ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




越前(立食いそば)。中央区日本橋本町4-4。1987(昭和62)年9月13日

写真手前は関モーターズと同じ四つ角。そばやはなくなったが建物は現在も残っている。



吉岡商店
日本橋本町4-4
左:1986(昭和61)年6月8日
上:1987(昭和62)年9月13日

1枚目の写真の左手は藤井ガラス店のビルで、そのビルの隣の家。現存しているが、「風呂敷タオル手拭名入卸吉岡商店」の看板は下ろされている。

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橘医院(内科・小児科)
中央区日本橋本町4-12
上:1987(昭和62)年4月5日
左:1986(昭和61)年1月12日

上左写真の左奥に十思小学校が写っている。上右写真で橘医院の隣は稜和商事。現在は日本橋本町郵便局が入るビルになっている。撮影時の本町局は昭和通り沿いにあったようだ。

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原薬品。中央区日本橋本町4-8。1987(昭和62)年9月13日

十思小学校(現・十思スクエア)のすぐ近くである。原薬品の裏には戦後の昭和25年までには埋立てられてしまったが、竜閑川があった。そこが中央区と千代田区の境で、写真右手に火除橋が架かっていた。写真右後ろの瓦屋根の家は埋立てた川の上に建てたものだと思う。戦前の火保図に「原商店」で載っている。



中野化学。日本橋本町4-10。1988(昭和63)年7月31

十思小学校(現・十思スクエア)の向かい。戦後の建築だ。昭和30年頃の火保図では「岡本医院産婦人科」なので、その建物だったのだろう。


境野香料研究所
日本橋本町4-12
1987(昭和62)年9月13日

十思小学校(現・十思スクエア)の玄関前の四つ角を西へ入ったところ。住宅地図には「境野香料(研)」、昭和30年頃の火保図では「墨田組KK事務所」。火保図の表記では木造だ。

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三共商会。中央区日本橋本町4-12。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りと十思小学校(現・十思スクエア)との間になる。銅板貼りの看板建築には銅板の小さいピースで模様を作る場合が多いが、この家はかなり大雑把である。上部中央の西洋の紋章のような飾りがそれを補っている。


関モーターズ
日本橋本町4-14
1986(昭和61)年6月8日

1枚目の写真の右端に写っている。この建物は今も健在で、自転車屋は廃業したようだが立ち食いそばの立花が関モーターズの場所に移ってきている。
立花の看板から、かけそばが180円だったと分かる。

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九段下ビル。千代田区神田神保町3-4。1987(昭和62)年11月8日

『近代建築ガイドブック[関東編]』東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)では「九段下ビル(今川小路共同建築)、設計:南省吾、施工:上遠組、建築年:昭和2年、RC3」。同書の解説によると、震災復興助成会社の資金融資と技術援助を利用して建てられたもの。震災復興助成会社とは、関東大震災の復興にあたって、町家の鉄筋コンクリート化を推進する目的で渋沢栄一の指導で設立されたという。建築界から佐野利器が参加している。同社は国庫からの低利融資と一流の技術陣で応募を待ち受けたが、ほとんど来なかったらしい。共同で建てるというのが敬遠されたのである。現在のビルの状況を見ても、共同というのは難しいものだと分かる。



1987(昭和62)年11月8日



1985(昭和60)年2月24日

『土木建築工事画報』(土木学会附属図書館>土木建築工事画報)という雑誌の昭和3年11月号に、九段下ビルの設計者・南省吾が「共同建築の利益に関する基本説明と其実例」という論文というか報告書のようなものを書いている。実例が今川小路共同建築と伊勢佐木町共同建築である。九段下ビルの写真は1枚しかないが平面図と側面図画が載っている。建築主の名前と持分まで分かってしまう。「震災復興助成会社」と前記したが、ここでは「復興建築助成株式会社」としている。

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ペンギン文庫。千代田区神田神保町3-5。1985(昭和60)年8月4日

靖国通りの俎板橋付近、九段下ビルの向かいの家並み。写真左から、橋本古書店、ペンギン文庫、天地(レストラン・喫茶)、伸洋梱包発送。ペンギン文庫の建物はおそらく空き家である。古書店にしては大きいから出版社だったのだろうか。天地の建物の壁面の字は「御菓子・東雪堂本店」。
現在は、写真の家並みは住友不動産九段下ビル(1992年築)というビルに変わった。「都市徘徊blog>神田神保町3丁目」で新旧の街並みの比較ができる。


旧福井歯科医院
神田神保町3-9
1985(昭和60)年2月24日

1枚目の写真から少し左(東)へ行って横丁を南へ入ったところにあった洋館。玄関の日除けには「書道新聞社・一ツ橋画廊」とあるが、門の表札は「町田○夫」と「福井」。昭和30年頃の地図をみると福井歯科医院だった。右の平屋の部分が診療所の入口だったのかも知れない。春原歯科医院と同番地である。

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浄名院横の民家。台東区上野桜木2-8。1991(平成3)年9月23日(写真の日付はカメラのセットミス)

浄名院(じょうみょういん)は言問通りの谷中霊園への入口の脇にある寺。地蔵が4万体くらい並べてあることで有名な寺だ。ぼくはいまだに境内へ踏み込んだことがない。
写真の民家は浄名院の西側の塀に沿った道路にあった民家。
上野公園のすぐ裏にこれだけの家を建てるのは今ならすごいことだが、古い航空写真を見ると、周辺では標準的なものだったようだ。


民家
1990(平成2)年2月18日

どこで撮った写真か分からなくなっていたが、裾を石張りにした塀は1枚目の写真の塀と同じだ。それなら同じ家かといったんは安心したのだが、その家は道路に面する角はひとつだけのはずだ。塀もよく見るとモルタルと石の割合が少し異なるようだ。というわけで、再びどこの家だか分からなくなった。上野桜木2丁目だとは思うのだが……。


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