ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




金石舎宝石店。千代田区神田小川町1-8。1985(昭和60)年2月24日

靖国通りの小川町交差点の近くにあった。写真左のビルは尾張屋の右手に写っている関東証券だ。現在は1987年8月に金石舎ビルが竣工し、そこで商売は続けているという。
看板建築としては上等な部類で、ファサードのデザインは何かのコピーかもしれないがニューヨークなんかにあっても違和感を感じないかもしれない。ぼくは外国へ行った経験はまだないのだが。歴史的建築総目録DB では昭和4年の建築。
賢治の事務所>「宮澤賢治の東京における足跡」を歩く―神田編―」に、1918(大正7)年11月に賢治が小川町の水晶堂と金石舎に石材を売込みに行ったことが記されている。金石舎については『アマチュア鉱物研究家長島乙彦(1890~1969)が勤めていたことでも知られています』とあり、大正時代の蔵作り風の店舗の写真が載っている。また「賢治研究83号」という研究誌からの引用で『創業者は高木勘兵衛という人物で、出身は岐阜県の中津川、水晶の発掘を生業として、トパズ(トパーズ)を日本で最初に発見し「トパズ勘兵衛」と異名をとる』が追記されている。
その高木勘兵衛(1837-1911、岐阜県苗木出身)については、明治事物起原「黄玉の始」というサイトに出てくる。金石舎についての記述は特にないが、金石舎の広告の画像が出ている。何時のものか分からないが『……金石宝玉石材……買入申候』とあり、宮澤賢治につながるものかもしれない。



金石舎の店頭。1985(昭和60)年10月

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筑摩書房。千代田区神田小川町2-8。1988(昭和63)年6月5日

筑摩書房という社名は創業者の古田晁(ふるたあきら)の出身地、長野県東筑摩郡筑摩地(ちくまち)村からきている。ぼくはこの稿を書くまで古田晁の名前は知らなかったが、出版界では有名らしい。塩尻市の生家は「古田晁記念館」になっている。ぼくは筑摩書房の出版物はわりと信頼している。
筑摩書房が小川町に本社を移したのは1954(昭和29)年で、写真のビルはそのときに新築したものと思える。1989(平成1)年に台東区蔵前に移った。
*『日本近代建築総覧』には「建築年:T15」となっていた。(2009.02.03追記)



筑摩書房。1988(昭和63)年頃

もう一枚、少しばかり撮った位置が異なる写真があったので、撮影日は不明だが出しておく。



アオイ綜合印刷。神田小川町2-10。1987(昭和62)年8月1日

筑摩書房の丸窓のある方の向かいである。写真左奥のビルが大正海上火災保険本社。

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北斗社、東福食品、魚新。千代田区神田淡路町1-17。1988(昭和63)年6月5日

町並みの記録として出しておく。右へ行くと観音坂の通りへ出る。



藤長電気。神田淡路町1-7。1988(昭和63)年6月5日

靖国通りの一本北の裏通り。
藤長電気の「会社概要>沿革」によると「昭和35年1月:本社社屋を千代田区神田淡路町に新築し移転する」とある。外観から受ける印象よりかなり新しいビルだった。建て変わったビルは平成4年12月の竣工だが、現在は藤長電気は使っていないようだ。


下島羅紗店
神田淡路町1-3
1986(昭和61)年12月30日

靖国通りに面している。戦後の建築かもしれないが、鉄筋コンクリート造りで縦長の窓のビルは数少なくなった。

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松翁会病院。千代田区神田駿河台2-1。1985(昭和60)年7月21日

御茶の水橋のJR駅側からすぐ東西に通っている道路がある。そのかえで通りを西に入ってすぐの南側にあった建物。住宅地図では「戸田建設作業所事務所」。写真右の工事中のビルは管工業健保会館。
歴史的建築総目録DBには「大正14年、設計=桂秀三(院長)」となっている。



松翁会病院とイズミヤの間の路地。1985(昭和60)年7月7日


岳水荘。神田駿河台2-1。1985(昭和60)年7月7日

2枚目写真の路地は奥でL字型に曲がっていて、上の写真はその突き当りを見ている。右が松翁会病院、左に民家があって、奥の門は「高岳製作所お茶の水クラブ/岳水荘」。ただし門の右側に張り紙があって「竹中工務店事務所に用事の方はこのインターホンを押して確認してお入りください」とあった。


管工業健保会館の隣にあった民家
神田駿河台2-1
1985(昭和60)年7月7日

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深見酒店。千代田区神田小川町1-8。1988(昭和63)1月15日

本郷通りを小川町のほうへ下ってきて、靖国通りに出るひとつ手前の道路に入る角である。深見酒店の建物は角を丸くしてそこに窓を開けているのが、看板建築には珍しい造りだ。写真左の「麻雀/木屋」の銅板張りの家は今もまだある。



尾張屋。神田小川町1-8。1985(昭和60)年7月7日

靖国通りと本郷通りの小川町交差。角のフタバヤ洋品店は結構長く存続していたような感じがする。隣の尾張屋は相当な老舗のような構えである。よく見ると「建築計画のお知らせ」が建物の右に出ている。撮影して3ヵ月後の10月にはなくなっていた。


尾張屋
1985(昭和60)年7月7日
格子窓の看板には「名物/きしめん」とあり、屋号もあって名古屋の方との関連がうかがわれる。

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喫茶室淡路。千代田区神田淡路町2-25。1985(昭和60)年7月7日

新坂の上り口になり、喫茶店の向かいは淡路公園。このブロックは現在、平成1年に落成した神尾記念病院のビルが建っている。



大内たばこ店、石原理髪店。神田淡路町1-11。1987(昭和62)年8月31日

写真の3軒の古い家は今も残っていると思う。前の道路が坂道になっているのは写真でも分かるが、駿河台へ上る観音坂という。



シラユリ(喫茶店)。神田淡路町1-5。1987(昭和62)年9月13日

これも観音坂の通りだがまだ坂にかからない辺り。外堀通りからこの通りに入る角にガソリンスタンドがあるが、写真左の建物はそのGSのもの。

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淡路公園―入口。千代田区神田淡路町2。1985(昭和60)年7月7日(4枚とも)

淡路小学校から道1本隔てた、駿河台への斜面にある。上の写真は淡路小に向いた入口。門柱の表札は「東京市淡路公園」と「昭和五年三月開園」。現在は公園内の施設はほとんど新しいもの変わっているので、それ以前の状態を記録したものとして掲載する。開業時と変わらないのは、この門と滑り台だけかも知れない。


淡路公園―滑り台
この滑り台は銀座1丁目の京橋公園に保存されたものと同じタイプだ。
後ろの坂道は新坂という。


木立の背後は淡路小学校。写真左の小屋はトイレだと思うが、そうとう古そうな建物だ。

淡路公園―砂場のオブジェ

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