橋前の産業貿易センターに移ったのだろう。以降空ビルになってしまったらしい。横浜情報文化センターのプランが出来て工事に入るのが1997(平成9)年9月。20年以上もほおっておかれたことになるが信じられない。2000(平成12)年3月に工事は終了、10月に情報文化センターがオープンした。

左の写真は光線の具合で南西に向いた横側である。突き出た入口の横の壁と、その右の本体の壁に窓が開いている。それが現在のビルでは見当たらない。わざわざふさいだのだろうか。

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横浜市外電話局。神奈川県横浜市中区日本大通。1987(昭和62)年8月9日

現在は内部が改修されて2003年3月に都市発展記念館とユーラシア文化館が開設された。建物の名称は「旧横浜市外電話局」となったが、1987年の写真では垂れ幕からNTTがまだ使っているらしい。1991年発行の道路地図(日地出版)は「NTT情報案内センター」としてある。横浜市に移管されたのは2000(平成12)年らしいが、横浜情報文化センターはその2000年にオープンしているから実際はどうなのだろう。
逓信省の建築家、中山広吉の設計、安藤組の施工で1929(昭和4)年に「横浜中央電話局」として竣工した。建物の見所などは『横浜開港資料館>館報81号』や『近代建築@東京>横浜都市発展記念館』が参考になる。
同じ中山広吉の設計になる東京大手町にあった東京市外電話局と比べると古典様式風の外観はぐっと抑えられている。
NTT技術史料館>ノードの技術輸入にたよった最初の自動交換機』に「我国の自動交換機の歴史は1923年の関東大震災により壊滅的な交換機の被害を受けた京浜地区の復旧に採用されたことにはじまる……当時の主流であったステップバイステップ式による自動交換機の採用が決定され1926年1月、京橋電話局にA形(米国製)交換機が導入され、同年3月に、横浜の本局と長者町局の2局にH形(ドイツ製)交換機が導入された」とある。「本局」と「中央電話局」とは同じではないかと思うが、1929年に再開された中央電話局は当然、自動交換機が導入されたことだろう。



ビル裏側。1997(平成9)年6月2日

前面にあったビルが取り壊されていて横浜市外電話局の裏側の全部が見えている。現在は情報文化センターの高層ビルが左半分くらいを占めるが、右側は駐車場になって、ビルの右側のほうはこの写真のとおりに見ることができる。
このビルが建つ前は、森泰治の設計による横浜中央電話局がほぼ完成していた。それが1923年の関東大震災によって大被害をこうむる。このビルがかなり興味を引くもので、『分離派建築博物館>逓信省の建築』で知ることができる。また、瓦礫の中にまだ立っているビルの写真が『横浜古壁ウォッチング』でみることができる。道路の拡張の関係もあって造り直したのが現在のビルだ。

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鳥よし。文京区小石川2-11。1989(平成1)年4月9日(2枚とも)

伝通院ビル」を撮った後、春日通りを文京公会堂のほうへ富坂を下りながら撮影したものだ。右手の信号機の表示は「富坂上」。
現在は道路が広げられて、写真の家はたぶん現在の春日通の歩道になってしまったと思う。



富坂電停ビル。文京区小石川2-7

1枚目の写真の右手の信号の先で、向かい側は中央大学理工学部だ。写真の家も現在は道路になってしまっている。
喫茶店「梨花」や洋食屋「あだち」の入った家は、その両店の間の入口に「富坂電停ビル」とある。都電の16系統(錦糸町駅前―大塚駅)の「富坂2丁目」電停があった場所はもうすこし右手の中大の正門あたりだったと思う。この都電が廃止されたのは昭和46年3月である。適度に歴史を伝える名称だ。
実を言うとぼくは向かいにある大学を出た。この稿を書きながら思い出したのだが、「梨花」はぼくが大学にかよっていた頃にはすでにあった。それがいつとは言わないがコーヒーが7・80円だった頃で、この店ではモーニングサービスはコーヒーが50円だった。

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伝通院ビル。文京区小石川3-1。1989(平成1)年4月9日(3枚とも)

前の道路は春日通りで、写真左に「伝通院前」バス停が写っている。写真右手にすぐ伝通院前交差点があり、そこを北に入ると伝通院で、その交差点を軸に伝通院ビルと対称の位置に富坂警察署がある。そこから目と鼻の先の中央大学理工学部で起きた教授刺殺事件の捜査本部が置かれたところだ。
伝通院ビルは教会のような印象を受ける。普通のビルとはかけ離れた外観だ。『1956(昭和31)年文京区詳細図』の表町(おもてまち)28番地に「傳通会館」の字があるがその建物だろう。出入り口が大きくその前の階段も広く取っている。○○公会堂という名前の建物と同じような目的のビルとして建てられたもののようだ。『日本近代建築総覧』には「S4頃、RC3、半地下」としか載っていない。
宗教団体情報データベータベース>伝通院』には、「(伝通院が昭和4年に)昌林院跡地に伝通会館を設立し社会教化事業を行なう」とある。ビルの外観から伝通院が建てたものとは以外だ。伝通院の境内にある淑徳学園を出ているぼくの妻は、このビルが伝通院と関係があるとは知らなかったが、中学のときにここにあった英語塾にいったという。階段の左に「小中高校生の○○英語/英研会」の看板があるから、それらしい。
ビルの前の商店は、左端が「ホロロッカ」(喫茶店か?)、その右の平屋が中華料理の「新三陽」、ビル入口の右が「赤提灯」(居酒屋だろう)、右端が「マルジュウ」というパン屋。



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民家。中央区月島3-21。1989(平成1)年11月26日

月島西仲通りと西河岸通りとの間の裏通りである。写真右の家はすでにないが左の2軒は今も残っている。その左端の家は今は改装され3階まで増築したようだが、和風の正面を損なわないような造りにしている。



民家。月島3-21。2008(平成20)年10月7日

こちらは最近の写真で1枚目の写真の左に続く家並み。写真左端の家は3叉路の角に建っている「ユニオン」の字が日除けに残っているがどんな商売だったのかは知らない。昭和25年頃の地図では「川口鉄工所」。
写真左後方のビルは「味の浜籐」の本社ビル。昭和12年に浜籐商店が月島工場を建設した場所で、昭和26年に本社をここに移している。2009年4月には本社は江東区東雲に移った。
そのビルの前を隅田川のほうへいくと突き当りが「わたし児童遊園」で、そこから隅田川のテラスに出ることができる。妙な名前の公園だと思ったが「月島の渡し」の船着場があったところだった。写真手前は「味の浜籐配送センター」で、「ヤマトメタル工業」の工場があった場所。

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占春園のポンプ小屋。文京区大塚3-29。2009(平成21)年9月2日(3枚とも)

先日、珍しく用事があって茗荷谷駅のほうへ出かけ、ついでに占春園というところを観て来た。以前どこかのサイトで東京教育大学が設置した案内板を見たのを思い出して、まだあるかと確かめにいったのである。今、そのサイトを調べてみると『東京凸凹ラビリンス徘徊記by電チャリⅡ』というブログの『占春園~守山藩と東京教育大学~(2008.12.05)』だった。
東京教育大学は1978(昭和53)年3月に閉校、筑波大学に移行して、現在は筑波大学大塚キャンパスになっている。東京教育大がなくなって30年が経つ。その名前が付いているなにかがまだ残っていれば、それが記念碑のようなものだろう。斜面の下に池があり、そこに下りていったところに問題の案内板はあった。「旧守山藩邸碑文」の説明板で昭和52年3月の設置である。
池の向う側に箱型の小屋が見えたので近寄ってみるとポンプ小屋らしい。裾の三角の断面の平行線は装飾なのか実用的な機能があるのかわからないが、それがあるために建物もかなり古いものに見える。その小屋に貼られたプレートに「東京教育大学」の文字を発見したのは撮った写真を改めて見たときだった。





台地の麓にある落英池まで下りてみると向う側にトイレかと思うような建物が見える。そのポンプ小屋の入口の右下のプレートに「昭和49年3月/東京教育大学」の文字が。(写真をクリックすると原寸サイズで表示されます)

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山下鉄工所。中央区月島3-24。1989(平成1)年11月26日

写真の家並みの裏は隅田川で、かつては月島の隅田川沿いは「西河岸通」という町名だったから、写真手前の道路は「西河岸通り」で通じると思う。
写真左の家が「山下鉄工所」の看板を挙げている。写真右のビルは「岡田マンション」。戦前からの「岡田造船所」があった場所だ。昭和38年の航空写真にはドッグに入った船が写っている。造船所の後継者が跡地にマンションを建てたものだろう。写真中央の家がマンションの大家さんのようだ。
現在は2軒の木造家屋は取り壊されてコインパークになっている。岡田マンションはまだあるようだ。


栗田鉄工所。月島3-3
1989(平成1)年11月26日

写真手前の道路は西河岸通りで、隅田川沿いに「月島リバーハウス」というマンションが2棟あって、その向かいである。
写真右の2階建ての家は「青木鉄工所」。栗田鉄工所の建物は外観からRC造のように見えるが、火保図ではRC造の表示ではないので木造かもしれない。

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奥沢歯科医院。中央区月島3-17。左:1989(平成1)年頃、右:1990(平成2)年1月21日

清澄通りの1本西の裏通り。まだ建っていると思っていたがストリートビューを見ると奥沢歯科とその右の家は建て替わっている。関東大震災後に建てられた木造の家はそろそろ寿命が限度に近づいているのだろう。
軒の下に赤色灯が残っている。



柏山稲荷神社。中央区月島3-16。1989(平成1)年11月26日

奥沢歯科の前を南にいってすぐのところ。民家の中にお稲荷さんだから、最初に見たときはびっくりした。いまだによく納得できないでいる。
ぼくは前を通っても拝むでもなく横目に見て通り過ぎるだけなので神社そのものをよく観察していない。『昭和の東京 路上観察者の記録』(路上観察学会著、ビジネス社刊、2009年)によると、灯明台、オコンコサマ、賽銭箱とそろっていて、扉の中は不動明王が祀られているらしい。
鳥居の左に写っているのは「世界人類が……」のポールではないか?

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石坪啓次商店。千代田区神田西福田町。左:1986(昭和61)年1月、右:2007(平成19)年6月26日

前の通りは神田金物通りという。写真右手へいくと中央通りの今川橋交差点、左手へいくと昭和通りの紺屋町交差点に出る。神田西福田町の町域は普通だったら番地で示される程の広さしかない。地図を眺めた限りでは神田東紺屋町が最も小さく、その次にきそうだ。昔は神田東福田町が昭和通りの東側に東西に細長くあったのだが、1965(昭和40)年の住居表示の変更で岩本町1丁目になった。神田西福田町のほうは住民の抵抗で町名が残ったという。
『日本近代建築総覧』には「石坪商店、西福田町2、S4頃、RC4、設計・施工:島崎組」で載っている。昭和30年頃の火保図では「日本会話学院」。
右の写真が現在の姿で、改修されているのでファサードを保存して建替えたのか思ったがどうもそうではなさそうだ。並びのビルも20年前のままだ。

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